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秋
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スクーターに乗ろうとすると、江口君と阿川さんが出てくる。
「お疲れさまです。」
もうすでに二人は一緒に住んでいるらしく、車も一緒に乗っていく。
だけど江口君は私と同じようにここに雇われている人だ。ここが無くなれば、再就職をしないといけないだろう。阿川さんは出向しているだけだから本社に戻るのだろうけれど、江口君はどうするのだろう。
何も語らないけれど、彼には彼の考えがあるのだろう。
じゃないとこんなに明るく帰れないはずだ。
「周。」
声をかけられて振り返るとそこには光がいた。彼女も車で帰るらしい。
「どうしたの?」
「律は帰って来れなくなったって?」
「えぇ。そうだけど。」
「…周。あまり言いたくはないけれど…。」
「何?」
「律がいないからって、振り回されないでね。」
「…どうして?」
「あたしも律が好きだった時期はあったのよ。それを律はかたくなにあなたが好きだって言って、あたしを振ったのよ。なのに律がいないからって、他の男に転ぶようなことはやめて。」
「そんなわけないじゃない。」
「…本当に?」
「えぇ。」
嘘だ。もう二度、楓と口づけを交わした。一度は無理矢理だったけれど、今朝のは無理矢理じゃない。私も拒否しようと思えば出来たはずだ。
それを拒否しなかったのは、きっと私が律を一瞬でも忘れていたからかもしれない。
「…だったらいいけれど。」
「光は?大丈夫なの?」
「え?」
「律のことは本当に忘れている?」
「えぇ。陸は強引だけど、あたしにはそう言うのが合ってたみたい。」
「でもここが無くなったら…。」
「うん。知っている。あたし出向でここにいるだけだから。ここは離れてしまうんだけど…。陸が私についてくるって言ってるわ。」
「パン屋は?」
「あっちにも支店があるんですって。今転勤願いだしてるんですって。」
「そう。うまくいくといいわね。」
「うん。」
最初はどうなるかと思ったけれど、光は光で幸せなのだ。
私はどうなんだろう。幸せ?どうだろう。
泣いて、わめいて、そんなことをするようなバカじゃないし、「行かないで」なんてもっと言わない。
自分の気持ちをがまんして、物わかりのいい女のふりをして…。私は…何をしたいんだろう。
やがて日が落ちる。夜が来るのだ。
律からの連絡は夜になってもなかった。明日のスケジュールがどうなっているのかもわからなかったのに。彼は何も連絡をよこさなかった。
携帯電話に一応電話をしてみたけれど、繋がらなかった。冷たい女性のアナウンスだけが流れ、やがて切れる。
私はスクーターに乗り、冷たくなった夜の風を切って向かう。
そしてたどり着いたのは会社だった。バイクを置いて、会社の扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
しんとした会社の中。暗やみと静けさに包まれていた。
それだけに普段は気にならないぎしぎしという廊下の音が耳につく。私はキッチンへ繋がる扉を開けて、そして二階に上がる。
あの部屋だ。私はそこのドアノブに手をかけた。扉を開けると、そこには誰もいなかった。
楓もいない。よかった。安心する自分と、残念に思う自分がいる。どちらが本当の自分なのだろう。
床に置いていた絵を手に取る。私の絵。中途半端な絵。納得はしていないのに、修正する気も起きなかった絵。
廃棄してしまえばいいのだ。そのつもりだったのになぜここにあるのだろう。
「…。」
過去の作品はすべて破棄していた。気に入らないと、火をつけて燃やしてしまう。だから、私の過去の作品は残っていない。学生の時の作品も残っていない。
完璧な作品ではないと意味がないのよ。
昔いわれたことを反芻し、そして私はその絵を手に部屋の外に出ようとした。そのときぱっと部屋の電気がついて、目がくらむ。
「泥棒か?」
振り向くとそこには楓がいた。
「泥棒じゃないわ。忘れ物があったから取りに来たの。」
「…忘れ物?その絵?その絵は僕のものだ。」
「…。」
「捨てていた絵を僕が拾った。だから僕のものだ。」
「認めないわ。こんな中途半端な絵、人に渡せるものでもない。」
「でも僕はいい絵だと思う。君が認めなくてもね。」
人に認められたからと言って何だろう。大切なのは自分の気持ちだというのに。
「…同情で欲しいというのであれば、あげないわ。」
「違う。」
「だったら何?こんな絵のどこがいいの?」
「素直にいい絵だと思ったから。それから、君の作品を一つ、手元に置いておきたかったんだ。」
楓はため息をついて、私の手から絵を奪い取るように取っていった。
「僕はね、君が絵を燃やしているところを見たことがあるんだ。」
「…いつ?」
「大学生の時、君の作品は酷評の嵐だった。展示会のあと、君は校舎の裏で絵を燃やしていたよね。「買いたい」という人がいたにもかかわらず。」
「自分が納得していない作品を、人の手に渡したくはなかったから。」
「だったらどうしてそんな中途半端な作品を、展示会に出したんだ。」
「…時間が…。」
「いいわけだね。」
「…。」
確かにいいわけかもしれない。時間がなかったから、画材を買うお金がなかったから。すべてはいいわけだ。
かといって時間をかけても出来なかった作品。それがこの絵だ。
「…今描いている絵は、完成させれそうなのか。」
「わからない、だけど…させるつもりでいつも描いている。」
「そっか。だったらその絵を僕にくれないか。」
「楓に?」
「あぁ。いつになってもかまわない。その絵をもらえないのだったら、そうして欲しい。」
