世界で一番、可愛いおばけ

ことは

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1天国から地獄

1-2

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「あっ、赤ちゃん動いてる」

 診察台に横たわりながら、亜紀は隣に設置されたモニターを見た。

 医師がモニター上で、手際よく赤ちゃんのサイズを測っている。

 ざらついた白黒の画像だが、赤ちゃんの手も足もはっきりとわかった。小さい手足を、元気よく動かしている。

 可愛い。本当に可愛い。目に焼きつけておきたい。エコーはいつもすぐに終わってしまう。1秒でも長く見ていたい。亜紀はモニターに見入っていた。

 そのうち、なんだかおかしいことに亜紀は気がついた。

 いつもなら、ほんの数十秒でエコーは終わる。

 だが、亜紀が診察台に横たわってから、ずいぶん時間が経っている気がした。

 いつも待ち時間は長いが、検診時間はほんの数分だ。検診を受けて色々説明されて、はいではまた次回ね、とあっという間に自分の番は終わる。

 亜紀は、このクリニックの院長でもある白衣姿の医師を見た。

 何度も検診に来ているが、医師の容姿をじっくり観察したことはなかった。

 白髪交じりの短髪で、がっちりした体格。目尻にできた小じわの数から、おそらく50歳前後と思われた。無精ひげを、しきりになでている。

 医師の視線は、エコーの上を行ったり来たりしていた。

「う~ん」

 そう言ったきり、医師は押し黙った。

 なにか問題でもあるのだろうか。こんなに赤ちゃんは元気に動いているのに。

 そう考えたとたんに鼓動が強くなる。息が苦しい。

 聞きたいのに聞き出す勇気が出ない。

 ずいぶん長い時間に感じたが、ほんの数秒のことだったと思う。

 待ちきれなくて、亜紀は尋ねた。

「なにか問題でもありますか」

 声がかすれていた。

「頭の形がちょっとね……今回は赤ちゃん、諦めることになるかも」

 医師はモニターに視線を貼りつかせたまま、さらりと言った。

 あまりにあっさりしていたから、亜紀は思わず受け流しそうになった。

 だが、医師の言葉を頭の中で反芻する。

 ドクンと一回、胸が大きく波打った。

「えっ」

 どういうことですかと聞きたかったが、声が出なかった。

 目の前に靄がかかったように、目がかすむ。水中にもぐった時のように、周りの音が遠くなっていった。

 数人の助産師が行き来し、診察室が慌ただしくなったが、すべての音声がくぐもって聞こえた。

 すぐに胎児スクリーニングすることになった。

 うそだうそだうそだうそだ。

 亜紀が画像を見てもわからなかった。わかりたいとも思わなかった。

 頭がなに? なんだっていうの? 何も問題はなかった、その解答しか絶対に受けつけない。受けつけるものか。亜紀は歯をくいしばった。

 だが、4D画像で詳しく見ても、医師の診断結果は変わらなかった。

 廊下の椅子に座り、医師からの説明を待つ。その間、亜紀は飛び出しそうになる心臓を両手で押さえていた。痛いほどに動悸がする。胃がムカムカした。昼に食べたものを全部吐き出したい。

 診察室に呼ばれ、椅子に座らされる。医師がメモ用紙になにか書きつけ、それを亜紀に見せた。

「無頭蓋症」という文字が目に飛びこんでくる。

 初めて見る文字の羅列だった。亜紀には、読み方がわからなかった。ムトウガイショウと読むと、医師が教えてくれた。

「頭の骨が作られていない……」

 医師が続けてなにか言ったが、言葉として理解できなかった。全身がしびれて麻痺したようになる。

 途切れ途切れに、医師の声が耳に届く。次々と亜紀の耳に飛びこんでくる言葉は、やりかけのジグソーパズルみたいに穴あきだらけだった。

 小さいが脳はある。

 脳が飛び出して。

 頭蓋骨がない。骨が。

 脳の一部はつぶれて。

 赤ちゃんがお腹の中でぶつけて、脳が。

 脳を守る骨がない。

「それから」

 医師は続けた。

 心臓にも欠陥が。

 気がつくと、助産師の女性が亜紀の背中をさすっていた。息が上がっている。ゼイゼイと苦しい音が喉からもれる。

「産めるんですよね?」

 突然大きな声が、お腹からせり上がってきた。

 小山さん、身長、体重お願いしまーす。他の患者を呼ぶ助産師の声が、急に大きく聞こえる。テレビの音声のボリュームを上げ続けたように、周りの音が急激にやかましくなる。

 耳の奥がツーンと痛くなった。

「赤ちゃん」

 自然と亜紀の出す声が大きくなる。

 周りの音に、自分の声が消されてしまう。これでは、医師に伝わらない。

「赤ちゃん、産めますよね」

 医師を脅すような低い声が出た。

「出産するかはあなたが決めることです」

 あぁ、と亜紀の口からうめき声が漏れた。

 医師から突き放された気がした。

 諦めることになるかもと言われた時よりも、もっと強く諦めろと言われている気がした。

 それしか選択肢がないのだという現実を突きつけられた気がした。

「あなたが決めればいいんですよ。ただ」

 医師がもう一度ゆっくりと言う。

 ただ、なに?

