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プロローグ
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2019年、秋が終わりを告げようとしていた頃。
九州の背骨をなす山々の中でも、ひときわ深く、豊かな原生林に覆われた祖母山(そぼさん)は、その日も静かに息づいていた。
この地でツキノワグマはすでに絶滅した――そう公式に宣言されてから、七年。
危険な動物は、猪や野犬だけ。
人々はその言葉を信じ、山は安全なものとして受け入れられていた。
だが、その静寂は、ある夜、あまりにもあっけなく打ち破られる。
祖母山の麓にあるキャンプ場。
都会から訪れた五人の若者たちは、二泊三日の予定でその地を訪れていた。
管理小屋に近い「原っぱ広場」は、家族連れや初心者向けのエリアだ。
だが彼らが選んだのは、森の奥、渓流沿いに設けられた「森と星エリア」。
木々に囲まれ、夜には満天の星が見える、中・上級者向けのサイトだった。
焚き火を囲み、酒を飲み、笑い声が夜気に溶けていく。
渓流のせせらぎと風に揺れる葉音が、それを包み込んでいた。
彼らは、何の警戒もしていなかった。
その気配は、音もなく、闇に紛れて近づいてきた。
祖母山の闇そのものが形を得たかのような、黒い影。
最初に異変に気づいたのは、焚き火から少し離れ、用を足していた男だった。
彼の喉から、短く、掠れた悲鳴が漏れた。
次の瞬間、闇が牙を剥いた。
漆黒の影が一気に距離を詰め、三人の男たちを呑み込む。
テントがなぎ倒され、布が裂け、骨がぶつかるような鈍い音が響いた。
断末魔の叫びは、すぐに形を失い、不自然な沈黙へと変わる。
キャンプ場の賑やかさは、瞬く間に地獄へと塗り替えられた。
惨劇の夜、ただ一人だけ、生き延びた男がいた。
彼は反射的に車の陰へと転がり込み、その下に身を滑り込ませた。
闇の中、すぐ近くで、仲間たちが次々と消えていく。
――ごり、ごり。
肉が引きちぎられ、骨が砕かれる、湿った音。
生暖かい血の匂いが、夜の空気を重く満たす。
彼は目を閉じ、声を殺し、ただ聞いていた。
想像するしかなかった。音だけで、仲間の命が失われていく様子を。
極度の恐怖と緊張は、彼の心を追い詰めた。
一瞬でも見つかれば終わる――その思考が、何度も自殺という言葉を脳裏に浮かばせる。
やがて、雨が降り出した。
冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、彼の体温を奪っていく。
闇の中で彼は嘔吐し、歯を食いしばりながら涙を流した。
仲間達が死ぬ音は、自分の心も壊れる音だった。
*
翌朝。
チェックアウトの時刻を過ぎても、若者たちは現れなかった。
「……おかしいな」
キャンプ場の管理人、阿蘇谷一夫(あそたに・かずお)は、嫌な胸騒ぎを覚えながら森へ入った。
渓流沿いで、彼は立ち尽くした。
散乱したキャンプ道具。
引き裂かれたテント。
そして、雨に薄められても消えない血痕。
一夫は膝から崩れ落ち、言葉を失った。
恐怖と混乱のまま管理小屋へ戻り、妻・光(ひかり)が営む喫茶店「楓」へと駆け込む。
やがて事件は、「猟奇殺人」として世間を騒がせることになる。
だが――
祖母山の深い森の奥底で、人知れず動く黒い影を、
そのとき誰一人として知る者はいなかった。
それが、どれほど多くの命と心を壊すことになるのか。
まだ、誰も想像していなかった。
九州の背骨をなす山々の中でも、ひときわ深く、豊かな原生林に覆われた祖母山(そぼさん)は、その日も静かに息づいていた。
この地でツキノワグマはすでに絶滅した――そう公式に宣言されてから、七年。
危険な動物は、猪や野犬だけ。
人々はその言葉を信じ、山は安全なものとして受け入れられていた。
だが、その静寂は、ある夜、あまりにもあっけなく打ち破られる。
祖母山の麓にあるキャンプ場。
都会から訪れた五人の若者たちは、二泊三日の予定でその地を訪れていた。
管理小屋に近い「原っぱ広場」は、家族連れや初心者向けのエリアだ。
だが彼らが選んだのは、森の奥、渓流沿いに設けられた「森と星エリア」。
木々に囲まれ、夜には満天の星が見える、中・上級者向けのサイトだった。
焚き火を囲み、酒を飲み、笑い声が夜気に溶けていく。
渓流のせせらぎと風に揺れる葉音が、それを包み込んでいた。
彼らは、何の警戒もしていなかった。
その気配は、音もなく、闇に紛れて近づいてきた。
祖母山の闇そのものが形を得たかのような、黒い影。
最初に異変に気づいたのは、焚き火から少し離れ、用を足していた男だった。
彼の喉から、短く、掠れた悲鳴が漏れた。
次の瞬間、闇が牙を剥いた。
漆黒の影が一気に距離を詰め、三人の男たちを呑み込む。
テントがなぎ倒され、布が裂け、骨がぶつかるような鈍い音が響いた。
断末魔の叫びは、すぐに形を失い、不自然な沈黙へと変わる。
キャンプ場の賑やかさは、瞬く間に地獄へと塗り替えられた。
惨劇の夜、ただ一人だけ、生き延びた男がいた。
彼は反射的に車の陰へと転がり込み、その下に身を滑り込ませた。
闇の中、すぐ近くで、仲間たちが次々と消えていく。
――ごり、ごり。
肉が引きちぎられ、骨が砕かれる、湿った音。
生暖かい血の匂いが、夜の空気を重く満たす。
彼は目を閉じ、声を殺し、ただ聞いていた。
想像するしかなかった。音だけで、仲間の命が失われていく様子を。
極度の恐怖と緊張は、彼の心を追い詰めた。
一瞬でも見つかれば終わる――その思考が、何度も自殺という言葉を脳裏に浮かばせる。
やがて、雨が降り出した。
冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、彼の体温を奪っていく。
闇の中で彼は嘔吐し、歯を食いしばりながら涙を流した。
仲間達が死ぬ音は、自分の心も壊れる音だった。
*
翌朝。
チェックアウトの時刻を過ぎても、若者たちは現れなかった。
「……おかしいな」
キャンプ場の管理人、阿蘇谷一夫(あそたに・かずお)は、嫌な胸騒ぎを覚えながら森へ入った。
渓流沿いで、彼は立ち尽くした。
散乱したキャンプ道具。
引き裂かれたテント。
そして、雨に薄められても消えない血痕。
一夫は膝から崩れ落ち、言葉を失った。
恐怖と混乱のまま管理小屋へ戻り、妻・光(ひかり)が営む喫茶店「楓」へと駆け込む。
やがて事件は、「猟奇殺人」として世間を騒がせることになる。
だが――
祖母山の深い森の奥底で、人知れず動く黒い影を、
そのとき誰一人として知る者はいなかった。
それが、どれほど多くの命と心を壊すことになるのか。
まだ、誰も想像していなかった。
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