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1地雷
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春子の最大最悪最強の地雷は鏡だ。
理想と現実のギャップに我を失う。1か月前、さんざん暴れて喚いた後に、パタンと倒れた。
周囲の心配をよそに、医者に奇跡とも言われた回復力で、3日で退院した。
だが、次は命の保障はないとも言われた。そしてもう、先は長くないかもしれないとも。
これは、未来が母の今日子から聞いた話のすべてだ。
両親はおそらく、医者からもっと詳しい説明を受けたであろう。
病状や詳しい原因など、未来が聞いてもどうせわからないだろうし、聞く気もなかった。なぜなら、忠義も今日子もひどく疲れきった顔をしていたからだ。
その日以来、家中の鏡が撤去された。撤去できない鏡は、布で覆い隠された。
正確には、春子が行かない部屋もあるから、春子の行動範囲内の鏡、すべてだ。
春子の部屋はもちろん、玄関前、お風呂、洗面所の鏡。その他、テレビなど、姿が映る物は春子の部屋からなくなった。
夜はカーテンの閉め忘れに気をつけなければならない。窓ガラスは立派な姿見になる。
春子は一人では歩けないから、自分でカーテンを開けてしまう心配はない。もし、そのようなことがあれば、窓ガラスに目張りをしなければならなかっただろう。
春子は、忠義に支えられながらよたよたと歩いてきた。机の上に手をつく。呼吸が荒い。喉に痰がからまったような、ゼイゼイという音がする。
木製で白い塗料が塗られた勉強机は、未来が小学校から使っているものではない。中学に入ってから新しく買ってもらったものだ。
部屋を白とピンクで統一したくて、無理を承知でお願いしたところ、忠義がちょうどパソコン用の机が欲しかったからと、未来のお古をありがたく使ってくれた。
春子が無言で、ぐるりと部屋を見渡している。
薄いピンクの生地に、小さな白い水玉のベッドカバー。淡い桃色の花柄のカーテン。ピンクの苺のクッションに、真っ白いフロアマット。
机の上には、ポップなデザインのピンクの目覚まし時計。鉛筆立てやはさみ、ティッシュカバーなど文房具から小物まで、そのほとんどを白とピンクでそろえている。
それらのデザインに統一性はないが、未来は少女趣味なその部屋に満足していた。
春子の視線が、ふらふらと部屋を徘徊して、未来の所で止まった。
「へぇ~、可愛い」
抑揚のない声。
「ありがとう」
こんなあっさりした返事でいいのだろうか。ゆっくりしていって、とでも、一言加えるべきか、未来は迷っていた。
「それじゃぁ、ハルちゃんも疲れただろうから、そろそろ戻りましょうか」
今日子のその言葉は、ガツンと悪意のある音で遮られた。
春子が机の上の目覚まし時計を床に投げつけたのだ。
小枝のような腕の、どこにそんな力が眠っているのか、と思う。
時計から電池がはずれ、ころころと転がっていく。
「お母さんが勝手に決めないで」
「まだいたければ、もっといてもいいよ」
迷いを振り切った未来が、早口で言う。
だが春子の表情に、迷いを振り切るんじゃなかったと、すぐに未来は思い返す。
春子は机の上の鉛筆やら消しゴムやらを、次々と投げつけていった。
「危ないっ」
忠義が叫んだ時には、はさみも宙を飛んでいた。
濃いピンクが鮮やかに舞う。鈍い光を放って刃が口を開いた。
美しい弧を描いて、今日子の足元に落ち、バウンドする。
幸い、傷ついたのは床だけだった。
「まだいたかったら、まだいてもいいだって? 未来ちゃん、私のこと見下しているでしょう。」
そんなことないよ、遠慮がちな未来の声は、春子の怒声にかき消されていく。
