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追憶を再び(三)

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「おい、光輝、昼飯どうする?」

 野太い男の人の声が聞こえる。というよりも頭に響く。ぼんやりとわたしの目に誰かが写っている。

「そうだな……今日は母さんに作ってもらってないから、売店かな」

 今度は島崎の声が聞こえたけど、声音が少しだけ高い気がした。

「なら早く行こうぜ、なくなっちゃうよ」

「ああ、今いくよ」

 身体が勝手に動いていく。緑色の床が視界に入ってわたしは建物の廊下を歩いているようだ。ここはどこだろうと考えているといきなり右に曲がり、足は勝手に階段を駆け下りて、最後の三段をジャンプして着地する。
 人だかりに駆け寄っていく。と言っても、わたしの意思で動いているわけではない。
 
 わたしは一体……そうだ、島崎と過去に戻っているんだ。

 意識の中にわたしが入り込んでいる訳だから……やっぱりこれ、幽霊だ。
 とりあえず島崎に話しかけてた。

(島崎さん————。聞こえますか。カノコですよ————)

 島崎の身体がぴくりとした。

「行くぞ! 構えろ」

 人だかりの前方から男の声が聞こえた。

「島崎————。ほれ」と焼きそばパンが投げられて、続いてお茶のペットボトル。

 島崎は綺麗に受け取って、「ああ、ありがとう」とレジへと駆け込んだ。

「浩二、今日は一人で昼飯を食べるよ。考えごとがあってさ」

 浩二と呼ばれたブレザーを着ている男性は、ああ、と頷き、

「午後の授業、遅れんなよ」と手を上げて教室に戻っていた。

(カノコさん。ごめんなさい。聞こえますか?)

(は、はい。聞こえます)

(良かったです。頭の中で話しかけても返事がなかったもので)

(ごめんなさい。さっきようやく意識がはっきりしてきて……ここは? 学校ですか?)

(はい。僕が通っていた杉並にある高校です)

 話しながら島崎は階段を登り、最上階まで辿り着いたところで扉を開いた。
 勢い良く開いた扉の先から十代の香を含んだ風が押し寄せる。空を見上げるとカシミヤの原毛のような薄い雲が一面に広がり、太陽は恥ずかしがって後ろに隠れているが、残念ながら半分しか円形を隠せていない。
暑さはまだあちこちに落ちているが、身体にぶつかる空気の質感は秋のようだ。

(屋上で浩二と一緒によく弁当を食べていました……懐かしい)

 辺りを見渡すと、広々とした屋上の端端にいくつかのグループが固まってお昼休みを楽しんでいた。
遠くから聞こえる歓声は青春の色味が濃くて、辺りの空気まで染まっている。

(そうなんですね。あ……あそこ空いています)

 ……あれ、わたしの目は島崎とは別に風景を捉えている。そう言えば微かに手足の感覚も掴むことができる。もしやと思ってわたしは意識を集中させて、自分自身をイメージしてみた。
 手を意識してみると金色に輝く手が現れて、足を思うと同じ太さの足がじんわりと輪郭を帯びてきた。着ている白いボウタイ付きブラウスと赤いロングスカートも金色で再現されて、黒髪ロングヘアーは金髪に姿を変えた。

 わたしは島崎の意識の中ではなく、左肩の上に立っていた。

(島崎さん! わたし、身体がありますよ!)

 わたしが叫ぶと、島崎は「え」と呟いて左を向いた。島崎と至近距離で視線が重なる。

(僕にも見えます! すごいです)  

 調子に乗って空を飛ぶイメージをしてみると、身体がふわりと浮き上がる。だが空高く飛び出すと、見えない壁にごちんと頭をぶつけて、目はうるうると涙を讃えた。
 
 どうやら飛べる距離には制限があるようだ。でもわたし、金色の妖精みたいで可愛いかも。
 わたしは島崎の左肩にちょこんと腰掛けた。

(たぶん、島崎さんにしか見えないと思います)

 島崎は何も言わずに頷いた。

 島崎はビリッとサランラップを破き、美味しそうなパンに勢いよく噛み付いた。背が高い屋上のフェンスに寄りかかり、パンを食べる島崎は意外と様になっていて、濃厚のブレザーもよく似合う。癖がないマッシュヘアは吹く風に小さく毛先を踊らせていた。

(えっと……島崎さん今日はいつ……ですか)

