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第一部
第2話
しおりを挟む「おはよーございまーす。」
またもやため息をついていると、入り口の扉が開き、大きなあくびをしながら一人の青年がけだるげに入ってきた。
シルクのように光り輝くプラチナの髪をボブカットにし、まるでペルシャ猫のように整った顔には、同じ色の美しい瞳が輝いている。170センチの自分よりも少しだけ低い身長のわりに、手足はすらりと伸びていて彼の美しさを強調している。それも子供のようなあくびで台無しになっているが。
「おはよう、三目くん。」
隣のデスクに座ったのは、この部署唯一の所属部員、三目海里(みつめ・かいり)君だ。
「山口さん、また朝からため息ですか?幸せ吹き飛んじゃうからやめた方がいいですよー。年寄りめいて見えますし。」
デスクについて早速、憎まれ口をたたく三目君。
「ひどい。朝からひどいよ、三目君。」
彼が新入社員としてこの部署に配属されて2年目。最初はその美しさに気後れしてしまっていたが、話せば彼がとんでもなくフレンドリーであることが分かった。まぁ、こんなに砕けた関係になるには紆余曲折があったのだが。
真新しいスーツを着てこの部屋に入ってきた彼は、開口一番「僕は仕事の関係者と付き合うつもりなんて毛頭ありませんから。ましてや誘惑なんてしませんので、そう感じたならただの勘違いです。襲ったら二度とそんな気が起きなくなるまでボコボコにしますから、覚悟しておいてください」とにらみつけてきたのだ。輝かんばかりの美しさに察しはついていたが、彼は生粋のΩ。その中でも特に美しい部類に入っている。
初対面で向けられた敵意に面食らったものの、よく見れば彼の身体が少しだけ震えていることに気づく。なんて失礼な奴だと思ったことは否定しない。しかし、そこまで言わなければならないほどの人生を送ってきたのだろう。自分のようにバースに振り回され、バースを呪うような人生を。
そう考えると、怒りなど沸いてくるはずもなかった。むしろ、この綺麗な手負いの獣をどのように癒やせるかということを考えるようになったのだ。
あまりに距離を詰めすぎるとガルガルと威嚇してくる三目君。適度な距離感を保ちながら、そんなに忙しくない仕事を2人でこなした。仲良くなろうとはしなかった。当たり障りのない職場の上司として、彼にストレスを与えない存在でありたかった。むやみに距離を詰めれば嫌われることは、瀬尾君の件で学んでいたし、自分自身も人間関係に疲弊していたからだ。2人しかいない部署だが、一応歓迎会なるものを開いたものの、夜ではなくランチ会にした。お昼ご飯も誘ったことはないし、仕事終わりに飲みに誘うこともない。休みの日に連絡することもしなかったし、プライベートなことを詮索しなかった。おそらく発情期であろう、1ヶ月に1度、彼が1週間ほどの休暇を申し出る時も「しっかり休んで」と一言告げるのみに止めていた。そんな自分に、彼も必要以上に接触してこようとはしなかった。
そんな関係性が変わったのは、彼が働き出して半年を過ぎたあたり。起きた時に少しだけ熱っぽかったので、病院に薬をもらいに行って出社した日のことだ。会社の地下にある職場に向かうため乗ったエレベーターから降りた時、理性を吹き飛ばすような蠱惑的な匂いに襲われた。まるで蜂蜜のように甘い濃厚で、暴力的なそれに思わずよろめく。その香りは部署に近づけば近づくほど強くなっていった。興奮からか震える手で部屋の扉を開くと、数メートル先で三目君がしゃがみ込んでいた。ぶるぶると痙攣し、自分の身体を守るかのように両手で抱きしめている。
「山口部長・・・。」
自分に気づいた三目君が涙のたまった瞳をこちらに向けてくる。目があった瞬間に一気に理性が吹っ飛んだ。持っていた鞄を放り投げ、むしゃぶりつくかのように彼の身体を押し倒す。
