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1天国から地獄
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目が覚めると、真っ白い天井が見えた。
一瞬、亜紀はまだ分娩台の上にいるのかと思った。
「亜紀、目が覚めた?」
孝之の声で、頭がはっきりしてきた。
亜紀は個室のベッドに寝かされている。孝之はベッドに腰かけ、亜紀の手を握りしめていた。
鎮静剤のせいか、すごく落ち着いた気分だった。
「赤ちゃんは?」
亜紀はかすれた声で聞いた。しゃべると喉がヒリヒリした。
「うん。先生呼ぶから待って」
孝之が、ベッドの枕元にあるナースコールのボタンを押した。
すぐに医師がやってきた。孝之が立ち上がって、医師に場所を空けた。
医師は亜紀の顔色を見るように、ベッドの横にしゃがみ込んだ。
「村瀬さん、気分はどう? 落ち着いた?」
亜紀はうなずいた。
「それより先生、赤ちゃんは?」
医師の表情が曇った。
「会ったらショックを受けると思う。赤ちゃんには会わずに、このまま見送ってあげた方がいいと思う」
医師が、亜紀をなだめるように言った。
「俺もそう思う」
「孝之、会ったの? 赤ちゃんに」
孝之がわずかにうなずいた。
「私も会いたいよ。どんな姿をしていても驚かない」
「ご夫婦でよく話し合ってください」
医師はそう言って立ち去ろうとした。
「待って。今すぐ会わせて」
医師が困った顔をして孝之の方を見た。
「もう絶対に暴れたりしませんから。私、大丈夫ですから」
亜紀は祈るように言った。
「ね、孝之。お願い、赤ちゃんに会わせて」
亜紀はベッドから上半身を起こした。
孝之は苦し気な表情をした。だがすぐに決心したように、あぁ、とうなずいた。
「孝之、ありがとう」
「先生、お願いします」
孝之が医師に頭を下げた。
「本当にいいんですか」
医師がたずねると、孝之は力強くうなずいた。
医師は、わかりましたと言って部屋を出て行った。
数分すると、部屋の扉がノックされた。
「失礼します」
女性の助産師が白い小さな棺を抱いて入ってきた。
いつか説教部屋で亜紀を叱った助産師だった。あの時は震えるほど怖かったが、今は優しいお母さんのような顔をしている。まるで赤ちゃんを直接抱くように、棺を大事に抱えていた。
亜紀がベッドから降りようとすると、
「私がそっちに行くから、そのままベッドに座っていて」
と、助産師が優しく言った。
「あなたの赤ちゃんよ」
助産師がベッドの上にそっと棺を乗せた。
棺の中には白いガーゼがひいてあった。
亜紀は目に焼きつけるように、その上に寝かされた赤ちゃんをじっと見つめた。
とても小さかった。
「身長21センチ、体重218グラムだったよ」
助産師が教えてくれた。
赤い。それが最初の印象だった。
皮膚ができていないのか、筋肉や血管が剥き出しだった。
頭蓋骨はほとんどない。露出している脳は、輪郭が丸くなかった。以前医師に説明されたように、お腹の中でつぶれてしまったのだろう。
口の上部は裂けていて、鼻とつながっていた。その鼻もかろうじて穴らしきものが二つ見えるだけで、ほとんどつぶれている。
瞼は閉じられておらず、目はパッチリと大きかった。医師が言っていた眼球突出という状態なのかもしれないが、亜紀にはよくわからなかった。
亜紀はギュッと握られた左手に触れようとして、はっとした。握っているように見えた左手には、指が一本もなかった。右手を見ると指が八本あった。
亜紀は、指先でそっと赤ちゃんの左手に触れた。それから右手の指をなでた。お腹。胸。口。頬。足。次から次へと触れていった。触れた場所全部、冷たかった。
「可愛いね」
亜紀が顔を上げると、孝之が声を出さずに泣いていた。
亜紀と孝之は、生まれてきた赤ちゃんに「そら」と名付けた。お空で幸せになれるといいね、と二人でつけた。
漢字は当てなかった。平仮名にしたいと言ったのは亜紀だ。空という意味を与えてしまうことに躊躇いがあった。それは、無意識の亜紀の抵抗だった。空に旅立ってしまったら寂しいから側にいて、という亜紀の隠れた願望がそうさせたのだ。
3日後、そらは火葬された。
亜紀は、焼き場から天に向かってたゆたう灰色の煙を見上げた。
煙の向こうには、透き通るような青空が広がっていた。亜紀は目を細めた。空は明るすぎて眩しすぎて、直視できなかった。
火葬場の人に、赤ちゃんが小さすぎて骨は残らないだろうと言われた。
だが、小さな骨が少し残った。
亜紀はそらを手放すことができなかった。遺骨は手元に置くことにした。いつまでそうするかは、今はわからなかった。お経もあげなかった。
