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02:君という名の光
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その声の主は、水瀬莉子(みなせりこ)。俺の恋人だ。
暗闇と無音しか存在しなかった俺の世界に、彼女の声はまるでプリズムを透過した光のように、鮮やかな色彩と温度をもたらした。
莉子。
そうだ、俺には莉子がいる。
この世でたったひとり、俺が命に代えても守りたかった、太陽みたいな女性だ。
彼女は俺と同じ会社の経理部で働いている。俺が立ち上げたばかりの部署の無茶な経費精算にも嫌な顔ひとつせず、いつも「高槻さん、これ領収書の但し書き、もう少し詳しくお願いしますね」と、はにかみながら書類を突き返してきた。その真面目さと、時折見せる少しおっちょこちょいな一面のギャップに、俺はいつの間にか惹かれていた。仕事の愚痴を言いながらも、楽しそうにビールを飲む姿に完全に心を奪われ、猛アタックの末に付き合い始めて、事故に遭う直前でちょうど二年が経ったところだった。
彼女は毎日、仕事が終わると必ずこの病室にやってくる。疲れているだろうに、そんな素振りは一切見せない。
彼女がドアを開ける音。
スリッパに履き替える音。
そして俺のベッドのそばの椅子に腰かける音。
その一連の生活音すべてが、俺にとっては救いになっていた。
彼女がここにいる。その事実だけで、意識の海の底に沈んだ俺の魂は、かろうじて水面へと繋ぎ止められていた。
意識が戻って間もない頃、彼女はよく泣いていた。
「ごめんね、あきと。あの時、私と会う約束をしてなかったら……」
嗚咽混じりの声が、俺の意識を鋭く抉る。
違う、莉子。謝るのは俺の方だ。
あの日は俺たちの交際二年記念日で、俺は少しでも早く君に会いたくて、雨の中を焦って車を飛ばしていた。ポケットには、サプライズで渡すつもりだった指輪が忍ばせてあった。レストランを予約して、そこでプロポーズするつもりだったんだ。幸せの絶頂から、君を悲しみのどん底に突き落としてしまったのは、他の誰でもない、俺自身だ。
愛している。心から。
この感情だけは、肉体の枷に囚われてもなお、少しも色褪せることはなかった。むしろ日に日に強く、鮮明になっていく。
だからこそ、この動かない身体が憎かった。彼女の涙を拭ってやることも、その華奢な肩を抱きしめて「君のせいじゃない」と囁いてやることもできない。俺にできるのは、ただ彼女の言葉に、その息遣いに、耳を澄ますことだけ。それはあまりにも一方的で、残酷なコミュニケーションだった。
「はい、お水替えるね」
莉子はそう言うと、俺の枕元にある加湿器のタンクを慣れた手つきで取り外した。
水の流れる音がして、またカチャンとセットされる。
彼女は俺の身体を拭くためのタオルを準備したり、乾燥した唇にリップクリームを塗ってくれたりもした。
莉子の指が俺の肌に触れる。
だが、俺の皮膚は何も感じない。
ただ「莉子が触れている」という事実だけが、脳に直接焼き付けられる。
その度に、俺は自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締めたくなるような衝動に駆られた。もし歯が動くなら、きっと砕けていただろう。
彼女は、俺の意識がないと思っている。
だからだろうか、時折、ぽつりぽつりと独り言をこぼすようになった。
それは、俺が健康だった頃には決して見せなかった、彼女の弱さの欠片だった。
「……ねえ、あきと。本当に、聞こえてないの?」
静寂の中、か細い声が響く。
やめてくれ、莉子。
聞こえている。全部、聞こえているんだ。
俺は心の内で絶叫する。
「そっか……。だよね」
彼女は小さく笑って、諦めたように息を吐いた。
その自己完結が、何よりも辛い。
俺はここにいるのに。君のすぐそばにいるのに。
俺たちの間には越えることのできない、透明で分厚い壁が存在していた。
それでも、俺はこの壁の向こう側から、君の声を聞き続けるしかない。
