2 / 8
02:君という名の光
しおりを挟む
その声の主は、水瀬莉子(みなせりこ)。俺の恋人だ。
暗闇と無音しか存在しなかった俺の世界に、彼女の声はまるでプリズムを透過した光のように、鮮やかな色彩と温度をもたらした。
莉子。
そうだ、俺には莉子がいる。
この世でたったひとり、俺が命に代えても守りたかった、太陽みたいな女性だ。
彼女は俺と同じ会社の経理部で働いている。俺が立ち上げたばかりの部署の無茶な経費精算にも嫌な顔ひとつせず、いつも「高槻さん、これ領収書の但し書き、もう少し詳しくお願いしますね」と、はにかみながら書類を突き返してきた。その真面目さと、時折見せる少しおっちょこちょいな一面のギャップに、俺はいつの間にか惹かれていた。仕事の愚痴を言いながらも、楽しそうにビールを飲む姿に完全に心を奪われ、猛アタックの末に付き合い始めて、事故に遭う直前でちょうど二年が経ったところだった。
彼女は毎日、仕事が終わると必ずこの病室にやってくる。疲れているだろうに、そんな素振りは一切見せない。
彼女がドアを開ける音。
スリッパに履き替える音。
そして俺のベッドのそばの椅子に腰かける音。
その一連の生活音すべてが、俺にとっては救いになっていた。
彼女がここにいる。その事実だけで、意識の海の底に沈んだ俺の魂は、かろうじて水面へと繋ぎ止められていた。
意識が戻って間もない頃、彼女はよく泣いていた。
「ごめんね、あきと。あの時、私と会う約束をしてなかったら……」
嗚咽混じりの声が、俺の意識を鋭く抉る。
違う、莉子。謝るのは俺の方だ。
あの日は俺たちの交際二年記念日で、俺は少しでも早く君に会いたくて、雨の中を焦って車を飛ばしていた。ポケットには、サプライズで渡すつもりだった指輪が忍ばせてあった。レストランを予約して、そこでプロポーズするつもりだったんだ。幸せの絶頂から、君を悲しみのどん底に突き落としてしまったのは、他の誰でもない、俺自身だ。
愛している。心から。
この感情だけは、肉体の枷に囚われてもなお、少しも色褪せることはなかった。むしろ日に日に強く、鮮明になっていく。
だからこそ、この動かない身体が憎かった。彼女の涙を拭ってやることも、その華奢な肩を抱きしめて「君のせいじゃない」と囁いてやることもできない。俺にできるのは、ただ彼女の言葉に、その息遣いに、耳を澄ますことだけ。それはあまりにも一方的で、残酷なコミュニケーションだった。
「はい、お水替えるね」
莉子はそう言うと、俺の枕元にある加湿器のタンクを慣れた手つきで取り外した。
水の流れる音がして、またカチャンとセットされる。
彼女は俺の身体を拭くためのタオルを準備したり、乾燥した唇にリップクリームを塗ってくれたりもした。
莉子の指が俺の肌に触れる。
だが、俺の皮膚は何も感じない。
ただ「莉子が触れている」という事実だけが、脳に直接焼き付けられる。
その度に、俺は自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締めたくなるような衝動に駆られた。もし歯が動くなら、きっと砕けていただろう。
彼女は、俺の意識がないと思っている。
だからだろうか、時折、ぽつりぽつりと独り言をこぼすようになった。
それは、俺が健康だった頃には決して見せなかった、彼女の弱さの欠片だった。
「……ねえ、あきと。本当に、聞こえてないの?」
静寂の中、か細い声が響く。
やめてくれ、莉子。
聞こえている。全部、聞こえているんだ。
俺は心の内で絶叫する。
「そっか……。だよね」
彼女は小さく笑って、諦めたように息を吐いた。
その自己完結が、何よりも辛い。
俺はここにいるのに。君のすぐそばにいるのに。
俺たちの間には越えることのできない、透明で分厚い壁が存在していた。
それでも、俺はこの壁の向こう側から、君の声を聞き続けるしかない。
それが、今の俺にできる唯一の償い。
そして、生きるための唯一の希望だった。
-つづく-
暗闇と無音しか存在しなかった俺の世界に、彼女の声はまるでプリズムを透過した光のように、鮮やかな色彩と温度をもたらした。
莉子。
そうだ、俺には莉子がいる。
この世でたったひとり、俺が命に代えても守りたかった、太陽みたいな女性だ。
彼女は俺と同じ会社の経理部で働いている。俺が立ち上げたばかりの部署の無茶な経費精算にも嫌な顔ひとつせず、いつも「高槻さん、これ領収書の但し書き、もう少し詳しくお願いしますね」と、はにかみながら書類を突き返してきた。その真面目さと、時折見せる少しおっちょこちょいな一面のギャップに、俺はいつの間にか惹かれていた。仕事の愚痴を言いながらも、楽しそうにビールを飲む姿に完全に心を奪われ、猛アタックの末に付き合い始めて、事故に遭う直前でちょうど二年が経ったところだった。
彼女は毎日、仕事が終わると必ずこの病室にやってくる。疲れているだろうに、そんな素振りは一切見せない。
彼女がドアを開ける音。
スリッパに履き替える音。
そして俺のベッドのそばの椅子に腰かける音。
その一連の生活音すべてが、俺にとっては救いになっていた。
彼女がここにいる。その事実だけで、意識の海の底に沈んだ俺の魂は、かろうじて水面へと繋ぎ止められていた。
意識が戻って間もない頃、彼女はよく泣いていた。
「ごめんね、あきと。あの時、私と会う約束をしてなかったら……」
嗚咽混じりの声が、俺の意識を鋭く抉る。
違う、莉子。謝るのは俺の方だ。
あの日は俺たちの交際二年記念日で、俺は少しでも早く君に会いたくて、雨の中を焦って車を飛ばしていた。ポケットには、サプライズで渡すつもりだった指輪が忍ばせてあった。レストランを予約して、そこでプロポーズするつもりだったんだ。幸せの絶頂から、君を悲しみのどん底に突き落としてしまったのは、他の誰でもない、俺自身だ。
