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第一部

第9話

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 瀬尾君におびえ、逆らうことができずのろのろと助手席に座った。思ったよりも優しく扉を閉めてくれた瀬尾君はすぐに運転席に乗り、車のエンジンをかけた。

 

「あの、俺、家に帰らないと。」

「ジムのカウンターに隠れるぐらいですから、特に用事はないんですよね?それに今日は金曜日ですから明日の仕事もありません。少しくらい後輩とのドライブに付き合ってくれてもいいんじゃないんですか?・・・それとも車から飛び降りてまた逃げ出しますか?」

 瀬尾君の棘のある言葉にズキッと心が痛む。しかし、強くハンドルを握る瀬尾君の手を見ていると、もしかしたら彼も傷ついていたのかもしれないと思えてきた。

「瀬尾君、俺は・・・。」

「今更言い訳なんていいですよ。あなたは、仕事を投げ出したんだ。人には責任持って仕事をしろって言っていたのに。一番無責任なのはあなたですよ。」


「っ!」

 ぐうの音も出ない。反論できる要素なんて一つもありはしなかった。


「あなたは最低ですよ。最低の上司でした。」


 そうだ。そう言われるのが嫌だった。大好きな彼に軽蔑の目で見られるのが嫌だった。だから逃げ出したのに、結局はこうなってしまった。全て自分の至らなさと弱さが原因だ。誰のせいでもない。


「そうだね。俺は最低の上司だよ。・・・そもそも君の世話役をかって出たのが悪かったんだ。」


「…いなくなるなんて予想外でしたよ。出社して、あなたを待っていてもいっこうに来ない。ほかの人に聞いてもあなたが来ない理由を誰も知らない。総務に問い合わせてみれば『退職した。今は有給に入ってる』なんて。」

 

 怒りのボルテージは上がっているはずなのに、穏やかな声で淡々と話す瀬尾君が恐ろしい。


「俺がどんな気持ちだったか分かりますか?自分の上司が突然いなくなるなんて。いきなり一人放り出された気分でしたよ。」

 自分にできるのは彼の怒りを受け止めることだけ。「ごめん」と謝りながら彼の口から次々に出てくる批判を聞き続けた。

 30分ほどたつと、瀬尾君は何も喋らなくなった。自分も彼に対して何を話せばいいのか分からず、黙り込んでしまう。手持ち無沙汰になり、視線を外へと向けると、いつの間にかだいぶ山深くまで来ていることに気づいた。自分はいったいどこに連れて行かれるのだろうか。こんな山深くまで連れてこられて、まさか殺されるなんてことはないだろうか。
 

「・・・別に殺したりはしませんから。」
 

「ひっ!何で分かったの!」
 
 だんまりを決め込んでいた瀬尾君が小さくため息をついた。考えていたことを当てられて狼狽してしまった。まさか口に出てしまっていたのだろうか。


「口に出さなくても、顔に出てるんですよあなた。そんなに分かりやすくてよく営業がつとまるなと思ってましたよ。」
 

 相変わらずひどい言葉を投げかけられる。何も言わずに押し黙っていると、やっと車が止まった。


「着きましたよ。降りてください。」


 外に出てみると、鬱蒼とした森の中だった。もう暗くなっているのでなおさら不気味だ。さっきは殺しなんかしないと言われたが、もしかしたら復讐で殴られるくらいは覚悟しておいた方がいいのかもしれない。

「いつまでそこに立ってるんですか。…ここからあなたの自宅まで歩いて帰ろうなんて無駄ですよ。森の中で遭難したければ止めませんけど。」

 変な誤解を解こうと慌てて後ろを振り返る。すると、そこには巨大なログハウスが建っていた。建物のあちらこちらにレトロなランタンが吊るしてあり、おしゃれな外観を優しく照らしている。かなり上まで上がる階段を昇った先、玄関の扉に寄りかかりながら、瀬尾君が自分を手招きしている。

「早く入りますよ。身体が冷えます。」

 「ここって瀬尾君の?」

「はい、俺のです。いいから早く。」

 車のことといい、このログハウスといい、瀬尾君の経済状況はどうなっているのだろうか。もしかしたら、瀬尾君は自分が思っているよりもお金持ちなのかもしれない。

「うわぁ、すごい。」

  建物の中に入るとなおさらすごかった。何十人もの靴を置くことができるであろう広さの玄関を抜け、リビングに入る。天井は吹き抜けになっていて、広さも申し分ない。壁の一部はガラス張りになっていて、外には美しい夜景が広がっている。その夜景を楽しめるようにするためか、座り心地の良さそうなフカフカのソファが置いてある。壁には暖炉もついていて、冬場でも寒くないのだろう。部屋の奥にはオープンキッチンもある。

 「だからいつまで立ってるんですか?早く座ってくださいよ。」

  あまりの部屋の豪華さに見とれていると、また瀬尾君から嫌みを言われてしまう。しかし、高級そうなソファに腰を下ろすことはためらわれて、部屋の隅にあった可愛らしいウッドチェアに座ることにした。そんな自分を眺めていた瀬尾君はスポーツウェアの上着をソファに投げ、苛立たしそうに前髪をかきあげる。