孝之はなにか言いたそうにしていたが、結局すべて、亜紀のしたいようにさせてくれた。
一瞬、亜紀はまだ分娩台の上にいるのかと思った。
「亜紀、目が覚めた?」
孝之の声で、頭がはっきりしてきた。
亜紀は個室のベッドに寝かされている。孝之はベッドに腰かけ、亜紀の手を握りしめていた。
鎮静剤のせいか、すごく落ち着いた気分だった。
「赤ちゃんは?」
亜紀はかすれた声で聞いた。しゃべると喉がヒリヒリした。
「うん。先生呼ぶから待って」
孝之が、ベッドの枕元にあるナースコールのボタンを押した。
すぐに医師がやってきた。孝之が立ち上がって、医師に場所を空けた。
医師は亜紀の顔色を見るように、ベッドの横にしゃがみ込んだ。
「村瀬さん、気分はどう? 落ち着いた?」
亜紀はうなずいた。
「それより先生、赤ちゃんは?」
医師の表情が曇った。
「会ったらショックを受けると思う。赤ちゃんには会わずに、このまま見送ってあげた方がいいと思う」
医師が、亜紀をなだめるように言った。
「俺もそう思う」
「孝之、会ったの? 赤ちゃんに」
孝之がわずかにうなずいた。
「私も会いたいよ。どんな姿をしていても驚かない」
「ご夫婦でよく話し合ってください」
医師はそう言って立ち去ろうとした。
「待って。今すぐ会わせて」
医師が困った顔をして孝之の方を見た。
「もう絶対に暴れたりしませんから。私、大丈夫ですから」
亜紀は祈るように言った。
「ね、孝之。お願い、赤ちゃんに会わせて」
亜紀はベッドから上半身を起こした。
孝之は苦し気な表情をした。だがすぐに決心したように、あぁ、とうなずいた。
「孝之、ありがとう」
「先生、お願いします」
孝之が医師に頭を下げた。
「本当にいいんですか」
医師がたずねると、孝之は力強くうなずいた。
医師は、わかりましたと言って部屋を出て行った。
数分すると、部屋の扉がノックされた。
「失礼します」
女性の助産師が白い小さな棺を抱いて入ってきた。
いつか説教部屋で亜紀を叱った助産師だった。あの時は震えるほど怖かったが、今は優しいお母さんのような顔をしている。まるで赤ちゃんを直接抱くように、棺を大事に抱えていた。
亜紀がベッドから降りようとすると、
「私がそっちに行くから、そのままベッドに座っていて」
と、助産師が優しく言った。
「あなたの赤ちゃんよ」
助産師がベッドの上にそっと棺を乗せた。
棺の中には白いガーゼがひいてあった。
亜紀は目に焼きつけるように、その上に寝かされた赤ちゃんをじっと見つめた。
とても小さかった。
「身長21センチ、体重218グラムだったよ」
助産師が教えてくれた。
赤い。それが最初の印象だった。
皮膚ができていないのか、筋肉や血管が剥き出しだった。
頭蓋骨はほとんどない。露出している脳は、輪郭が丸くなかった。以前医師に説明されたように、お腹の中でつぶれてしまったのだろう。
口の上部は裂けていて、鼻とつながっていた。その鼻もかろうじて穴らしきものが二つ見えるだけで、ほとんどつぶれている。
瞼は閉じられておらず、目はパッチリと大きかった。医師が言っていた眼球突出という状態なのかもしれないが、亜紀にはよくわからなかった。
亜紀はギュッと握られた左手に触れようとして、はっとした。握っているように見えた左手には、指が一本もなかった。右手を見ると指が八本あった。
亜紀は、指先でそっと赤ちゃんの左手に触れた。それから右手の指をなでた。お腹。胸。口。頬。足。次から次へと触れていった。触れた場所全部、冷たかった。
「可愛いね」
亜紀が顔を上げると、孝之が声を出さずに泣いていた。
亜紀と孝之は、生まれてきた赤ちゃんに「そら」と名付けた。お空で幸せになれるといいね、と二人でつけた。
漢字は当てなかった。平仮名にしたいと言ったのは亜紀だ。空という意味を与えてしまうことに躊躇いがあった。それは、無意識の亜紀の抵抗だった。空に旅立ってしまったら寂しいから側にいて、という亜紀の隠れた願望がそうさせたのだ。
3日後、そらは火葬された。
亜紀は、焼き場から天に向かってたゆたう灰色の煙を見上げた。
煙の向こうには、透き通るような青空が広がっていた。亜紀は目を細めた。空は明るすぎて眩しすぎて、直視できなかった。
火葬場の人に、赤ちゃんが小さすぎて骨は残らないだろうと言われた。
だが、小さな骨が少し残った。
亜紀はそらを手放すことができなかった。遺骨は手元に置くことにした。いつまでそうするかは、今はわからなかった。お経もあげなかった。
孝之はなにか言いたそうにしていたが、結局すべて、亜紀のしたいようにさせてくれた。
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