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「かーわいい! お耳がついてる!」
獣の耳を親指ですりすりと撫でられ、メイジーは閉じた口をもごもごと動かした。おずおずと正面にある顔に視線を移す。
長いまつげに覆われた水色の瞳はまるで青空を映した泉のよう。真っ白な肌は新雪のごとくきめ細かく光を放っている。弧を描く可憐で瑞々しい唇から発せられる声は透明で優しい。
メイジーはぼうと見惚れた。
このような美しい人間は見たことがない。母は自ら己の美貌を誇っていたし、あの男も称賛していたから美人だったのだろうと思うが、比較にならない。生きているのが不思議なほど綺麗な生命体だ。そして、良い匂いがする。
メイジーは初めて感じる感覚を処理しきれずぎゅっと目を閉じた。
「あれ、目を閉じっちゃった。ごめんね、騒ぎすぎたかな」
「スノウ様、やみくもに触れてはなりません」
新しく加わった声に目をそっと開ければ、美人の背後に立つ背の高い男が目に入る。隻眼を前髪で隠した男は、漆黒の瞳でメイジーを見下ろした。
メイジーは縮み上がり、傍らに立つジャックの後ろに隠れる。
「おいおい、怖がらせるなよ」
「珍しいね。グリンバルドは婦女子には人気が高いのに」
「あれはただの社交術です。私は女性には興味がありません」
「そんなことは今言わなくてもいいだろう」
グリンバルドと呼ばれた男は美しい青年の前に回り込むと、ジャックとメイジーの前に立ちはだかった。
「ここに住まわせるのは構いませんが、不用意にスノウ様に近寄らないよう言い聞かせなさい」
「こら! グリンバルド」
グリンバルドは背後を振り向き、スノウに小声で囁く。耳のいいメイジーはその一言一句をはっきりと聞き取った。
「貴方は可愛いものに目がないでしょう。構いたくてしょうがないのがわかります。けれど、私より優先するなんてことがあっては許しませんよ」
「ば、馬鹿だなぁ、グリンバルドは……そんなことがあるわけないだろう」
青年はもごもごと言い返す。ちらりと見えたその頬は薔薇色に染まっていた。
「とにかく、侍女長に任せて湯あみさせなさい。その犬も一緒に。衣服は私が用意しましょう」
屋敷の裏口で待機していた人物をグリンバルドが呼ぶ。紺色のワンピースをきっちり着込んだ痩せぎすの女性がこちらへ近づいてきた。ジャックはメイジーの肩を掴み、前へと押し出す。
「あのおばさんについて行け。大丈夫だ。仏頂面だがいい人だ」
女性はジャックの言葉に眉をピクリと動かすも、表情を変えず両手を差し出した。
「おいでなさい。お前も一緒に」
ペローは頭を下げて女性の掌を受ける。撫でられて気持ちよさそうに目を細めた。メイジーはそれを見て、おそるおそる女性の手を取る。悪い匂いはしなかった。
侍女長に連れられて行く小さな背中と狼を眺めながら、ジャックはグリンバルドの隣に立つ。美貌の当主補佐は、そよ風で乱れた前髪を優雅に整えていた。
「おい、よくも騙してくれたな」
「何のことでしょう」
飄々と答える精悍な横顔を、ジャックは横目でにらんだ。
「狼はいたじゃないですか」
「狼どころか薄汚れたおっさんと怖え魔女が居やがったぞ」
「仕留めたんですか?」
薄笑いを浮かべる男に呆れ、ジャックは頭を掻く。
「俺は人は撃たねぇっつーの! なんでアンタは俺を暗殺者にしたがるんだろうな。俺は猟師だ!」
「知ってますよ。そうは言っても私の手駒は貴方しかいないのだからしょうがない」
ジャックは大きなため息をついた後、小声で問う。
「あの女の記したノートに『ロワル・ドワーフ』のサインがあった。あれはドワーフ公爵の奥方で七人姉妹の母親なんだろう?」
グリンバルドは頷く。
「公爵が避暑地で見かけ、その美貌に惚れ込んで半ば無理やりに妻にしたそうです。辺境貴族の娘であるとのことですが、幼少のころから些か変わっていたようで両親に隠されて育っています。社交界にも現れたことがない」
「キメラを作るんだって意気込んでたぜ」
