夜の声

神崎

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一年目

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 しばらくして葵さんが帰ってきた。手には食材が握られている。おそらくこれを買いに行っていたのもあるのだろう。
「ありがとうございます。おかげでいいトマトが買えましたよ。」
「今日のパスタはトマトですか。」
 葵さんがいない間に数人のお客さんがきて、そして竹彦も帰っていった。
「そうですね。オイルパスタでもいいですね。」
 それにしては多いな。トマトソースでも作るつもりだろうか。
 今の店には一人お客さんがいるだけだ。男性のお客さんで、常連さん。コーヒーは苦手だと、いつも紅茶を飲んでいる人。この店では珍しいので印象に残っている。持ち込んでいる新聞を読んでいる姿はおっさんのような印象を受けるけれど、葵さんとあまり歳が変わらない人らしい。
 その人は新聞を畳むと、帰ってきた葵さんに声をかけた。
「葵。今度のイベント、Syuは出るのか。」
 Syuと言う単語に私は少しドキリとした。その名前は柊さんのDJとしての別名だったからだ。
「あぁ。新しいハコが出来るこけら落としですか。どうでしょうね。彼も忙しい人なので。」
「あいつが回すと人が集まるから、土師さんも喜ぶんだけどな。」
「あの人は時間が限られていますからね。」
「何の用があるのか知らないけど、二十二時までしかいられないって高校生かよって感じだよな。」
 うーん。話の内容からして、たぶんDJが出演するようなクラブか何かが出来るんだろう。それの開店にあわせて何かイベントがあるらしい。
 それに柊さんを呼ぼうとしているけど、柊さんはあまり時間のない人だから出られないかもしれないってことかもしれないな。
「あまり公に出れない事情もあるでしょうし。」
「それって蓬さんか?」
 カップを洗いながら私は手を止めてしまった。蓬の名前が出たから。
「それもありますよ。まぁ、ここでは言えませんけどね。」
 ちらりと葵さんはこちらをみた。その様子に彼も納得したようにこちらをみた。
「高校生だっけ?桜さんは。」
「はい。」
 カップを洗いながら、私はそちらを見ずに答える。やがてカップを洗い終わり、食洗機にかけると彼らの方をみた。
「この間の祭りは行った?」
「えぇ。初めてでしたけど、ちょっとお手伝いをすることもありまして。」
「そうだったんだ。じゃあSyuのステージは?」
「見ましたよ。」
「かっこいいだろ?」
「えぇ。」
 アホみたいな会話だと思った。恋人を誉めているなんて。
「ガタイもいいし、体力も並じゃないから女がすぐ寄ってくる。女がつきないって噂もあるからね。あまりのめり込まない方がいいかもしれないな。」
 噂。ただの噂。心配そうに葵さんがこちらを見たけれど、私は笑顔で答える。
「ステージの上の人に好きだとかは思いませんよ。」
「そこまでミーハーじゃないか。まぁ、芸能人にのめり込むより現実味はあるけどなぁ。」
 そういって彼は紅茶を飲み干して、レジに向かった。お金を払うと、彼は手を挙げてまた来るよと言って行ってしまった。
 店の中は私と葵さん以外いない。私はカップを片づけて、シンクに置いた。すると葵さんは今日の文のコーヒー豆を見ながら、こちらに声をかけてきた。
「噂ですよ。」
「何がですか。」
「柊の噂です。」
「……気にしてません。あくまで噂ですから。」
 紙ナプキンとつまようじをトレーに乗せて私はカウンターを出ようとした。そのとき葵さんが、豆の入った瓶を置いてこちらにやってくる。
「本当に噂だけだと思っていますか。」
「多分……噂が立ったのは、理由があるのでしょう。」
「えぇ。そんなことまで話してくれましたか。彼は。あまり自分の弱い所などを見せたくない人なのに。」
「それはあなたもではないのですか。」
 その問いに、葵さんの笑顔が僅かに消えた。葵さんはきっとプライドの高い人だ。だから柊さんにとられた私をまだ手に入れようとしている。
 その証拠に彼はまだ私にキスをした。私には不本意な出来事ではある。だけど彼は柊さんから私を奪おうとして、そんな行動に出たのだ。今ならそう思える。
「私のことを知りたいのですか。」
 いつものテンションで語りかけてくる言葉なのに、ぞっとした。思わず逃げようと、私はトレーを手にして急いでカウンターを出た。誰か、誰かお客さんが来てくれないだろうか。
 ううん。だめだ。他力はあてにならない。きっぱりと断れ。じゃないとずるずると相手のペースだ。
「いいえ。特には。」
「では何故そんな言葉出るのですか。」
「ここに努めて一年もたてば、人も見えてきますよ。」
 テーブルに近づき、紙ナプキンを補充しているとカウンターから葵さんも出てきた。そして私のそばへやってくる。見下ろすように見る目を、見ることが出来なかった。怖い。怖いと思った。
「発言には注意することです。最近のあなたは不用意な言葉も出てくることがある。柊に言われましたか。自分に正直になれとか、そういったことが。」
「いいえ。柊さんは関係ないんです。ただ、私が思っていることを正直に伝えないと、誰もわかってくれないから。」
「他人が他人を理解しようなんて不可能ですよ。違う人間なのですから。」
「でも、伝えることは出来る。言葉が通じるのですから。」
「ではあなたも他人の言葉を理解してください。」
 ぐっと言葉を飲んだ。これ以上言ったらきっと葵さんは意地になるから。
「……そうですね。理解してもらうためにはその人を理解しないといけませんね。」
 私はそういって彼の方を向いた。でも目は合わせられない。まだ怖い。そう思っていたから。
「葵さん。ありがとうございます。」
 すると彼はいつもの表情を取り戻した。そして入り口にある看板をひっくり返した。openになっているはずなのにひっくり返したということは、closeにしたのだろうか。そして彼は入り口の鍵を閉め、窓のカーテンを閉める。
「どうしました?」
「今日は夜は閉めます。」
「……予定でも?」
「えぇ。あなたにね。」
 そういって彼は素早く私の腕を掴んだ。そして引っ張られると、カウンターの机に押し倒される。
 後ろ頭を思いっきり打ってしまって、少しくらくらした。でも今はそんな場合じゃない。私が逃げられないようにと、彼の足の間に私の足がある。
 まずい。前と同じだ。これじゃ……。
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