 わたしは段取りを整えたいと思った。一度しかない機会を無駄にすることはできない。

(あ、携帯で確認を……そうです、十月一日。間違いない。今日が揉めた日です。帰宅してすぐでしたから夕方五時半だったと思います)

 何とも微妙な残り時間。わたしは島崎に妙音鳥との会話のあらましを伝えようと思った。

(妙音鳥さんは、島崎さんが自分の本音を伝えることができれば、後悔は無くなると。大学に行く、行かないは島崎さん判断だから、小百合さんは問題にしていないはずだ、と言っていました)

 妙音鳥のアドバイスの要点を伝えると、島崎の顔はどっと曇っていく。

(本音? それは……え、でもあの時、母は僕の選択を批判したんですよ? 大学に進学した方がいいと)

(それは……お金を理由に断念しようとしたから、つい言ってしまった言葉ではないでしょうか)

(いえ、とてもそうとは思えません。それにお金は明らかに負担です。息子ですから、そのことを考えない訳にはいきません)

 島崎はわたしの言葉を頑なに否定した。絡まった結び目はとても硬い。それでもわたしは島崎を手助けして、後悔の消化へと導かなければならない。

(……とりあえず、作戦を考えましょう、ね)

(それは……そうですね。はい)

「島崎君」
 
 語尾が伸びない、美しい文字列を想像させる声が聞こえた。突然に呼ばれた島崎は肩を揺らし、わたしの椅子は平坦さを喪失してお尻が宙に浮かぶ。
 
 島崎は寄りかかるフェンスから慌てて身体を離し、姿勢を正した。どことなく緊張を帯びた顔の中で、粗野な唇は僅かに震えながら、

「あ……吉本さん……」

 それは初めて聞く、強い本能的な香りがする声。

 赤みがかかった黒髪ロングヘアーの女の子が島崎を見つめている。わずかに覗く白シャツの首元は汗ばんでいて、何かを放出しているよう。  
 
 若さゆえにまつ毛も勢いよく反っていて、大きな瞳に華を添えている。学校にばれない程度に薄く紅が塗られた唇は弾けるように動いた。

「今日は一人? 浩二君は?」

 それは赤色をわたしに想像させる不思議な声音だった。

「あ、うん……今日一人。ちょっと考えごとがあってさ」

「あ、そうか……ごめんね、じゃましちゃって」

「いや大丈夫だよ。何か……用事とか?」

 吉本は後ろに隠していた両手を島崎の前に差し出した。

「ん……」

 きっとこの瞬間しか出せない稀有な響きを持った声が島崎の瞳を大きく見開かせる。

「これは? おにぎり……」

 彼女の顎が小さくお辞儀をしたようだった。

「今日、作り過ぎちゃって……よかったら島崎くん、どうかな」

 島崎の身体からか赤が漏れ出して空気に色を塗っていく。

「あ、ありがとう。このパンしかなくて」
 
 島崎は嬉しそうな表情でおにぎりを受け取った。

「そっ……か。よかった、じゃまた午後ね」

「あ、うん。それじゃ……」

 吉本は振り返って、校舎内へと続く扉に飛び込んだ。

 あ、そうか。妙音鳥が言っていた適性ってこのことかも。もしそうなら島崎の役に立てるかもしれない。

(島崎さん、聞いてもいいですか)

(あ、はい。なんでしょう)

(ひょっとして……吉本さんのこと好きですか? そして吉本さんも、もしかしたら島崎さんのこと好きなんじゃないですか?)

 島崎は見事な林檎となってわたしを見つめた。
 おお————これは当たりを引いたな、わたし。

(……はい。実は付き合っています。あ、いえ、この時点は違いますが、この三ヶ月後から。気になっていた存在でしたが……。でも、どうして分かったのですか?)

 わたしは自慢げに腕を組んでみせた。

(二人から同じ色が見えました。赤色です。赤はおそらく愛情……。だから恋心かと思ったんです。多分、他の感情も見えると思います)

 島崎は驚いた顔をしていたが、やがてどこか納得した表情に移り変わった。

(過去に戻っていますし、もうどんなことが起きても不思議ではありません)

 目の前の事実を受け入れる島崎の有り様は素敵だと思う。だが、時々で良し悪しがある。

(島崎さん。なんとかお母さんとの喧嘩を回避しましょう。一つ提案があります)

 島崎は午後の授業もすんなりとこなし、足早に高校を後にして自宅へ向かった。
電車を乗り換えずに着いた先は、学園都市の称号をいただく国立。南口から伸びる並木通りを歩いて十五分程度、クリーム色の壁をしたマンションの三階が島崎の自宅だった。

