セックスの価値

神崎

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 家に帰る前に、春川はコンビニに立ち寄って煙草を買う。祥吾の煙草だ。赤いパッケージの煙草の銘柄はだいぶ前に覚えてしまった。
 そして家に帰ると、自分の部屋に戻り荷物を置く。そして買った煙草を手に祥吾の部屋に足を進めた。
「祥吾さん。」
 声をかけると声が聞こえた。
「どうぞ。」
 ドアを開けると、祥吾はいつものように仕事をしていると思っていた。しかし彼の手元には一冊の本があるようだ。それは資料ではなく、春川の本だった。「花雨」。彼女が書いた新刊だった。
「遊女と間男の話は面白いね。」
「珍しいですね。本を読んでるなんて。」
「少し詰まってしまってね。」
 煙草をテーブルに置くと、すっと出て行こうとした。すると彼は声を上げる。
「志のぶは弥助の頬に手を触れた。そのとき志のぶの頬につっと涙が流れる。吉原からは抜けられない。一緒になることもないことは志のぶも弥助もわかっていた。だがこの時間を大事にしたい。決して許されることはないその関係だから、僅かな時間でも一緒にいたかった。」
 それは小説の一説だった。急にそれを語られて、彼女は足を止める。そして彼の方を振り向いた。
「どうしました?」
「決して結ばれることはない関係か。実に面白い。」
「ありがとうございます。吉原や遊女の話を調べるのはそう難しくはなかったですが、やはり性描写が難しかったですね。」
「そんな時代だ。コンドームも無かったのだろうからね。」
「……子供を作る作業だけを求められて、子供が出来れば無理矢理堕胎させ、子供が出来ない体になれば一人前になるらしいです。」
「女としてどこか破綻しているよ。」
「そんなところだったのでしょう。」
 そう言って彼女はドアを開けて部屋に戻ろうとした。そのとき彼が立ち上がる。
 ふわっと煙草の匂いがした。先ほど抱きしめられた香水の匂いはしない。腕が体に回されて、彼女がドアノブに掛けている手の力が抜けていく。
「祥吾さん。」
「好きだよ。春。」
 きっと他の人にも言っている。軽い好きだと思った。
「えぇ。私も。」
「だったら春。私に抱かせてはくれないだろうか。」
 今更何を言っているのだろうか。しかしまだ彼女は妻だ。彼が求めるならそれに従わないといけないだろう。桂ではない。桂ほど幸せにはなれない。だが彼は夫なのだ。
 彼女は振り返り彼を見上げる。するとその顎に手が触れた。そのとき。彼の携帯電話が鳴る。どうやら着信だ。
「電話が……。」
「あとでかけ直す。春。キスだけでもさせてくれ。」
 着信音が鳴り響く中、彼は彼女の唇に指を触れそして少しかがむ。編集者の誰でもこんな状態にはならない。追って、追って、やっと手に入れた彼女なのだ。離したくない。
 彼はその唇に軽く唇を重ねた。そのとき彼女の目から一つ、滴がこぼれる。
「どうしたの?」
「いいえ。どうしてでしょう。久しぶりだったからかもしれません。」
 本当は違う。その相手が桂ではないから。それだけだったのに。
「そんな顔をしてるともっとしたくなるな。それに誰にも渡したくない。春。こっちを見て。」
 頬に伝う涙を拭い、彼はドアに彼女を押しつけるとまた唇を重ねた。
「んっ……。」
 舌が伸びて、彼女の口内を舐め上げる。それは桂でもしないようなねちっこいキスだった。妻だから。それに答えないといけないだろう。妻だから、彼を受け入れないといけないだろう。心は別を向いていても。
 唇を離されても、また重ねる。やがて彼の手が彼女の胸に触れてきた。そのとき、きれた着信音が再び鳴る。
「祥吾さん……電話が……。」
「気になる?」
「お仕事かもしれません。」
 彼は少しため息を付くと、彼女から離れた。そして机の上にある携帯電話を手にすると、通話ボタンを押す。
「もしもし。あぁ、悪いね。ちょっと手が放せなかった。どうしたのかな。」
 正直ほっとした。着信があって良かったと思う。そのまま部屋を出ていきたいが、それは許されないだろう。だがベッドに腰掛けたくもない。彼女はそのままそこに立ち尽くしていた。
 やがて彼は携帯電話を置く。そして彼女の方をみた。
「明日、君の予定は入っているのかな。」
「人に会う予定はありません。資料を集めて、少し打ち合わせをします。そうですね……。夕方くらいには帰れると思いますが。」
「だったら夕方、ここにいてくれないか。」
「何がありますか?」
「桂というAV男優が来ることになる。」
「え?」
 驚いて彼女は彼をみる。
「君の話を聞いて、対談をしてみたいと思ったよ。元々そのような企画があったようだ。私と異業種の人を対談させるという企画らしい。」
「……そうでしたか。」
「君は桂とは顔見知りだ。顔見知りがいた方が彼も話しやすくなるだろう。」
「同席を?」
「いいや。別にその場にいるのは不自然だが、挨拶くらいはした方がいいだろう。」
「祥吾さん。」
「何か問題でもあるのかな。」
 その言葉は少しとげがある。疑っているのは間違いないのだ。彼女は少しため息を付いて言う。
「その場合、私はどのような立場にいた方がいいのですか。」
 ある時は助手だと言い、奥さんだと言えるのは幸さんくらい近い存在ではないと言えないのに、桂にはどう紹介するのだろう。
「有川さんも同席する。そのときは助手という立場を貫いてくれないか。」
「わかりました。ではそのように。」
「だが忘れないでくれ。君は私の妻だ。君を離したくはない。」
 彼はそう言って彼女に近づく。そしてまたキスをする。
 空しい関係だ。妻だと言葉では言っているのに、他の人には言えない。そして忘れかけていたら激しく彼女を求めるその関係が空しいと思う。
 唇を離されて、今度こそベッドに誘われると思った。そのときまた彼の携帯電話が鳴る。
「邪魔をするな。」
「仕事の電話でしょう。出てください。」
 彼はため息を付いてまた机の上の携帯電話を手にする。
「はい。……今からですか?わかりました。では修正を送ります。」
 携帯電話と逆の手で、彼は何かを探している。そして電話を切ると、彼女の方を振り返った。
「春。仕事をしてくれないか。」
「わかりました。ではパソコンを持ってきます。」
 どうやら修正個所があったらしい。彼女は部屋を出ると、ため息を付いた。
 今日もされなくて良かったと思う自分が、とても卑怯だ。
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