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1地雷
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「ハルちゃん、ぐっすり寝てるよ」
忠義が、リビングに戻ってきた。
「どこに買い物に行く? ハルちゃん寝ている間に、こっそり模様替えしちゃおうよ。きっとびっくりするよ」
春子の為に何かしてあげたい。ずっとそう思っていたが、何をしてあげたらいいのかわからなかった。
未来は、やっと自分にできることが見つかって、少し興奮していた。
「じゃぁ、着替えて髭をそってくるから待っててくれ」
行こうとする忠義を、今日子が引き止めた。
「模様替えなんて、やったって無駄よ。どうせハルちゃん、寝て起きたらすっかり全部忘れちゃっているに決まっているじゃない」
今日子の言うことももっともだと、忠義は気を変えたのか、深くソファに腰をおろす。
「でも、約束したじゃん。ハルちゃんに、約束したでしょ。忘れちゃうかもしれないけど、覚えている時だってあるじゃない。起きた時に、今の部屋のままだったら、また怒っちゃうかもしれないよ。それに、わたし、ハルちゃんが喜ぶ顔みたい」
「そうね、未来がそう言うなら、お父さんと買い物にいってきてちょうだい」
今日子の声は、少し投げやりに聞こえた。
「お母さんは、やっぱり忘れちゃうと思う?」
「どうかな。でも、すごく頑張ったのに、それが全部無駄だったってわかったら、虚しくなるから。最初から期待はしないことよ」
「わかってる」
その時、今日子の膝ががくん、と折れた。
床に手をついて、うずくまっている。
「お母さん、大丈夫?」
「今日子、大丈夫か?」
二人の声が重なる。
「ちょっと……立ちくらみ」
ゆっくりと立ち上がった今日子の顔は、少し青ざめていた。
「疲れているんじゃないか。ハルちゃん、ぐっすり寝ているから、今のうちに今日子も少し寝た方がいい」
◇
車の窓から見上げた12月の空は、どこまでも均一な灰色でむらがない。
どうせなら、雪でも降ってくれれば気分も盛り上がるのに。未来の期待をよそに、灰色の空は重い沈黙を守っている。
走り出してすぐに、未来は冷え切った車内に暖房を入れたが、冷たい風しか出てこなくて諦めた。
「お母さん、大丈夫かな」
最初は張り切っていたのに、未来は胸の辺りがざわついて落ち着かない。
病人を二人残して、自分だけピクニックにでも出かけるような後ろめたさがあった。
「ちょっと、心配だな。でも、お母さんのことだ、少し休めばよくなるよ」
「やっぱり疲れているのかな」
未来は、運転する忠義の横顔をじっと見つめた。
今日子より4才年上で、今年46才になる忠義の目尻には、年相応の皺が刻まれていたが、疲れているようには見えず、安心する。
父親まで倒れたら、未来はどうしていいかわからない。
「そうだろうな。ハルちゃんがああなってから、20年も勤めた銀行辞めて、付きっきりで看病してくれているもんな。愚痴ひとつこぼさないで、本当によくやってくれていると思うよ」
「お母さん、本当は仕事辞めたくなかったんじゃない?」
「あぁ」
それきり、忠義は黙ったままだ。
(言っちゃいけなかったかな。多分、言っちゃいけなかったんだ)
そう気づいて、未来もそれきり黙る。
タイヤが道路と擦れる音が、車内を占領している。
定年まで、絶対に辞めないわ。口癖のように言っていた今日子。
忠義と今日子が仕事のことで言い合うのを、未来は何度か耳にしたことがある。
まだ春子が寝たりきりになる前のことだ。その頃の春子は、自分で歩くことはできたが、体調が悪くなったり良くなったり不安定だった。
それとなく仕事を辞めて欲しいとほのめかす忠義に、今日子はあからさまに不機嫌な顔をした。
大手電機メーカーに勤めている忠義の収入は、家族4人を養うには充分だったが、今日子にとって、そういったことは問題ではなかった。
何で私が辞めなければならないのか、辞めるのは忠義でもよいではないか、そんな風なことを言っていた。
その後、夫婦の間でどんな話し合いがあったのか未来にはわからなかったが、とにかく今日子は、長年勤めた銀行を退職した。
春子が倒れたのは、退職してまもなくのことだった。
平日の午後。忠義は仕事で、未来は学校だった。あの日、今日子が家にいなかったら、春子は助からなかったかもしれない。
