8 / 29
2虚構
2-1
しおりを挟む
粉ミルクを入れた哺乳瓶に、亜紀はポットのお湯を注いだ。ふわりと甘い匂いがした。蓋を閉め、軽く振る。
「そらちゃん、ご飯だよ」
亜紀は白い骨壺の前に、哺乳瓶を置いた。リビングの片隅、小さな黒いテーブルの上に骨壺が置かれている。
亜紀は床に座って骨壺を眺めた。
リビングは冷え切っている。うす曇りの天気で、カーテンを開けていても室内は薄暗かった。床の冷たさが、亜紀の体温を奪っていく。
亜紀は毎日の洗濯と買い物に行くこと、食事を作ることだけはなんとかこなしていた。それ以外の時間は、骨壺をただ眺めて過ごした。
リビングの角には埃の塊が浮いている。部屋の掃除はあれから一度もしていなかった。
3年前に購入した2階建ての一軒家は、すべての部屋に薄く埃が積もっていた。ただ、骨壺を置いたテーブルの上だけは、水布巾で毎日綺麗に拭いていた。
亜紀は、床に放置してあったスマホを手にした。画面に日付と時間が表示される。
2月24日、午前11時13分。
亜紀はしばらくそれを眺めていた。
ふと気になって、スマホでネット検索してみる。四十九日、計算、と文字を打ちこむ。
「やっぱりそうだ」
昨日が、そらの四十九日だった。
亜紀はさらに調べた。サイトによって書かれていることはまちまちだが、死者の魂は49日間あの世とこの世の狭間をさまよっていて、50日目にあの世に旅立つらしい。
それが本当だとしたら、そらはもうここにはいないのだろうか。
それとも、まだこれから旅立つのだろうか。今日のいつ、旅立つのだろう。
「そら、まだいるの?」
そらは返事をしない。気配すら感じられない。亜紀には霊感などないのだ。
そらがあの世に旅立ってしまったかもしれないと思うと、また違う寂しさが沸いてきた。
誰かと話したい。亜紀は急に人恋しくなった。
亜紀はスマホに登録された電話帳を眺めた。
そらを失ったことは、仲の良い友人にも伝えていなかった。
妊娠を報告した友人は、何人いただろうか。嬉しくてたまらなかったから、ほとんどの友人にメールか電話で話したはずだ。最近は連絡を取っていない友人にまで、わざわざメールを送った覚えがある。
まだ心の整理はついていない。
だが、特に仲の良い中山早苗と川田友里だけには、そらのことを報告しておこうと思った。
亜紀は二人の姿を頭に思い浮かべた。茶色いミディアムヘアでふんわりした雰囲気の小柄な早苗と、快活なショートヘアで細身の友里。二人とも高校の同級生だ。
最初に早苗に連絡することにした。早苗は高校卒業後、定職にはつかずに22歳で結婚した。友人の間で一番早く結婚したものの、まだ子どもはいない。
先に早苗に連絡しようと思ったのは、彼女が過去に4回の流産を経験しているからだ。妊娠はできるがお腹の中で育たない、不育症なのだと言っていた。早苗なら亜紀の辛い気持ちをわかってくれる気がした。
中山早苗の名前を検索する。
だが、通話マークを押そうとして亜紀はためらった。
直接話す前に、一つだけ確認しておきたいことがある。
亜紀はメール画面に切り替えた。
【早苗、元気? お腹の赤ちゃんは順調かな?】
メールを送信する。
早苗は今、妊娠中のはずだ。出産予定日は、4月の上旬だった。順調に生まれれば、亜紀の子と同級生だね、と前に会ったときに話していた。そらの出産予定日は、5月22日だった。
胸がドキドキしていた。考えてはいけないことを考えてしまったからだ。
早苗の赤ちゃんも、もしかしたら……。そしたらもっと、哀しみを共有できるのに。
亜紀は愛おしそうに骨壺をなでた。
「ねえ、そらちゃん? お友達がいないと、寂しいよねぇ」
返事を待つ間に、亜紀の中でそれは期待から確信に変わっていった。いつもならすぐに返事が来るのに、なかなかこない。
亜紀がメールを送ってから、10分以上が経過している。
