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Season 3
第二十五話:カウントダウンの風
しおりを挟む『聖グレイスワンダー魔法学園』の休日。秋の陽光が、霧に包まれた森の小道を優しく照らしていた。アリスは、軽やかな足取りでロングランを続けていた。ワラーチを進化させた魔法サンダルが、落ち葉を優しく踏みしめる。息が上がり、汗が額を伝うが、心は穏やかだ。
フルマラソンに向けて、数ヶ月間、ほぼ毎日欠かさず練習を重ねてきた。月間走行距離は200キロを超え、ペースは安定した4時間切りを意識したもの。風が頰を撫で、遠くで学園の時計塔が低く鐘を鳴らす。
「あと1週間か……。博士のレース、ちゃんと完走できるかな。」
アリスは独り言を呟き、坂道を上った。異世界エテルニアに転生して以来、走ることは彼女の日常の一部になっていた。異世界の魔法と、現実の情熱が交錯するこの人生。クロノスの鍵がポケットで微かに温かく、まるで励ますように振動する。
──遡ること数ヶ月前。Red Bankの森の小道で、アリスはランウェル博士と並走していた。あの初対面の公園から、数回のタイムトラベルで築かれた師弟のような絆。博士の白髪が風に揺れ、革のランニングシューズが土を蹴る音が、リズミカルに響く。
「アリス、君もフルマラソンを走ってみないか。」
博士の言葉に、アリスは足を止めた。息を弾ませ、目を丸くする。「フルマラソン……? そんな長い距離、走れるんでしょうか。私、異世界転送されてから走り始めたばかりで……。」
博士は優しく微笑み、木陰のベンチに腰を下ろした。ハーブティーの入った水筒を差し出しながら、丁寧に説明を始めた。「マラソンは、ただの距離じゃないよ。人生のメタファーさ。42キロ195メートル──それは、諦めそうになる壁を越える旅だ。君のクロノスの鍵のように、時を超えて自分を見つけるんだ。最初は10キロから始め、徐々にビルドアップ。栄養、休息、精神のバランスを整えれば、誰でも可能だ。私も45歳で本格的に再開した。君なら、きっと素晴らしい初マラソンになるよ。」
その言葉に、アリスは頷いた。博士の目には、情熱の炎が宿っていた。
以来、アリスはフルマラソンへのトレーニングを開始した。デイジーと共同開発した魔道具トレッドミルで、坂道をシミュレートしたインターバル走。猫族のミャウ──ふわふわの尻尾を振りながら、ヒルスプリントの相棒として山道を駆け上がる。「にゃんにゃん、もっと速く! アリス、尻尾を切る勢いで!」と、ミャウの励ましが笑いを誘う。そして、魔法学園に入学してからは、通学路を片道60分のジョギングに変えた。霧の森を抜け、学園の門まで──風属性の魔力が、足取りを軽くする日課だ。
「魔法学園の競技会はまだ先……。今はフルマラソンに集中だ。」
アリスはそう自分に言い聞かせ、ロングランのゴールラインを切った。クロノスの鍵が、強く光り始めた。
──そして、当日。
クロノスの雑貨屋の2階、アリスの寝室、ポータルが渦巻く光を放つ。
デイジー──魔道具師でアリスの親友、緑の肩までの髪をなびかせ、作業台でアリスのサンダルを磨き上げていた。青とオレンジのストライプに、淡い緑のルーンが刻まれる。
「できたわ。地面からの反発を受けられるようにしたの。アリスの風属性の魔力と相性がいいわ。4時間は持つから、大丈夫。」
デイジーの声は、機械的な優しさを帯びていた。アリスはサンダルを履き、試しにステップを踏む。まるで雲の上を滑るような弾力。魔法の風が、足元を支える。
「すごい! これなら、最新のランニングシューズより走れるんじゃない?」
デイジーは眼鏡を押し上げ、微笑んだ。「ふふ、褒めすぎよ。でも、アリスの努力があってこそ。頑張ってね!」
ポータルに飛び込むアリス。次の瞬間、視界が切り替わる。1987年11月8日、ワシントンD.C.──マリンコープス・マラソンの会場。空は澄み渡り、秋の紅葉がPentagonの周囲を彩っていた。スタートライン近くのI-395ハイウェイは、数万人のランナーで埋め尽くされている。1987年のこのレースは、成長著しい「人民のマラソン」として知られ、参加者は1万人を超えていた。
海兵隊のボランティアたちが、厳粛な制服姿でコースを整え、「Oorah!(がんばれ!)」の雄叫びが朝の空気を震わせる。
家族連れの観客がNational Mallの芝生にシートを広げ、赤白青の旗を振る。Jared Haleのような新星ランナーがエリートブロックでウォーミングアップをし、古風なランニングウェア──コットンのTシャツと厚底のシューズ──がレトロな活気を醸す。
Potomac川の風が、興奮と緊張の匂いを運んでくる。橋のアップヒルが待ち受けるコースは、首都のランドマークを巡る祝祭の舞台だ。
アリスはゼッケンを胸に、群衆を掻き分ける。魔法サンダルが、コンクリートに馴染む感触。そこに、白髪のシルエット──ランウェル博士。60歳の彼は、ベンチでストレッチをしていた。
「アリス……来てくれたな。君の鍵の導き、信じていたよ。」
博士の声は、少し震えていた。アリスは彼の手に、温かさを感じる。「博士、私も……初マラソン、楽しみです。でも、緊張して……。」
博士は深呼吸をし、周囲の喧騒をよそに、静かに語り始めた。「実は、伝えていなかったことがある。1986年、前立腺癌の診断を受けたんだ。心臓の専門医である私が、走るのを諦めかけたよ。夜のトラックで、影が長く伸びるのを見て……『もう遅い』と。家族の心配、患者たちの視線が、重かった。」
アリスは息を呑む。博士の目には、過去の痛みが浮かぶ。「でも、君と出会って……異世界の少女が、過労の鎖を走りで断ち切る姿を見て、私は思い出した。走ることは、生きることだ。君の物語が、私の心臓に火を灯した。今日のベストを、君に捧げよう。アリス、共に走ろう。」
二人は拳を合わせる。ブロックは別──博士はベテラン向けのミドル、アリスは初心者寄りのバック。だが、心は並走していた。
号砲が鳴り響く。海兵隊のトランペットが、朝の空を切り裂く。数万の足音が、地響きのように動き出す。博士の後ろ姿が、群衆に溶け込む。アリスはサンダルの紐を確かめ、深呼吸。「いくよ、博士。私も、諦めない。」
風が、カウントダウンを運ぶ──。
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