 いよいよ母、小百合との対面だ。かくはずのない汗を首元に感じて思わず手で拭う。

「……ただいま……」

 わたしでも分かる緊張した島崎の口調。玄関で響かせた声は、短い通路を抜けてリビングへと届いたようで小百合が姿を現した。島崎によればこの時点ですでに学校は連絡をしていて、小百合からの一言で喧嘩が始まったという。

 小百合は寸分違わず垂直に伸びる大樹のような印象だった。だが島崎から聞いた本質的なおとなしさは、えくぼが薄い口元と、筋が張らない首元に見え隠れしていた。
 
 わたしが一番驚いたのは肌ツヤの良さだった。三十八歳だというが、どう見ても三十歳前後だ。小百合は顔も整っていて、学年最高位の存在だった香夜のレベルが恐ろしい。

「おかえり、光輝、ちょっといいかな。話があるんだけど……」

 来たこの瞬間、とわたしが島崎の横顔を見つめていると、島崎は予定通りに切り返した。

「あ、その前にさ、僕から相談があるんだけど」

(ナイス、島崎さん。いいです!)

 わたしの作戦は、就職の話を先に持ち出すことだ。
 とにかく島崎は物分かりがいい。小百合からの話の流れに乗ってしまうと、また同じことを繰り返えしてしまう。だとすると冒頭が変わればその後の展開も自ずと変化するはず、とわたしはは考えた。だが作戦はこれだけだ。家に到着するまでの間、島崎からいろいろと聞き出してはみたが、未だ決定的な妙案は見つかっていない。

「……そう。じゃあ、コーヒーでも入れようか。飲む?」

「うん。お願い。着替えてくるよ」

 島崎は自室に戻り、部屋着に着替えてリビングに向かった。

 既に小百合は椅子に座り、赤いマグカップに手を掛けてコーヒーを飲んでいる。
 
 島崎は小百合の向かいに座り、コーヒーを手に取って口に運ぶ。濃くのある香りがわたしのところまで届いて、緊張感が漂うひとときはひんやりと流れていった。 

 しばらくの沈黙のあと、島崎から話しかけた。

「母さん、話なんだけど……」

 小百合は頷くこともなく島崎を見つめていた。
 既に過去とは違う展開だから慎重にいかなければならない。次は無いのだから。

「僕さ、大学で勉強したいのはその通りだけど、センター試験は受験しないつもりなんだ。母さんが育ててくれてここまで成長できて、だから、もうこれ以上の負担は……」

 え、これは同じ展開じゃない? 

 わたしは慌てて話しかけようとしたが、小百合が先に口を開いてしまう。

「それは経済的に負担をかけたくないという意味? 光輝」

「あ、うん。そう……国立でも理系はそれなりにお金がかかる。だから」

 あ————その方向だけは行っちゃ駄目。
 わたしが島崎を止めようとする前に、またしても小百合が一言だけ発した。

「だから?」

 彼女はマグカップで顔を隠すようにコーヒーを飲んでいる。
 
急かされた島崎は弱々しく言葉を置いた。

「……就職しようと思っているんだ」
 
一度決められた時間の流れは重たいのだろうか。
 
 島崎は確定している歴史に睨まれ、再び望まない道筋をなぞっていく。
 二人の想いは重ならず、再び角度がついて離散しようとしていた。

「就職ね……」

 小百合はそれ以上、何も言わなかった。島崎は次の話の切り出しが分からないようで、小百合と同じように沈黙している。
 
 わたしは妙音鳥が話した内容を必死で思い出そうとしていた。固く溝にはまった島崎の車輪をずらし、小百合と出会う場所へと導くためのヒントがきっとあるはず。

 その時、ふわっと妙音鳥の言葉が脳裏に浮かぶ。

————彼は素直になればいい————
 
 そうだ。『小百合さんは、島崎さんが就職を選んだ真意を濁して、お金を一番の理由にしたことが気に入らなかった』と、妙音鳥は確かに言っていた。もしそうなら……

(島崎さん! 小百合さんは自分の意志で決断する島崎さんを見たいはずです。ですから、なぜ就職したいのかを話すべきです。さっき、わたしに言ったじゃないですか。数学が評価されて企業から来て欲しいと言われ、嬉しかったと。それが就職を選んだ本当の理由ではないのですか?)