「危険な思想を持った人物だったようですね。彼女の愛読書は錬金術書と黒魔術書、それと医学書だったそうです。両親に言い聞かせられて結婚当初は抑えていたが、姉妹を産んでから徐々に開放し始めた。娘たちに妙な教育をし、洗脳していたようです」
ロワルの異常さに気づいた公爵が、娘たちから引きはがし、遠く離れた地へと彼女を追いやった。しかし、身柄を預かっていた貴族からも手に余ると泣きつかれ、仕方なく森の奥深くに軟禁するに至ったのだという。
「領地の男を手当たり次第誘惑していたそうですよ。ついには配属してきたばかりの若い神父に手を出した。どうやら怪しい薬を使用したようで、神父は己を責めて自ら命を絶ったといいます」
「……なんというか、執念だな。目的のために人を利用することをなんとも思っちゃいねぇんだな」
背後から二人の間に割り込んだスノウが言う。
「彼女は理解者が欲しかったんだろう。僕にはなんとなくわかるな」
グリンバルドが即座にスノウの肩を抱き屋敷へと追いやる。
「スノウ様は聞かなくてもいい話です。陽が陰ってきて風も吹いてきました。お身体に障りますからお屋敷に入ってください」
スノウは唇を尖らせ不満そうな表情をするが、グリンバルドに何言かを囁かれると途端に頬を染めて俯いた。
ジャックはその様子を見て呆れるも、先ほどスノウが言った言葉を思い返す。
ロワルは理解者が欲しかった。――確かに、誰にもわかってもらえないと彼女は嘆いていた。
ロワルは幼い頃から変わった娘だったという。高い知能を持つゆえの言動は、凡人には理解できず異常に映ったのだろう。突出した才覚を有していても、田舎では話が通じる者などおらず見出される機会もない。ただ変わり者という烙印を押され、閉じ込められて育ったのだ。
公爵に見初められ、都会に出たロワルは何を思っていたのだろう。これで自由になれると希望を持ったのだろうか。
だが、待っていたのは、公爵夫人としてのマナーを躾けられ、子を産むことを義務付けられる日々だ。それは、彼女にとって生家を上回る牢獄であったと想像できる。
その中で、娘たちから注がれる無償の愛に気付いた。
ロワルは初めて味方を得たと思ったのではないか。
娘たちに秘めてきた野望を語り、純粋な尊敬のまなざしを身に受ける。いつしかそれが彼女の生きがいとなったのだろう。
しかし、娘たちはともかく凡人の公爵が彼女の思想を理解できるわけがない。禍々しく危険な本性を現した妻を目にし、百年の恋も冷めたに違いない。
体面を重んじる臆病な夫は震えあがり、慌てて妻を遠ざけた。
娘たちから引き離され再び孤独になったロワル。
彼女は、こう考えたのではないだろうか。
『普通じゃない者なら自分を理解してくれる。自分と同じように忌み嫌われる存在ならば、ずっと共にいられる』と。
いつの間にか戻ってきたグリンバルドが、ジャックの顔を見て片眉を上げた。
「おや、珍しくも考え事ですか? おやめなさい。頭が痛くなるのがオチですよ」
「余計なお世話だよ。俺だって考えたくねぇけど、一応あいつらの母親のことだしよ」
「まあ、見かけはともかくあの娘はまともでしょう。狼もその辺の番犬よりずっと大人しくて賢い」
ジャックは満足そうに頷く。
「だろう? 勘もいい。いい拾いもんをした」
メイジーとペローは母親の描く理想郷が奇妙に歪んでいることに気付いた。そして、それを指摘したのだ。逆上した母親に虐げられても、彼らは自分たちの理念を保ち続けた。
それは奇跡的なことである。
外部から遠く隔たれた森の中では、彼らにとって母親が唯一の寄るべき存在であったはずだ。それでも、妄信することなく染まらなかったのだから。
うず高く積まれた書物の中には児童書や歴史書もあった。そこから真理を得たのか、それとも彼らの中に宿る狼の血のせいか。
奇しくも母親に与えられた類まれなる嗅覚が、彼女の淀んだ香りを嗅ぎ取ったのか。
「ともかく強くて優しい姉弟だ」
自分の事のように胸を張るジャックを、グリンバルドはついと顎を上げて見下ろした。
