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7.カレンダー
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清子は、玄関を開けると、いきなり語り掛けてきた。
「そうそう!来年の春には、紘一が帰ってくるって!」
その言葉を聞いても、信二は、
「そうか」
と、ぶっきらぼうに言っただけで、玄関に上った。
信二なりの照れ隠しだった。
「あの子、何食べるかしら。
ねえ、やっぱり和食よねえ?」
と、話しかける清子に、信二は耳も貸さず、居間に行き、新聞を広げた。
清子は、病院のことなど忘れたかのように、ふるまっている。
信二には、それがありがたかった。
だからこそ、自分も普段通りにしようと、決めた。
「そうだ、さっきのお花屋さんで、来年のカレンダーをもらったんだった」
と、清子はイソイソと、バッグから折りたたまれたカレンダーを出してきた。
カレンダーは、一枚のポスタータイプで、下方に、一月から十二月の日付が、申し訳程度に載っていた。
そんなカレンダーの大部分は、一枚の写真が占めていた。
「ねえ、見て。いいでしょ、これ」
と、清子がカレンダーを広げて、見せてくる。
信二が、新聞から目を移すと、そこには野生動物が映っていた。
ネコ科の肉食獣の横顔が、見て取れる。
「他にもいろいろあったんだけど。
何か、気にいっちゃったのよねえ、これ。
紘一も喜ぶかな、と思って」
と、清子が、そのカレンダーを居間の壁に貼った。
「なかなか、いいわよね」
と、清子が、信二に同意を求めると、信二も、
「あぁ」
と、答えた。
にこやかに笑って、清子は食事の支度に、と台所に向かった。
台所から、清子が居間を覗き見ると、まだ信二は、カレンダーの写真を見つめている。
(あら、珍しい)
清子は、笑った。
清子の視線を感じた信二は、慌てて目を新聞に戻す。
「何か、食べたいものある?」
冷蔵庫のピーマンや豆腐を取り出しながら、清子が聞いたが、信二は、
「なんでもいい」
と、返した。
「なんでもいいが、一番なんでもよくないのよ。
本当に、生ごみでも食わせようかしら」
と、清子が、ぶつぶつ文句を言い、振り返った。
「そんなこと言うなら、また前みたいに作ってよ、あなたが。
伝説の冷ややっこ、でもいいから」
と、豆腐を片手に、清子が言う。
「勘弁してくれ」
と、信二は苦笑しながら、新聞に目を落とした。
「なによ。私にも伝説、食べさせてくれてもいいでしょ」
と、怒ったように清子は、まな板を取り出した。
あれは、紘一が小学生の時だった。
久方ぶりに友人と出かけた清子に代わって、信二が夕食を作ることになった。
とはいえ、信二は母子家庭の時代から、ずっと母親の用意した食事が、主だった。
なにしろ、包丁を握ったこともない。
しかし、今日は、そういうわけにもいかない。
何か料理を作らなくては、いけない。
一大決心した信二は、豆腐を取り出した。
それからしばらくして、
「飯、できたぞ」
という、信二の声に誘われて、紘一は食卓に向かった。
だが、食卓の上を見た紘一は、唖然とした。
炊き立ての白米に、無造作に切った豆腐のみ。
卵焼きすらない。
白に白。食卓の上は、真っ白だった。
紘一とて、父親の料理の腕など、最初から期待してはいなかった。
(でも、これはあんまりだ)
清子が帰宅すると、泣きじゃくる紘一と、怒ったような顔で豆腐に食らいついている、信二の姿があった。
これが、里見家の〔伝説の冷ややっこ〕事件だ。
泣き叫ぶ紘一から事情を聴いた清子は、体を折り曲げるように大笑いし、ありあわせで作った料理を紘一に食べさせた。
それで、やっと紘一の機嫌が直った。
とはいえ、その事件後しばらく、紘一は豆腐を食べなかった。
その後、反省した信二は、料理関連動画を見ながら、料理の腕を磨いた。
唐揚げは低温二度揚げするし、餃子は、具をしっかり作り、皮も自分で作る。
手間と時間を掛ければ、料理はうまくなる、ということを学習した。
そんな信二の作るパスタは、絶品だ。
反面、もう清子や紘一の前に、〔伝説の冷ややっこ〕を出すことは、なかった。
そんなことを思い出しながら、清子が居間を覗き見ると、また信二は、新聞から目を離し、カレンダーの写真に見とれていた。
清子は、ため息をついて、まな板にむかった。
(俺は、なぜこんなに、この写真に惹かれるんだろう)
信二は、自分自身の心が、理解できないでいた。
写真の肉食獣は、獲物を狙っているのだろうか、精悍な顔つきで、口元には、ちらりと牙が覗いていた。
四肢を広げ、すっくと立つ姿は、美しかった。
皮膚の上からでも見て取れる、鋼を束ねたような筋肉は、躍動感を感じさせる。
(この写真から受け取るもの、これは何だ?)