愛している。心から。
この感情だけは、肉体の枷に囚われてもなお、少しも色褪せることはなかった。むしろ日に日に強く、鮮明になっていく。
だからこそ、この動かない身体が憎かった。彼女の涙を拭ってやることも、その華奢な肩を抱きしめて「君のせいじゃない」と囁いてやることもできない。俺にできるのは、ただ彼女の言葉に、その息遣いに、耳を澄ますことだけ。それはあまりにも一方的で、残酷なコミュニケーションだった。
「はい、お水替えるね」
莉子はそう言うと、俺の枕元にある加湿器のタンクを慣れた手つきで取り外した。
水の流れる音がして、またカチャンとセットされる。
彼女は俺の身体を拭くためのタオルを準備したり、乾燥した唇にリップクリームを塗ってくれたりもした。
莉子の指が俺の肌に触れる。
だが、俺の皮膚は何も感じない。
ただ「莉子が触れている」という事実だけが、脳に直接焼き付けられる。
その度に、俺は自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締めたくなるような衝動に駆られた。もし歯が動くなら、きっと砕けていただろう。
彼女は、俺の意識がないと思っている。
だからだろうか、時折、ぽつりぽつりと独り言をこぼすようになった。
それは、俺が健康だった頃には決して見せなかった、彼女の弱さの欠片だった。
「……ねえ、あきと。本当に、聞こえてないの?」
静寂の中、か細い声が響く。
やめてくれ、莉子。
聞こえている。全部、聞こえているんだ。
俺は心の内で絶叫する。
「そっか……。だよね」
彼女は小さく笑って、諦めたように息を吐いた。
その自己完結が、何よりも辛い。
俺はここにいるのに。君のすぐそばにいるのに。
俺たちの間には越えることのできない、透明で分厚い壁が存在していた。
それでも、俺はこの壁の向こう側から、君の声を聞き続けるしかない。
それが、今の俺にできる唯一の償い。
そして、生きるための唯一の希望だった。
-つづく-
0
あなたにおすすめの小説
夜の帝王の一途な愛
ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。
ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。
翻弄される結城あゆみ。
そんな凌には誰にも言えない秘密があった。
あゆみの運命は……
死にキャラに転生したけど、仲間たちに全力で守られて溺愛されています。
藤原遊
恋愛
「死ぬはずだった運命なんて、冒険者たちが全力で覆してくれる!」
街を守るために「死ぬ役目」を覚悟した私。
だけど、未来をやり直す彼らに溺愛されて、手放してくれません――!?
街を守り「死ぬ役目」に転生したスフィア。
彼女が覚悟を決めたその時――冒険者たちが全力で守り抜くと誓った!
未来を変えるため、スフィアを何度でも守る彼らの執着は止まらない!?
「君が笑っているだけでいい。それが、俺たちのすべてだ。」
運命に抗う冒険者たちが織り成す、異世界溺愛ファンタジー!
【完結】悪役令嬢の身代わりで処刑されかけた侍女、悪人面強面騎士にさらわれる。
雨宮羽那
恋愛
侍女リーリエは、処刑される予定の主・エリーゼと容姿がそっくりだったせいで、身代わりとして処刑台へ立たされていた。
(私はエリーゼ様じゃないわ!)と心の中で叫んだ瞬間、前世の記憶がよみがえり、ここが読みかけだった悪役令嬢ものの小説の世界だと気づく。
しかも小説ではエリーゼが処刑されるはずなのに、リーリエが処刑されかけているという最悪の展開。
絶体絶命の瞬間、リーリエの前に現れたのは強面で悪人面の騎士ガウェイン。
彼はなぜかリーリエを抱えあげ連れ去ってしまい――?
◇◇◇◇
※全5話
※AI不使用です。
※「小説家になろう」「エブリスタ」様にも掲載しております。
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
マチ恋 ―君に捧げるLove song― 一夜の相手はスーパースター。誰にも言えない秘密の恋。【完結】
remo
恋愛
あなたにとっては遊びでも、私にとっては、…奇跡の夜だった。
地味で平凡で取り柄のない私に起きた一夜のキセキ。
水村ゆい、23歳、シングルマザー。
誰にも言えないけど、愛息子の父親は、
今人気絶頂バンドのボーカルなんです。
初めての恋。奇跡の恋。離れ離れの恋。不倫の恋。一途な恋。最後の恋。
待っている…
人生で、一度だけの恋。
【完結】ありがとうございました‼︎
最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました
めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。
白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。
その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。
それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。
やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
私の存在
戒月冷音
恋愛
私は、一生懸命生きてきた。
何故か相手にされない親は、放置し姉に顎で使われてきた。
しかし15の時、小学生の事故現場に遭遇した結果、私の生が終わった。
しかし、別の世界で目覚め、前世の知識を元に私は生まれ変わる…
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる