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追憶を再び(二)

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掃除機のノズルがけたたましく音を立てて、埃という明確な敵を書斎の隅々まで追い込んでいる。
空を飛ぶ能力を有する綿埃は、ふわふわと逃げ出そうとするが、手で床に叩きつけて捕まえた。
今日は誰も逃さない。
口の中だけでそうつぶやいて、本日の最強の敵、妙音の机に散らばった本たちに立ち向かった。

昨晩のおでんを温め直して簡単なお昼を済ませた妙音鳥は、自室で何やらしている、いや何をしているかは分からないし別にいいのだが、わたしはもう少しで訪れる島崎を迎える準備に忙しく走り回っている。

島崎はわたしにとっては最初のお客様。
何としても後悔を解きほぐしてお帰り頂きたい。
ようやく覚えたあるべき場所に本を戻しながら、掛け時計ちらっと覗き見る。

もう一時半。約束の時間は二時だ。

「あぁ、急がないと————」

キッチンに駆け戻って指差し確認。お菓子の用意とコーヒーと、あとそれから……なんだっけ。
あぁ、危ない、忘れるところだった。
勢いよく白い冷蔵庫の扉を開いて、透明な容器に移し替えたミネラルウォーターを取り出す。

この手の話でよくある清めた水ではなく、ただの水だから少し驚いた。
この世界で生まれた『後悔石』は、同じ論理が働く物質、つまり、ただの水で溶かすのが筋らしい。
別に冷やさなくてもいいらしいが、何となく冷やしてしまった。

「どうですか、カノコ。準備の方は」

 現れた妙音鳥は、一応パジャマからは着替えているが、一眼でわかる家着の上下。
わたしはつい口を尖らしてアヒルのようにガーガーと訴えた。

「妙音鳥さん! 一応、お客さんがくるんですから、ちゃんとした格好をしてくださいよ」

 いかにも面倒くさそうに妙音鳥は、「別に外に行くわけでもないし、この服装だって一応、外着ですよ」とポケットに手を突っ込んだまま、そそくさとダイニングテーブルの椅子に腰を降ろした。

「それはそうですけど……」

 何となくシャツぐらいは着て欲しい気もするが、本人がそう言うなら仕方がない。

「……分かりましたよ。着替えて来ます……」

 家のインターフォンが鳴った。

「あ、多分、島崎さん。わたし出ますね」

 赤いエプロンを脱いで椅子に置き、急いで玄関へ向う。少しだけ前かがみになり、玄関の扉に向けて声を張る。

「島崎さんですか————」

 そうです————と、少しくぐもった声だが島崎のようだ。

「今、開けます」

 靴を履いて、がらがらと勢いよく扉を開けると、少し湿ったような島崎が現れた。よく見
ると左肩が濡れていて、手には白にビニール傘が握られている。

「こんにちは。島崎さん。雨……ですか?」

「はい。地下鉄の駅を出た頃からぽろぽろと。予報でも言っていたので用意してきましたが、だいぶ激しくなってきました」

「そうですか。どうぞお入りください。タオル用意しますね」

「ありがとうございます」

 島崎を書斎のソファーへと案内してからキッチンに戻ると妙音鳥がいない。タオルを持って書斎に戻ると、いつの間にかシャツを着た妙音鳥が島崎の向かいに座り、談笑していた。

