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事の始まり
第2話
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(許せない!許せない!許せないわ!)
アリアネスの行動に目を丸くして固まってしまった両親をパーティー会場に残して、一人で馬車に乗り込んだアリアネスの怒りは全くと言っていいほど収まっていなかった。その怒りはラシードやファニスにのみ向けられるものではない。アリアネスの怒りは何より自分自身へ向けられていた。
(どうして気づかなかったの、あの人の心変わりに!もっと早く気づいていれば!!)
「夜這いをしてでも既成事実を作っておくのだった!」
馬車の中で大きく叫んだところ、ひぃ!と馬車を操る従者の短い悲鳴が聞こえた。
「お嬢様がご乱心だ…。」
従者がそう呟いたのみ無理はなかった。アリアネスは、自分の屋敷でも社交界のどんなパーティーの場でも、決して完璧な淑女として振る舞いを崩さなかった。冷静沈着で、教養もあり、ダンスをさせても詩を詠ませても一流。いつも笑顔をたたえている。誰に何を言われても扇子で顔を隠して、コロコロと優雅に笑っている。淑女の理想とも言える姿であったが、あまりのも完璧すぎる振る舞いが反感を呼び、その社交界にあるまじき見た目と相まって、彼女はずっと謂れのない悪評を立てられてしまっている。しかし、アリアネスはそんな噂が広がっても、構わなかった。淑女たるもの、裏の裏を知り、どんな、状況にでも対応できるように振る舞わなければならない。社交はもちろん大事だが、性格が悪かろうが、この世界で賢く生きていくことが重要なのだと思っていた。
そして何より、ラシードと結婚できるならどんなことでも耐えられると思っていたのだ。
(どうしてこんなことに…。)
アリアネスはパーティー用に結い上げていた豊かな黒髪をおろす。胸元まで緩くウェーブを描く髪はかつてラシードが誉めてくれたものだ。
(お前の髪はほんとにきれいだな。東洋の女神みたいだぜ)
「うるさい!!」
あんな男の甘い声を思い出したくもない。思わず怒声を口に出してしまい、またも「ひぃいい!」という従者のかわいそうな悲鳴が聞こえてきた。
(本当に許せないわ!)
ぎりっと拳を握りしめるアリアネスを乗せた馬車はあと少しで屋敷に到着するところまで迫っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。とうとうラシード様を再起不能に陥らせたようですね。おめでとうございます。お嬢様ご自身も社交界で再起不能となった可能性もありますが。」
「口を慎みなさい、セレーナ!」
馬車を降りて早々、屋敷の扉の前で待機していたメイドの一人が話しかけてくる。それはアリアネス付きメイド、セレーナだった。幼少時からアリアネスの専属のメイドとして付き従っており、アリアネスと同じ黒髪を肩のあたりで短く切り揃えている。いつも無表情で、口も悪く、主人を主人とも思っていない振る舞いをすることもあるが、この屋敷で誰よりもアリアネスが信頼を置いている存在だった。
「私はもう部屋に戻ります!誰も近寄らないでちょうだい!!!」
大声で叫ぶアリアネスに、メイドたち両親のように目を丸くし、かしこまりました!」頭を下げる。アリアネスは彼女たちが下を向いていることを良いことに、小走りで自室まで向かった。ドアを開け、急いで鍵を閉めると同時に、両足から力が抜けてしまい、その場に崩れ落ちてしまった。
(どうして!どうして!どうしてなの!!)
私の何がいけなかったのか。彼にふさわしくあろうとしてきた努力がまだまだ足りなかったのか。何より、この容姿が気に入らなかったのか。
「あなたが……褒めてくれたのですよ?」
ぼそりと小さく呟くと、コンコンと扉をノックされる。
「アリアネス様、そろそろ我慢の限界ではありませんか?この扉を開けてください。」
声の主は先ほど振り切ったセレーナだった。
「なぜあなたがここにいるのです!私は全員下がりなさいといったはずだわ!」
「私はアリアネス様のメイドでございます。いつ、いかなる時もあなたの傍であなたを守らなければなりません。」
「今は何からも守る必要はありません!すぐにこの場から離れなさい、これは命令です!」
「その命令は聞けません。」
どうせそんなことだろうと思った。このメイドが私の言うことを素直に聞くことなんてほとんどない。それに、どうせばれるだろうと思っていた。彼女の横を通りすぎる時に。私の瞳から零れ落ちる涙を。
「全く。どうせ部屋には入れるんですから、そちらから開けていただく方が手間がかからないのですが。」
「主人の部屋に勝手に入ってくるメイドのために、どうして私が鍵を開けないといけないの!」
何を使ったのかは知らないが、扉の鍵が開く音が響く。そして、無表情のセレーナが部屋へと入ってくる。
「全く、本当に手間のかかるご主人様です。ほら、よしよし。」
セレーナは、床に座り込むアリアネスの前にしゃがみ込むとその頭に手を置いて、優しく撫でる。
表情はないはずのなのに、その瞳から感じる優しさに、アリアネスの緑の瞳からボタボタと涙がこぼれ落ちた。
「ら、ラシード様がぁ!わたくしのこと、いらないって!わ、わたしのことあんなに、ひぃっく冷たい目で!!どうしてですのぉ!」
「ほーら、よしよし。泣かないでくださいね、お嬢様。全く、いつまでたっても子供ですね。」
「ラシード様ぁ!」
ぎゅうっとセレーナに抱きつくアリアネス。淑女として、見た目も中身も完璧なアリアネスだが、婚約者であり、幼少のころから憧れ続けているラシードのことになると、ただの少女に戻ってしまうのだ。
アリアネスの行動に目を丸くして固まってしまった両親をパーティー会場に残して、一人で馬車に乗り込んだアリアネスの怒りは全くと言っていいほど収まっていなかった。その怒りはラシードやファニスにのみ向けられるものではない。アリアネスの怒りは何より自分自身へ向けられていた。
(どうして気づかなかったの、あの人の心変わりに!もっと早く気づいていれば!!)