それが、今の俺にできる唯一の償い。
そして、生きるための唯一の希望だった。
-つづく-
暗闇と無音しか存在しなかった俺の世界に、彼女の声はまるでプリズムを透過した光のように、鮮やかな色彩と温度をもたらした。
莉子。
そうだ、俺には莉子がいる。
この世でたったひとり、俺が命に代えても守りたかった、太陽みたいな女性だ。
彼女は俺と同じ会社の経理部で働いている。俺が立ち上げたばかりの部署の無茶な経費精算にも嫌な顔ひとつせず、いつも「高槻さん、これ領収書の但し書き、もう少し詳しくお願いしますね」と、はにかみながら書類を突き返してきた。その真面目さと、時折見せる少しおっちょこちょいな一面のギャップに、俺はいつの間にか惹かれていた。仕事の愚痴を言いながらも、楽しそうにビールを飲む姿に完全に心を奪われ、猛アタックの末に付き合い始めて、事故に遭う直前でちょうど二年が経ったところだった。
彼女は毎日、仕事が終わると必ずこの病室にやってくる。疲れているだろうに、そんな素振りは一切見せない。
彼女がドアを開ける音。
スリッパに履き替える音。
そして俺のベッドのそばの椅子に腰かける音。
その一連の生活音すべてが、俺にとっては救いになっていた。
彼女がここにいる。その事実だけで、意識の海の底に沈んだ俺の魂は、かろうじて水面へと繋ぎ止められていた。
意識が戻って間もない頃、彼女はよく泣いていた。
「ごめんね、あきと。あの時、私と会う約束をしてなかったら……」
嗚咽混じりの声が、俺の意識を鋭く抉る。
違う、莉子。謝るのは俺の方だ。
あの日は俺たちの交際二年記念日で、俺は少しでも早く君に会いたくて、雨の中を焦って車を飛ばしていた。ポケットには、サプライズで渡すつもりだった指輪が忍ばせてあった。レストランを予約して、そこでプロポーズするつもりだったんだ。幸せの絶頂から、君を悲しみのどん底に突き落としてしまったのは、他の誰でもない、俺自身だ。
愛している。心から。
この感情だけは、肉体の枷に囚われてもなお、少しも色褪せることはなかった。むしろ日に日に強く、鮮明になっていく。
だからこそ、この動かない身体が憎かった。彼女の涙を拭ってやることも、その華奢な肩を抱きしめて「君のせいじゃない」と囁いてやることもできない。俺にできるのは、ただ彼女の言葉に、その息遣いに、耳を澄ますことだけ。それはあまりにも一方的で、残酷なコミュニケーションだった。
「はい、お水替えるね」
莉子はそう言うと、俺の枕元にある加湿器のタンクを慣れた手つきで取り外した。
水の流れる音がして、またカチャンとセットされる。
彼女は俺の身体を拭くためのタオルを準備したり、乾燥した唇にリップクリームを塗ってくれたりもした。
莉子の指が俺の肌に触れる。
だが、俺の皮膚は何も感じない。
ただ「莉子が触れている」という事実だけが、脳に直接焼き付けられる。
その度に、俺は自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締めたくなるような衝動に駆られた。もし歯が動くなら、きっと砕けていただろう。
彼女は、俺の意識がないと思っている。
だからだろうか、時折、ぽつりぽつりと独り言をこぼすようになった。
それは、俺が健康だった頃には決して見せなかった、彼女の弱さの欠片だった。
「……ねえ、あきと。本当に、聞こえてないの?」
静寂の中、か細い声が響く。
やめてくれ、莉子。
聞こえている。全部、聞こえているんだ。
俺は心の内で絶叫する。
「そっか……。だよね」
彼女は小さく笑って、諦めたように息を吐いた。
その自己完結が、何よりも辛い。
俺はここにいるのに。君のすぐそばにいるのに。
俺たちの間には越えることのできない、透明で分厚い壁が存在していた。
それでも、俺はこの壁の向こう側から、君の声を聞き続けるしかない。
それが、今の俺にできる唯一の償い。
そして、生きるための唯一の希望だった。
-つづく-
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