そう言って彼は私の手を取ると手の甲に唇を寄せ、そしてその指に銀色の指輪をはめた。
「お疲れさまです。」
もうすでに二人は一緒に住んでいるらしく、車も一緒に乗っていく。
だけど江口君は私と同じようにここに雇われている人だ。ここが無くなれば、再就職をしないといけないだろう。阿川さんは出向しているだけだから本社に戻るのだろうけれど、江口君はどうするのだろう。
何も語らないけれど、彼には彼の考えがあるのだろう。
じゃないとこんなに明るく帰れないはずだ。
「周。」
声をかけられて振り返るとそこには光がいた。彼女も車で帰るらしい。
「どうしたの?」
「律は帰って来れなくなったって?」
「えぇ。そうだけど。」
「…周。あまり言いたくはないけれど…。」
「何?」
「律がいないからって、振り回されないでね。」
「…どうして?」
「あたしも律が好きだった時期はあったのよ。それを律はかたくなにあなたが好きだって言って、あたしを振ったのよ。なのに律がいないからって、他の男に転ぶようなことはやめて。」
「そんなわけないじゃない。」
「…本当に?」
「えぇ。」
嘘だ。もう二度、楓と口づけを交わした。一度は無理矢理だったけれど、今朝のは無理矢理じゃない。私も拒否しようと思えば出来たはずだ。
それを拒否しなかったのは、きっと私が律を一瞬でも忘れていたからかもしれない。
「…だったらいいけれど。」
「光は?大丈夫なの?」
「え?」
「律のことは本当に忘れている?」
「えぇ。陸は強引だけど、あたしにはそう言うのが合ってたみたい。」
「でもここが無くなったら…。」
「うん。知っている。あたし出向でここにいるだけだから。ここは離れてしまうんだけど…。陸が私についてくるって言ってるわ。」
「パン屋は?」
「あっちにも支店があるんですって。今転勤願いだしてるんですって。」
「そう。うまくいくといいわね。」
「うん。」
最初はどうなるかと思ったけれど、光は光で幸せなのだ。
私はどうなんだろう。幸せ?どうだろう。
泣いて、わめいて、そんなことをするようなバカじゃないし、「行かないで」なんてもっと言わない。
自分の気持ちをがまんして、物わかりのいい女のふりをして…。私は…何をしたいんだろう。
やがて日が落ちる。夜が来るのだ。
律からの連絡は夜になってもなかった。明日のスケジュールがどうなっているのかもわからなかったのに。彼は何も連絡をよこさなかった。
携帯電話に一応電話をしてみたけれど、繋がらなかった。冷たい女性のアナウンスだけが流れ、やがて切れる。
私はスクーターに乗り、冷たくなった夜の風を切って向かう。
そしてたどり着いたのは会社だった。バイクを置いて、会社の扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
しんとした会社の中。暗やみと静けさに包まれていた。
それだけに普段は気にならないぎしぎしという廊下の音が耳につく。私はキッチンへ繋がる扉を開けて、そして二階に上がる。
あの部屋だ。私はそこのドアノブに手をかけた。扉を開けると、そこには誰もいなかった。
楓もいない。よかった。安心する自分と、残念に思う自分がいる。どちらが本当の自分なのだろう。
床に置いていた絵を手に取る。私の絵。中途半端な絵。納得はしていないのに、修正する気も起きなかった絵。
廃棄してしまえばいいのだ。そのつもりだったのになぜここにあるのだろう。
「…。」
過去の作品はすべて破棄していた。気に入らないと、火をつけて燃やしてしまう。だから、私の過去の作品は残っていない。学生の時の作品も残っていない。
完璧な作品ではないと意味がないのよ。
昔いわれたことを反芻し、そして私はその絵を手に部屋の外に出ようとした。そのときぱっと部屋の電気がついて、目がくらむ。
「泥棒か?」
振り向くとそこには楓がいた。
「泥棒じゃないわ。忘れ物があったから取りに来たの。」
「…忘れ物?その絵?その絵は僕のものだ。」
「…。」
「捨てていた絵を僕が拾った。だから僕のものだ。」
「認めないわ。こんな中途半端な絵、人に渡せるものでもない。」
「でも僕はいい絵だと思う。君が認めなくてもね。」
人に認められたからと言って何だろう。大切なのは自分の気持ちだというのに。
「…同情で欲しいというのであれば、あげないわ。」
「違う。」
「だったら何?こんな絵のどこがいいの?」
「素直にいい絵だと思ったから。それから、君の作品を一つ、手元に置いておきたかったんだ。」
楓はため息をついて、私の手から絵を奪い取るように取っていった。
「僕はね、君が絵を燃やしているところを見たことがあるんだ。」
「…いつ?」
「大学生の時、君の作品は酷評の嵐だった。展示会のあと、君は校舎の裏で絵を燃やしていたよね。「買いたい」という人がいたにもかかわらず。」
「自分が納得していない作品を、人の手に渡したくはなかったから。」
「だったらどうしてそんな中途半端な作品を、展示会に出したんだ。」
「…時間が…。」
「いいわけだね。」
「…。」
確かにいいわけかもしれない。時間がなかったから、画材を買うお金がなかったから。すべてはいいわけだ。
かといって時間をかけても出来なかった作品。それがこの絵だ。
「…今描いている絵は、完成させれそうなのか。」
「わからない、だけど…させるつもりでいつも描いている。」
「そっか。だったらその絵を僕にくれないか。」
「楓に?」
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そう言って彼は私の手を取ると手の甲に唇を寄せ、そしてその指に銀色の指輪をはめた。
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