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週末の夜。彩は久しぶりにステージに立つと、彼目当ての客が詰め寄っている。おかげで満席だ。銘のいなくなった後釜の男も、女も料理だ酒だと一生懸命運んでいた。
キッチンは奥まっていて、その様子を累が知るのはわずかなのぞき穴のみ。そして出来上がった料理やデザートをカウンターにおくとウェイターとウェイトレスが持って行く。
彼女の隣で肉や魚を焼いている背の高い男が隆。黒いシャツと黒いエプロンをつけている。同じ格好をした累はさらに野菜を盛りつけて肉を置き、ソースを添えてカウンターに出す。その他、デザートやサラダも彼女の役割になる。圧倒的に彼女の方が仕事量は多い気もするが、それでも無駄のない動きに、隆は満足そうに彼女を見ていた。
「ライブに入ったな。」
オーダーが緩やかになったのだ。
「累。休憩するか。」
「あなたのあとに休憩をとります。」
早い時間に休憩を取れば、また見たくないものも見てしまうかもしれない。彼女はそれを恐れていたのだ。
「そうか。だったらこのオーダーが終わったら、裏にいく。」
隆はそういって肉をひっくり返した。横と後ろだけを刈り上げて、上の髪は長くのばして一つでくくっている。どことなく藍ににていて、当初はやりにくいとは思ったがどうやら彼には女がいるようで、それで安心した。
デザートのケーキを盛りつけて、ソースを垂らすと彼女はカウンターの上にそれを置き、伝票を下に置く。
「おい。それちょっと待て。」
「はい?」
「ミントの葉は?」
その言葉に彼女は、焦ったようにその上にちぎったミントの葉を散らした。
「すいません。どうぞ。」
「全く……まだまだだな。」
「ありがとうございます。注意してもらって。」
ウェイターがそのデザートと伝票を持って行った。
「和風パスタの上の海苔は覚えたか。」
「えぇ。あれもありがとうございます。」
「あんた、変わってるな。」
そういって肉を皿に置いた。
「何がですか。」
ソースを垂らして、テーブルにおく。二つ同じものだ。
「いつも来る奴、「すいません」しか言わないんだ。あんたありがとうございますしかいわねぇな。」
「注意してくださっているのですから。」
「注意ね。まぁいいや。間違えなければそれでいい。」
残りの伝票は三つ。あとは彼女だけで何とかなるだろう。隆はコップに水を注ぐと、彼女の方をみる。
「十分で帰ってくる。肉はあと三分だ。」
「了解です。」
一人で食堂をしていたと聞いている。もしかしたら一人の方がやりやすいのかもしれないが、彼自身にとってはかゆいところに手が届く女でやりやすい。小さな体で何が出来るのかとバカにしていたが、余計なことも言わないしいい女だと思う。
だが彼女には男がいる。
フロアに出てきて、彼はカウンターに座る。そして煙草をくわえた。客はステージをじっと見ていた。そして彼もそれに習ってステージをみる。
そこには彩の姿があった。彩は人気のある奏者だった。女のような美しい容姿で、ベッドのテクニックが極上らしい。そしてその彼の女が累だという。いいや。正確には女ではないようだが、偶然見た彼と彼女がキスをしているところ。
だが彼は他の女ともキスをしているところをみる。きっと本気ではないのだろう。いい身分だな。彼はそう思いながら煙草の煙を吸い込んだ。
やがてライブが終わり、オーダーストップの時間になる。
キッチンの片づけと、明日の仕込みをする。掃除は累の仕事で、仕込みは隆の仕事だ。ついでに切れている食材を発注する。
「旬食」とちがって、固定されたメニューしかないし食材の数も多いので運んでもらっているのだという。港へ行き、肉屋や八百屋、魚屋に発注するのだ。
「あー。スパイス切れかけてるな。」
だがそういったスパイスや調味料はそうはいかない。それは早朝、港でしている市場で買ってくるのだ。
「行ってきましょうか。」
「いいのか?明日油もあるから、重いぞ。」
「自分でしていたときはリアカーで引いていました。気にしないでください。」
この細い体でリアカーを引いていたのか。どこにそんな力があるのだろう。
「わかった。じゃあ、メモをしておくから。店主には話がいつも付いてる。名前を出せば譲ってくれるだろう。」
フロアの様子を見るために、キッチンにあるのぞき窓を累は覗いた。今はウェイターやウェイトレスが忙しく動き回っている。そして彩もカウンターでグラスを拭いている。こちらには目も向けていない。
「累。」
「何ですか。」
「あんた、男がいるんだってな。」
男という言葉に彼女の表情が少し硬くなった。だがそれは一瞬。
「あなたも女がいますよね。」
表情を変えずに毒をはく。
「あぁ。いるよ。一緒に住んでる。」
「そろそろ結婚ですか?」