返事ができない理由でもあるのだろうか。あるとしたら、それは悪い理由なのではないだろうか。きっとそうだ。早苗はこれまでだって何度も妊娠しているのに、一度も出産したことがない。
ババババとスマホのバイブレーションが鳴って、亜紀は肩をビクッとさせた。
すぐにメール画面を開く。
【今回は順調だよ。まだ油断できないけどね。無事生まれるまで、ホント不安だよー】
亜紀はふーっとため息をついた。
【なかなか返事来ないからどうしたかと思った。順調そうでなにより】
送信すると、今度はすぐに返信が来た。
【あはは、トイレ行ってただけ。妊娠すると便秘にならない?】
続けてもう一通メールが来る。
【あ、今お腹蹴った!】
さらにもう一通。
【うちのベイビーすっごいわんぱくちゃん! 亜紀も胎動感じるようになった?】
「いや」
スマホを持つ手が小刻みに震え出した。めまいがして、口の中が冷たくなってくる。
亜紀は返事を打てなかった。
【あれ、メール届いてない?】
【赤ちゃん楽しみだね】
「いやっ」
【わお! うちのベイビー、お腹蹴りすぎ(笑)】
「いやいやいやいやいやいやーっ」
スマホが振動するたび、亜紀は震えた。
返事をしない亜紀のスマホに、早苗から大量のメールが届く。
亜紀は素早く文字を打って送信した。
【ごめん。ちょっと気分悪くなった。返事打てない】
【えっ、まだ悪阻終わってない?】
返事は打てないと送ったのに、文末にクエスチョンマークをつけないでほしい。しばらくしてもう1通送られてきた。
【悪阻辛いよねー。可愛い赤ちゃんのために頑張ってね】
亜紀は、早苗からのメールをすべて削除した。
「そらちゃん、ご飯だよ」
亜紀は白い骨壺の前に、哺乳瓶を置いた。リビングの片隅、小さな黒いテーブルの上に骨壺が置かれている。
亜紀は床に座って骨壺を眺めた。
リビングは冷え切っている。うす曇りの天気で、カーテンを開けていても室内は薄暗かった。床の冷たさが、亜紀の体温を奪っていく。
亜紀は毎日の洗濯と買い物に行くこと、食事を作ることだけはなんとかこなしていた。それ以外の時間は、骨壺をただ眺めて過ごした。
リビングの角には埃の塊が浮いている。部屋の掃除はあれから一度もしていなかった。
3年前に購入した2階建ての一軒家は、すべての部屋に薄く埃が積もっていた。ただ、骨壺を置いたテーブルの上だけは、水布巾で毎日綺麗に拭いていた。
亜紀は、床に放置してあったスマホを手にした。画面に日付と時間が表示される。
2月24日、午前11時13分。
亜紀はしばらくそれを眺めていた。
ふと気になって、スマホでネット検索してみる。四十九日、計算、と文字を打ちこむ。
「やっぱりそうだ」
昨日が、そらの四十九日だった。
亜紀はさらに調べた。サイトによって書かれていることはまちまちだが、死者の魂は49日間あの世とこの世の狭間をさまよっていて、50日目にあの世に旅立つらしい。
それが本当だとしたら、そらはもうここにはいないのだろうか。
それとも、まだこれから旅立つのだろうか。今日のいつ、旅立つのだろう。
「そら、まだいるの?」
そらは返事をしない。気配すら感じられない。亜紀には霊感などないのだ。
そらがあの世に旅立ってしまったかもしれないと思うと、また違う寂しさが沸いてきた。
誰かと話したい。亜紀は急に人恋しくなった。
亜紀はスマホに登録された電話帳を眺めた。
そらを失ったことは、仲の良い友人にも伝えていなかった。
妊娠を報告した友人は、何人いただろうか。嬉しくてたまらなかったから、ほとんどの友人にメールか電話で話したはずだ。最近は連絡を取っていない友人にまで、わざわざメールを送った覚えがある。
まだ心の整理はついていない。
だが、特に仲の良い中山早苗と川田友里だけには、そらのことを報告しておこうと思った。
