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其ノ肆、落
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時が流れたある日。
土砂降りの雨。
ふゆはは一人、屋敷から窓の外を眺めていた。
まるであの時のように、初めて結界の術の鍛錬を受けた日のようだった。
こんな日でも、ナギ、幻洛、裂は村の巡回に出ている。
伊丹は仕事の都合で神社へこもり、劔咲は村へ買い出しへ行ったままだ。
自分は、独りで、一体何をやっているのだろう。
生まれつき身体が弱いこともあり、良く言えば”特別扱い”されてきた。
本来ならば、自分も、こんな雨の日だって…、
「きゃっ!」
突然、辺り一面がまばゆい光に包まれ、耳を貫くような轟音が鳴り響く。
屋敷の壁が、窓が、震音によりミシミシと揺れ動いた。
近くで落雷があったようだ。
ふゆはは雷が大の苦手で、一人でいるというこの状況が非常に心細かった。
滝の様に打つ豪雨、鳴り響く雷鳴。
ふゆはは居ても立ってもいられず、屋敷の玄関に向かい、引き戸を開けた。
誰か、帰ってこないだろうか。
「…!」
吹き付ける雨風の中、一人の人影がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
銀髪で、黒の羽織を着た者。
恋仲でもある、ナギだった。
「あ…、お帰りなさい…。」
「…。」
この夕立の中、傘もささずに帰ってきたナギの銀髪は、雨に濡れ、ぐっしょりと滴っていた。
それでも、やはり、彼は無口で無表情だった。
「あ、ちょっと待ってて。今、何か拭くものを…、…っ!」
突然、ナギに腕を掴まれた。
そして、ふゆははそのまま引き込まれるように、その魔物の右腕と、ヒト型の左腕の中に収まった。
いつもと同じナギが、いつもと違っていた。
「!?」
突然の出来事に、ふゆはは混乱した。
その鍛えられた大きな身体が、ふゆはにドサッとのしかかる。
思わず、ふゆははナギを支えようと、膝を付きながら背に手を回した。
「え…、」
ぬる…、と、ナギの背から、雨以外の濡れた感触があった。
支えていた自身の手は、真っ赤に濡れていた。
大量の、血だ。
「嫌……、いやあああああっ!!!」
ふゆはの叫び声が、雷鳴の様に貫き、響き渡る。
「嫌…!!嫌!!たすけ、たすけ、て!!助けて!!伊丹助けて!!」
恥や矜持など、そんなものは無に等しかった。
恐慌しながら、ふゆはは必死に助けを求め、叫び続けた。
「…!ナギッ…!」
ふゆはの叫びを聞きつけ、屋敷に付属する神社にいた伊丹が駆けつけた。
血に塗れ倒れているナギの姿に、伊丹は顔をしかめた。
「ナギを部屋へ!急ぎ手当を!」
後に続いてきたヒト型の式神に、伊丹は精悍に指示を出す。
「ふゆは様、後は我々にお任せください。」
そう言いながら、式神たちは気を失っているナギを抱え、部屋へ連れて行った。
「…嫌、いやあっ…!!伊丹…!!ナギがっ…!!ナギ、が…!!」
伊丹にしがみつきながら、ふゆはは錯乱し、体を震わせていた。
手についたナギの血が、伊丹の白い狩衣を赤く染めた。
「…びっくりしましたね、ふゆはさん。後は僕の式神たちが手当をしてくれますから。僕たちも、部屋に戻りましょう?ね?」
よしよし、と伊丹は宥めるように、恐慌するふゆはを抱きながら、その藤色の頭を撫でた。
玄関が、ナギが歩いてきた道が、鮮血で真っ赤に染まっていた。
………
ナギは治療を終え、駆けつけた式神たちも、それぞれ元居た場所へ戻っていった。
ナギは静かに眠っていた。
あれだけの大怪我をすれば当たり前ではあろうが、眠るナギの姿を見るのが初めてだったふゆはは、心配そうな顔でその傍らに座っていた。