それ以来、春子は一人では歩けなくなった。
忠義が、リビングに戻ってきた。
「どこに買い物に行く? ハルちゃん寝ている間に、こっそり模様替えしちゃおうよ。きっとびっくりするよ」
春子の為に何かしてあげたい。ずっとそう思っていたが、何をしてあげたらいいのかわからなかった。
未来は、やっと自分にできることが見つかって、少し興奮していた。
「じゃぁ、着替えて髭をそってくるから待っててくれ」
行こうとする忠義を、今日子が引き止めた。
「模様替えなんて、やったって無駄よ。どうせハルちゃん、寝て起きたらすっかり全部忘れちゃっているに決まっているじゃない」
今日子の言うことももっともだと、忠義は気を変えたのか、深くソファに腰をおろす。
「でも、約束したじゃん。ハルちゃんに、約束したでしょ。忘れちゃうかもしれないけど、覚えている時だってあるじゃない。起きた時に、今の部屋のままだったら、また怒っちゃうかもしれないよ。それに、わたし、ハルちゃんが喜ぶ顔みたい」
「そうね、未来がそう言うなら、お父さんと買い物にいってきてちょうだい」
今日子の声は、少し投げやりに聞こえた。
「お母さんは、やっぱり忘れちゃうと思う?」
「どうかな。でも、すごく頑張ったのに、それが全部無駄だったってわかったら、虚しくなるから。最初から期待はしないことよ」
「わかってる」
その時、今日子の膝ががくん、と折れた。
床に手をついて、うずくまっている。
「お母さん、大丈夫?」
「今日子、大丈夫か?」
二人の声が重なる。
「ちょっと……立ちくらみ」
ゆっくりと立ち上がった今日子の顔は、少し青ざめていた。
「疲れているんじゃないか。ハルちゃん、ぐっすり寝ているから、今のうちに今日子も少し寝た方がいい」
◇
車の窓から見上げた12月の空は、どこまでも均一な灰色でむらがない。
どうせなら、雪でも降ってくれれば気分も盛り上がるのに。未来の期待をよそに、灰色の空は重い沈黙を守っている。
走り出してすぐに、未来は冷え切った車内に暖房を入れたが、冷たい風しか出てこなくて諦めた。
「お母さん、大丈夫かな」
最初は張り切っていたのに、未来は胸の辺りがざわついて落ち着かない。
病人を二人残して、自分だけピクニックにでも出かけるような後ろめたさがあった。
「ちょっと、心配だな。でも、お母さんのことだ、少し休めばよくなるよ」
「やっぱり疲れているのかな」
未来は、運転する忠義の横顔をじっと見つめた。
今日子より4才年上で、今年46才になる忠義の目尻には、年相応の皺が刻まれていたが、疲れているようには見えず、安心する。
父親まで倒れたら、未来はどうしていいかわからない。
「そうだろうな。ハルちゃんがああなってから、20年も勤めた銀行辞めて、付きっきりで看病してくれているもんな。愚痴ひとつこぼさないで、本当によくやってくれていると思うよ」
「お母さん、本当は仕事辞めたくなかったんじゃない?」
「あぁ」
それきり、忠義は黙ったままだ。
(言っちゃいけなかったかな。多分、言っちゃいけなかったんだ)
そう気づいて、未来もそれきり黙る。
タイヤが道路と擦れる音が、車内を占領している。
定年まで、絶対に辞めないわ。口癖のように言っていた今日子。
忠義と今日子が仕事のことで言い合うのを、未来は何度か耳にしたことがある。
まだ春子が寝たりきりになる前のことだ。その頃の春子は、自分で歩くことはできたが、体調が悪くなったり良くなったり不安定だった。
それとなく仕事を辞めて欲しいとほのめかす忠義に、今日子はあからさまに不機嫌な顔をした。
大手電機メーカーに勤めている忠義の収入は、家族4人を養うには充分だったが、今日子にとって、そういったことは問題ではなかった。
何で私が辞めなければならないのか、辞めるのは忠義でもよいではないか、そんな風なことを言っていた。
その後、夫婦の間でどんな話し合いがあったのか未来にはわからなかったが、とにかく今日子は、長年勤めた銀行を退職した。
春子が倒れたのは、退職してまもなくのことだった。
平日の午後。忠義は仕事で、未来は学校だった。あの日、今日子が家にいなかったら、春子は助からなかったかもしれない。
それ以来、春子は一人では歩けなくなった。
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