「夜這いをしてでも既成事実を作っておくのだった!」
馬車の中で大きく叫んだところ、ひぃ!と馬車を操る従者の短い悲鳴が聞こえた。
「お嬢様がご乱心だ…。」
従者がそう呟いたのみ無理はなかった。アリアネスは、自分の屋敷でも社交界のどんなパーティーの場でも、決して完璧な淑女として振る舞いを崩さなかった。冷静沈着で、教養もあり、ダンスをさせても詩を詠ませても一流。いつも笑顔をたたえている。誰に何を言われても扇子で顔を隠して、コロコロと優雅に笑っている。淑女の理想とも言える姿であったが、あまりのも完璧すぎる振る舞いが反感を呼び、その社交界にあるまじき見た目と相まって、彼女はずっと謂れのない悪評を立てられてしまっている。しかし、アリアネスはそんな噂が広がっても、構わなかった。淑女たるもの、裏の裏を知り、どんな、状況にでも対応できるように振る舞わなければならない。社交はもちろん大事だが、性格が悪かろうが、この世界で賢く生きていくことが重要なのだと思っていた。
そして何より、ラシードと結婚できるならどんなことでも耐えられると思っていたのだ。
(どうしてこんなことに…。)
アリアネスはパーティー用に結い上げていた豊かな黒髪をおろす。胸元まで緩くウェーブを描く髪はかつてラシードが誉めてくれたものだ。
(お前の髪はほんとにきれいだな。東洋の女神みたいだぜ)
「うるさい!!」
あんな男の甘い声を思い出したくもない。思わず怒声を口に出してしまい、またも「ひぃいい!」という従者のかわいそうな悲鳴が聞こえてきた。
(本当に許せないわ!)
ぎりっと拳を握りしめるアリアネスを乗せた馬車はあと少しで屋敷に到着するところまで迫っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。とうとうラシード様を再起不能に陥らせたようですね。おめでとうございます。お嬢様ご自身も社交界で再起不能となった可能性もありますが。」
「口を慎みなさい、セレーナ!」
馬車を降りて早々、屋敷の扉の前で待機していたメイドの一人が話しかけてくる。それはアリアネス付きメイド、セレーナだった。幼少時からアリアネスの専属のメイドとして付き従っており、アリアネスと同じ黒髪を肩のあたりで短く切り揃えている。いつも無表情で、口も悪く、主人を主人とも思っていない振る舞いをすることもあるが、この屋敷で誰よりもアリアネスが信頼を置いている存在だった。
「私はもう部屋に戻ります!誰も近寄らないでちょうだい!!!」
大声で叫ぶアリアネスに、メイドたち両親のように目を丸くし、かしこまりました!」頭を下げる。アリアネスは彼女たちが下を向いていることを良いことに、小走りで自室まで向かった。ドアを開け、急いで鍵を閉めると同時に、両足から力が抜けてしまい、その場に崩れ落ちてしまった。
(どうして!どうして!どうしてなの!!)
私の何がいけなかったのか。彼にふさわしくあろうとしてきた努力がまだまだ足りなかったのか。何より、この容姿が気に入らなかったのか。
「あなたが……褒めてくれたのですよ?」
ぼそりと小さく呟くと、コンコンと扉をノックされる。
「アリアネス様、そろそろ我慢の限界ではありませんか?この扉を開けてください。」
声の主は先ほど振り切ったセレーナだった。
「なぜあなたがここにいるのです!私は全員下がりなさいといったはずだわ!」
「私はアリアネス様のメイドでございます。いつ、いかなる時もあなたの傍であなたを守らなければなりません。」
「今は何からも守る必要はありません!すぐにこの場から離れなさい、これは命令です!」
「その命令は聞けません。」
どうせそんなことだろうと思った。このメイドが私の言うことを素直に聞くことなんてほとんどない。それに、どうせばれるだろうと思っていた。彼女の横を通りすぎる時に。私の瞳から零れ落ちる涙を。
「全く。どうせ部屋には入れるんですから、そちらから開けていただく方が手間がかからないのですが。」
「主人の部屋に勝手に入ってくるメイドのために、どうして私が鍵を開けないといけないの!」
何を使ったのかは知らないが、扉の鍵が開く音が響く。そして、無表情のセレーナが部屋へと入ってくる。
「全く、本当に手間のかかるご主人様です。ほら、よしよし。」
セレーナは、床に座り込むアリアネスの前にしゃがみ込むとその頭に手を置いて、優しく撫でる。
表情はないはずのなのに、その瞳から感じる優しさに、アリアネスの緑の瞳からボタボタと涙がこぼれ落ちた。
「ら、ラシード様がぁ!わたくしのこと、いらないって!わ、わたしのことあんなに、ひぃっく冷たい目で!!どうしてですのぉ!」
「ほーら、よしよし。泣かないでくださいね、お嬢様。全く、いつまでたっても子供ですね。」
「ラシード様ぁ!」
ぎゅうっとセレーナに抱きつくアリアネス。淑女として、見た目も中身も完璧なアリアネスだが、婚約者であり、幼少のころから憧れ続けているラシードのことになると、ただの少女に戻ってしまうのだ。
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