(美しさ?)
(獰猛さ?)
(力強さ?)
(いや、違う)
(そんなものじゃない)
(例えるなら…)
(尊厳)
(そうだ。尊厳、だ)
(気高く、尊いもの)
(なんとしても生き延びてやる、と言う強い意志)
(その強い意志が、光をも発している)
(尊厳を覗かせる、この光り輝く横顔に、俺は惹かれているのだ)
知らぬ間に、信二はペンを取り出すと、新聞紙の上にデッサンを始めていた。
今回の仕事のキャラクターデザインのモチーフは、猫だった。
誰にも束縛を受けず、自由気ままでありながら、愛嬌もある。
猫というのが、一番性別や国を越えて愛されるモチーフだ、と直感で選んだ。
だが、愛玩動物としての側面しか、考えていなかった。
本当に自由であると言うのは、一人でも生きていくという、強い意思を持ったものだ。
それが足りなかった。
何パターンか、デザインをし、そのラフを写真に撮り、スタッフに送った。
改めて、信二は、カレンダーを見た。
(しかし……こんな完成された肉体にも、必ず〔死〕は訪れる……)
(今は、こんなに光り輝いているこいつにも……)
(そんな〔死〕に、俺なんかが、抗えるはずもない……)
そう考えると、信二の気持ちが、スーと軽くなっていく。
〔死〕を当たり前のものとして、受け取めれる気がした。
さらに信二は、思考を巡らせる。
(例えば、死ぬ覚悟を持って、潔く〔死〕を受け入れたら、もっと気が楽になれるのだろうか?)
(それとも、生きる覚悟を持って、あがけばあがくほど、命の光はもっと強く輝きを増して、生きている価値が生まれるのだろうか?)
(こいつらは…野生動物は、どちらの覚悟を選ぶのか)
(見たい)
(自分の目で、彼らの選んだ覚悟を見届けたい)
「大体3年から5年で亡くなる方が多いです」
医者の言葉が、信二の脳裏に蘇る。
(時間がない)
信二の心がはやった。
「そうそう!来年の春には、紘一が帰ってくるって!」
その言葉を聞いても、信二は、
「そうか」
と、ぶっきらぼうに言っただけで、玄関に上った。
信二なりの照れ隠しだった。
「あの子、何食べるかしら。
ねえ、やっぱり和食よねえ?」
と、話しかける清子に、信二は耳も貸さず、居間に行き、新聞を広げた。
清子は、病院のことなど忘れたかのように、ふるまっている。
信二には、それがありがたかった。
だからこそ、自分も普段通りにしようと、決めた。
「そうだ、さっきのお花屋さんで、来年のカレンダーをもらったんだった」
と、清子はイソイソと、バッグから折りたたまれたカレンダーを出してきた。
カレンダーは、一枚のポスタータイプで、下方に、一月から十二月の日付が、申し訳程度に載っていた。
そんなカレンダーの大部分は、一枚の写真が占めていた。
「ねえ、見て。いいでしょ、これ」
と、清子がカレンダーを広げて、見せてくる。
信二が、新聞から目を移すと、そこには野生動物が映っていた。
ネコ科の肉食獣の横顔が、見て取れる。
「他にもいろいろあったんだけど。
何か、気にいっちゃったのよねえ、これ。
紘一も喜ぶかな、と思って」
と、清子が、そのカレンダーを居間の壁に貼った。
「なかなか、いいわよね」
と、清子が、信二に同意を求めると、信二も、
「あぁ」
と、答えた。
にこやかに笑って、清子は食事の支度に、と台所に向かった。
台所から、清子が居間を覗き見ると、まだ信二は、カレンダーの写真を見つめている。
(あら、珍しい)
清子は、笑った。
清子の視線を感じた信二は、慌てて目を新聞に戻す。
「何か、食べたいものある?」
冷蔵庫のピーマンや豆腐を取り出しながら、清子が聞いたが、信二は、
「なんでもいい」
と、返した。
「なんでもいいが、一番なんでもよくないのよ。
本当に、生ごみでも食わせようかしら」
と、清子が、ぶつぶつ文句を言い、振り返った。
「そんなこと言うなら、また前みたいに作ってよ、あなたが。
伝説の冷ややっこ、でもいいから」
と、豆腐を片手に、清子が言う。
「勘弁してくれ」
と、信二は苦笑しながら、新聞に目を落とした。
「なによ。私にも伝説、食べさせてくれてもいいでしょ」
