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第三話
第三話 居酒屋『だいご』 若葉の初任給 ⑥
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◇◇
居酒屋『だいご』――
一五年前に脱サラし、坂戸へ引っ越してきた若葉の父、大吾が始めたお店だ。
従業員はおらず、彼が一人で店を切り盛りしている。
数々の地酒と彼が作る豪快なつまみは、地元のおじさんたちに愛されてきた。
しかし、近頃は大手居酒屋チェーン店による激しい価格競争の波にのまれ、一時期に比べると売上は一息といったところ。
それでも大吾は、二人の子どもを大学までは通わせようと、年末年始を含むわずかな休暇以外は、年中無休で必死に働いてきた。
そのおかげで、家族に経済的にひもじい思いをさせたことはない。
それこそが大吾の誇りであり、生きがいでもあるのだ。
だからたとえ天変地異が起ころうとも、彼は毎日午後六時半になれば店を開けるつもりだ。
ところが……。
――初めてのお給料で、パパたちみんなとレストランに行きたいの。
目に入れても痛くないほどに可愛い愛娘に、こう切り出された時、大吾は涙が出るほどに心が揺さぶられた。
だが彼はどんなに娘が頭を下げてこようとも、最後まで首を縦に振らなかった。
日曜の夜は客が少ない。
だからその日は特別に店を閉めたって、文句を言う人など誰一人としていないだろう。
だが大吾には譲れないものがあるのだ。
そういう時こそ、一人一人の客を大事にし、見えないところでしっかりと営業を続けること。
その不断の努力が、さびれゆく商店街の中で生き残っていくための基礎になっていくのだと……。
――すまねえな。ママとお兄ちゃんを連れていってやれや。パパは美味しそうなケーキを土産に買ってきてくれればいいからよ。
悔しそうに唇を噛む娘を前にしながらも、ためらいもなく言葉が出たのは、彼にしみついたプライドがなせるわざだったのだ。
………
……
日曜日――
店に足りない食材を調達しにいくのは、朝の仕事のうちの一つ。
買い込んだものを店の中に運び込み、そのまま本日のメニューを決めて、簡単な仕込みをする。
そうしているうちにいつの間にか昼となり、一度家に帰って食事を取る。
そこからは体を休める貴重な時間だ。
次に家を出るのは一六時。
今日はテレビで競馬中継があるから、それを見てから店へ向かうのが日課だ。
ギャンブルはやらないが、お客との会話のネタとして、競馬と野球は外せないのである。
ダービーも終わったこの時期、今一つ盛り上がりにかける中継が終わった後、大吾は普段とまったく変わらない動作で玄関へと向かった。
そして靴をはき終えると、扉に手をかけながら大きな声を出した。
「いってくるぜ!」
たとえ家の中に誰もいなくても、必ず声を出すのは、自分自身に気合いを入れるためでもあるからだ。
しかし今日は返事がかえってきた。
「おう、親父。やっぱり行くのかよ?」
ちくりと刺すようなとげのある口調に、大吾はふと振り返った。
そこにはいつになく真剣な表情の息子、吾朗の姿があったのだった。
「当たりめえだろ。そんなことを聞くな」
吾朗がなにを言いたいのかは、痛いほどよく分かっている。
しかし、彼は突き放すように言って、その場をあとにしようとした。
……と、その直後だった。
吾朗の口から意外な言葉が飛び出してきたのだ。
「逃げんのかよ……。親父」
ぴくりと動きを止めて、再び振り返った大吾。
だがその顔は明らかに先ほどまでとは違って険しいものに変わっている。
「なんだとぉ? 俺がいつ逃げたよ?」
「今、逃げようとしてんじゃねえか」
「てめえ……。仕事に向かう父親に対してきくような口じゃねえぞ」
「今日みたいな日に仕事に向かうような父親だから言ってんだよ」
大吾はぐいっと身を乗り出すと長身の吾朗を下から睨みつける。
「どういうことか、てめえと違って学のねえ俺にも分かるように説明してみろや」
一方の吾朗は父親の剣幕にもひるむことなく淡々とした口調で返した。