「だとしても、スノウ様を傷つけないようしっかりと躾けてください。粗相をしたら容赦なく追い出しますよ。あと、スノウ様の前では耳は見せないようあの娘に言い聞かせなさい」
「余裕がなさすぎだろう。今や誰もが認める恋人の座に納まったというのに何をそんなに恐れることがあるのかね。坊ちゃんだってアンタしか見ちゃいねぇよ」
「大切だから恐れるのですよ。至高の幸せを味わった今、それを失うことがあれば、私はきっと正気を保てない」
隻眼ですら己の魅力にしてしまう魔性の男は、知的な美貌を歪ませて自嘲する。
ジャックは腰に手を当て、わざと大きなため息をついた。
「だから、そんなことはありえねえって言ってんのに。どうしてそう先回りしてろくでもねぇ想像をするんだアンタは」
「お前は私のように憂うことはないのでしょうね。まことに単純で羨ましい」
「馬鹿にしてんのか?」
睨むジャックに視線を向け、グリンバルドは口の端を上げる。
「褒めているんですよ。貴方のように明快な人間にしか為せないことがこの世の中にはあるのです。やはり私の判断に狂いはなかった。余計な土産を携えてきたけれど、今回の任務は概ね合格点といえるでしょう」
「はあ……そうかよ」
ジャックは考えることを諦めた。グリンバルドの言った通り、使い慣れない思考を駆使したためにこめかみがズキズキと痛む。
「あとの処置は依頼主であるドワーフ卿に任せましょう。己が引き起こした罪は償ってもらわないと。それにしても、一度ならず二度もお膳立てしてさしあげねばならないとは。まったく手のかかるお方だ」
グリンバルドはうっすらと笑うとジャックに背を向けて屋敷へと戻っていく。
ジャックは背中を駆け上がってきた怖気に身震いをした。そして、鳥肌の立った腕をさすりながら自らの作業小屋へと歩き出す。
道中、こめかみを揉みつつ雇い主であり親友でもある男のことを考えた。
グリンバルドはドワーフ公爵に利用価値があると判断し、恩を売るために依頼を引き受けたのだろう。そして、極力こちらの手は汚さず新たな弱みを握ることに、まんまと成功したわけだ。
公爵はいまやグリンバルドに頼りきっている。王太子にも一目置かれているらしく、政策についての相談をしばしば持ち掛けられるほどだとか。田舎の中級貴族で正当な血筋を持たない男が、王国の大物を手玉に取っているというのだから恐れ入る。
しかし、グリンバルドは決して出世を望んでいるわけではない。
彼の望みはささやかなものなのだとジャックは思う。
多少不便だが緑に囲まれた美しいこの地で、愛する存在と穏やかに日々を送ること。それを守りたいだけなのだ。ようやく得た幸せを失わないよう不安要素は出来るだけ排除したい。そのために頑丈な楔を打っておきたいのだ。
かなりやりすぎだとは思うが。
「頭のいい人間ってのは、たいへんだな」
ジャックは呟き、頭を掻く。
これからも、グリンバルドはジャックに面倒な任務を押し付けるに違いない。そして、ぶうぶうと文句を垂ながらも自分は従うのだろう。
グリンバルドは己の冷酷な一面をスノウには見せたがらない。それであれば、彼の裏の顔をも知るジャックが、唯一の理解者ということになる。
「付き合うしかねぇよなぁ」
自分はしがない猟師。決して物語の主人公にはなり得ない。ドラマティックな運命に翻弄され面倒ごとに巻き込まれていく綺羅星たちの後を追い、彼らを少しばかり手助けしてやる、空砲を打って憂いを吹き飛ばしてやる。それぐらいしかできない。
しかし、重要な役割だ。
「つまり、名脇役ってわけだ。――悪くねぇな」
だから、自分はそのままでいればいい。
変わることなく、己の美学を誇って生きていけばいい。
ジャックは鼻歌を歌いながら進む。
その調子っぱぐれの音は木々の枝を通り過ぎ、やがて、晴れ渡る青空へと昇っていった。
「赤ずきんと猟師」~完~
獣の耳を親指ですりすりと撫でられ、メイジーは閉じた口をもごもごと動かした。おずおずと正面にある顔に視線を移す。