「タオルをどうぞ」

 島崎は頭を下げなら受け取った。

「カノコ、コーヒーをお願いできますか」

 わたしは高速で床を滑るように走り、準備した今日の一式を書斎へと持ち運ぶ。

「おまたせしました。雨も降って少し寒いですよね。コーヒーを」

 真っ白なカップに注がれたコーヒーに、クッキーをちょこんと添えて島崎の前に差し出した。

「ありがとうございます。あ、これよかったら……」

 島崎は雨よけのビニールに包まれた白い袋を妙音鳥に手渡した。あ、そのブランドロゴはチョコレートだ。

「ありがとうございます。気を使って頂いて」
 
 妙音鳥は恐縮そうに小さく頭を下げた。

「いえいえ、こちらこそ何もお支払いしていなくて心苦しいので、むしろ貰って頂かないと困ります」
 島崎は手を振りながら、顔をほころばせた。

「のちほど頂きますね。今日はお越し頂きまして、ありがとうございます。それではこれから方法について説明します。カノコも座ってください」

「はい」

 ささっと座る。

「まずは……」

妙音鳥は自分の机の上からガラス容器を拾い上げて、ローテーブルの上に置いた。ガラス容器は小さく、ことりと音を立てる。『後悔石』は七色の微光を漂わせ、小石程度の大きさだが存在感は相変わらずだ。

「こちらが『後悔石』です。島崎さんの後悔の念を凝縮して固形化したものです」

「これが……ですか。見たことがない石ですね……妖怪のおかげなんですね、これからの体験は」

 魅惑的に光る『後悔石』を島崎は食い入るように見つめている。

「はい。ただ妖怪たちは特にあてもなく、たまたま見つけた島崎さんの後悔を石に変えただけです。何か意図があるわけではないのですよ。島崎さんは幸運と言えるかもしれませんね」

「はい、確かにその通りだと思います。感謝しないといけませんね」

 わたしは狭間の世界に訪れて、異形を見てきたから信じられるけど、島崎の物分かりの良さは話す人と、その言葉を信じてみるという、彼の人間性の素直さからきている気がする。
 育ての親、小百合の人柄が見え隠れして、わたしはほんわりと温められていく。

「では具体的な方法を。カノコ、水をお願いします」

 わたしは冷えた水の容器を手渡した。妙音鳥は、とくとくと滑らかな音を立ててガラス容器に水を注いでいく。六割ほど容器が水で満たされると、牛乳瓶に似た容器の口を指で摘んで、試験管のように何度か振った。

 妙音鳥が手を止めると、『後悔石』からじんわりと七色が溶け出して、水は段々と染まっ
ていった。ガラス容器をローテーブルに置いて水面が平静さを取り戻した頃には、七色は統
一され、微かな光を放つもも色となり、容器の底には透明な石が残されていた。
 
 ごくりと息を飲んだ。これは美味しそう。
 いやでも、わたしが飲むわけにはいかないけど……。

 妙音鳥の顔を見ると、明らかに飲んでは駄目です、と顔に書いてあって、わたしはちょっと残念そうに舌なめずりをした。

「島崎さん。これが『もも水』と呼ばれる後悔が溶けた水です。この水を飲めば、島崎さんは後悔が生まれた出来事の前に戻ることができます。もう一度だけ、やり直す機会が与えられます」

「分かりました……ただこの前、お会いしてから、いろいろ考えては見たのですが、どうしたら元の関係になれるか、その方法というかヒントを、まだ掴んでいないんです……」
 
 島崎は小さく頭を震わせながら両手を固く握り締めた。
 妙音鳥は間をおかずに、「そう固くならずに。確かにただやり直しても過去は変わりません。でも大丈夫です。隣のカノコも付き添いますから」と島崎に伝える。

「はい。わたしも……え?」

 今なんと言われた、妙音鳥。横顔を見つめていると僅かにこちらに身体を傾けて、

「……どうした? カノコ」

「わたしもって言いました? 妙音鳥さん」

 わたしは聞き返さずにはいられない。

「はい。そうです。付き添いですよ。それが仕事です。この前、話した通りの状況だろうと思います。カノコの判断で島崎さんをサポートしてあげてください」

「でも……どうやって一緒に行くのですか……」

 大丈夫ですよ、とだけ言った妙音鳥は、わたしから視線を島崎に戻す。
 いやいや、ちゃんと答えてよ!

