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13:無自覚な悪
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筆者:石臼翁
この王都の空気は、時として淀む。それは下水から立ち上る悪臭や、工房から吐き出される煤煙のせいばかりではない。人の口から口へと伝わる聞くに堪えない噂話が、目に見えぬ瘴気となって、人々の心の隙間にまで染み込んでくるのだ。
近頃、私の耳に届いたのも、そんな胸糞の悪くなる類の話だった。なんでも、王都から遠く離れた辺境の森で、原因不明の病が流行り、多くの子供たちが床に臥しているのだという。最初は、ただの風土病か、あるいは質の悪い水が原因だろうと、誰もがたかをくくっていた。だがどうやら話はそう単純ではないらしい。その病の根源をたどっていくと、この王都に屋敷を構える、さる高名な侯爵家の影がちらつくというのだから、始末に負えない。
件の森は「囁きの森」と呼ばれている。古くから、清浄な大気を司る風の精霊「シルフ」が棲まうと言われ、人々から畏敬の念をもって扱われてきた場所だ。その森で採れる薬草は、並の物よりもはるかに強い効能を持ち、森の木々は魔力を帯びて、上質な杖や魔道具の材料となる。
だがその恩恵にあずかろうとする者は、古くから伝わる厳格な掟を守らねばならなかった。必要以上に森の恵みを採取せぬこと。森の静寂を乱さぬこと。そして何より、シルフたちの機嫌を損ねるような、不浄な行いをせぬこと。森は我々が一方的に富を収奪する場所ではなく、敬意を払ってその一部を分けていただく、神聖な領域だったのだ。
ところが、かの侯爵家の三男坊だというまだ鼻水も乾かぬような若造が、その神聖な森を、己の私的な「狩場」にしたのだという。
狩場。その言葉の響きに、私はまず、言いようのない不快感を覚えた。私が知る「狩り」とは、そういうものではない。かつて私が付き合いのあった老練な猟師たちは、森に入る前には必ず山の神に祈りを捧げ、獲物を仕留めた後には、その命をいただいたことへの感謝を忘れなかった。彼らにとって狩場とは、自然という大きな循環の一部に、人間として参加させてもらうための舞台だった。そこには獲物への敬意があり、生命を奪うことへの覚悟があった。
だが、あの若造がやったことは、断じて「狩り」などではない。ただの「蹂躙」であり「略奪」だ。彼の獲物は、猪でもなければ鹿でもない。あろうことか、森の主であるシルフそのものであったという。なんでも、透き通るようなシルフの羽や、魔力を秘めたその涙は、王都の悪趣味な好事家たちの間で目玉が飛び出るような高値で取引されるらしい。彼は己の遊興費を稼ぎ、そして「精霊を狩った男」という空虚な武勇伝をその手にしたいがために、大勢の腕利きの傭兵を雇い入れて森を踏み荒らしたのだ。
その結果、何が起きたか。シルフたちは、あるいは狩り尽くされ、あるいはその住処を追われて、森から姿を消した。清浄な大気の守り手を失った森は、急速にその生命力を失い始めた。淀んだ空気が澱のように溜まり、毒の沼からは瘴気が立ち上る。辺境の村の子供たちが罹ったという奇病の正体は、その瘴気を吸い込んだことによる肺の病に違いあるまい。ひとりの人間のくだらない虚栄心を満たすためだけに、多くの罪なき命が今まさに危険に晒されているのだ。
この話を聞いて、私が何よりも恐ろしいと感じるのは、その若造の驚くべき想像力の欠如だ。彼にとって、シルフとは森の生態系を支える尊い精霊などではない。ただの高く売れる「商品」であり、己のコレクションを飾る「珍品」に過ぎなかったのだろう。シルフがいなくなれば森がどうなるのか。森が死ねばその麓で暮らす人々の生活がどうなるのか。そうしたごく当たり前の因果関係に、彼の思考は埃の一粒ほども及ばなかった。己の欲望という、あまりに狭く、矮小な一点しか見えていないのだ。
そしてこれこそが、私が考える最も根深く、そして最も厄介な「悪」の正体なのである。