「何か飲みますか?酒とか何でもありますよ。」

「えっ、いや、あのお水とかいただいても?」

「なんで水なんですか…。」

  瀬尾君が眉をひそめながら、オープンキッチンの奥にある大きな冷蔵庫へと向かう。扉を開けて外国製のクラフトビール一本とまん丸の瓶に注ぎ口がついている黄金色の飲み物を取り出した。

「山口さん、ビール嫌いでしたよね。これなら飲めるでしょ。」

  よく見ると瓶の中に梅が入っていて、それが梅酒であることが分かった。沢山のおしゃれな食器やグラスが並んだマホガニー製の棚から、ぽってりとした丸っこいグラスをとりだし、氷とともに梅酒を注ぐ。瀬尾君自身は、ビールの栓を机の角に当てていとも簡単に開けた。

「ほら、そっちじゃ飲みにくいでしょ?こっちに来たらどうですか?」

  こちらには机がないので、グラスを置くところがない。ソファの前には棚と同じマホガニー製の大きなテーブルがあり、瀬尾君はソファにゆっくりと腰を下ろした。

「まずは乾杯しないと始まらないでしょ?ほら。」

 完全にプライベートという初めて見る瀬尾君の姿に魅了され、ふらふらとソファに寄っていってしまった。瀬尾君が自分の隣をぽんぽんと叩いてくれたので、そこに座ることにする。


「じゃあ久しぶりの再会に。」

「乾杯・・・。」

 遠慮がちにグラスとビール瓶を合わせる。チビチビと舐めるように飲む自分とは違い、瀬尾君は勢いよく瓶をあおり、一回で半分ほどを飲み干してしまった。ごくごくとビールを飲み込む時に動く喉仏が男らしくて、頬が赤く染まってしまう。瀬尾君がちらりと視線をこちらに向けてきた。見とれていたのを知られるのが恥ずかしくて、慌てて目線をそらし、自分も一気に梅酒をあおった。甘いお酒は好きなのだが、そんなに強い訳ではない。一瞬クラッとくるが、片手をソファについてなんとか身体を支えきった。

「こ、これ美味しいね。こんな美味しい梅酒初めて飲んだよ。」

 沈黙が怖くて、わざと明るく振る舞い、大きな声で話しかけた。それに梅酒が美味しかったのは本当だ。とろりと濃厚で、梅のうまみが凝縮されている。アルコール臭さもあまり感じず、まるでジュースのような飲みやすさだ。


「そうですか、なら良かったです。」


「う、うん。ははっ。」

 

 一言で返されてしまい、その後の会話が続かない。引きつった笑いでなんとか場を和まそうとしてみたが、どだい無理な話だった。

「あの、俺がここにいても瀬尾君落ち着かないだろうし、俺帰るよ。タクシー呼ぶからここの住所教えてもらえれば・・・。」

 


「帰る?まだ何の話も終わってないのにですか?」

 瀬尾君が飲み干したビール瓶を馬鹿丁寧にゆっくりとテーブルに置いた。


「瀬尾君に迷惑をかけてしまったことは本当に悪いと思ってる。でも、俺、あれ以上営業の部署にいたらみんなに迷惑をかけてたと思う。今は良くなったけど、あの時は本当に体調が良くなくて。」


「知ってますよ、山口さんの体調が悪かったことくらい。」


 まだ飲み足りないのか、瀬尾君はまた冷蔵庫の方へと向かい新たなビールを取り出して、その場であおった。

「会社で倒れてから異常に身体が弱くなったことも知ってますし、無理するとすぐに熱を出して立てなくなってたことも知ってますよ。」


「なんで・・・。」

 会社に体調が悪いということは伝えていたが、そこまで詳細に教えてはいない。ましてや瀬尾君には自分が弱っていることを知られたくなかったので、彼の前では人一倍強がっていた。休み返上でバリバリ働いていた時よりは休んでいたが、それでも通常の営業部員程度にとどめていたはずだ。

 

「なんで瀬尾君がそんなこと知ってるの?」


 手に持っていたグラスをテーブルに置き、ソファから立ち上がろうとする。




「・・・あと少しだったのに、どうしていなくなったんですか。・・・また最初からやり直しになったんですよ!」

 

「あと少し?えっと、どういうこと・・・っうわぁ!」

 

 突然、瀬尾君が自分の腕を取って強く引っ張ってきた。身体のバランスを崩し、ソファに仰向けに倒れ込む。

 

「ねぇ、ここから出さなければどのくらいで俺のものになってくれますか?もう2年もかけるなんてできませんよ、俺。」

 

「いったいどういう・・・。」

 

 瀬尾君が自分の身体に覆い被さってくる。彼の整いすぎた顔面を至近距離で見てしまい、恥ずかしくなって両手で顔面を覆った。

「せ、瀬尾君。あの、ちょっと近い!」


「許しませんよ、山口さん。俺から逃げるなんて、そんなこと、もう二度と許さない。」

 

「せ、瀬尾っんっ!」



 ありえない状況に目を見開く。顔を覆っていた両手を無理矢理に引きはがされ、気づけば瀬尾君の唇が自分のそれと重なっていた。
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