長いまつげに覆われた水色の瞳はまるで青空を映した泉のよう。真っ白な肌は新雪のごとくきめ細かく光を放っている。弧を描く可憐で瑞々しい唇から発せられる声は透明で優しい。
メイジーはぼうと見惚れた。
このような美しい人間は見たことがない。母は自ら己の美貌を誇っていたし、あの男も称賛していたから美人だったのだろうと思うが、比較にならない。生きているのが不思議なほど綺麗な生命体だ。そして、良い匂いがする。
メイジーは初めて感じる感覚を処理しきれずぎゅっと目を閉じた。
「あれ、目を閉じっちゃった。ごめんね、騒ぎすぎたかな」
「スノウ様、やみくもに触れてはなりません」
新しく加わった声に目をそっと開ければ、美人の背後に立つ背の高い男が目に入る。隻眼を前髪で隠した男は、漆黒の瞳でメイジーを見下ろした。
メイジーは縮み上がり、傍らに立つジャックの後ろに隠れる。
「おいおい、怖がらせるなよ」
「珍しいね。グリンバルドは婦女子には人気が高いのに」
「あれはただの社交術です。私は女性には興味がありません」
「そんなことは今言わなくてもいいだろう」
グリンバルドと呼ばれた男は美しい青年の前に回り込むと、ジャックとメイジーの前に立ちはだかった。
「ここに住まわせるのは構いませんが、不用意にスノウ様に近寄らないよう言い聞かせなさい」
「こら! グリンバルド」
グリンバルドは背後を振り向き、スノウに小声で囁く。耳のいいメイジーはその一言一句をはっきりと聞き取った。
「貴方は可愛いものに目がないでしょう。構いたくてしょうがないのがわかります。けれど、私より優先するなんてことがあっては許しませんよ」
「ば、馬鹿だなぁ、グリンバルドは……そんなことがあるわけないだろう」
青年はもごもごと言い返す。ちらりと見えたその頬は薔薇色に染まっていた。
「とにかく、侍女長に任せて湯あみさせなさい。その犬も一緒に。衣服は私が用意しましょう」
屋敷の裏口で待機していた人物をグリンバルドが呼ぶ。紺色のワンピースをきっちり着込んだ痩せぎすの女性がこちらへ近づいてきた。ジャックはメイジーの肩を掴み、前へと押し出す。
「あのおばさんについて行け。大丈夫だ。仏頂面だがいい人だ」
女性はジャックの言葉に眉をピクリと動かすも、表情を変えず両手を差し出した。
「おいでなさい。お前も一緒に」
ペローは頭を下げて女性の掌を受ける。撫でられて気持ちよさそうに目を細めた。メイジーはそれを見て、おそるおそる女性の手を取る。悪い匂いはしなかった。
侍女長に連れられて行く小さな背中と狼を眺めながら、ジャックはグリンバルドの隣に立つ。美貌の当主補佐は、そよ風で乱れた前髪を優雅に整えていた。
「おい、よくも騙してくれたな」
「何のことでしょう」
飄々と答える精悍な横顔を、ジャックは横目でにらんだ。
「狼はいたじゃないですか」
「狼どころか薄汚れたおっさんと怖え魔女が居やがったぞ」
「仕留めたんですか?」
薄笑いを浮かべる男に呆れ、ジャックは頭を掻く。
「俺は人は撃たねぇっつーの! なんでアンタは俺を暗殺者にしたがるんだろうな。俺は猟師だ!」
「知ってますよ。そうは言っても私の手駒は貴方しかいないのだからしょうがない」
ジャックは大きなため息をついた後、小声で問う。
「あの女の記したノートに『ロワル・ドワーフ』のサインがあった。あれはドワーフ公爵の奥方で七人姉妹の母親なんだろう?」
グリンバルドは頷く。
「公爵が避暑地で見かけ、その美貌に惚れ込んで半ば無理やりに妻にしたそうです。辺境貴族の娘であるとのことですが、幼少のころから些か変わっていたようで両親に隠されて育っています。社交界にも現れたことがない」
「キメラを作るんだって意気込んでたぜ」
「危険な思想を持った人物だったようですね。彼女の愛読書は錬金術書と黒魔術書、それと医学書だったそうです。両親に言い聞かせられて結婚当初は抑えていたが、姉妹を産んでから徐々に開放し始めた。娘たちに妙な教育をし、洗脳していたようです」