「…それにしても、今回は随分と派手にやられたものですね…。」
誰宛にでもなく、伊丹はナギを見下ろしながら一人呟いた。
「どうして…、どうしてそんなに冷静でいられるの…。」
仕方のない様な言い草に、ふゆはは疑問を抱いた。
「ああ、ふゆはさんには、まだ伝えていませんでしたね。」
伊丹はふゆはの隣に座り、話を続けた。
「ご存知の通り、ナギは身体の半分が魔物で構成された、通称”半魔”と呼ばれる生き物です。…僕も、詳細はわかりませんが、その特殊な力で身体が構成されている事により、彼は僕ら以上の治癒力、生命力、寿命を兼ね備えているようです。」
瑠璃色をした伊丹の左目は、眠るナギを見据えていた。
「この光景を見るのは二度目ですが、当時は僕も、相当驚かされましたよ。」
当時の慌てふためく自分を思い出したのか、伊丹は苦笑いをした。
「…。」
恋仲ではあるものの、まだまだ彼の事を知ることが出来ていない自分に、ふゆはは表情を曇らせた。
「大丈夫ですよ、ふゆはさん。」
そんなふゆはを見兼ねてか、伊丹は優しく声をかけた。
「ナギ曰く、こうなっても時間が経てば治る故、手当をする必要もないそうですよ。…それでも、心配になってしまいますけれどね。」
「そう、なの…。」
サラリと話す伊丹に、ふゆはは複雑な心境でいっぱいだった。
ナギは半魔という特異体質ゆえに生命力や治癒力が高い。
とはいえ、あれほどの大怪我を目の当たりにして冷静でいることなど、ふゆはにとっては無理に等しかった。
願わくば、もう二度とこのような光景は見たくない。
ふゆははそう思った。
「…さて、僕はそろそろ神社の方に行きますね。思わず書類を投げてきてしまったもので、式神たちが混乱しているかもしれません。」
「!」
ハッと、ふゆはは我に返った。
「ご、ごめんなさい…、私…。」
「いいのですよ、とにかく、ふゆはさんも無事で良かったです。」
この場を後にしようと、立ち上がる伊丹。
ふと、ふゆははその赤く染まった裾が目に入った。
「そ、その裾も…。」
「ああ、これですか?これくらい、落とす方法はいくらでもありますから、大丈夫ですよ。」
ナギのものではあるものの、血に汚れた自分の師。
その光景に、ふゆはは何故か背が凍った。
「何かあったら、式神越しでもいいので呼んでくださいね。」
伊丹はいつもの笑顔をふゆはに向け、そのまま立ち去った。
………
「…。」
闇夜に月が高く上がった頃、ナギは静かに目を覚ました。
あれほど騒がしかった雷雨も、その存在すら無かったかのように消え去っていた。
強制的に眠る、という思考が働いたのは、いつぶりだろうか。
そして自分は、どれだけ眠っていたのだろう。
ナギは目を覚まし、その負傷した身体を起こそうとする。
「っ…、」
体格の良い背に、鈍い雷撃のようなものが走った。
久方ぶりに、はっきりと感じる”痛み”という感覚に、ナギは顔を歪めた。
「…ナギ…?」
自身が横たわる布団の脇から、か細い声が聞こえた。
藤色の髪を持つ妖狐、ふゆはだ。
「その、背中、大丈夫…?」
「…ああ。」
不安そうに問うふゆはに、ナギは短く返答しその身を起こした。
あれだけ深い傷を負いながらも、今や普通に起き上がり、動かすことが出来ている。
伊丹の言う通り、ナギの治癒力は自分たち以上に高いものだと、ふゆはも理解した。
「…異形の邪狂霊に出くわした。…生憎、逃してしまったが…。」
「え…」
ナギの言葉に、ふゆはは言葉を失った。
異形の邪狂霊。
それは以前、ふゆはが伊丹と模擬戦をした際に対峙した存在だ。
しかし、今回ナギが遭遇したのは伊丹が作り出した者ではない。
異形となった邪狂霊は、通常の邪狂霊よりも圧倒的に危険性が高い。
故に、事が悪化する前に、一刻も早く始末しなければならない。
非常に厄介な怪異現象だ。
「…そう、だったの…。」