亜紀は二人の姿を頭に思い浮かべた。茶色いミディアムヘアでふんわりした雰囲気の小柄な早苗と、快活なショートヘアで細身の友里。二人とも高校の同級生だ。
最初に早苗に連絡することにした。早苗は高校卒業後、定職にはつかずに22歳で結婚した。友人の間で一番早く結婚したものの、まだ子どもはいない。
先に早苗に連絡しようと思ったのは、彼女が過去に4回の流産を経験しているからだ。妊娠はできるがお腹の中で育たない、不育症なのだと言っていた。早苗なら亜紀の辛い気持ちをわかってくれる気がした。
中山早苗の名前を検索する。
だが、通話マークを押そうとして亜紀はためらった。
直接話す前に、一つだけ確認しておきたいことがある。
亜紀はメール画面に切り替えた。
【早苗、元気? お腹の赤ちゃんは順調かな?】
メールを送信する。
早苗は今、妊娠中のはずだ。出産予定日は、4月の上旬だった。順調に生まれれば、亜紀の子と同級生だね、と前に会ったときに話していた。そらの出産予定日は、5月22日だった。
胸がドキドキしていた。考えてはいけないことを考えてしまったからだ。
早苗の赤ちゃんも、もしかしたら……。そしたらもっと、哀しみを共有できるのに。
亜紀は愛おしそうに骨壺をなでた。
「ねえ、そらちゃん? お友達がいないと、寂しいよねぇ」
返事を待つ間に、亜紀の中でそれは期待から確信に変わっていった。いつもならすぐに返事が来るのに、なかなかこない。
亜紀がメールを送ってから、10分以上が経過している。
返事ができない理由でもあるのだろうか。あるとしたら、それは悪い理由なのではないだろうか。きっとそうだ。早苗はこれまでだって何度も妊娠しているのに、一度も出産したことがない。
ババババとスマホのバイブレーションが鳴って、亜紀は肩をビクッとさせた。
すぐにメール画面を開く。
【今回は順調だよ。まだ油断できないけどね。無事生まれるまで、ホント不安だよー】
亜紀はふーっとため息をついた。
【なかなか返事来ないからどうしたかと思った。順調そうでなにより】
送信すると、今度はすぐに返信が来た。
【あはは、トイレ行ってただけ。妊娠すると便秘にならない?】
続けてもう一通メールが来る。
【あ、今お腹蹴った!】
さらにもう一通。
【うちのベイビーすっごいわんぱくちゃん! 亜紀も胎動感じるようになった?】
「いや」
スマホを持つ手が小刻みに震え出した。めまいがして、口の中が冷たくなってくる。
亜紀は返事を打てなかった。
【あれ、メール届いてない?】
【赤ちゃん楽しみだね】
「いやっ」
【わお! うちのベイビー、お腹蹴りすぎ(笑)】
「いやいやいやいやいやいやーっ」
スマホが振動するたび、亜紀は震えた。
返事をしない亜紀のスマホに、早苗から大量のメールが届く。
亜紀は素早く文字を打って送信した。
【ごめん。ちょっと気分悪くなった。返事打てない】
【えっ、まだ悪阻終わってない?】
返事は打てないと送ったのに、文末にクエスチョンマークをつけないでほしい。しばらくしてもう1通送られてきた。
【悪阻辛いよねー。可愛い赤ちゃんのために頑張ってね】
亜紀は、早苗からのメールをすべて削除した。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
夫から『お前を愛することはない』と言われたので、お返しついでに彼のお友達をお招きした結果。
古森真朝
ファンタジー
「クラリッサ・ベル・グレイヴィア伯爵令嬢、あらかじめ言っておく。
俺がお前を愛することは、この先決してない。期待など一切するな!」
新婚初日、花嫁に真っ向から言い放った新郎アドルフ。それに対して、クラリッサが返したのは――
※ぬるいですがホラー要素があります。苦手な方はご注意ください。
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる