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01:沈黙の世界
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意識は、深い海の底にある。
光も、音も、温度さえも届かない、静かで冷たい水圧だけが支配する場所。俺、高槻彰人(たかつきあきと)の魂は、今そんな場所に沈んでいる。
ただ奇妙なことに、思考だけは驚くほどクリアだった。まるで水面を見上げるように、自分の置かれた状況を冷静に分析しているもうひとりの自分がいる。
これが俗にいう、昏睡状態というやつらしい。
三年前に企業されたITベンチャー会社で、新しい部署を立ち上げ、がむしゃらに働き、ようやく軌道に乗り始めた。その日は朝から雨が降り続き、夜にはアスファルトが黒々と濡れ光っていた。大きな契約をまとめ上げた俺は、高揚感を抱いたまま愛車で帰路についていた。おまけに恋人へのプロポーズを目に前にしていて、上機嫌もいいところ。ハンドルを握りながら、プロポーズの言葉を頭の中で反芻していた。
ところが、車がカーブに差し掛かった瞬間。対向車線のヘッドライトが大きくぶれ、あり得ない角度でこちらに突っ込んできた。
そこから先の記憶はない。
次に意識が戻った時、俺はこの暗闇と沈黙の中にいた。
最初に感じたのは、圧倒的な無力感だった。目を開けようとしても、まぶたは鉛のように重く感じられて、ぴくりとも動かない。
叫ぼうとしても、喉の奥で息が虚しく滞るだけで、声帯は震えさえしない。
指一本、足の先ひとつ、俺の意思が届く身体のパーツはどこにもなかった。
まるで自分という魂だけが、動かなくなった肉体という名の檻に閉じ込められてしまったかのように感じられた。
俺の世界との接点は唯一、聴覚だけだった。それも、ある程度大きな音しか拾えない。遠くの喧騒は届かず、ただ無機質な電子音が一定のリズムでピッ、ピッ、と鳴り続けている。おそらく心電図モニターの音だろう。時折、その音が俺のすぐそばを通り過ぎていく。
「高槻さん、体位交換しますね」
くぐもった女性の声。看護師だろうか。
次の瞬間、俺の身体はまるで大きな荷物のように、ごろん、と無造作に転がされた。背中に新しいシーツの感触が広がるが、それは皮膚で感じているというより、ただ「そういうものに触れている」という事実だけが情報として流れ込んでくるような感じ。妙に生々しく、そして実感の伴わない感覚だった。
「バイタルは安定しています。今日も特に変わりありませんね」
今度は男の声。おそらく担当医だ。
彼らにとって俺は思考も感情もない、生命維持装置に繋がれた肉塊でしかない。
違う。
俺はここにいる。
聞いている。
感じているんだ。
あんたたちが俺の身体をモノのように扱うその無遠慮さも、事務的な報告の声色も全部、全部聞こえている!