ふゆはは己の巫女服の裾をギュッと握った。
ふと、ふゆはは違和感を覚える。
異形化した邪狂霊は、通常の邪狂霊よりも極めて危険な存在。
それでも、ナギは不老不死とも言えるほどの治癒能力、および底しれない強力な魔力を持ち合わせている。
これまでも遭遇数は少ないが、異形の邪狂霊でもナギは余裕で相手をしてきた。
それなのに、今回は、どうしてこんなことにーーー
「でも、本当に、っ、無事で良かった…。」
込み上げる感情に耐えきれず、ふゆはは静かに涙を流した。
いくら治癒力や生命力が高くても、永遠に眠り続けたままだったらーーー
考えたくもない事態ばかりが、呪のようにふゆはの脳で渦巻いていた。
「…驚かせてすまなかった…。」
ナギはそっと、負の感情を取り払うようにふゆはの頭を優しく撫でた。
「…ただ、残念だが、ヤツを仕留めそこねた以上、今後もこういう事態が訪れることはあるだろう…。」
「…。」
直球に言うナギに、ふゆはは口をグッと噤んだ。
村を警護するにあたり、避けては通れない危険な道だ。
それはふゆはも理解していた。
それと同時に、理解したくなかった。
「…それでも…、」
ふゆはの心境をよそに、ナギは言葉を続けた。
「それでも俺は、必ずふゆはの元へ帰る。」
「!」
ナギはふゆはの目を見ながら、そうハッキリと告げた。
「…そうね。絶対に、帰ってきてよね。」
戦うだけではない。
時には仲間の言葉を信じるという勇気も必要なのだろう。
ふゆははそう思った。
………
「無事に目覚めてなによりです。」
時は子の刻。
目覚めたナギは、ふゆはと共に伊丹の自室に訪れていた。
「…世話をかけてすまなかった…。」
「いえいえ、今に始まったことではないですし。」
第一に謝罪をするナギに、伊丹は苦笑いした。
「…本当に、私はびっくりしたんだから…。」
そんな二人のやり取りを見ながら、ふゆはは小さくぼやいた。
「そうですよね。…とにかく、無茶はしないでくださいね。…異形の怪異の情報など、ここ最近は無かったものですし…。」
ふゆはに優しい笑みを向けた伊丹は、真剣な面持ちでナギに言葉を続けた。
「貴方は半魔という特異体質上、一人で戦うことに慣れているかもしれません。が、事が悪化する前に、必ず、幻洛さんや裂さんにも知らせるようにして下さい。」
その為に、皆さんには護符を持たせているのですから。
伊丹はそう付け加えた。
「…特に、僕の大切なふゆはさんを悲しませるような事をしたら、たとえナギでも許しませんからね…?」
伊丹は綺麗な顔を傾けながら、真っ黒な笑顔をナギに向けた。
「…御意…。」
返答するナギは、いつものように無表情のままだった。
しかし、ものっすごく若干ながら、妙な冷や汗を感じていた。
「全くもう…。」
あいも変わらず、親馬鹿ならぬ師匠馬鹿な伊丹に、ふゆははやれやれと溜め息をついた。
そんなふゆはに、伊丹はニコッと笑みを向けた。
「フフッ、でも、ふゆはさんを大切に想う気持ちは、ナギも同じですもんね。」
「…当たり前だ。」
伊丹の言葉に、ナギはいつものように単刀直入に答えた。
こんな何気ない日常が、ずっと、永遠に続けば、どれほど幸せだろうか。
「ナギ。」
伊丹はナギの方へ座り直し、一層真剣な眼差しを向けた。
「ふゆはさんのこと、頼みますよ。」
そう伝える伊丹の背には、煌々とした月が天高く輝いていた。
「…ああ…。」
月の逆光により、伊丹の表情は読み取ることが出来なかったが、ナギはいつものように短く返答した。
「?」
そして気の所為だろうか、少しばかり含みのある言い方に、ふゆはは首を傾げた。
光り輝く月が再び雲に隠されたとき、伊丹はいつもの優しい笑みを向けていた。
「…。」
伊丹はスッと目を伏せた。
大切な愛娘が、不老不死に近しい存在の元へ旅立てて良かった。
