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交差
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いつものように春樹は病室にやってくると、未来に挨拶をして洗濯物を入れ替えた。この洗濯物も倫子が洗っているものだ。
あの家にやってきてみんなの役割がだいぶ決まったように思える。
料理は伊織がしている。一番早く帰ってくる可能性が高いからだ。
掃除は平日休みの泉がしている。もちろん個々の部屋はみんなでしているが、まとめて泉が気になるところを休みの度にしているようだ。
洗濯は倫子がしてくれている。家にいることが多いから、雨が降ってきても取り込んだりしているのだ。最初はパンツまで洗ってくれるのに少し恥ずかしく思ったが、それでも顔色を変えずに男物のパンツを手にして「これはどっちのものかしら」と聞いてくるのは、もう慣れたものだ。
春樹の役目は買い出しをしている。休みの日に米や洗剤を買っているのだ。もちろん、細かな食材は伊織ではないとわからないので、それは二人でやりとりをしている。
なんだかんだと言って倫子の家に転がり込んで、もう年を越しそうだ。そして未来もまだ命を保っている。年を越すかどうかわからないと言われた割には長生きをしていた。
だが意識はやはり無い。倫子がここへやってきたときに目を開けたのを最後に、また目を開けることはなかった。
そのとき部屋のドアをノックされた。
「どうぞ。」
看護師か、医師か、また状況を説明しに来たのかもしれない。
「失礼いたします。」
振り向いて驚いた。そこには未来の母親が居たのだ。
白生地に銀色の刺繍をこらした、雅な着物。春樹にはわからないが、高いものなのだろう。
「春樹さん。」
「お久しぶりです。お義母さん。」
この母親とは歳があまり変わらない。未来とは血の繋がりが無く、未来の父親の後妻になる。本当の母親は、未来が事故に巻き込まれてすぐに出て行ったのだ。なので、この母親は未来が寝たきりになってることくらいしかわからない。
「春樹さん。毎日通ってご苦労なことですわね。」
「もう、慣れました。」
母親はたまにここにやってくるが、父親は顔を見せたことはない。血の繋がりがある娘なのに、希薄なことだ。
「主人も気にかけていたのですけれど、どうしても仕事が手一杯で。」
夜毎ある政治家のパーティの方が娘よりも重要らしい。こんな事でよく未来がぐれなかったものだ。
「年を越すかわからないと言ってましたけれど、前とあまり変わりませんわね。」
「えぇ。でも……前は少し目を開けたりしていたんですけどね。」
「春樹さん。重荷になってませんか。」
「いいえ。さっきも言いましたが、習慣になりました。それに……こうしている時間だけが、仕事を忘れられる。」
もっと忘れられることもあるが、それを言うわけにはいかない。未来を裏切って倫子といるときが、何もかも忘れられるなど口が裂けても言えないのだ。
いすを用意すると母親はそこに腰掛ける。そして春樹を見上げた。
「春樹さん。おいくつになりましたか。」
「歳ですか?三十六に来月なりますね。」
倫子も同じ月に誕生日がくる。そのとき、一緒に過ごせればいいと思った。
「気に入ったご婦人はいらっしゃいませんの?」
その言葉に春樹は思わず吹き出しそうになった。母が何もかも知っているのかと思っていたのだ。
「え……。俺には未来が……。」
「健康な男性が、寝たきりの妻を介護するだけだとは私も思ってませんのよ。」
「参ったな……。」
未来の前でそんなことを言いたくない。なのに、母親は遠慮がないようだ。
「未来さんのお世話は、私たちの家でも出来ますのよ。あなたはあなたの幸せを……。」
「お母さん。俺は、こうしているだけで幸せですよ。」
「……。」
「好きな仕事をして、未来の寝顔を見て……それが幸せです。」
理解が出来ない。後妻としてこの家にやってきたのは、自分が貧しかったからだ。毎夜、毎夜、求めてくる夫に嫌気がさしながら相手をして、子供が出来たのも、すべて貧しさから逃れるためだ。
それなのに、春樹は寝ている未来を見るだけで良いという。そんな聖人はいるわけがない。
「春樹さん。もし、気に入ったご婦人がいらっしゃっても、私たちは何も言いませんわ。五、六年も夫を放置していた未来が悪いのですから。」
きつい母親だ。そう思いながら春樹は愛想笑いを浮かべた。
「そうですね。」
駅にやってきて春樹はため息を付く。まさか未来の母親に会うと思っていなかったからだ。正直、疲れる相手だと思う。
春樹が編集している雑誌も、本も、「人殺しの本」と呼び、未来にいたってはねてばかりで旦那の世話もしない役立たずな嫁だというのだ。