 わたしは何とかこの流れを変えようと必死にあがいた。これが正解ではないかもしれない。でも、少しでも思いがあるのなら伝えた方がいい。伝えられない人もいるからだ。

 すがるような訴えにほだされたのか、

(……そうだ、僕は……)

 わたしのお尻の下は意思を持ったように固くなった。

「母さん……実はネットで調べてIT系の開発会社に連絡したら、数社が僕の数学の知識に興味を持ってくれて」

「……それで」

「それで……その中の一つが僕に来て欲しいといってくれた。そこは機材の開発もしていて、実証実験もしている開発会社なんだ。ここなら僕はやりたいことができると思っている。僕は……この会社を選んで前に進みたい」

 小百合の目は大きく見開いた。
 困惑ではなく、嬉しさが混じっているような黒い瞳は微かに揺れ動いている。

「……さっきさ、大学進学はお金がかかると言ってたじゃない。それが理由で仕方なく就職を選んだんじゃないの?」

 重心が低い否定の声音だが、同時に小百合の身体から青色が発光していた。それは冷たい青ではなく、無限に広が
る海原のような暖かい青。

「確かに進学はお金がかかるし負担になる。でも……それが一番の理由じゃなかったんだ。僕は企業に評価されて、本当に嬉しかったんだ……自分が突き詰めてきた数学の力を必要としてくれる会社で仕事がしたい。それが就職を選んだ理由なんだ。そしていつか母さんに自慢できるような成果を成し遂げたいんだ。これは僕の決断だ」
 
その言葉だとわたしは思った。小百合が聞きたいのは島崎の意志だ。

「……」

 小百合は何も答えなかった。だが彼女から発する青色は体に近いところから赤が混ざり始め、美しいグラデーションへと変化していく。やがて身体を包む光全体が赤色に変わり、部屋全体を照らすように大きく広がっていった。
何かが開く予感がした。

「あ————」

 いきなり小百合が叫んで立ち上がった。

 わたしは大きく揺れた島崎の肩から転げ落ちそうになって、かろうじて両手でしがみつく。
 小百合は窓際に置かれたソファーに背中から飛び込んで、大きく息を吐いた。天井を見つめた
まま小百合は、「香夜、光輝は……ここまで成長したよ……見てる?……」と微かに呟いた。
 しばらくすると濃厚な涙が彼女の頬を美しく湿らせていく。

(カノコさん……どうしたら)

 わたしは、待って、と島崎を制止して小百合を見つめる。

 小百合はようやく身体を起こしてソファーに座り直し、椅子に座る島崎を見つめた。目尻は緩んでいる。

「今日、学校から連絡があったのよ。光輝がセンター試験を受けないって。もしあなたがお金だけを理由に進学を断念したら、わたし、許さなかった。でも光輝は自分で道を探し出して未来を選択した」
 
 わたしは肩の上で胸を撫で下ろして寝そべった。二人の進む角度はゼロに近づき、目線は重なりっていく。
小百合は島崎を見つめながらも、ここでない何処かに意識を飛ばしているようだった。

「あなたの実の母、香夜はね、自分で道を作って前に進み、同時に常に振り返って私を導いてくれたの。お世辞ではなくて、香夜は私の半分だったのよ。常に照らしてくれた。だから……今度は私があなたを導くと決めてここまで育てて来た……独り立ちするまで」

 わたしの目に映る島崎の左目は緊張を手放していく。

「親はね……私は育ての親だけど、どんな覚悟だってしているのよ。子供が大人になるまで泥水だって美味しく飲んでやる、そのつもりでいままで生きて来たわ。だからお金の問題なんて些細なことで、絶対に……絶対に……光輝の障害にはさせなわ」