「なんで、こんなに違うのよ。同じ顔した双子の姉妹だっていうのに、わたしと未来ちゃんで、なんでこんなに違うの! なんで未来ちゃんばかり、こんなに可愛い部屋なの! わたしは普通じゃないから? ずっと寝たきりで学校も行ってないから? だからあんなにみすぼらしい部屋で充分だっていうの?」
「ハルちゃんの部屋だって清潔感があって、綺麗じゃないか」
未来に向けられた敵意は、忠義への攻撃に変わる。
「何言っているのよ! あの部屋のどこがいいの。あんなの病院と同じよ!」
「とにかくハルちゃん、少し落ち着いて」
今日子が春子の背中に手を添える。
その隙に未来は、すばやく自分の部屋を抜け出した。
隣の両親の寝室の扉を開ける。向かって正面、ベッドのサイドテーブルの上。電話の子機を無造作に掴む。走って自分の部屋に戻る。
自分の鼓動の音に合わせて、耳の奥で声が聞こえる。
ーー次は、命の保障はない。
話してくれた今日子の声ではなくて、なぜか男性の医者の声で聞こえた。
もし、春子が倒れたら、すぐに救急車を呼ぶつもりだ。未来は胸の前で子機を握りしめる。
春子が薄い手の平で机を叩く。何度も、何度も。
「ハルちゃん、やめるんだ。わかったから。ハルちゃんの部屋、未来みたいな部屋に模様替えしよう。父さん、これから買い物に行って、カーテンとか、色々買ってくるから」
机を叩く手が止まる。
「だめ。お父さん、センスないからだめ。」
再び机を叩く。
未来は、何か言わなくては、と焦る。春子の手の薄い皮膚が透けて、骨が折れるのが見えそうな気がした。
「わたしも行く。私もお父さんと一緒に買い物行って、ハルちゃんの部屋、可愛くコーディネートするから。ねっ、ねっ」
春子の止まらない手に、さらに、ねっ、ねっと、もうそれだけしか言葉が出てこない。
不意に、止まった。
「わかった。未来ちゃん、お願いね」
春子がふわっと笑顔になる。今までの不機嫌が嘘みたいに。
「私、疲れちゃったみたい。少し寝るわ」
未来は春子に音が届かないように、ため息をそっと漏らした。
理想と現実のギャップに我を失う。1か月前、さんざん暴れて喚いた後に、パタンと倒れた。
周囲の心配をよそに、医者に奇跡とも言われた回復力で、3日で退院した。
だが、次は命の保障はないとも言われた。そしてもう、先は長くないかもしれないとも。
これは、未来が母の今日子から聞いた話のすべてだ。
両親はおそらく、医者からもっと詳しい説明を受けたであろう。
病状や詳しい原因など、未来が聞いてもどうせわからないだろうし、聞く気もなかった。なぜなら、忠義も今日子もひどく疲れきった顔をしていたからだ。
その日以来、家中の鏡が撤去された。撤去できない鏡は、布で覆い隠された。
正確には、春子が行かない部屋もあるから、春子の行動範囲内の鏡、すべてだ。
春子の部屋はもちろん、玄関前、お風呂、洗面所の鏡。その他、テレビなど、姿が映る物は春子の部屋からなくなった。
夜はカーテンの閉め忘れに気をつけなければならない。窓ガラスは立派な姿見になる。
春子は一人では歩けないから、自分でカーテンを開けてしまう心配はない。もし、そのようなことがあれば、窓ガラスに目張りをしなければならなかっただろう。
春子は、忠義に支えられながらよたよたと歩いてきた。机の上に手をつく。呼吸が荒い。喉に痰がからまったような、ゼイゼイという音がする。
木製で白い塗料が塗られた勉強机は、未来が小学校から使っているものではない。中学に入ってから新しく買ってもらったものだ。
部屋を白とピンクで統一したくて、無理を承知でお願いしたところ、忠義がちょうどパソコン用の机が欲しかったからと、未来のお古をありがたく使ってくれた。
春子が無言で、ぐるりと部屋を見渡している。
薄いピンクの生地に、小さな白い水玉のベッドカバー。淡い桃色の花柄のカーテン。ピンクの苺のクッションに、真っ白いフロアマット。