ロワルの異常さに気づいた公爵が、娘たちから引きはがし、遠く離れた地へと彼女を追いやった。しかし、身柄を預かっていた貴族からも手に余ると泣きつかれ、仕方なく森の奥深くに軟禁するに至ったのだという。
「領地の男を手当たり次第誘惑していたそうですよ。ついには配属してきたばかりの若い神父に手を出した。どうやら怪しい薬を使用したようで、神父は己を責めて自ら命を絶ったといいます」
「……なんというか、執念だな。目的のために人を利用することをなんとも思っちゃいねぇんだな」
背後から二人の間に割り込んだスノウが言う。
「彼女は理解者が欲しかったんだろう。僕にはなんとなくわかるな」
グリンバルドが即座にスノウの肩を抱き屋敷へと追いやる。
「スノウ様は聞かなくてもいい話です。陽が陰ってきて風も吹いてきました。お身体に障りますからお屋敷に入ってください」
スノウは唇を尖らせ不満そうな表情をするが、グリンバルドに何言かを囁かれると途端に頬を染めて俯いた。
ジャックはその様子を見て呆れるも、先ほどスノウが言った言葉を思い返す。
ロワルは理解者が欲しかった。――確かに、誰にもわかってもらえないと彼女は嘆いていた。
ロワルは幼い頃から変わった娘だったという。高い知能を持つゆえの言動は、凡人には理解できず異常に映ったのだろう。突出した才覚を有していても、田舎では話が通じる者などおらず見出される機会もない。ただ変わり者という烙印を押され、閉じ込められて育ったのだ。
公爵に見初められ、都会に出たロワルは何を思っていたのだろう。これで自由になれると希望を持ったのだろうか。
だが、待っていたのは、公爵夫人としてのマナーを躾けられ、子を産むことを義務付けられる日々だ。それは、彼女にとって生家を上回る牢獄であったと想像できる。
その中で、娘たちから注がれる無償の愛に気付いた。
ロワルは初めて味方を得たと思ったのではないか。
娘たちに秘めてきた野望を語り、純粋な尊敬のまなざしを身に受ける。いつしかそれが彼女の生きがいとなったのだろう。
しかし、娘たちはともかく凡人の公爵が彼女の思想を理解できるわけがない。禍々しく危険な本性を現した妻を目にし、百年の恋も冷めたに違いない。
体面を重んじる臆病な夫は震えあがり、慌てて妻を遠ざけた。
娘たちから引き離され再び孤独になったロワル。
彼女は、こう考えたのではないだろうか。
『普通じゃない者なら自分を理解してくれる。自分と同じように忌み嫌われる存在ならば、ずっと共にいられる』と。
いつの間にか戻ってきたグリンバルドが、ジャックの顔を見て片眉を上げた。
「おや、珍しくも考え事ですか? おやめなさい。頭が痛くなるのがオチですよ」
「余計なお世話だよ。俺だって考えたくねぇけど、一応あいつらの母親のことだしよ」
「まあ、見かけはともかくあの娘はまともでしょう。狼もその辺の番犬よりずっと大人しくて賢い」
ジャックは満足そうに頷く。
「だろう? 勘もいい。いい拾いもんをした」
メイジーとペローは母親の描く理想郷が奇妙に歪んでいることに気付いた。そして、それを指摘したのだ。逆上した母親に虐げられても、彼らは自分たちの理念を保ち続けた。
それは奇跡的なことである。
外部から遠く隔たれた森の中では、彼らにとって母親が唯一の寄るべき存在であったはずだ。それでも、妄信することなく染まらなかったのだから。
うず高く積まれた書物の中には児童書や歴史書もあった。そこから真理を得たのか、それとも彼らの中に宿る狼の血のせいか。
奇しくも母親に与えられた類まれなる嗅覚が、彼女の淀んだ香りを嗅ぎ取ったのか。
「ともかく強くて優しい姉弟だ」
自分の事のように胸を張るジャックを、グリンバルドはついと顎を上げて見下ろした。
「だとしても、スノウ様を傷つけないようしっかりと躾けてください。粗相をしたら容赦なく追い出しますよ。あと、スノウ様の前では耳は見せないようあの娘に言い聞かせなさい」