 ただ、なんなの?

 喉の奥が苦しくなって、ポロポロと涙がこぼれる。

「5年かかって、やっとできた赤ちゃんなんです」

 妊娠検査薬が陽性を示した日のことを思い出す。

 手探りで真っ暗闇を通り抜けて、やっと見えた光の筋だった。

 本当に幸せだった。

 今日だって。

 幸せな気持ちで病院に来て、受け付けして腹部エコーで元気な赤ちゃんを見て。本当にさっきまでは、フワフワした気持ちだった。

 それなのに。

 一瞬で天国から地獄に突き落とされるなんて。

 こんなこと現実にあるんだ。

 目の前で淡々と話す医師が、悪魔にしか見えなかった。

 口を押さえて声を押し殺す亜紀に、医師は続ける。

 医師の言葉が遠くなったり、突然耳元で騒音のように聞こえたりする。

 お腹の中で育つことはできるが、
「お腹の外では生きられない。このまま妊娠を継続しても、ほとんどは死産を待つことになる」

 たとえ生まれても、生きられるのはほんの数分。

「眼球の突出や欠如、口が裂けて生まれる……」

 口が裂けて生まれる口唇口蓋裂を伴うことがある。妊娠後期になると、羊水過多になり母体に危険が及ぶことも。

「できるだけ早く、人工死産にした方がいい。それができるのは21週まで。法律で決まっている。」

 亜紀ははっとなった。死産という言葉が、頭の中で繰り返される。亜紀の胸を容赦なく切りつける。

「あなたの場合……」

「ちょっと!」

 亜紀は医師の話をさえぎった。

「21週って、すぐじゃないですか。どうして今ごろそんなこと」

 医師はゆっくりとうなずいた。

「実は前回の検診で、その疑いはあったんだ。けど、赤ちゃんの手が邪魔してはっきりとわからなかった。だから、4週間待たずに2週間後に次の検診を予約してもらった」

 あっと、亜紀は口を押さえた。

 赤ちゃんが頭を押さえるような格好でよく見えないと言っていた、医師の言葉を思い出した。

 検診の間隔がいつもより早いとは思ったが、亜紀は不思議に思わなかった。2週間後に来てと、医者があまりに自然に言ったからだ。初めての赤ちゃんだから、そんなものかなと思った。

「どうして前回、教えてくれなかったんですか」

「疑いの時点であなたに伝えても、いたずらに不安にさせるだけでしょう」

 耳に水が入ったように、医師の声が再び遠くなっていく。

 どうして、どうして、という思いがぐるぐる回る。

「とにかく」
と医者は語気を強めた。

「21週までに決断しなくてはなりません」

 11週までの初期中絶なら、母体への負担が少ない吸引法で手術できるが、あなたの場合、現在19週で中期中絶になるから、
「人工的に陣痛を起こして出産することになります」

 亜紀は頭の中で医師の言葉を巻き戻した。

 人工的に陣痛を起こして、の前。なんて言ったっけ。

 チュウキチュウゼツ。中期? 中絶?

「中絶? それって中絶なんですか?」

 医師はうなずいた。

「正式には人工死産ね」

 役所に死産届を出す必要がある。それから、
「火葬の準備を」

「火葬だなんてっ」

 亜紀の喉から金切り声が出た。

「ご主人とよく話し合ってください。あなた、今30歳でしょ。子どもを持つことを望むなら、母体の回復を考えた方がいい」

 赤ちゃんが大きくなればなるほど、
「大変な手術になり、母体にも負担がかかる。今日は12月26日。すぐに決心がつけば年内でもいい」

「そんなすぐには……」

 亜紀が首を横に振ると、医師はうなずいた。

「いずれにしても、年明け早々には決めないと」

 これは数万人とか数千人に一人の確率で、原因はわからない。だけど、とにかく、これはお母さんのせいでもお父さんのせいでもない。だから、
「自分を責めることだけはしないで」

 優しい目で医師が亜紀を見ている。

 きっとずっと、時間をかけて丁寧に、優しく話してくれていたのかもしれない。

 それでも亜紀には、ここは地獄にしか思えなかった。

 助産師さんによる指導室、通称「地獄の説教部屋」に行く必要はないと言われた。今となっては、あの部屋は天国だ。

 フラフラした足で待合室に戻ると、絵本を読んでいた親子はもういなかった。

 いなくてよかった。もしあの親子がいたら、亜紀も恐ろしい目で睨みつけていたかもしれない。白いワンピースの少女のように。真っ黒い悪意をこめて。

 もしかしたら、あの少女にも辛い出来事があったのかもしれない。そんなこと、さっきまで幸せいっぱいだった亜紀には思いつかなかった。

 会計で呼ばれるまでの間、お腹の大きな女性を見るのがつらくて、ずっと下を向いていた。 

 涙が止まらなかった。周りの人から変な目で見られたってかまわなかった。

 どうして私だけが。それしか頭に思い浮かばなかった。

 ここにいる全員、地獄に落ちろ。

 嗚咽が漏れたが、亜紀は口を押さえることもしなかった。
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