古い家の一年間

神崎

文字の大きさ
31 / 49

6

しおりを挟む
 スクーターに乗ろうとすると、江口君と阿川さんが出てくる。
「お疲れさまです。」
 もうすでに二人は一緒に住んでいるらしく、車も一緒に乗っていく。
 だけど江口君は私と同じようにここに雇われている人だ。ここが無くなれば、再就職をしないといけないだろう。阿川さんは出向しているだけだから本社に戻るのだろうけれど、江口君はどうするのだろう。
 何も語らないけれど、彼には彼の考えがあるのだろう。
 じゃないとこんなに明るく帰れないはずだ。
「周。」
 声をかけられて振り返るとそこには光がいた。彼女も車で帰るらしい。
「どうしたの?」
「律は帰って来れなくなったって?」
「えぇ。そうだけど。」
「…周。あまり言いたくはないけれど…。」
「何?」
「律がいないからって、振り回されないでね。」
「…どうして?」
「あたしも律が好きだった時期はあったのよ。それを律はかたくなにあなたが好きだって言って、あたしを振ったのよ。なのに律がいないからって、他の男に転ぶようなことはやめて。」
「そんなわけないじゃない。」
「…本当に?」
「えぇ。」
 嘘だ。もう二度、楓と口づけを交わした。一度は無理矢理だったけれど、今朝のは無理矢理じゃない。私も拒否しようと思えば出来たはずだ。
 それを拒否しなかったのは、きっと私が律を一瞬でも忘れていたからかもしれない。
「…だったらいいけれど。」
「光は?大丈夫なの?」
「え?」
「律のことは本当に忘れている?」
「えぇ。陸は強引だけど、あたしにはそう言うのが合ってたみたい。」
「でもここが無くなったら…。」
「うん。知っている。あたし出向でここにいるだけだから。ここは離れてしまうんだけど…。陸が私についてくるって言ってるわ。」
「パン屋は?」
「あっちにも支店があるんですって。今転勤願いだしてるんですって。」
「そう。うまくいくといいわね。」
「うん。」
 最初はどうなるかと思ったけれど、光は光で幸せなのだ。
 私はどうなんだろう。幸せ?どうだろう。
 泣いて、わめいて、そんなことをするようなバカじゃないし、「行かないで」なんてもっと言わない。
 自分の気持ちをがまんして、物わかりのいい女のふりをして…。私は…何をしたいんだろう。
 やがて日が落ちる。夜が来るのだ。

 律からの連絡は夜になってもなかった。明日のスケジュールがどうなっているのかもわからなかったのに。彼は何も連絡をよこさなかった。
 携帯電話に一応電話をしてみたけれど、繋がらなかった。冷たい女性のアナウンスだけが流れ、やがて切れる。
 私はスクーターに乗り、冷たくなった夜の風を切って向かう。
 そしてたどり着いたのは会社だった。バイクを置いて、会社の扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
 しんとした会社の中。暗やみと静けさに包まれていた。
 それだけに普段は気にならないぎしぎしという廊下の音が耳につく。私はキッチンへ繋がる扉を開けて、そして二階に上がる。
 あの部屋だ。私はそこのドアノブに手をかけた。扉を開けると、そこには誰もいなかった。
 楓もいない。よかった。安心する自分と、残念に思う自分がいる。どちらが本当の自分なのだろう。
 床に置いていた絵を手に取る。私の絵。中途半端な絵。納得はしていないのに、修正する気も起きなかった絵。
 廃棄してしまえばいいのだ。そのつもりだったのになぜここにあるのだろう。
「…。」
 過去の作品はすべて破棄していた。気に入らないと、火をつけて燃やしてしまう。だから、私の過去の作品は残っていない。学生の時の作品も残っていない。
 完璧な作品ではないと意味がないのよ。
 昔いわれたことを反芻し、そして私はその絵を手に部屋の外に出ようとした。そのときぱっと部屋の電気がついて、目がくらむ。
「泥棒か?」
 振り向くとそこには楓がいた。
「泥棒じゃないわ。忘れ物があったから取りに来たの。」
「…忘れ物?その絵?その絵は僕のものだ。」
「…。」
「捨てていた絵を僕が拾った。だから僕のものだ。」
「認めないわ。こんな中途半端な絵、人に渡せるものでもない。」
「でも僕はいい絵だと思う。君が認めなくてもね。」
 人に認められたからと言って何だろう。大切なのは自分の気持ちだというのに。
「…同情で欲しいというのであれば、あげないわ。」
「違う。」
「だったら何?こんな絵のどこがいいの?」
「素直にいい絵だと思ったから。それから、君の作品を一つ、手元に置いておきたかったんだ。」
 楓はため息をついて、私の手から絵を奪い取るように取っていった。
「僕はね、君が絵を燃やしているところを見たことがあるんだ。」
「…いつ?」
「大学生の時、君の作品は酷評の嵐だった。展示会のあと、君は校舎の裏で絵を燃やしていたよね。「買いたい」という人がいたにもかかわらず。」
「自分が納得していない作品を、人の手に渡したくはなかったから。」
「だったらどうしてそんな中途半端な作品を、展示会に出したんだ。」
「…時間が…。」
「いいわけだね。」
「…。」
 確かにいいわけかもしれない。時間がなかったから、画材を買うお金がなかったから。すべてはいいわけだ。
 かといって時間をかけても出来なかった作品。それがこの絵だ。
「…今描いている絵は、完成させれそうなのか。」
「わからない、だけど…させるつもりでいつも描いている。」
「そっか。だったらその絵を僕にくれないか。」
「楓に?」
「あぁ。いつになってもかまわない。その絵をもらえないのだったら、そうして欲しい。」
 そう言って彼は私の手を取ると手の甲に唇を寄せ、そしてその指に銀色の指輪をはめた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...