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1天国から地獄
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赤い軽自動車の運転席から降りると、吐く息が白かった。
村瀬亜紀は、車のドアを後ろ手に閉めた。
目の前には、2階建ての真っ白い建物。青い空とのコントラストが美しい。入り口に向かう足が自然とはずむ。
亜紀はコートの上から自分の腹部をそっとなでた。腹部は、柔らかく膨らんでいる。
普通なら、病院に行くのは誰でも嫌なものだ。
だが今、亜紀は病院に通うことが嬉しい。
こんな気持ちになるのは唯一、出産を控えた妊婦だけではないだろうか。
入り口で立ち止まる。
横の壁には、「Miya Ladies Clinic」とおしゃれな銀色の飾り文字が浮いていた。
自動ドアのガラスに一瞬、自分の姿が映る。
ベージュのダッフルコートに、足元はヒールのない黒のパンプス。ロングストレートの黒髪に二重の大きな目。自然と口角が上がり、顔がほころんでいた。
ドアが開き、亜紀は建物内に一歩足を踏み入れた。
白とピンクを基調とした清潔感のある待合室には、薄い消毒液の匂いと暖かい空気が漂っている。外の寒さに凝り固まった身体が弛緩した。
亜紀は真っ直ぐ受け付けに向かった。
「2時に予約をしている村瀬です」
黒い布製のハンドバッグから保険証と診察券、母子手帳を出しながら、亜紀は待合室を眺めた。
亜紀は、ソファに腰かけている人をそれとなく数えていった。十人以上はいる。
皆、雑誌を読んだりスマホをいじったりしている。全員が妊婦かどうかはわからないが、そのうち五人のお腹が膨らんでいるのが確認できた。
予約は入れてあるが、少し待たされるだろう。
「先にお小水を取ってきてくださいね」
亜紀は、受付の女性に渡された紙コップを持ってトイレに行った。
前回の尿検査では糖がプラスになっていたから、今回は昼食に気をつけた。糖質に変わりやすい米などの炭水化物は避けて、野菜とヨーグルトだけ食べてきた。
これまで何度か受けてきた妊婦検診。腹部エコーで赤ちゃんを見られるのは嬉しい反面、毎回緊張もする。尿検査の結果が悪かったり体重が増加しすぎたりすると、助産師に厳しく注意されるのだ。
医師の診断の後に、別室で助産師による指導がある。
あれは2回目の検診の時だ。指導室に一歩足を踏み入れたとたん、ヒステリックな声で「体重増えすぎっ!」と喝を入れられた。
心臓をギュッと鷲掴みにされたようだった。
思わず飛び上がってしまった亜紀を見て、助産師はゲラゲラと笑った。
いたずらが見つかった子どものような気分だった。大人になってから、他人からこんなふうに叱られたのは初めてだ。
そこは、妊婦の間では通称「地獄の説教部屋」と呼ばれているらしい。前に、友だち同士で来ていた妊婦二人が、待合室でそう話しているのを聞いたことがある。
ぴったりのネーミング。一人で来ていたにもかかわらず、亜紀は思わずクスリと笑ってしまった。
トイレから戻ると、亜紀は座る場所を探した。
「ママ、これ読んでー」
2歳くらいの小さな女の子が、手前のソファに座った。ママと呼ばれた女性は、臨月なのだろうか。大きなお腹をしている。
「またこれぇ? もうすぐ順番きちゃうかもだよ」
「いいの、これ読みたい」
女の子は可愛らしいおばけの絵が表紙になった本を持っている。
「はいはい」
親子の様子に、亜紀は思わず微笑んだ。
亜紀は、コートの下に手をすべらせた。ワンピースの上から腹部をなでる。自分のお腹もしばらくすれば、あの女性のように大きく膨らむのだろうか。
亜紀はお腹に手を当てたまま、親子の後ろの席に座った。
お母さんが絵本を読み始めると、女の子がクスクス笑った。女の子はお母さんの腕にぴったり寄り添い、絵本に見入っている。
「おばけになっちゃうぞー」
脅かすようなお母さんの読み方に、女の子はひゃあと悲鳴を上げながらも声をたてて笑った。
その時、すぐ隣の席からチッと舌打ちが聞こえた。
驚いて右横を向くと、細身の少女が座っていた。ふわふわした素材のミニ丈の白いワンピースに、ヒールのある茶色いロングブーツを履いている。
髪は明るい茶色のストレートロング。髪のつやと真っ白い肌の張りから、まだ十代後半に見える。顔が小さくてお人形さんみたいだった。
その美しい容姿に舌打ちが似合わず、亜紀は聞き間違えかと思った。
「うっせーんだよ」
かわいらしい形の唇から乱暴に言葉が発せられるのを、亜紀は確かに聞いた。
眉間に皺を寄せ、明らかに迷惑そうな顔つきで斜め前に座る親子を見ていた。殺気のこもった目で睨みつけている。威嚇する猫のように、今にも髪が逆立ちそうだ。
亜紀の腕に鳥肌が立った。少女が座っている、亜紀の右半身だけが腐っていくような感覚に襲われた。
楽しそうに絵本を読んでいる親子は、少女の悪意ある視線に気がついていない。
亜紀はお腹をなでる手を止めた。
少女の顔を見ていると、胸の奥がザラザラする。気分が不安定になる。
こんな気持ちになってはいけない。きっと胎教に悪いに違いない。
亜紀は意識して少女の顔から視線をそらした。
もう一度亜紀は、やさしくお腹をなでた。
また舌打ちが聞こえてくる。今度はなんだか、自分に向けられている気がした。