たとえ異形の邪狂霊でも、彼なら、大丈夫。
この先、この身に何が起ころうとも。
土砂降りの雨。
ふゆはは一人、屋敷から窓の外を眺めていた。
まるであの時のように、初めて結界の術の鍛錬を受けた日のようだった。
こんな日でも、ナギ、幻洛、裂は村の巡回に出ている。
伊丹は仕事の都合で神社へこもり、劔咲は村へ買い出しへ行ったままだ。
自分は、独りで、一体何をやっているのだろう。
生まれつき身体が弱いこともあり、良く言えば”特別扱い”されてきた。
本来ならば、自分も、こんな雨の日だって…、
「きゃっ!」
突然、辺り一面がまばゆい光に包まれ、耳を貫くような轟音が鳴り響く。
屋敷の壁が、窓が、震音によりミシミシと揺れ動いた。
近くで落雷があったようだ。
ふゆはは雷が大の苦手で、一人でいるというこの状況が非常に心細かった。
滝の様に打つ豪雨、鳴り響く雷鳴。
ふゆはは居ても立ってもいられず、屋敷の玄関に向かい、引き戸を開けた。
誰か、帰ってこないだろうか。
「…!」
吹き付ける雨風の中、一人の人影がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
銀髪で、黒の羽織を着た者。
恋仲でもある、ナギだった。
「あ…、お帰りなさい…。」
「…。」
この夕立の中、傘もささずに帰ってきたナギの銀髪は、雨に濡れ、ぐっしょりと滴っていた。
それでも、やはり、彼は無口で無表情だった。
「あ、ちょっと待ってて。今、何か拭くものを…、…っ!」
突然、ナギに腕を掴まれた。
そして、ふゆははそのまま引き込まれるように、その魔物の右腕と、ヒト型の左腕の中に収まった。
いつもと同じナギが、いつもと違っていた。
「!?」
突然の出来事に、ふゆはは混乱した。
その鍛えられた大きな身体が、ふゆはにドサッとのしかかる。
思わず、ふゆははナギを支えようと、膝を付きながら背に手を回した。
「え…、」
ぬる…、と、ナギの背から、雨以外の濡れた感触があった。
支えていた自身の手は、真っ赤に濡れていた。
大量の、血だ。
「嫌……、いやあああああっ!!!」
ふゆはの叫び声が、雷鳴の様に貫き、響き渡る。
「嫌…!!嫌!!たすけ、たすけ、て!!助けて!!伊丹助けて!!」
恥や矜持など、そんなものは無に等しかった。
恐慌しながら、ふゆはは必死に助けを求め、叫び続けた。
「…!ナギッ…!」
ふゆはの叫びを聞きつけ、屋敷に付属する神社にいた伊丹が駆けつけた。
血に塗れ倒れているナギの姿に、伊丹は顔をしかめた。
「ナギを部屋へ!急ぎ手当を!」
後に続いてきたヒト型の式神に、伊丹は精悍に指示を出す。
「ふゆは様、後は我々にお任せください。」
そう言いながら、式神たちは気を失っているナギを抱え、部屋へ連れて行った。
「…嫌、いやあっ…!!伊丹…!!ナギがっ…!!ナギ、が…!!」
伊丹にしがみつきながら、ふゆはは錯乱し、体を震わせていた。
手についたナギの血が、伊丹の白い狩衣を赤く染めた。
「…びっくりしましたね、ふゆはさん。後は僕の式神たちが手当をしてくれますから。僕たちも、部屋に戻りましょう?ね?」
よしよし、と伊丹は宥めるように、恐慌するふゆはを抱きながら、その藤色の頭を撫でた。
玄関が、ナギが歩いてきた道が、鮮血で真っ赤に染まっていた。
………
ナギは治療を終え、駆けつけた式神たちも、それぞれ元居た場所へ戻っていった。
ナギは静かに眠っていた。
あれだけの大怪我をすれば当たり前ではあろうが、眠るナギの姿を見るのが初めてだったふゆはは、心配そうな顔でその傍らに座っていた。
「…それにしても、今回は随分と派手にやられたものですね…。」
誰宛にでもなく、伊丹はナギを見下ろしながら一人呟いた。
「どうして…、どうしてそんなに冷静でいられるの…。」