そう叫びたいのに、意思は脳内で虚しく反響するだけだ。
もどかしさが、熱い溶岩のように意識の底から湧き上がってくる。このまま誰にも気づかれず、思考だけがクリアなまま、この肉体が朽ち果てるのを待つしかないのだろうか。意識だけがゆっくりと腐っていく感覚。それは、死ぬよりも恐ろしい拷問のように思えた。
電子音と、時折響く看護師たちの足音。それが世界のすべてだった。
しかし、絶望が日常になりかけていた俺にも、唯一の希望がある。
キィ、と、静かに病室のドアが開く音がした。
続いて、パタ、パタ、という軽いスリッパの音。それはいつも慌ただしく行き来する看護師たちのそれとは、明らかに違うリズムだった。
その足音は、俺のベッドのすぐそばで止まった。
そして、椅子を引く音と、小さな衣擦れの音。
沈黙。
俺は、意識を集中させる。
やがて、絶望に満たされた俺の暗闇に、澄んだ鈴が転がるような、世界で一番聞きたかった声が響いた。
「あきと、来たよ」
その声が聞こえた瞬間。
俺の意識の海の底に、一筋の光が差し込んだ気がした。
-つづく-
光も、音も、温度さえも届かない、静かで冷たい水圧だけが支配する場所。俺、高槻彰人(たかつきあきと)の魂は、今そんな場所に沈んでいる。
ただ奇妙なことに、思考だけは驚くほどクリアだった。まるで水面を見上げるように、自分の置かれた状況を冷静に分析しているもうひとりの自分がいる。
これが俗にいう、昏睡状態というやつらしい。
三年前に企業されたITベンチャー会社で、新しい部署を立ち上げ、がむしゃらに働き、ようやく軌道に乗り始めた。その日は朝から雨が降り続き、夜にはアスファルトが黒々と濡れ光っていた。大きな契約をまとめ上げた俺は、高揚感を抱いたまま愛車で帰路についていた。おまけに恋人へのプロポーズを目に前にしていて、上機嫌もいいところ。ハンドルを握りながら、プロポーズの言葉を頭の中で反芻していた。
ところが、車がカーブに差し掛かった瞬間。対向車線のヘッドライトが大きくぶれ、あり得ない角度でこちらに突っ込んできた。
そこから先の記憶はない。
次に意識が戻った時、俺はこの暗闇と沈黙の中にいた。
最初に感じたのは、圧倒的な無力感だった。目を開けようとしても、まぶたは鉛のように重く感じられて、ぴくりとも動かない。
叫ぼうとしても、喉の奥で息が虚しく滞るだけで、声帯は震えさえしない。
指一本、足の先ひとつ、俺の意思が届く身体のパーツはどこにもなかった。
まるで自分という魂だけが、動かなくなった肉体という名の檻に閉じ込められてしまったかのように感じられた。
俺の世界との接点は唯一、聴覚だけだった。それも、ある程度大きな音しか拾えない。遠くの喧騒は届かず、ただ無機質な電子音が一定のリズムでピッ、ピッ、と鳴り続けている。おそらく心電図モニターの音だろう。時折、その音が俺のすぐそばを通り過ぎていく。
「高槻さん、体位交換しますね」
くぐもった女性の声。看護師だろうか。
次の瞬間、俺の身体はまるで大きな荷物のように、ごろん、と無造作に転がされた。背中に新しいシーツの感触が広がるが、それは皮膚で感じているというより、ただ「そういうものに触れている」という事実だけが情報として流れ込んでくるような感じ。妙に生々しく、そして実感の伴わない感覚だった。
「バイタルは安定しています。今日も特に変わりありませんね」
今度は男の声。おそらく担当医だ。
彼らにとって俺は思考も感情もない、生命維持装置に繋がれた肉塊でしかない。
違う。
俺はここにいる。
聞いている。
感じているんだ。
あんたたちが俺の身体をモノのように扱うその無遠慮さも、事務的な報告の声色も全部、全部聞こえている!
そう叫びたいのに、意思は脳内で虚しく反響するだけだ。
もどかしさが、熱い溶岩のように意識の底から湧き上がってくる。このまま誰にも気づかれず、思考だけがクリアなまま、この肉体が朽ち果てるのを待つしかないのだろうか。意識だけがゆっくりと腐っていく感覚。それは、死ぬよりも恐ろしい拷問のように思えた。
電子音と、時折響く看護師たちの足音。それが世界のすべてだった。
しかし、絶望が日常になりかけていた俺にも、唯一の希望がある。
キィ、と、静かに病室のドアが開く音がした。
続いて、パタ、パタ、という軽いスリッパの音。それはいつも慌ただしく行き来する看護師たちのそれとは、明らかに違うリズムだった。
その足音は、俺のベッドのすぐそばで止まった。
そして、椅子を引く音と、小さな衣擦れの音。
沈黙。
俺は、意識を集中させる。
やがて、絶望に満たされた俺の暗闇に、澄んだ鈴が転がるような、世界で一番聞きたかった声が響いた。
「あきと、来たよ」
その声が聞こえた瞬間。
俺の意識の海の底に、一筋の光が差し込んだ気がした。
-つづく-
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