と、怒ったように清子は、まな板を取り出した。
あれは、紘一が小学生の時だった。
久方ぶりに友人と出かけた清子に代わって、信二が夕食を作ることになった。
とはいえ、信二は母子家庭の時代から、ずっと母親の用意した食事が、主だった。
なにしろ、包丁を握ったこともない。
しかし、今日は、そういうわけにもいかない。
何か料理を作らなくては、いけない。
一大決心した信二は、豆腐を取り出した。
それからしばらくして、
「飯、できたぞ」
という、信二の声に誘われて、紘一は食卓に向かった。
だが、食卓の上を見た紘一は、唖然とした。
炊き立ての白米に、無造作に切った豆腐のみ。
卵焼きすらない。
白に白。食卓の上は、真っ白だった。
紘一とて、父親の料理の腕など、最初から期待してはいなかった。
(でも、これはあんまりだ)
清子が帰宅すると、泣きじゃくる紘一と、怒ったような顔で豆腐に食らいついている、信二の姿があった。
これが、里見家の〔伝説の冷ややっこ〕事件だ。
泣き叫ぶ紘一から事情を聴いた清子は、体を折り曲げるように大笑いし、ありあわせで作った料理を紘一に食べさせた。
それで、やっと紘一の機嫌が直った。
とはいえ、その事件後しばらく、紘一は豆腐を食べなかった。
その後、反省した信二は、料理関連動画を見ながら、料理の腕を磨いた。
唐揚げは低温二度揚げするし、餃子は、具をしっかり作り、皮も自分で作る。
手間と時間を掛ければ、料理はうまくなる、ということを学習した。
そんな信二の作るパスタは、絶品だ。
反面、もう清子や紘一の前に、〔伝説の冷ややっこ〕を出すことは、なかった。
そんなことを思い出しながら、清子が居間を覗き見ると、また信二は、新聞から目を離し、カレンダーの写真に見とれていた。
清子は、ため息をついて、まな板にむかった。
(俺は、なぜこんなに、この写真に惹かれるんだろう)
信二は、自分自身の心が、理解できないでいた。
写真の肉食獣は、獲物を狙っているのだろうか、精悍な顔つきで、口元には、ちらりと牙が覗いていた。
四肢を広げ、すっくと立つ姿は、美しかった。
皮膚の上からでも見て取れる、鋼を束ねたような筋肉は、躍動感を感じさせる。
(この写真から受け取るもの、これは何だ?)
(美しさ?)
(獰猛さ?)
(力強さ?)
(いや、違う)
(そんなものじゃない)
(例えるなら…)
(尊厳)
(そうだ。尊厳、だ)
(気高く、尊いもの)
(なんとしても生き延びてやる、と言う強い意志)
(その強い意志が、光をも発している)
(尊厳を覗かせる、この光り輝く横顔に、俺は惹かれているのだ)
知らぬ間に、信二はペンを取り出すと、新聞紙の上にデッサンを始めていた。
今回の仕事のキャラクターデザインのモチーフは、猫だった。
誰にも束縛を受けず、自由気ままでありながら、愛嬌もある。
猫というのが、一番性別や国を越えて愛されるモチーフだ、と直感で選んだ。
だが、愛玩動物としての側面しか、考えていなかった。
本当に自由であると言うのは、一人でも生きていくという、強い意思を持ったものだ。
それが足りなかった。
何パターンか、デザインをし、そのラフを写真に撮り、スタッフに送った。
改めて、信二は、カレンダーを見た。
(しかし……こんな完成された肉体にも、必ず〔死〕は訪れる……)
(今は、こんなに光り輝いているこいつにも……)
(そんな〔死〕に、俺なんかが、抗えるはずもない……)
そう考えると、信二の気持ちが、スーと軽くなっていく。
〔死〕を当たり前のものとして、受け取めれる気がした。
さらに信二は、思考を巡らせる。
(例えば、死ぬ覚悟を持って、潔く〔死〕を受け入れたら、もっと気が楽になれるのだろうか?)
(それとも、生きる覚悟を持って、あがけばあがくほど、命の光はもっと強く輝きを増して、生きている価値が生まれるのだろうか?)
(こいつらは…野生動物は、どちらの覚悟を選ぶのか)
(見たい)
(自分の目で、彼らの選んだ覚悟を見届けたい)
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