「っ!嫌だ!やめろ!!」
彼が自分の下で身をよじるが、たいした抵抗ではない。犯したいということしか考えられず、手を彼のベルトへと伸ばす。
「いやだぁ、もう、こんな、人生・・・!!。」
悲鳴のように叫んだ彼の言葉がその香り以上に自分の頭に衝撃を与えた。バースに振り回される人生なんてごめんだと、今まで努力してきた。出世街道からは外れたけれど、その思いだけは捨てていなかったはずだと。なけなしの理性をフル動員し、胸ポケットに入れていたボールペンを取り出す。
「っぐぅ!」
「ぶ、ちょう・・・?」
三目君の身体に触ろうとする己の手のこうを勢いよくボールペンで突き刺した。激しい痛みに興奮が少し収まる。
「三目君、薬は!?」
「あ、あの緊急用の、薬が、デスクの中に・・・。」
「悪いけど開けさせてもらうよ!」
返事を聞く前によろめきながら彼のデスクへ向かい、引き出しを開ける。右端に錠剤が入った小瓶を見つけ、部屋の隅に置いてある冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、彼の目の前に置いた。
「落ち着いたら声かけて!扉の前にいるから!!」
「あ、ぶちょっ!」
三目君の机の上にあった部屋の鍵を握って、またもや返事を聞かずに部屋を飛び出した。急いで鍵をかけて、ズルズルと扉の前に座り込む。まだまだ匂いは強い。立ち上がりそうになると、ボールペンを突き刺すという作業を何回も繰り返した。
コンコンと扉の内側をノックされ、体育座りをしてうなだれていた頭を起こす。腕時計で時間を確認すると、1時間弱の時間がたっていた。ボールペンを突き刺し続けた左手は血で真っ赤に染まっている。
「山口部長、そこにいるんですか?」
扉の向こうから小さな声が聞こえてくる。気づけばいつのまにか匂いも消えている。薬のおかげで発情期が収まったようだ。
「ここにいるよ。もう扉を開けて大丈夫?」
「・・・はい。」
立ち上がってドアを開けると、すぐ側に三目君が立っていた。
「すいません、発情期はまだ先のはずなのに急に。僕、わざとこんなことした訳じゃないんです!誘うとかそんなこと!!」
三目君は真っ青な表情ですがるように訴えてくる。
「僕、あの、本当に、あの!」
三目君は言葉が出てこなくなったようで、がっくりとうなだれた。
「僕、クビですか・・・?無意識に男を誘うような人間は会社には必要ありませんよね!」
うつむいたまま、彼は大声で叫んだ。何かに怒っているような、それでいて絶望しているような悲痛な声。一人で戦う三目君を見て、たまらない気持ちになった。
「大変だったね。今日はこのまま帰る?それとも仕事する?三目君の好きにしていいよ、そんなに緊急の仕事もないからね。」
震える三目君の身体に触れることを避け、自分のデスクへと腰を下ろす。
「部長・・・?」
うっすらと涙の膜がはった瞳が向けられる。
「大丈夫だよ。クビになんからならない。よく頑張ったね。君は何も悪くないよ。よく打ち勝ったね。」
「っ!!」
笑顔を浮かべながら言うと、その大きな瞳からとうとうぼろっと大粒の涙がこぼれた。ワンワンと子供のように泣き出してしまった三目君に、慌ててポケットティッシュを差し出した。
「っ!これ!」
「あ!」
自分の手の状況をすっかり忘れていたせいで、三目君に血だらけのそれを見られてしまった。隠そうとするも手をつかまれてしまう。
「っう!」
「あ、すいません!!」
握られたことで痛みが走り、顔をゆがめると三目君はすぐに手を離してくれた。しかし、涙がこれまでの倍ほど流れ出てくる結果になってしまう。
「ぶちょーーー、すいませんー!」
彼を泣き止ませるまでに1時間はかかったのだった。