我々は「悪」と聞くと、すぐに魔王のような存在を思い浮かべる。世界征服を企み、人類の破滅を願う、巨大で、分かりやすい敵。確かにそれもひとつの悪の形だろう。だが、そうした物語の中の「悪」よりも、はるかに身近で、たちが悪いのは、この侯爵家の若造のような「無自覚な悪」だ。
彼はおそらく、自分自身を「悪人」だとは微塵も思っていないに違いない。「法を犯したわけではない」。「希少なものを手に入れるのは、力ある者の当然の権利だ」。「辺境の田舎者のことなど、私の知ったことではない」。せいぜい、その程度の認識だろう。彼は、己の行為を悪だとは認識していない。なぜなら、彼の世界には、彼自身の欲望と都合しか存在しないからだ。他人の痛みも、世界の仕組みも、すべてが彼の認知の外にある。この想像力の欠如こそが、あらゆる悲劇の源泉なのだ。
魔王ならば、勇者が現れて討伐することもできよう。だが、このどこにでもいる、凡庸で、自己中心的なだけの若者が振りまく災厄は、一体誰が裁くというのか。事件は結局、侯爵家の絶大な権力によって、おそらくはもみ消されることだろう。辺境の村には見舞金と称していくばくかの金貨が投げ与えられ、すべては不幸な事故として処理される。若造は王都の豪奢な屋敷で、何一つ反省することなく、次の「狩り」の計画でも立てているに違いない。
これが、我々の世界の現実だ。角を生やし、炎を吐く竜よりも、高貴な生まれを鼻にかけ、己の行いの結果に思いを馳せることのできない人間の方が、よほど恐ろしい。本当の「悪」とは、巨大な力そのものではない。その力を、何の思慮もなく、己の欲望のためだけに行使する、その卑しい心根のことなのだ。
今日も、囁きの森では汚れた風が吹き荒れているのだろうか。そして、その風に咳き込みながら、小さな命が消えようとしているのかもしれない。そう思うと、この店の埃っぽい空気さえ、ひどく重く感じられてしまうのだ。
-了-
読んでいただきありがとうございます。
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応援のほど、よろしくお願いします。
この王都の空気は、時として淀む。それは下水から立ち上る悪臭や、工房から吐き出される煤煙のせいばかりではない。人の口から口へと伝わる聞くに堪えない噂話が、目に見えぬ瘴気となって、人々の心の隙間にまで染み込んでくるのだ。
近頃、私の耳に届いたのも、そんな胸糞の悪くなる類の話だった。なんでも、王都から遠く離れた辺境の森で、原因不明の病が流行り、多くの子供たちが床に臥しているのだという。最初は、ただの風土病か、あるいは質の悪い水が原因だろうと、誰もがたかをくくっていた。だがどうやら話はそう単純ではないらしい。その病の根源をたどっていくと、この王都に屋敷を構える、さる高名な侯爵家の影がちらつくというのだから、始末に負えない。
件の森は「囁きの森」と呼ばれている。古くから、清浄な大気を司る風の精霊「シルフ」が棲まうと言われ、人々から畏敬の念をもって扱われてきた場所だ。その森で採れる薬草は、並の物よりもはるかに強い効能を持ち、森の木々は魔力を帯びて、上質な杖や魔道具の材料となる。
だがその恩恵にあずかろうとする者は、古くから伝わる厳格な掟を守らねばならなかった。必要以上に森の恵みを採取せぬこと。森の静寂を乱さぬこと。そして何より、シルフたちの機嫌を損ねるような、不浄な行いをせぬこと。森は我々が一方的に富を収奪する場所ではなく、敬意を払ってその一部を分けていただく、神聖な領域だったのだ。
ところが、かの侯爵家の三男坊だというまだ鼻水も乾かぬような若造が、その神聖な森を、己の私的な「狩場」にしたのだという。