「では始めましょうか」

 島崎は緊張気味に、はい、と答えた。

 質問を無視されたわたしは、それなりにやけを起こして、クッキーを二つ口に入れて、「大丈夫、もぐっ、ですよ。もぐもっ。わたしもお手伝いします」と堂々と船に乗り込んだ。

 島崎はわたしを見てくすっと笑い、だけどすぐさま「失礼しました」と言って、「カノコさんの食べっぷりを見ていたら、なんだか落ち着きました」と対応に困る言葉を続けた。
 
 いやそこ……ですか。まあ、その、お役に立てて何よりです。

「さあ、曲芸も終わったので」と、さらっと覆いかぶせてきた妙音鳥はけっこう酷いと思う。
 
 とりあえず睨んでみたが、動じない。

「島崎さん。これを飲む前に、後悔が起こった出来事を思い出してください。意識の中に思い浮かべるだけでいいです。そうすると、『もも水』が後悔に反応して水面が揺れ始めます。その出来事の成分が含まれていますから惹き合う訳です。そうしたら、透明な石は飲まずに『もも水』だけを飲み干してください。出来事の前、大体一日以内に戻ります。出来事が起こるまでの間は、どのように過ごしてもいいです。ですが、節度を考えてほどほどに……後悔が消化されると、再体験の行為とその記憶が事実となりますので。また以前に説明した通り、僕たちのことや『後悔石』に関する記憶は、後日抜け落ちます」

「分かりました。頑張ります……その、カノコさんはどうやって一緒に?」

 島崎に見つめられたが、それはわたしが聞きたい。

「飲むときにカノコが島崎さんの手を握る。それで意識だけが一緒に過去に戻ります。身体を持って再現されるのは島崎さんだけです。カノコは島崎さんの意識の中に存在し、念じれば話すことができます。もちろん島崎さんの思考を覗ける訳ではないのでご心配なく。何というか幽霊みたいなものですよ」

 人を化け物扱いするその言い方はひっかかるけど、時間を遡る旅に少しだけ緊張を覚え始める。いつの間にか握り占めている両手。いきなりの大役にわたしはちゃんと務めを果たせるだろうか。妙音鳥による分析は、わたしには低い解像度で、具体的な解決方法は未だ見えていない。

「分かりました。カノコさん、よろしくお願いします」

「あ、はい、承りました」

 飲み込んだ空気で喉は一段と乾いてしまう。わたしはコーヒーを飲んで口の中をあやし、水分で喉を薄く覆う。

「それでは島崎さん、始めてください。僕が合図を出したら、飲んでください。カノコもいいですか」
わたしは、はい、と頷いて、ローテブル越しに差し出された島崎の手を握った。島崎は目を瞑り、出来事を思い浮かべているようだが、その様は痛々しく目に映る。眉間に深いしわを寄せ、今にも唸りを上げそうに口元は震えていた。
 しばらくすると『もも水』の水面が微かに揺れ始め、小さな波がいくつも生まれては消えていった。

「今です。島崎さん。飲んでください」

 妙音鳥が叫んだ。

 島崎は素早く反応してガラス容器を掴み、勢いよく全てを飲み干した。
 空になった容器はテーブルの上に置かれて透明な石は音を立てて遊ぶ。
 
 子供の遊び声のような綺麗な高音はわたしの耳の中、どこまでも沁みていく。
 島崎の身体がいきなり後ろに倒れこんでソファーがくんと沈み、わたしも引っ張られてローテブルに突っ伏してしまう。次の瞬間。

 わたしは真っ白な空間をとんでもない速さで落ちていった。抵抗などできようもなくて、怖くて目を瞑ることが精一杯。スピードは増すばかりだが、気がつくと髪はさほど乱れていないようで、顔に当たる風もむしろ穏やかだ。
 
 わたしはそっと目を開けてみる。
 落下するわたしの周囲には写真に見える何かが無数に存在していて、通り過ぎる瞬間に目が捕らえた人物はおそらく幼年の島崎。別の写真の中にはスーツを着た島崎がいた。

 
 これはきっと島崎の記憶の断片だ。
 
 わたしは落ちていく先に意識と視線を集中させた。そこには四角い写真の世界ではなく、無数の人が動いている街角が見える。だけど瞼はずしりと重くなって溶けるように意識は消えていった。
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