 小百合の瞳は揺れ動く言葉に歩調を合わせている。

「母さん……」

「私に頼って欲しかったのよ。私が思う親っていうのは、子のわがままを聞く為にいるようなものだから」

「……」

 島崎は小百合から貰って目元が揺れていた。彼の唇は動かず、空気は何も運ぶことができない。

「でもその役割も、そろそろ一区切りかな。光輝はもう一人で人生を作っていける。そしていつか、あなたが誰かを照らして導く」

 小百合はテーブルに戻って島崎の向かいに座った。

「私は永遠にあなたの母親よ。でも、そろそろ別の生き方も付け加えてみたいわ。友達と旅行も行きたいし、両親とも出かけたい。それもいいかなって思うの」

「……そうだよ。母さん。僕も母さんがそうしてくれると嬉しい」

 ようやく島崎は言葉をひねり出した。
 わたしはいつの間にか涙をこんこんと流していた。

「生意気、言っちゃって……」

 だが言葉とは裏腹に、小百合の顔は綺麗に崩れ落ちていった。世界で一番心地よい沈黙が二人の間に居座っている。

「いつか渡そうと思っていたけど……どうやら今日みたいね」

 小百合は立ち上がり、床に置かれた鞄の中から一枚の写真を取り出して島崎に渡した。

「これ……ひょっとして」

 そこには少し古めの髪型だがにっこりと笑う小百合と、幼い光輝を抱く女性が写っていた。
 写真は大切に保管されていたようで劣化もほとんどなく、十八年前の光景が鮮やかに蘇る。

「三人の撮った最初で最後の写真よ。一枚だけ残っていて。光輝にあげるわ」

 島崎は立ち上がり小百合に抱きついた。

「母さん……本当にありがとう。僕を育ててくれて……」

「もう……何言ってるのよ。私の方こそ、光輝がいてくれたから幸せな時間を過ごしてこれたのよ。ありがとう。光輝」

 わたしの視界が段々と白色に満たされ始めた。たぶんこれは未来に戻る合図。

(島崎さん、そろそろ戻る時間のようです……)

(……はい。分かりました……)

 見えている風景は一段と白色に侵食され、島崎や小百合の姿は飲み込まれていく。ついには白以外何も見えなくなった。

ようやくわたしの瞳が息を吹き返し、最初に映したものは書斎のソファーにもたれ掛かり目を閉じている島崎の姿だった。なんだか急に眠くなって、わたしはゆっくりと目を閉じた。

 身体がふわふわしていて、宙に浮いているように感じる。
 遠くに聞こえる声はわたしを呼んでいる気がするけど、いろんな声音が混ざっていて、うまく聞き分けることができない。


どこか懐かく感じる女性の声が段々と遠ざかり、わたしは怖くなって思わず叫ぶ。

(わたしはここだよ!)

 だが誰も答えない。

 いつの間にか全ての声はどこかに消え去っていて、もう何も聞こえない。
 
 残ったものは所在があやふやな寂しさだけだった。

「カノコ」

 あの声が聞こえた。
 神秘的な調律を奏でる声は重たい瞼を勇気付け、わたしはようやく目を開ける。瞳には、上から覗く妙音鳥が映っていた。
 
 わたしはいつの間にかソファーに寝そべっていた。重たい身体をゆっくりと起こしてソファーに座り直す。

「カノコ、大丈夫ですか」

 妙音鳥は気遣いをまとわせた音調で、わたしに囁いた。

「ここは元の時間です。カノコは島崎さんと一緒に戻って来たのですよ」

「……あ、そうだ……島崎さん」
 
 わたしは思い出してようやく言葉を吐き出す。
 
 先に目を覚ましていた島崎はわたしに写真を手渡した。島崎の顔は既にくしゃくしゃだった。

「僕も心配になって鞄の中を探してみたら……それが入っていました。三人で取った写真。カノコさん、ありがとうございます。あの時、背中を押してくれなければ……また同じことを繰り返してしまったと思います」

 うんうんと力強く頷いた。でも、この写真には一言いってやらねば。

「よかったです。でも……その写真の角、ちょっと痛んでいますよぉ」

 わたしがジト目を送ると、「え、あ、本当だ……」と島崎は崩れた顔に苦笑いを付け足した。

「小百合さんが大事に保管していたものです。島崎さんはもっと大切にしないと駄目です」

 右手の人差し指を突き出して、小言をいった。
 妙音鳥は、ぷっと吹き出してわたしもくすりと笑う。
 釣られて島崎も笑顔になり、書斎は穏やかな空気に包まれていった。

 島崎は姿勢を正して妙音鳥とわたしに深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございました。母の真意を聞くことができて、僕もちゃんと本音を言えました。それに……この写真も。以前の歴史では、この写真を貰う機会はありませんでした」
 