「いいや。もう住んで十年くらいたつし、今更って感じがするな。」
彼はそういって五徳を湯から上げる。そこだけは自分で洗いたいのだ。
「あんたは結婚しないのか。」
「結婚?」
藍は彼女と結婚したいと言っていた。だがそれは現実的ではないと彼女は心の中で思っていたのを思い出すが、言われて嬉しかった。今はその可能性はゼロだ。そう思うときも血まで暗くなる。
「……。」
「彩とするのか。」
「彩と?どうしてですか?」
素直に聞いてくる彼女。それがとても自然で、聞き返してくるので彼は少し驚いていた。
「いいや。そうかなと思っただけだ。」
「彩とは何もありませんよ。私は……。」
愛されるような女じゃない。最低なことをしたのだ。それ以前に人間ではないのだ。このフライパンや鍋と同じ道具と一緒だ。
「何だ。失恋でもしたのか。」
「失恋?」
失恋した。あれも失恋というのだろうか。でもまだ愛しているような気がする。その心に蓋をして鍵をかけているが。
「……まぁいいよ。深く聞こうとは思ってないし。」
「……隆さん。」
「何だ。」
彼女から話しかけられたのは初めてで、少し驚いた。モップをかけている彼女は、表情無く彼に話しかける。
「あまりそういったことを話したくありません。」
「悪いことではないだろう。一緒にいる時間が長ければ、信頼関係が大切になってくる。あんたともそういった関係で居たいと思っただけなのだがな。」
確かにそうだろう。一緒に誰かと働くと言うことをしたことのない彼女にとって、それは耳が痛いことだった。
「確かにそうですね。教えて下さってありがとうございます。」
また礼を言われた。変わった女だ。
「彩はやめておけ。あいつはろくでもない。」
「そうですね。」
「知っていたのか。」
「ここを紹介していただいたのは彩ですから。」
と言うことはやはり彩の手にかかっている女だ。それも一度ではないのだろう。職場を世話するくらいだ。
「累。あんた酒は?」
「飲んだことないです。必要ないので。」
「だったら今度飲みに行かないか。」
「お断りします。あなたの恋人に殺されたくはないので。」
そういってまた彼女はモップをかける。殺されるとすれば望むところだが、それは多分出来ない。ただの女に彼女を殺すことは出来ないだろう。
「確かにそうだ。」
彼に恋人が居るというのは確かだった。彼の首から下がっている銀色の指輪。それは恋人の証だった。
藍からそんなものをもらったことはない。だがそれでいいと思っていた。指輪なんかよりももっと繋がりがあると信じていたから。だがその信用はもろいものだった。
今は隆が眩しく見える。
キッチンは奥まっていて、その様子を累が知るのはわずかなのぞき穴のみ。そして出来上がった料理やデザートをカウンターにおくとウェイターとウェイトレスが持って行く。
彼女の隣で肉や魚を焼いている背の高い男が隆。黒いシャツと黒いエプロンをつけている。同じ格好をした累はさらに野菜を盛りつけて肉を置き、ソースを添えてカウンターに出す。その他、デザートやサラダも彼女の役割になる。圧倒的に彼女の方が仕事量は多い気もするが、それでも無駄のない動きに、隆は満足そうに彼女を見ていた。
「ライブに入ったな。」
オーダーが緩やかになったのだ。
「累。休憩するか。」
「あなたのあとに休憩をとります。」
早い時間に休憩を取れば、また見たくないものも見てしまうかもしれない。彼女はそれを恐れていたのだ。
「そうか。だったらこのオーダーが終わったら、裏にいく。」
隆はそういって肉をひっくり返した。横と後ろだけを刈り上げて、上の髪は長くのばして一つでくくっている。どことなく藍ににていて、当初はやりにくいとは思ったがどうやら彼には女がいるようで、それで安心した。
デザートのケーキを盛りつけて、ソースを垂らすと彼女はカウンターの上にそれを置き、伝票を下に置く。
「おい。それちょっと待て。」
「はい?」
「ミントの葉は?」
その言葉に彼女は、焦ったようにその上にちぎったミントの葉を散らした。
「すいません。どうぞ。」
「全く……まだまだだな。」
「ありがとうございます。注意してもらって。」
ウェイターがそのデザートと伝票を持って行った。
「和風パスタの上の海苔は覚えたか。」
「えぇ。あれもありがとうございます。」
「あんた、変わってるな。」
そういって肉を皿に置いた。
「何がですか。」
ソースを垂らして、テーブルにおく。二つ同じものだ。
「いつも来る奴、「すいません」しか言わないんだ。あんたありがとうございますしかいわねぇな。」
「注意してくださっているのですから。」
「注意ね。まぁいいや。間違えなければそれでいい。」
残りの伝票は三つ。あとは彼女だけで何とかなるだろう。隆はコップに水を注ぐと、彼女の方をみる。
「十分で帰ってくる。肉はあと三分だ。」
「了解です。」