そこから彼との関係性は180度変化した。就業時間はほぼほぼ無言だった彼は、暇さえあればおしゃべりに興じるようになった。しかし、口と同じぐらい腕も動かしているので、仕事も必ず業務時間内に終わらせる有能ぶり。正直、彼がここにいるのはもったいないと思うほどだ。一度、ほかの部署への異動願いを出したらどうかと提案してみたが、「僕のことを追い出すつもりですか!」と烈火のごとく怒られてしまった。彼は仕事へのモチベーションも高く、すべて紙の資料として保管されていた取引先のデータを全てデータベース化するという自分の提案にのってくれて、独学でプログラミングの勉強まで始めてくれたほどだ。
ばりばりと仕事をこなす彼といると、瀬尾君のことを思い出してしまう時もあった。三目君に瀬尾君を重ねていた訳ではないが、優秀な三目君と仕事をしていると、自分自身も仕事が楽しくなってくる。営業とは全く違うけれど、仕事なのは一緒。最近は努力することは義務ではなく、楽しいからやれるようになってきた。
「山口さん、定時ですよ。はい、仕事は終わりです。」
時折おしゃべりを楽しみながら仕事をしていると、あっという間に午後5時になってしまっていた。体調を崩しやすくなって以来、よっぽどのことがない限りは残業はしないようにしている。給料は以前に比べめっきり減ってしまったものの、人間らしい生活ができているので満足している。
「もうそんな時間か。帰る準備をしようか。」
「そうですよ。金曜日なんですから、いつまでも仕事しているなんてもったいない。さぁ、飲みに行きますよ!」
「え、いや、俺は。」
「何ですか!僕と一緒に飲めないって言うんですか!」
「その発言はもはやパワハラだからね。」
クスクスと笑い合いながらも片付けを進める。どうせ今日は用事もないし、部下が飲みに誘ってくれるなんてありがたいことだからお付き合いしようとデスクから立ち上がる。その瞬間、目の前の電話から内線の通知音が鳴った。
「定時過ぎて電話してくるなんて!取らなくていいですよ!」
「まだ過ぎて数分だよ。」
苦笑して電話を取ろうとしたが、先に三目君が電話を取ってしまった。さすが三目君、不機嫌な態度など一切出さずに、メモを取りながら応対している。最後に「これからは定時内のご連絡をいただけますか?」と念を押していたのもスマートだ。
「営業部の方が、昔取引のあった会社のデータがほしいらしくて今から取りに来るそうです。」
三目君の言葉に少し顔をしかめてしまった。営業は以前自分が働いていたところ。会社に残る条件は以前の部署の人間に自分は退職したと思わせることだ。そのため、このデータベース部に直接来ることができるのは、頻繁に入れ替わる臨時社員が担当する各部署の管理係の人間だけと限られている。三目君もそのことを知っているはずで、話を聞いてみる。
「どうしても明日のプレゼンでデータがいるみたいで。今日は管理係の人がお休みらしくて、どうしてもって粘られちゃったんです。断りはしたんですけど、熱意がすごくて・・・。」
申し訳なさそうに話す三目君を責めることはできない。とりあえず、資料だけ用意してファイルが詰まった棚の後ろにでも隠れていよう。ラッキーなことに、三目君のメモに書いてあった会社は、最近データ処理に入ったばかり。埃かぶったファイルを自分のデスクの横に積み上げてある。
「その会社の資料なら俺のデスクの上にあるよ。」
「良かった。すぐ終わりそうですね。」
よっぽど飲みに行きたいのか、三目君の機嫌があっという間に良くなった。自分も飲みに行くのが久しぶりだ。今日はちょっと飲み過ぎても良いかもしれない。うきうき気分に浸っていた自分は、続く三目君の言葉でどん底にたたきつけられてしまった。
「ちなみに依頼のあったのは営業1課ですよ。瀬尾っていう人が取りに来るみたいです。うちの花形営業マンを見られるなんてちょっとラッキーかもですね。」
遠くからエレベーターが地下についたポーンという音が聞こえた。
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