 妙音鳥は島崎に言葉を贈った。

「後悔の消化には島崎さん自身の変化が必要でした。自分の意志を伝える覚悟……島崎さんは覆いかぶさった後悔を自分の力で払い除けることができたのです」

「はい、ありがとうございます。でもカノコさんがアドバイスをくれたおかげで……」

「いえ、わたしはそんな……思いついたことを言っただけです。島崎さんの頑張りですよ」

 島崎は頬を緩めて下を向いた。
 傾斜を持って瞳に映る島崎の顔が、いっそうに紅潮していく様がとても嬉しい。
 だがその時だった。

 気を緩めた隙間を狙われて、既にわたしの身体に入り込んでいる冷たい感情は笑う。
 顔のない寂しさは心底まで落下して彷徨い至る所に冷たい手のひらをぺたぺたと置いていく。
 思わず両手で身体を抱きしめた。

「カノコ。大丈夫ですか?」
 
 それはまるで真言のように耳に届く。
 妙音鳥の声音はどこか暖風のようで、冷え切った心をじんわりと温めてくれた。寂しさはその手を引っ込めて、どこかに逃げて行く。だけど、わたしの心の中に居座っている。

「……はい。大丈夫です」

  どうにか絞り出した葉はただの強がりだけど、それでも生まれた言葉はわたしを支えてくれる。
 突然に携帯の着信音が鳴った。 

 音の在り処を探ると島崎の鞄からのようだ。さっと黒い携帯を取り出した彼の背後から覗く西の空は、いつの間にか晴れたようで、夕焼けの気配が漂い始めていた。
 失礼しますと頭を下げ、口を手で押さえて話す島崎の顔は穏やかで、出てくる言葉から相手は小百合だろうと想像できた。
 
 時折に緩む島崎の目尻に、この仕事はあるべき本来の姿への復原という表現がふさわしいと思った。わたしは少しだけ自分を誇らしく思って島崎を眺めていた。

 だが電話を切った島崎は意外にもやや困惑気味で、わたしはつい前屈みになる。

「母が……結婚する予定の彼女を早く連れてこいと……いままで一度も言ったことがなかったのに」
 
 幸せに振り切られて安堵の溜め息をついたわたしは、おにぎりを思い出した。

「え、もしや……岩本さんですか」
 
 わたしの声は黄色く彩った。

「あ、はい……彼女です」
 
 高校からの延長線が大輪を咲かせるなんて、実は結構なレアだと知っているわたしは、つい弄ってみたくなる。

「ですよね————手作りのおにぎりをくれるぐらいだから、それは思いが違いますよ————」
「え、でもあれは……作り過ぎたって……言っていませんでしたか?」
 
 ちっち、とわたしはロンドンの探偵を装ったつもりで、右手の人差し指を振り子のように左右に揺らす。

「体重が気になるうら若き華の女子高生ですよ。作り過ぎるなんてありえません。島崎さんに食べて欲しくて作ったに決まってるじゃないですか」
 
 島崎が帰ったあと、わたしはソファーにお尻から飛び込んで凝り固まった身体を伸ばす。
 
 現実の世界では数分のはずだが過去では半日の旅路だから、それなりに疲れた。

 ローテーブルには透明な石が入ったガラス容器が残されている。
 
 それは祭りのあとの鳴らない太鼓のように、慌ただしい出来事の余韻を微かに伝えている。

「お疲れ様です。カノコ。頑張りましたね。いいタイミングでのサポートでしたよ」

 わたしは本棚に向き合っている妙音鳥の背中を見つめた。

「え、どうしてそれを?……あ、もしかして見ていたのですか?」

「ええ、もちろん。そういう能力があるのですよ。危なくなったら助けるつもりでした」

 え、うそ。

「もう、先に言ってくださいよ! わたし、焦ったんですから」

「はは、ごめん。でもちゃんと島崎さんをサポートできたじゃないですか。一人でも大丈夫だと思っていました
よ」 

「それは……はい、ありがとうございます」 

 あっ、と思い出した。

「妙音鳥さん。その……この仕事、お金にはならないんですよね、やっぱり」

 妙音鳥の背中に、すがるような眼差しを送った。
 彼は右手を伸ばして本棚から一冊を取り出す。

 ページをめくる音が夕暮れの部屋に静かに聞こえ、妙音鳥はゆっくりと振り返った。

「言ったでしょう。『心の断片』を貰うと。それが金剛石です。ガラス容器の中にあるでしょう」

「金剛石?……それは水晶みたいなものです?……」

 妙音鳥はじろっとわたしを睨んで、低い声を出した。

「……カノコ、金剛石を検索してみてください」

 言われるままにGから始まるサイトで検索して————
 わたしは世界最速の手さばきでガラス容器をさらうように掴み取った。
 カランカランと音を立てた金剛石はダイヤモンドだった。
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