未来だって好きでそうなったわけではない。あれは、事故だったのだ。そう思いながら、春樹はポケットに入っている小銭入れを取り出した。そこには貝殻のイヤリングがある。新婚旅行で、未来が気に入って買ったものだった。
事故に巻き込まれた未来が身につけていたもので、唯一無事だったものだった。それは新婚旅行で未来が一目惚れをして買ったもので、すぐ割れてしまうよと春樹は言ったが、それでも未来はそれを買ったのだ。
小さくて、はかなそうな未来にはよく似合っているようにあの時は思えた。
「春樹さん。」
後ろから声をかけられて、春樹は振り返る。そこには泉の姿があった。
「泉さん。」
「何ぼんやりしてんの?電車出るよ?」
ホームで立ち尽くしている春樹が気になったのだろう。泉が手を引くように電車に連れ込んだ。
電車の中はあまり込んでいない。二人は並んで座ると、泉は春樹の手の中のものをみる。
「貝殻?」
「妻が身につけてたものでね。これだけ無事だったんだ。」
「あぁ。それ一度見たことあるわ。洗濯機の中に落ちてた。」
「そうだったんだね。よく割れなかったな。」
それだけ運が良いものなのだろう。そう思いながら小銭入れにそれをしまった。
「ねぇ。春樹さん。」
また倫子との仲を裂こうと思っているのだろうか。このイヤリングを見ていたからにはそうだろう。春樹は覚悟を決めて、泉を見下ろす。
「どうしたの?」
「男の人ってさ、何をあげたら喜ぶの?」
その質問に、思わず春樹は虚を突かれたように聞き返した。
「あげる?誰に?」
「決まってんじゃん。聞かないでよ。」
普段あまり付き合っているように見えない泉と伊織だ。思わず聞き直してしまった。
「あぁ。クリスマスが近いから?」
「うん。男の人に何をあげるなんて考えたこともなかったもん。」
口をとがらせて、泉は言う。
「俺なら……。」
倫子からもらうとしたら何だろう。自分がもらってうれしいものなんか一つしかない。だが倫子の方が何を考えて春樹に何かあげるだろうか。
「……俺なら、彼女自身って言うかな。」
「バカにして。」
それは一番に思いついたことだった。だがキスすらままならないのに、いきなりセックスのことなど考えられないだろう。
「……大事なことだよ。俺ら席を外しても良いし。それか二人でデートでもしてきたら?」
そのときは倫子と一緒に出かけよう。いい口実が出来たと思う。
「やだ。」
「何で?」
「倫子と出かけるつもりでしょう?」
やはり何も許していないのだ。流れる光を見ながら、春樹は呆れたように息を着いた。
あの家にやってきてみんなの役割がだいぶ決まったように思える。
料理は伊織がしている。一番早く帰ってくる可能性が高いからだ。
掃除は平日休みの泉がしている。もちろん個々の部屋はみんなでしているが、まとめて泉が気になるところを休みの度にしているようだ。
洗濯は倫子がしてくれている。家にいることが多いから、雨が降ってきても取り込んだりしているのだ。最初はパンツまで洗ってくれるのに少し恥ずかしく思ったが、それでも顔色を変えずに男物のパンツを手にして「これはどっちのものかしら」と聞いてくるのは、もう慣れたものだ。
春樹の役目は買い出しをしている。休みの日に米や洗剤を買っているのだ。もちろん、細かな食材は伊織ではないとわからないので、それは二人でやりとりをしている。
なんだかんだと言って倫子の家に転がり込んで、もう年を越しそうだ。そして未来もまだ命を保っている。年を越すかどうかわからないと言われた割には長生きをしていた。
だが意識はやはり無い。倫子がここへやってきたときに目を開けたのを最後に、また目を開けることはなかった。
そのとき部屋のドアをノックされた。
「どうぞ。」
看護師か、医師か、また状況を説明しに来たのかもしれない。
「失礼いたします。」
振り向いて驚いた。そこには未来の母親が居たのだ。
白生地に銀色の刺繍をこらした、雅な着物。春樹にはわからないが、高いものなのだろう。
「春樹さん。」
「お久しぶりです。お義母さん。」
この母親とは歳があまり変わらない。未来とは血の繋がりが無く、未来の父親の後妻になる。本当の母親は、未来が事故に巻き込まれてすぐに出て行ったのだ。なので、この母親は未来が寝たきりになってることくらいしかわからない。
「春樹さん。毎日通ってご苦労なことですわね。」
「もう、慣れました。」
母親はたまにここにやってくるが、父親は顔を見せたことはない。血の繋がりがある娘なのに、希薄なことだ。
「主人も気にかけていたのですけれど、どうしても仕事が手一杯で。」
夜毎ある政治家のパーティの方が娘よりも重要らしい。こんな事でよく未来がぐれなかったものだ。