「親父は家族のために働いてきたんじゃねえのかよ。その家族にとって大切な日に休み一つ取らねえのは、逃げてる証拠じゃねえのかって聞いてんだ」
「家族のために働いているからこそ、一日たりとて休めねえってのが、なんでてめえには分からないんだ。もうガキじゃねえんだ。大人の事情ってもんを学習しねえと、社会人になってから苦労するぜ」
互いに一歩も譲るつもりはなく、顔を近付けて睨み合う。
まさに一触即発の空気が漂っていた。
だが、そんな二人の間にずかずかと入ってきたのは紅葉だった。
「あらあら、二人とも。喧嘩している暇なんてないでしょ。パパはお仕事に遅れちゃうし、吾朗は私とデートの時間でしょ」
「ちょっと、母さん! デートって!?」
「ふふふ、だって二人きりで川越へお出かけなんて、デート以外にないじゃない。じゃあ、パパ。いってらっしゃい」
「お、おう。いってくる。……若葉によろしくな」
「はいはい。早く行ってくださいな。じゃないと私たちがお出かけできないじゃありませんか」
完全に紅葉のペースに巻き込まれた大吾は、背中を押されるようにしてドアを開けると、遠吠えのように吾朗が声をかけた
「いつか俺が変えてやるからな! 一家を支える父親が、家族との時間を大切に出来るような世の中に、俺が変えてやる!! 見とけ!」
大吾は背中でそれを聞きながら、足早に店へと向かっていった。
一方の紅葉と吾朗もまた、彼から遅れること数分で家を出ることにした。
ちなみに若葉は地元の剣道クラブへ子どもたちの稽古をつけにいっており、不在だ。
誰もいなくなる家の鍵をガチャリとしめた紅葉は、すぐに吾朗の腕を取る。
そして、張り切った調子で号令をかけたのだった。
「さあ、私たちも『準備』にいきましょー!! えい、えい、おー!」
「母さん! だからくっつかないで! って」
「あら? いつもは吾朗ちゃんが若葉ちゃんにくっついてるくせにぃ。お母さんはダメなんて、つれないじゃない!」
痛いところを突かれた吾朗は顔を赤くして言葉を失ってしまった。
こうしてはた目から見るとラブラブな親子二人は、とある目的のために川越へと出かけていったのだった――
居酒屋『だいご』――
一五年前に脱サラし、坂戸へ引っ越してきた若葉の父、大吾が始めたお店だ。
従業員はおらず、彼が一人で店を切り盛りしている。
数々の地酒と彼が作る豪快なつまみは、地元のおじさんたちに愛されてきた。
しかし、近頃は大手居酒屋チェーン店による激しい価格競争の波にのまれ、一時期に比べると売上は一息といったところ。
それでも大吾は、二人の子どもを大学までは通わせようと、年末年始を含むわずかな休暇以外は、年中無休で必死に働いてきた。
そのおかげで、家族に経済的にひもじい思いをさせたことはない。
それこそが大吾の誇りであり、生きがいでもあるのだ。
だからたとえ天変地異が起ころうとも、彼は毎日午後六時半になれば店を開けるつもりだ。
ところが……。
――初めてのお給料で、パパたちみんなとレストランに行きたいの。
目に入れても痛くないほどに可愛い愛娘に、こう切り出された時、大吾は涙が出るほどに心が揺さぶられた。
だが彼はどんなに娘が頭を下げてこようとも、最後まで首を縦に振らなかった。
日曜の夜は客が少ない。
だからその日は特別に店を閉めたって、文句を言う人など誰一人としていないだろう。
だが大吾には譲れないものがあるのだ。
そういう時こそ、一人一人の客を大事にし、見えないところでしっかりと営業を続けること。
その不断の努力が、さびれゆく商店街の中で生き残っていくための基礎になっていくのだと……。
――すまねえな。ママとお兄ちゃんを連れていってやれや。パパは美味しそうなケーキを土産に買ってきてくれればいいからよ。
悔しそうに唇を噛む娘を前にしながらも、ためらいもなく言葉が出たのは、彼にしみついたプライドがなせるわざだったのだ。
………
……
日曜日――
店に足りない食材を調達しにいくのは、朝の仕事のうちの一つ。
買い込んだものを店の中に運び込み、そのまま本日のメニューを決めて、簡単な仕込みをする。