狩場。その言葉の響きに、私はまず、言いようのない不快感を覚えた。私が知る「狩り」とは、そういうものではない。かつて私が付き合いのあった老練な猟師たちは、森に入る前には必ず山の神に祈りを捧げ、獲物を仕留めた後には、その命をいただいたことへの感謝を忘れなかった。彼らにとって狩場とは、自然という大きな循環の一部に、人間として参加させてもらうための舞台だった。そこには獲物への敬意があり、生命を奪うことへの覚悟があった。
だが、あの若造がやったことは、断じて「狩り」などではない。ただの「蹂躙」であり「略奪」だ。彼の獲物は、猪でもなければ鹿でもない。あろうことか、森の主であるシルフそのものであったという。なんでも、透き通るようなシルフの羽や、魔力を秘めたその涙は、王都の悪趣味な好事家たちの間で目玉が飛び出るような高値で取引されるらしい。彼は己の遊興費を稼ぎ、そして「精霊を狩った男」という空虚な武勇伝をその手にしたいがために、大勢の腕利きの傭兵を雇い入れて森を踏み荒らしたのだ。
その結果、何が起きたか。シルフたちは、あるいは狩り尽くされ、あるいはその住処を追われて、森から姿を消した。清浄な大気の守り手を失った森は、急速にその生命力を失い始めた。淀んだ空気が澱のように溜まり、毒の沼からは瘴気が立ち上る。辺境の村の子供たちが罹ったという奇病の正体は、その瘴気を吸い込んだことによる肺の病に違いあるまい。ひとりの人間のくだらない虚栄心を満たすためだけに、多くの罪なき命が今まさに危険に晒されているのだ。
この話を聞いて、私が何よりも恐ろしいと感じるのは、その若造の驚くべき想像力の欠如だ。彼にとって、シルフとは森の生態系を支える尊い精霊などではない。ただの高く売れる「商品」であり、己のコレクションを飾る「珍品」に過ぎなかったのだろう。シルフがいなくなれば森がどうなるのか。森が死ねばその麓で暮らす人々の生活がどうなるのか。そうしたごく当たり前の因果関係に、彼の思考は埃の一粒ほども及ばなかった。己の欲望という、あまりに狭く、矮小な一点しか見えていないのだ。
そしてこれこそが、私が考える最も根深く、そして最も厄介な「悪」の正体なのである。
我々は「悪」と聞くと、すぐに魔王のような存在を思い浮かべる。世界征服を企み、人類の破滅を願う、巨大で、分かりやすい敵。確かにそれもひとつの悪の形だろう。だが、そうした物語の中の「悪」よりも、はるかに身近で、たちが悪いのは、この侯爵家の若造のような「無自覚な悪」だ。
彼はおそらく、自分自身を「悪人」だとは微塵も思っていないに違いない。「法を犯したわけではない」。「希少なものを手に入れるのは、力ある者の当然の権利だ」。「辺境の田舎者のことなど、私の知ったことではない」。せいぜい、その程度の認識だろう。彼は、己の行為を悪だとは認識していない。なぜなら、彼の世界には、彼自身の欲望と都合しか存在しないからだ。他人の痛みも、世界の仕組みも、すべてが彼の認知の外にある。この想像力の欠如こそが、あらゆる悲劇の源泉なのだ。
魔王ならば、勇者が現れて討伐することもできよう。だが、このどこにでもいる、凡庸で、自己中心的なだけの若者が振りまく災厄は、一体誰が裁くというのか。事件は結局、侯爵家の絶大な権力によって、おそらくはもみ消されることだろう。辺境の村には見舞金と称していくばくかの金貨が投げ与えられ、すべては不幸な事故として処理される。若造は王都の豪奢な屋敷で、何一つ反省することなく、次の「狩り」の計画でも立てているに違いない。
これが、我々の世界の現実だ。角を生やし、炎を吐く竜よりも、高貴な生まれを鼻にかけ、己の行いの結果に思いを馳せることのできない人間の方が、よほど恐ろしい。本当の「悪」とは、巨大な力そのものではない。その力を、何の思慮もなく、己の欲望のためだけに行使する、その卑しい心根のことなのだ。
今日も、囁きの森では汚れた風が吹き荒れているのだろうか。そして、その風に咳き込みながら、小さな命が消えようとしているのかもしれない。そう思うと、この店の埃っぽい空気さえ、ひどく重く感じられてしまうのだ。
-了-
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