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リグレットブレイカー(二)
しおりを挟む「なによ、英語の本なんて内容わからないし、どうしたらいいのよ……」
適度な運動に励んだおかげで、わたしの額にはいつの間にかじわりと汗が浮かんでいた。
服の胸元を掴んで前後に揺らし、熱を帯びた身体に空気を送り込むけれど、あまり効果は見られない。
とくんとくんと心臓の音を聞こえ、意識の中でも荒く脈打つ。
あんなに冷えていた書斎は今や温室のようで、だけどクーラーを見たら全力で唸りをあげていた。
頬に張り付いた長髪を指で払って、わたしにはどうせ耳を貸してくれない本棚にさらなる文句を言う。
「わたしに頼んだお前の主人が悪いぞ」
指先で背表紙をいたずらっぽくつついてみた。
最初は、英語、日本語と分けてさらに細かく分類しようとした。
だが英語のタイトルが全く読めないのだ。
威張って言うことではないのだが、外国人に声をかけられても適当にYESと連呼するのが限界だ。
仕方なく、本の厚さと背の高さ、あとはタイトルの雰囲気でそれとなく分類してみた。
おそるおそる脚立の上に立って最上段から英語の本を入れていく。
英語が一通り終わると、今度は日本語に取り掛かかる。本と本棚が整った音を響かせていく。
「意外と、博学なのかしら、妙音鳥さん」
日本語で読めるタイトルは文化芸術から政治、農業、なにやら郷土資料の分野まで、網羅という表現がぴったりに当てはまった。漫画か小説、しかも軽めのものしか読んだことがないわたしは、ちょっと尊敬してしまった。
整理整頓が終わりに差し掛かるころ、古ぼけた本がわたしを出迎える。
本棚の最下部に住まう彼らは、背表紙が見えないように平積みで置かれていた。
整理しようと一度全部を取り出してみると、見た目どうやら年代物の古書のようだ。
ぱらぱらとめくると、懐旧の成分が多い濃厚な香りが鼻先をかすめる。
紙はトーストしたパンのように焼けていて、手垢も味になっていた。
左端の綴じ方も今とは違っていて、タコ糸を使った手間のかかるタイプだ。
奥付を見たが出版社はおろか作者も書かれていなかった。
涼しさを感じ始めたわたしは、脚立の踏み子にちょっと休憩っとバランスよく腰掛けて、古書をもう一度めくる。
インクが功をそうしたのか、時間の経過に文字は負けていないようだ。
内容はと、ええと……ん?
「幻灯の夜市 出没記録 一巻……」
小学生の授業のように思わず声に出してしまった。
ああ、なるほど、これは印刷だから明治時代とかに書かれた創作書物だ。
さらに数ページめくると、そこには『幻灯の夜市』という夏祭りが開催される日とその内容について書かれていた。どちらかと言えば旅のガイドブックに近い印象だ。
「この祭りで売られているものは……比較的軽い後悔が多いが、中には重たいものも……? え……後悔?」
手書きのはてなマークが頭上に浮かぶ。
後悔ってあの後悔? あんなことがなければ、と嘆き悲しむあのことだろうか。
あるいは昔はそういう名前のお菓子とか、おもちゃがあったのだろうか。
わたしの乏しい知識を動員しても何のことかまるで分からなかった。
突然、先ほどよりも強く短い、がらっという扉が開く音がした。
あ、しまった、さぼっていると思われる、と慌てたが、
立ち上がる前にわたしの顔が音の方向に引っ張られて勢い余った前髪が波打つ。
視線の先には妙音鳥が立っていた。
「あ、いえ、これはちょっと……はは」
わたしは本で口元を隠しながらぎこちなく踏み子から立ち上がった。
全然ごまかせてないじゃんわたし。
惨めな対応力を嘆きなら本をそっと口元からどかして、遠慮がちに妙音鳥を見つめてみる。
「だいぶ、綺麗になったようですね」
わたしのことなど目に入らないような口ぶりで妙音鳥は本棚を見つめていた。
こ、これはセーフということでいいのか。
わたしは唇に力を入れた。
「あの……妙音鳥さん、この本は……どこに」
別の話題を振って彼の反応をさりげなく伺った。
だが鋭い目尻が、グサグサとわたしに突き刺さる。
あ、いえ、そんな目で見られると……やっぱり、さぼっていたの、バレてますよね。
いきなりのやらかしに瞳がウルっときて、初日でクビを言い渡される覚悟を三割だけしてみた。
「その本を見つけましたか……そうか。やはり何か通じるものがあるのかもしれません」
ちょっと意味がわからないことを言われたが、とりあえず覚悟は一割に下げてよさそうだ。
わたしは少しだけ落ち着いて、鼻をずずっと小さく啜った。
「そう……です? いや、この本、一番下に積まれていて。どこに置けばいいですか」
「ああ、それは隠しておいたのですよ。貴重な本でね、今は多分、日本中を探しても、各巻で五冊も残ってないでしょう」
「それは……貴重な本なんですね」
きっとお高いのだろうと、途端に持つ指に力が入る。
「そう……特に僕の仕事には。それは元の場所でいいですよ。背表紙を隠して平積みでお願いします」
こくんと頷いた。仕事内容って古書の解読だろうか。
だとすれば若いのに老人だ。
でもちゃんとした人そうで良かったとうっすら思っていると、わたしの心は透けて見えるようで、
「今、古書の研究が僕の仕事だと思ったでしょう?」と鋭い指摘が向けられる。
え、なに、鋭いこの人。
わたしは微苦笑を浮かべて誤魔化そうとした。
「もしそうなら、それは残念。外れです」
妙音鳥は脚立を挟んでわたしの反対側に移動し、踏み子に左肘を置いて手の甲で頬を支える。
おもむろに妙音鳥はわたしが持つ本を右手でひょいと持ち上げた。
あっ、と本は離れていく。
下を向いた眼鏡のレンズは光を反射し、妙音鳥の瞳孔をさりげなく隠していた。
「え、違うんですか。あ、貴重な古書を集めて売るとか?」
妙音鳥の口元は少し柔らかくなった。
「全然当たらないですね。無理もありません。僕の仕事は、特殊と言えばその通りですからね」
わたしは言葉を尖らした。
「だって……他にありますか……」
さらに頬風船を膨らませて、子供みたいな抗議をした。
「この本にある、『幻灯の夜市』に行く仕事です。後悔を探しにね」
随分と飛んだ話をいかにも真顔で言う妙音鳥。
透明に戻った眼鏡の奥を覗いてみたが、目は至って真面目だ。
「疑ってるでしょう。その顔」
見事に見抜かれて、身体はそのままにわたしの心は二歩、後ろに下がった。
「いや、まぁ、はい……」
潔く認めてみたがそれ以上何を聞いていいか検討もつかないから、説明をお願いします、と両手を差し出す思いで妙音鳥を見つめた。
「うん。実に至極当然な反応です。分かりました。説明しましょう」
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