だが、亜紀は聞こえなかったふりをした。
村瀬亜紀は、車のドアを後ろ手に閉めた。
目の前には、2階建ての真っ白い建物。青い空とのコントラストが美しい。入り口に向かう足が自然とはずむ。
亜紀はコートの上から自分の腹部をそっとなでた。腹部は、柔らかく膨らんでいる。
普通なら、病院に行くのは誰でも嫌なものだ。
だが今、亜紀は病院に通うことが嬉しい。
こんな気持ちになるのは唯一、出産を控えた妊婦だけではないだろうか。
入り口で立ち止まる。
横の壁には、「Miya Ladies Clinic」とおしゃれな銀色の飾り文字が浮いていた。
自動ドアのガラスに一瞬、自分の姿が映る。
ベージュのダッフルコートに、足元はヒールのない黒のパンプス。ロングストレートの黒髪に二重の大きな目。自然と口角が上がり、顔がほころんでいた。
ドアが開き、亜紀は建物内に一歩足を踏み入れた。
白とピンクを基調とした清潔感のある待合室には、薄い消毒液の匂いと暖かい空気が漂っている。外の寒さに凝り固まった身体が弛緩した。
亜紀は真っ直ぐ受け付けに向かった。
「2時に予約をしている村瀬です」
黒い布製のハンドバッグから保険証と診察券、母子手帳を出しながら、亜紀は待合室を眺めた。
亜紀は、ソファに腰かけている人をそれとなく数えていった。十人以上はいる。
皆、雑誌を読んだりスマホをいじったりしている。全員が妊婦かどうかはわからないが、そのうち五人のお腹が膨らんでいるのが確認できた。
予約は入れてあるが、少し待たされるだろう。
「先にお小水を取ってきてくださいね」
亜紀は、受付の女性に渡された紙コップを持ってトイレに行った。
前回の尿検査では糖がプラスになっていたから、今回は昼食に気をつけた。糖質に変わりやすい米などの炭水化物は避けて、野菜とヨーグルトだけ食べてきた。
これまで何度か受けてきた妊婦検診。腹部エコーで赤ちゃんを見られるのは嬉しい反面、毎回緊張もする。尿検査の結果が悪かったり体重が増加しすぎたりすると、助産師に厳しく注意されるのだ。
医師の診断の後に、別室で助産師による指導がある。
あれは2回目の検診の時だ。指導室に一歩足を踏み入れたとたん、ヒステリックな声で「体重増えすぎっ!」と喝を入れられた。
心臓をギュッと鷲掴みにされたようだった。
思わず飛び上がってしまった亜紀を見て、助産師はゲラゲラと笑った。
いたずらが見つかった子どものような気分だった。大人になってから、他人からこんなふうに叱られたのは初めてだ。
そこは、妊婦の間では通称「地獄の説教部屋」と呼ばれているらしい。前に、友だち同士で来ていた妊婦二人が、待合室でそう話しているのを聞いたことがある。
ぴったりのネーミング。一人で来ていたにもかかわらず、亜紀は思わずクスリと笑ってしまった。
トイレから戻ると、亜紀は座る場所を探した。
「ママ、これ読んでー」
2歳くらいの小さな女の子が、手前のソファに座った。ママと呼ばれた女性は、臨月なのだろうか。大きなお腹をしている。
「またこれぇ? もうすぐ順番きちゃうかもだよ」
「いいの、これ読みたい」
女の子は可愛らしいおばけの絵が表紙になった本を持っている。
「はいはい」
親子の様子に、亜紀は思わず微笑んだ。
亜紀は、コートの下に手をすべらせた。ワンピースの上から腹部をなでる。自分のお腹もしばらくすれば、あの女性のように大きく膨らむのだろうか。
亜紀はお腹に手を当てたまま、親子の後ろの席に座った。
お母さんが絵本を読み始めると、女の子がクスクス笑った。女の子はお母さんの腕にぴったり寄り添い、絵本に見入っている。
「おばけになっちゃうぞー」
脅かすようなお母さんの読み方に、女の子はひゃあと悲鳴を上げながらも声をたてて笑った。
その時、すぐ隣の席からチッと舌打ちが聞こえた。
驚いて右横を向くと、細身の少女が座っていた。ふわふわした素材のミニ丈の白いワンピースに、ヒールのある茶色いロングブーツを履いている。
髪は明るい茶色のストレートロング。髪のつやと真っ白い肌の張りから、まだ十代後半に見える。顔が小さくてお人形さんみたいだった。
その美しい容姿に舌打ちが似合わず、亜紀は聞き間違えかと思った。
「うっせーんだよ」
かわいらしい形の唇から乱暴に言葉が発せられるのを、亜紀は確かに聞いた。
眉間に皺を寄せ、明らかに迷惑そうな顔つきで斜め前に座る親子を見ていた。殺気のこもった目で睨みつけている。威嚇する猫のように、今にも髪が逆立ちそうだ。
亜紀の腕に鳥肌が立った。少女が座っている、亜紀の右半身だけが腐っていくような感覚に襲われた。
楽しそうに絵本を読んでいる親子は、少女の悪意ある視線に気がついていない。
亜紀はお腹をなでる手を止めた。
少女の顔を見ていると、胸の奥がザラザラする。気分が不安定になる。
こんな気持ちになってはいけない。きっと胎教に悪いに違いない。
亜紀は意識して少女の顔から視線をそらした。
もう一度亜紀は、やさしくお腹をなでた。
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だが、亜紀は聞こえなかったふりをした。
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