机の上には、ポップなデザインのピンクの目覚まし時計。鉛筆立てやはさみ、ティッシュカバーなど文房具から小物まで、そのほとんどを白とピンクでそろえている。
それらのデザインに統一性はないが、未来は少女趣味なその部屋に満足していた。
春子の視線が、ふらふらと部屋を徘徊して、未来の所で止まった。
「へぇ~、可愛い」
抑揚のない声。
「ありがとう」
こんなあっさりした返事でいいのだろうか。ゆっくりしていって、とでも、一言加えるべきか、未来は迷っていた。
「それじゃぁ、ハルちゃんも疲れただろうから、そろそろ戻りましょうか」
今日子のその言葉は、ガツンと悪意のある音で遮られた。
春子が机の上の目覚まし時計を床に投げつけたのだ。
小枝のような腕の、どこにそんな力が眠っているのか、と思う。
時計から電池がはずれ、ころころと転がっていく。
「お母さんが勝手に決めないで」
「まだいたければ、もっといてもいいよ」
迷いを振り切った未来が、早口で言う。
だが春子の表情に、迷いを振り切るんじゃなかったと、すぐに未来は思い返す。
春子は机の上の鉛筆やら消しゴムやらを、次々と投げつけていった。
「危ないっ」
忠義が叫んだ時には、はさみも宙を飛んでいた。
濃いピンクが鮮やかに舞う。鈍い光を放って刃が口を開いた。
美しい弧を描いて、今日子の足元に落ち、バウンドする。
幸い、傷ついたのは床だけだった。
「まだいたかったら、まだいてもいいだって? 未来ちゃん、私のこと見下しているでしょう。」
そんなことないよ、遠慮がちな未来の声は、春子の怒声にかき消されていく。
「なんで、こんなに違うのよ。同じ顔した双子の姉妹だっていうのに、わたしと未来ちゃんで、なんでこんなに違うの! なんで未来ちゃんばかり、こんなに可愛い部屋なの! わたしは普通じゃないから? ずっと寝たきりで学校も行ってないから? だからあんなにみすぼらしい部屋で充分だっていうの?」
「ハルちゃんの部屋だって清潔感があって、綺麗じゃないか」
未来に向けられた敵意は、忠義への攻撃に変わる。
「何言っているのよ! あの部屋のどこがいいの。あんなの病院と同じよ!」
「とにかくハルちゃん、少し落ち着いて」
今日子が春子の背中に手を添える。
その隙に未来は、すばやく自分の部屋を抜け出した。
隣の両親の寝室の扉を開ける。向かって正面、ベッドのサイドテーブルの上。電話の子機を無造作に掴む。走って自分の部屋に戻る。
自分の鼓動の音に合わせて、耳の奥で声が聞こえる。
ーー次は、命の保障はない。
話してくれた今日子の声ではなくて、なぜか男性の医者の声で聞こえた。
もし、春子が倒れたら、すぐに救急車を呼ぶつもりだ。未来は胸の前で子機を握りしめる。
春子が薄い手の平で机を叩く。何度も、何度も。
「ハルちゃん、やめるんだ。わかったから。ハルちゃんの部屋、未来みたいな部屋に模様替えしよう。父さん、これから買い物に行って、カーテンとか、色々買ってくるから」
机を叩く手が止まる。
「だめ。お父さん、センスないからだめ。」
再び机を叩く。
未来は、何か言わなくては、と焦る。春子の手の薄い皮膚が透けて、骨が折れるのが見えそうな気がした。
「わたしも行く。私もお父さんと一緒に買い物行って、ハルちゃんの部屋、可愛くコーディネートするから。ねっ、ねっ」
春子の止まらない手に、さらに、ねっ、ねっと、もうそれだけしか言葉が出てこない。
不意に、止まった。
「わかった。未来ちゃん、お願いね」
春子がふわっと笑顔になる。今までの不機嫌が嘘みたいに。
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未来は春子に音が届かないように、ため息をそっと漏らした。
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