そうしているうちにいつの間にか昼となり、一度家に帰って食事を取る。
そこからは体を休める貴重な時間だ。
次に家を出るのは一六時。
今日はテレビで競馬中継があるから、それを見てから店へ向かうのが日課だ。
ギャンブルはやらないが、お客との会話のネタとして、競馬と野球は外せないのである。
ダービーも終わったこの時期、今一つ盛り上がりにかける中継が終わった後、大吾は普段とまったく変わらない動作で玄関へと向かった。
そして靴をはき終えると、扉に手をかけながら大きな声を出した。
「いってくるぜ!」
たとえ家の中に誰もいなくても、必ず声を出すのは、自分自身に気合いを入れるためでもあるからだ。
しかし今日は返事がかえってきた。
「おう、親父。やっぱり行くのかよ?」
ちくりと刺すようなとげのある口調に、大吾はふと振り返った。
そこにはいつになく真剣な表情の息子、吾朗の姿があったのだった。
「当たりめえだろ。そんなことを聞くな」
吾朗がなにを言いたいのかは、痛いほどよく分かっている。
しかし、彼は突き放すように言って、その場をあとにしようとした。
……と、その直後だった。
吾朗の口から意外な言葉が飛び出してきたのだ。
「逃げんのかよ……。親父」
ぴくりと動きを止めて、再び振り返った大吾。
だがその顔は明らかに先ほどまでとは違って険しいものに変わっている。
「なんだとぉ? 俺がいつ逃げたよ?」
「今、逃げようとしてんじゃねえか」
「てめえ……。仕事に向かう父親に対してきくような口じゃねえぞ」
「今日みたいな日に仕事に向かうような父親だから言ってんだよ」
大吾はぐいっと身を乗り出すと長身の吾朗を下から睨みつける。
「どういうことか、てめえと違って学のねえ俺にも分かるように説明してみろや」
一方の吾朗は父親の剣幕にもひるむことなく淡々とした口調で返した。
「親父は家族のために働いてきたんじゃねえのかよ。その家族にとって大切な日に休み一つ取らねえのは、逃げてる証拠じゃねえのかって聞いてんだ」
「家族のために働いているからこそ、一日たりとて休めねえってのが、なんでてめえには分からないんだ。もうガキじゃねえんだ。大人の事情ってもんを学習しねえと、社会人になってから苦労するぜ」
互いに一歩も譲るつもりはなく、顔を近付けて睨み合う。
まさに一触即発の空気が漂っていた。
だが、そんな二人の間にずかずかと入ってきたのは紅葉だった。
「あらあら、二人とも。喧嘩している暇なんてないでしょ。パパはお仕事に遅れちゃうし、吾朗は私とデートの時間でしょ」
「ちょっと、母さん! デートって!?」
「ふふふ、だって二人きりで川越へお出かけなんて、デート以外にないじゃない。じゃあ、パパ。いってらっしゃい」
「お、おう。いってくる。……若葉によろしくな」
「はいはい。早く行ってくださいな。じゃないと私たちがお出かけできないじゃありませんか」
完全に紅葉のペースに巻き込まれた大吾は、背中を押されるようにしてドアを開けると、遠吠えのように吾朗が声をかけた
「いつか俺が変えてやるからな! 一家を支える父親が、家族との時間を大切に出来るような世の中に、俺が変えてやる!! 見とけ!」
大吾は背中でそれを聞きながら、足早に店へと向かっていった。
一方の紅葉と吾朗もまた、彼から遅れること数分で家を出ることにした。
ちなみに若葉は地元の剣道クラブへ子どもたちの稽古をつけにいっており、不在だ。
誰もいなくなる家の鍵をガチャリとしめた紅葉は、すぐに吾朗の腕を取る。
そして、張り切った調子で号令をかけたのだった。
「さあ、私たちも『準備』にいきましょー!! えい、えい、おー!」
「母さん! だからくっつかないで! って」
「あら? いつもは吾朗ちゃんが若葉ちゃんにくっついてるくせにぃ。お母さんはダメなんて、つれないじゃない!」
痛いところを突かれた吾朗は顔を赤くして言葉を失ってしまった。
こうしてはた目から見るとラブラブな親子二人は、とある目的のために川越へと出かけていったのだった――
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