セックスの価値

神崎

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 春川が家に帰ってきたのは夕方になってからだった。今日は家政婦の幸さんがいない日だ。料理をするためにスーパーへ立ち寄り、帰ってくる。
 玄関ドアを開けると、見たことのないパンプスがある。それはきっと一度紹介された有川という女性のものだろう。邪魔をしてはいけないと、彼女はそっと家にはいると自分の部屋に荷物を置く。
 そしてスーパーで買った食材を手にして台所へ向かう。思った通りそこには誰もいない。彼女は冷蔵庫に買ってきたものをいれて、食事の用意をしようとエプロンを身につけた。そのとき声がした。
「あら。助手の方でしたかね。春さん。」
 春川は振り返り、少し頭を下げる。
「どうも。お疲れさまです。」
「食事の用意なんかもされるんですか。」
「えぇ。」
「いつも家政婦の方がやってると思ったんですけどね。」
「幸さんは来ない日もありますから。」
 有川の頬が今日も上気している。おそらく情事のあとなのだろう。それを見てみない振りをして、彼女は食事の用意を始めようと、イカを取り出した。
「先生がお茶が欲しいそうですので、淹れに参りましたの。」
「はい。ではすぐ淹れますね。」
 有川ではなく、助手が淹れるのは当然だろう。だがお湯がない。彼女はため息を付くとやかんに水をいれて、火にかけた。
「戻っていて結構ですよ。淹れたらお持ちしますから。」
「……あら。あなた結婚しているのですか?」
 そういって彼女は春川の左の薬指をみる。しまった外しておけば良かったか。心の中で舌打ちをした。
「いいえ。独身です。」
「でも指輪が……。」
「ライターをしているので、男の人が言い寄ることが多いんです。便利ですよ。」
「なるほど。男除けというわけですね。でも男の人が言い寄るって……。」
 春川の容姿を見ても、男が寄ってくるとは思えない。何を勘違いしているのだろうと有川は思う。
「風俗ライターです。」
「ふっ……。」
 すると彼女は顔を真っ赤にさせた。初なふりでもしているのだろうか。祥吾とはしているくせに。
「えぇ。あんたも出演してみないかとか、あんたも働いてみないかとかよく言われます。なので結婚しているように見せてるんです。」
「よく女性でそんな仕事をしますね。」
「関係ないですよ。女性だろうと男性だろうと。」
 お湯が沸いた。急須に茶葉を淹れて、お湯をいれる。そして祥吾の湯飲みを出した。
「あなたは、もしかして……。」
「それ以上は言わないでください。さ、お茶が沸きました。どうぞお持ちになって。」
 お盆に乗せられたお茶を彼女に持たせて、それ以上言わせないようにした。釈然としないが、有川はそれを手にして祥吾の部屋へ行こうとする。
「あ、有川さん。」
 ふと彼女が声をかけた。声をかけられるとは思っていなかった有川は、足を止める。
「先生に頼まれた資料があります。あとで持って行ってもらってもいいですか。」
「直接行かないんですか?」
「食事の用意がありますから。お願いします。」
 彼女はそういって台所を出て行く。ふとそのシンクに置いてある材料をみた。イカが置いてあった。イカなんかも捌ける人だ。それだけではない。きっと色んなことを知っているのだろう。そしてそれはきっと祥吾にもいい影響を与えているのだ。
 彼女はぐっと唇を噛み、祥吾の部屋へ足を運ぶ。
「先生。お茶をお持ちしました。」
「はい。ありがとう。」
 ドアを開けると煙草の臭いがする。彼の臭いだ。そして彼が着ている着流しは、昔の作家のようだと彼女は思う。
「あぁ。春は帰ってきたのかな。」
「えぇ。食事の用意をすると言っていましたね。」
「そうか。頼んでいた資料があるんだが、貰ってきてくれないか。」
 彼も彼女を信頼しているように思える。決して自分ではないのだ。体を許しても、心までは許していない。その程度の関係なのだから。
「先生。」
 お茶を彼が書いている机の上に置いた。そして彼女はその後ろから彼を抱きしめる。細い体は頼りないように思えた。しかしそれしか彼女にすがるものはない。
「止してくれないか。助手がいるときはやめて欲しいといったはずだ。」
 ペンは止まったが彼は振り返らないで、その行為を拒否した。
「先生。私、先生のことが好きなんです。」
「わかっているよ。だから君を抱いた。それで満足しないのかな。」
 好きなんだ。しかし彼は好きだとは決して言わない。好きなのはあの助手なのかと思える自分がいやだ。
「先生。口付けして貰えませんか。」
 彼はため息を軽くはくと振り返る。そしてその赤い唇に軽くキスをした。これで満足しただろうと言わんばかりに、すぐまた机に向かった。
 彼女の瞳には涙がたまっている。ティッシュを手に取り、それを拭うと部屋を出ていった。これで彼女は担当を降りたいと言い出すかもしれない。良かった。あまり情の深いものを担当にしたくはない。それに春のこともある。彼女をまだ妻にしておきたかった。

 イカを大根で煮つけた。サツマイモとタマネギの味噌汁。キャベツとしめじで煮浸しをし、ほうれん草と豆腐とひじきで和え物を作る。それが夕食で並ぶ。
「美味しいね。君の味はとても好きだ。」
「ありがとうございます。明日はまだイカのげそが残っているので、それで幸さんに何か作って貰いましょうね。」
 イカを食べながら、祥吾は少し笑う。それを不思議そうに春川は見ていた。
「どうしました?」
「いいや。実に面白くてね。」
「何か?」
「恋い焦がれる相手から振り向いて貰えないのに、体を差し出す女。馬鹿な女だな。しかしそんな話もあるかと小説のネタになりそうだ。」
 すべてが小説のネタになっている。それは彼女も一緒だが、彼以上に身を削ることは出来ないだろう。
 もし彼女が体験したものであれば、桂を出すのかもしれないがそんなことは出来るわけがない。
「私はそんなことが出来そうにありませんね。」
「君の書いているものは性描写が確かに多いが、そもそもは恋愛小説だ。君のネタに使ってもかまわないよ。」
「大丈夫です。今は新作で精一杯ですので。」
「あぁ。出張ホストの話か。」
「えぇ。もう一度くらい側でみたいものですが……。」
 北川の様子では無理かもしれない。だったら他の人に頼むしかないのか。自分の素性を語らないままそんなことが出来るだろうか。そしてその側にはまた桂がいるのだ。だが彼も忙しい。そうそうつき合っては貰えないだろう。
「祥吾さん。」
「どうしたんだい?」
「部屋を借りました。」
 その言葉に彼は箸を止めた。そして彼女を上目遣いでみる。
「別居でもしたいのか?」
「いいえ。春川の名前が思ったよりも大きくなったので、編集舎での打ち合わせた難しくなってきました。それに……まだ私をつけ回す人もいるので。」
「あぁ。一度言ってた人か。」
「あなたとの関係を知られたくはなければ、そうした方がいいと思いました。もちろん住めるようにはしますが、あくまで家はここです。」
 お茶を飲み、彼女は少し笑う。
「帰ってきますから。」
「信じるよ。」
「はい。」
 彼女は笑い、そしてまた煮浸しに箸をつけた。思った以上にすんなり信じてくれた。罠かもしれないと思いながら。
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