仕方のない様な言い草に、ふゆはは疑問を抱いた。
「ああ、ふゆはさんには、まだ伝えていませんでしたね。」
伊丹はふゆはの隣に座り、話を続けた。
「ご存知の通り、ナギは身体の半分が魔物で構成された、通称”半魔”と呼ばれる生き物です。…僕も、詳細はわかりませんが、その特殊な力で身体が構成されている事により、彼は僕ら以上の治癒力、生命力、寿命を兼ね備えているようです。」
瑠璃色をした伊丹の左目は、眠るナギを見据えていた。
「この光景を見るのは二度目ですが、当時は僕も、相当驚かされましたよ。」
当時の慌てふためく自分を思い出したのか、伊丹は苦笑いをした。
「…。」
恋仲ではあるものの、まだまだ彼の事を知ることが出来ていない自分に、ふゆはは表情を曇らせた。
「大丈夫ですよ、ふゆはさん。」
そんなふゆはを見兼ねてか、伊丹は優しく声をかけた。
「ナギ曰く、こうなっても時間が経てば治る故、手当をする必要もないそうですよ。…それでも、心配になってしまいますけれどね。」
「そう、なの…。」
サラリと話す伊丹に、ふゆはは複雑な心境でいっぱいだった。
ナギは半魔という特異体質ゆえに生命力や治癒力が高い。
とはいえ、あれほどの大怪我を目の当たりにして冷静でいることなど、ふゆはにとっては無理に等しかった。
願わくば、もう二度とこのような光景は見たくない。
ふゆははそう思った。
「…さて、僕はそろそろ神社の方に行きますね。思わず書類を投げてきてしまったもので、式神たちが混乱しているかもしれません。」
「!」
ハッと、ふゆはは我に返った。
「ご、ごめんなさい…、私…。」
「いいのですよ、とにかく、ふゆはさんも無事で良かったです。」
この場を後にしようと、立ち上がる伊丹。
ふと、ふゆははその赤く染まった裾が目に入った。
「そ、その裾も…。」
「ああ、これですか?これくらい、落とす方法はいくらでもありますから、大丈夫ですよ。」
ナギのものではあるものの、血に汚れた自分の師。
その光景に、ふゆはは何故か背が凍った。
「何かあったら、式神越しでもいいので呼んでくださいね。」
伊丹はいつもの笑顔をふゆはに向け、そのまま立ち去った。
………
「…。」
闇夜に月が高く上がった頃、ナギは静かに目を覚ました。
あれほど騒がしかった雷雨も、その存在すら無かったかのように消え去っていた。
強制的に眠る、という思考が働いたのは、いつぶりだろうか。
そして自分は、どれだけ眠っていたのだろう。
ナギは目を覚まし、その負傷した身体を起こそうとする。
「っ…、」
体格の良い背に、鈍い雷撃のようなものが走った。
久方ぶりに、はっきりと感じる”痛み”という感覚に、ナギは顔を歪めた。
「…ナギ…?」
自身が横たわる布団の脇から、か細い声が聞こえた。
藤色の髪を持つ妖狐、ふゆはだ。
「その、背中、大丈夫…?」
「…ああ。」
不安そうに問うふゆはに、ナギは短く返答しその身を起こした。
あれだけ深い傷を負いながらも、今や普通に起き上がり、動かすことが出来ている。
伊丹の言う通り、ナギの治癒力は自分たち以上に高いものだと、ふゆはも理解した。
「…異形の邪狂霊に出くわした。…生憎、逃してしまったが…。」
「え…」
ナギの言葉に、ふゆはは言葉を失った。
異形の邪狂霊。
それは以前、ふゆはが伊丹と模擬戦をした際に対峙した存在だ。
しかし、今回ナギが遭遇したのは伊丹が作り出した者ではない。
異形となった邪狂霊は、通常の邪狂霊よりも圧倒的に危険性が高い。
故に、事が悪化する前に、一刻も早く始末しなければならない。
非常に厄介な怪異現象だ。
「…そう、だったの…。」
ふゆはは己の巫女服の裾をギュッと握った。
ふと、ふゆはは違和感を覚える。
異形化した邪狂霊は、通常の邪狂霊よりも極めて危険な存在。