「年を越すかわからないと言ってましたけれど、前とあまり変わりませんわね。」
「えぇ。でも……前は少し目を開けたりしていたんですけどね。」
「春樹さん。重荷になってませんか。」
「いいえ。さっきも言いましたが、習慣になりました。それに……こうしている時間だけが、仕事を忘れられる。」
もっと忘れられることもあるが、それを言うわけにはいかない。未来を裏切って倫子といるときが、何もかも忘れられるなど口が裂けても言えないのだ。
いすを用意すると母親はそこに腰掛ける。そして春樹を見上げた。
「春樹さん。おいくつになりましたか。」
「歳ですか?三十六に来月なりますね。」
倫子も同じ月に誕生日がくる。そのとき、一緒に過ごせればいいと思った。
「気に入ったご婦人はいらっしゃいませんの?」
その言葉に春樹は思わず吹き出しそうになった。母が何もかも知っているのかと思っていたのだ。
「え……。俺には未来が……。」
「健康な男性が、寝たきりの妻を介護するだけだとは私も思ってませんのよ。」
「参ったな……。」
未来の前でそんなことを言いたくない。なのに、母親は遠慮がないようだ。
「未来さんのお世話は、私たちの家でも出来ますのよ。あなたはあなたの幸せを……。」
「お母さん。俺は、こうしているだけで幸せですよ。」
「……。」
「好きな仕事をして、未来の寝顔を見て……それが幸せです。」
理解が出来ない。後妻としてこの家にやってきたのは、自分が貧しかったからだ。毎夜、毎夜、求めてくる夫に嫌気がさしながら相手をして、子供が出来たのも、すべて貧しさから逃れるためだ。
それなのに、春樹は寝ている未来を見るだけで良いという。そんな聖人はいるわけがない。
「春樹さん。もし、気に入ったご婦人がいらっしゃっても、私たちは何も言いませんわ。五、六年も夫を放置していた未来が悪いのですから。」
きつい母親だ。そう思いながら春樹は愛想笑いを浮かべた。
「そうですね。」
駅にやってきて春樹はため息を付く。まさか未来の母親に会うと思っていなかったからだ。正直、疲れる相手だと思う。
春樹が編集している雑誌も、本も、「人殺しの本」と呼び、未来にいたってはねてばかりで旦那の世話もしない役立たずな嫁だというのだ。
未来だって好きでそうなったわけではない。あれは、事故だったのだ。そう思いながら、春樹はポケットに入っている小銭入れを取り出した。そこには貝殻のイヤリングがある。新婚旅行で、未来が気に入って買ったものだった。
事故に巻き込まれた未来が身につけていたもので、唯一無事だったものだった。それは新婚旅行で未来が一目惚れをして買ったもので、すぐ割れてしまうよと春樹は言ったが、それでも未来はそれを買ったのだ。
小さくて、はかなそうな未来にはよく似合っているようにあの時は思えた。
「春樹さん。」
後ろから声をかけられて、春樹は振り返る。そこには泉の姿があった。
「泉さん。」
「何ぼんやりしてんの?電車出るよ?」
ホームで立ち尽くしている春樹が気になったのだろう。泉が手を引くように電車に連れ込んだ。
電車の中はあまり込んでいない。二人は並んで座ると、泉は春樹の手の中のものをみる。
「貝殻?」
「妻が身につけてたものでね。これだけ無事だったんだ。」
「あぁ。それ一度見たことあるわ。洗濯機の中に落ちてた。」
「そうだったんだね。よく割れなかったな。」
それだけ運が良いものなのだろう。そう思いながら小銭入れにそれをしまった。
「ねぇ。春樹さん。」
また倫子との仲を裂こうと思っているのだろうか。このイヤリングを見ていたからにはそうだろう。春樹は覚悟を決めて、泉を見下ろす。
「どうしたの?」
「男の人ってさ、何をあげたら喜ぶの?」
その質問に、思わず春樹は虚を突かれたように聞き返した。
「あげる?誰に?」
「決まってんじゃん。聞かないでよ。」
普段あまり付き合っているように見えない泉と伊織だ。思わず聞き直してしまった。
「あぁ。クリスマスが近いから?」
「うん。男の人に何をあげるなんて考えたこともなかったもん。」
口をとがらせて、泉は言う。
「俺なら……。」
倫子からもらうとしたら何だろう。自分がもらってうれしいものなんか一つしかない。だが倫子の方が何を考えて春樹に何かあげるだろうか。
「……俺なら、彼女自身って言うかな。」
「バカにして。」
それは一番に思いついたことだった。だがキスすらままならないのに、いきなりセックスのことなど考えられないだろう。
「……大事なことだよ。俺ら席を外しても良いし。それか二人でデートでもしてきたら?」
そのときは倫子と一緒に出かけよう。いい口実が出来たと思う。
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