一人で食堂をしていたと聞いている。もしかしたら一人の方がやりやすいのかもしれないが、彼自身にとってはかゆいところに手が届く女でやりやすい。小さな体で何が出来るのかとバカにしていたが、余計なことも言わないしいい女だと思う。
だが彼女には男がいる。
フロアに出てきて、彼はカウンターに座る。そして煙草をくわえた。客はステージをじっと見ていた。そして彼もそれに習ってステージをみる。
そこには彩の姿があった。彩は人気のある奏者だった。女のような美しい容姿で、ベッドのテクニックが極上らしい。そしてその彼の女が累だという。いいや。正確には女ではないようだが、偶然見た彼と彼女がキスをしているところ。
だが彼は他の女ともキスをしているところをみる。きっと本気ではないのだろう。いい身分だな。彼はそう思いながら煙草の煙を吸い込んだ。
やがてライブが終わり、オーダーストップの時間になる。
キッチンの片づけと、明日の仕込みをする。掃除は累の仕事で、仕込みは隆の仕事だ。ついでに切れている食材を発注する。
「旬食」とちがって、固定されたメニューしかないし食材の数も多いので運んでもらっているのだという。港へ行き、肉屋や八百屋、魚屋に発注するのだ。
「あー。スパイス切れかけてるな。」
だがそういったスパイスや調味料はそうはいかない。それは早朝、港でしている市場で買ってくるのだ。
「行ってきましょうか。」
「いいのか?明日油もあるから、重いぞ。」
「自分でしていたときはリアカーで引いていました。気にしないでください。」
この細い体でリアカーを引いていたのか。どこにそんな力があるのだろう。
「わかった。じゃあ、メモをしておくから。店主には話がいつも付いてる。名前を出せば譲ってくれるだろう。」
フロアの様子を見るために、キッチンにあるのぞき窓を累は覗いた。今はウェイターやウェイトレスが忙しく動き回っている。そして彩もカウンターでグラスを拭いている。こちらには目も向けていない。
「累。」
「何ですか。」
「あんた、男がいるんだってな。」
男という言葉に彼女の表情が少し硬くなった。だがそれは一瞬。
「あなたも女がいますよね。」
表情を変えずに毒をはく。
「あぁ。いるよ。一緒に住んでる。」
「そろそろ結婚ですか?」
「いいや。もう住んで十年くらいたつし、今更って感じがするな。」
彼はそういって五徳を湯から上げる。そこだけは自分で洗いたいのだ。
「あんたは結婚しないのか。」
「結婚?」
藍は彼女と結婚したいと言っていた。だがそれは現実的ではないと彼女は心の中で思っていたのを思い出すが、言われて嬉しかった。今はその可能性はゼロだ。そう思うときも血まで暗くなる。
「……。」
「彩とするのか。」
「彩と?どうしてですか?」
素直に聞いてくる彼女。それがとても自然で、聞き返してくるので彼は少し驚いていた。
「いいや。そうかなと思っただけだ。」
「彩とは何もありませんよ。私は……。」
愛されるような女じゃない。最低なことをしたのだ。それ以前に人間ではないのだ。このフライパンや鍋と同じ道具と一緒だ。
「何だ。失恋でもしたのか。」
「失恋?」
失恋した。あれも失恋というのだろうか。でもまだ愛しているような気がする。その心に蓋をして鍵をかけているが。
「……まぁいいよ。深く聞こうとは思ってないし。」
「……隆さん。」
「何だ。」
彼女から話しかけられたのは初めてで、少し驚いた。モップをかけている彼女は、表情無く彼に話しかける。
「あまりそういったことを話したくありません。」
「悪いことではないだろう。一緒にいる時間が長ければ、信頼関係が大切になってくる。あんたともそういった関係で居たいと思っただけなのだがな。」
確かにそうだろう。一緒に誰かと働くと言うことをしたことのない彼女にとって、それは耳が痛いことだった。
「確かにそうですね。教えて下さってありがとうございます。」
また礼を言われた。変わった女だ。
「彩はやめておけ。あいつはろくでもない。」
「そうですね。」
「知っていたのか。」
「ここを紹介していただいたのは彩ですから。」
と言うことはやはり彩の手にかかっている女だ。それも一度ではないのだろう。職場を世話するくらいだ。
「累。あんた酒は?」
「飲んだことないです。必要ないので。」
「だったら今度飲みに行かないか。」
「お断りします。あなたの恋人に殺されたくはないので。」
そういってまた彼女はモップをかける。殺されるとすれば望むところだが、それは多分出来ない。ただの女に彼女を殺すことは出来ないだろう。
「確かにそうだ。」
彼に恋人が居るというのは確かだった。彼の首から下がっている銀色の指輪。それは恋人の証だった。
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