それでも、ナギは不老不死とも言えるほどの治癒能力、および底しれない強力な魔力を持ち合わせている。
これまでも遭遇数は少ないが、異形の邪狂霊でもナギは余裕で相手をしてきた。
それなのに、今回は、どうしてこんなことにーーー
「でも、本当に、っ、無事で良かった…。」
込み上げる感情に耐えきれず、ふゆはは静かに涙を流した。
いくら治癒力や生命力が高くても、永遠に眠り続けたままだったらーーー
考えたくもない事態ばかりが、呪のようにふゆはの脳で渦巻いていた。
「…驚かせてすまなかった…。」
ナギはそっと、負の感情を取り払うようにふゆはの頭を優しく撫でた。
「…ただ、残念だが、ヤツを仕留めそこねた以上、今後もこういう事態が訪れることはあるだろう…。」
「…。」
直球に言うナギに、ふゆはは口をグッと噤んだ。
村を警護するにあたり、避けては通れない危険な道だ。
それはふゆはも理解していた。
それと同時に、理解したくなかった。
「…それでも…、」
ふゆはの心境をよそに、ナギは言葉を続けた。
「それでも俺は、必ずふゆはの元へ帰る。」
「!」
ナギはふゆはの目を見ながら、そうハッキリと告げた。
「…そうね。絶対に、帰ってきてよね。」
戦うだけではない。
時には仲間の言葉を信じるという勇気も必要なのだろう。
ふゆははそう思った。
………
「無事に目覚めてなによりです。」
時は子の刻。
目覚めたナギは、ふゆはと共に伊丹の自室に訪れていた。
「…世話をかけてすまなかった…。」
「いえいえ、今に始まったことではないですし。」
第一に謝罪をするナギに、伊丹は苦笑いした。
「…本当に、私はびっくりしたんだから…。」
そんな二人のやり取りを見ながら、ふゆはは小さくぼやいた。
「そうですよね。…とにかく、無茶はしないでくださいね。…異形の怪異の情報など、ここ最近は無かったものですし…。」
ふゆはに優しい笑みを向けた伊丹は、真剣な面持ちでナギに言葉を続けた。
「貴方は半魔という特異体質上、一人で戦うことに慣れているかもしれません。が、事が悪化する前に、必ず、幻洛さんや裂さんにも知らせるようにして下さい。」
その為に、皆さんには護符を持たせているのですから。
伊丹はそう付け加えた。
「…特に、僕の大切なふゆはさんを悲しませるような事をしたら、たとえナギでも許しませんからね…?」
伊丹は綺麗な顔を傾けながら、真っ黒な笑顔をナギに向けた。
「…御意…。」
返答するナギは、いつものように無表情のままだった。
しかし、ものっすごく若干ながら、妙な冷や汗を感じていた。
「全くもう…。」
あいも変わらず、親馬鹿ならぬ師匠馬鹿な伊丹に、ふゆははやれやれと溜め息をついた。
そんなふゆはに、伊丹はニコッと笑みを向けた。
「フフッ、でも、ふゆはさんを大切に想う気持ちは、ナギも同じですもんね。」
「…当たり前だ。」
伊丹の言葉に、ナギはいつものように単刀直入に答えた。
こんな何気ない日常が、ずっと、永遠に続けば、どれほど幸せだろうか。
「ナギ。」
伊丹はナギの方へ座り直し、一層真剣な眼差しを向けた。
「ふゆはさんのこと、頼みますよ。」
そう伝える伊丹の背には、煌々とした月が天高く輝いていた。
「…ああ…。」
月の逆光により、伊丹の表情は読み取ることが出来なかったが、ナギはいつものように短く返答した。
「?」
そして気の所為だろうか、少しばかり含みのある言い方に、ふゆはは首を傾げた。
光り輝く月が再び雲に隠されたとき、伊丹はいつもの優しい笑みを向けていた。
「…。」
伊丹はスッと目を伏せた。
大切な愛娘が、不老不死に近しい存在の元へ旅立てて良かった。
たとえ異形の邪狂霊でも、彼なら、大丈夫。
この先、この身に何が起ころうとも。
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