「余裕がなさすぎだろう。今や誰もが認める恋人の座に納まったというのに何をそんなに恐れることがあるのかね。坊ちゃんだってアンタしか見ちゃいねぇよ」
「大切だから恐れるのですよ。至高の幸せを味わった今、それを失うことがあれば、私はきっと正気を保てない」
隻眼ですら己の魅力にしてしまう魔性の男は、知的な美貌を歪ませて自嘲する。
ジャックは腰に手を当て、わざと大きなため息をついた。
「だから、そんなことはありえねえって言ってんのに。どうしてそう先回りしてろくでもねぇ想像をするんだアンタは」
「お前は私のように憂うことはないのでしょうね。まことに単純で羨ましい」
「馬鹿にしてんのか?」
睨むジャックに視線を向け、グリンバルドは口の端を上げる。
「褒めているんですよ。貴方のように明快な人間にしか為せないことがこの世の中にはあるのです。やはり私の判断に狂いはなかった。余計な土産を携えてきたけれど、今回の任務は概ね合格点といえるでしょう」
「はあ……そうかよ」
ジャックは考えることを諦めた。グリンバルドの言った通り、使い慣れない思考を駆使したためにこめかみがズキズキと痛む。
「あとの処置は依頼主であるドワーフ卿に任せましょう。己が引き起こした罪は償ってもらわないと。それにしても、一度ならず二度もお膳立てしてさしあげねばならないとは。まったく手のかかるお方だ」
グリンバルドはうっすらと笑うとジャックに背を向けて屋敷へと戻っていく。
ジャックは背中を駆け上がってきた怖気に身震いをした。そして、鳥肌の立った腕をさすりながら自らの作業小屋へと歩き出す。
道中、こめかみを揉みつつ雇い主であり親友でもある男のことを考えた。
グリンバルドはドワーフ公爵に利用価値があると判断し、恩を売るために依頼を引き受けたのだろう。そして、極力こちらの手は汚さず新たな弱みを握ることに、まんまと成功したわけだ。
公爵はいまやグリンバルドに頼りきっている。王太子にも一目置かれているらしく、政策についての相談をしばしば持ち掛けられるほどだとか。田舎の中級貴族で正当な血筋を持たない男が、王国の大物を手玉に取っているというのだから恐れ入る。
しかし、グリンバルドは決して出世を望んでいるわけではない。
彼の望みはささやかなものなのだとジャックは思う。
多少不便だが緑に囲まれた美しいこの地で、愛する存在と穏やかに日々を送ること。それを守りたいだけなのだ。ようやく得た幸せを失わないよう不安要素は出来るだけ排除したい。そのために頑丈な楔を打っておきたいのだ。
かなりやりすぎだとは思うが。
「頭のいい人間ってのは、たいへんだな」
ジャックは呟き、頭を掻く。
これからも、グリンバルドはジャックに面倒な任務を押し付けるに違いない。そして、ぶうぶうと文句を垂ながらも自分は従うのだろう。
グリンバルドは己の冷酷な一面をスノウには見せたがらない。それであれば、彼の裏の顔をも知るジャックが、唯一の理解者ということになる。
「付き合うしかねぇよなぁ」
自分はしがない猟師。決して物語の主人公にはなり得ない。ドラマティックな運命に翻弄され面倒ごとに巻き込まれていく綺羅星たちの後を追い、彼らを少しばかり手助けしてやる、空砲を打って憂いを吹き飛ばしてやる。それぐらいしかできない。
しかし、重要な役割だ。
「つまり、名脇役ってわけだ。――悪くねぇな」
だから、自分はそのままでいればいい。
変わることなく、己の美学を誇って生きていけばいい。
ジャックは鼻歌を歌いながら進む。
その調子っぱぐれの音は木々の枝を通り過ぎ、やがて、晴れ渡る青空へと昇っていった。
「赤ずきんと猟師」~完~
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グリンバルド…:( ;´꒳`;):
わーい🙌✨ありがとうございます!!
嫉妬心も隠さなくなったグリンバルド
彼の世界はスノウ中心に回ってる。
でも、スノウはきっと、グリンバルドの目を盗んでメイジーにお菓子とかおリボンとかあげてると思う。