【ひとまず完結】異世界の偏屈爺、かく語りき

ゆきむらちひろ

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18:山の掟、人の掟

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筆者:石臼翁


 この世には、地図に記された境界線よりも遥かに厳格で、そして越えてはならぬ境界というものが存在する。それは、異なる種族が互いの領域を侵さぬよう永い年月をかけて築き上げてきた、目に見えぬ壁だ。

 王都から遥か北方にそびえる「牙剥く山岳地帯」。そこは、我々人間の世界と、誇り高き雪豹の獣人「レグレス族」の世界とを隔てる、まさにそんな境界線であった。

 レグレス族は、人間を信用しない。彼らは、厳しい自然の中で、独自の掟に従って生きる孤高の民だ。その掟は、我々が法と呼ぶような小難しい条文で書き記されたものではない。それは、吹雪の音や、岩肌を渡る風の匂い、そして長老たちの皺に刻まれた、何世代にもわたる経験則そのものだ。

 その掟の中で最も重要とされているのが、「何人たりとも、山の境界を越えて人間と関わるべからず」という、絶対の禁忌であった。かつて、人間の飽くなき欲望が彼らの聖なる狩場を荒らし、多くの同胞の命を奪った。そんな癒えぬ記憶が、その掟の背景にはある。

 だが、どんなに厳格な掟も、それを破る者はいつの時代にも現れるものだ。先日、王都にまで届いたのは、まさにその禁忌が破られたことから始まった、ひとつの悲しく、そしてどこか示唆に富んだ物語であった。

 話の始まりは、ひとりの若いレグレス族の狩人・カイルにあったという。彼は族の中でも一、二を争うほどの腕利きであったが、同時に、古い掟に縛られることを嫌う異端児でもあった。彼は、長老たちが語る「人間の邪悪さ」に、どこか懐疑的だった。本当に、人間とは、一括りにして忌み嫌うべき存在なのだろうか。山の向こう側には、一体どんな世界が広がっているのか。その尽きせぬ好奇心が、ついに彼を禁断の一歩へと踏み出させたのだ。

 彼は、ある吹雪の夜、密かに集落を抜け出し、人間たちの暮らす麓の村へと降りていった。そこで彼が目にしたのは、長老たちの話とは少し違う、人間の姿だった。病気の子供を抱きしめて涙する母親。乏しい食料を分け与え合う貧しい家族。彼はそこに、自分たち獣人と何ら変わらぬ、愛情や、苦しみや、そしてささやかな喜びを見出したのである。

 そして、彼はひとりの人間の娘と出会う。彼女は村の薬師の娘で、カイルが狩りの最中に負った傷を、献身的に手当てしてくれたのだという。言葉は通じなくとも、彼と彼女は惹かれ合った。種族の違いを越えた、確かな心の交流が芽生え始めたのだ。

 カイルは、夜ごと山を降り、娘との逢瀬を重ねるようになった。彼は、娘から人間の言葉を学び。娘は、彼から山の知識を学んだ。ふたりにとって、互いの存在は、これまで知らなかった新しい世界への扉そのものであったのだ。

 だが、そんな密やかな時間は、長くは続かなかった。ふたりの関係は、やがて双方の知るところとなる。レグレス族の集落は、掟を破ったカイルへの怒りに燃えた。長老たちは彼を「裏切り者」と断じ、一族からの永久追放を宣告した。一方、人間の村もまた、獣人と通じた娘を「魔女」「不浄の者」と呼び、石を投げ、家から追い出した。ふたりはそれぞれの同族から完全に孤立してしまったのである。

 行き場を失ったふたりは、「牙剥く山岳地帯」の人間側と獣人側、どちらの世界にも属さない中腹の小さな洞窟で、寄り添うように暮らし始めた。それは、貧しく、厳しい暮らしであっただろう。だが、ふたりにとっては、誰にも邪魔されぬ、唯一の安息の地であったに違いない。

 この話が、ただの悲恋物語で終わるのであれば、私がわざわざ筆を執ることもなかっただろう。この物語には、まだ続きがあるのだ。

 ふたりが洞窟で暮らし始めてから、数年が経った頃。「牙剥く山岳地帯」を未曾有の大雪崩が襲った。それは、山の神の怒りか、あるいはただの自然現象か。原因は誰にも分からない。だが、その威力は凄まじく、レグレス族の集落も、麓の人間の村も、等しく壊滅的な被害を受けたのである。家々は倒壊し、食料は雪に埋もれ、多くの者が傷つき、あるいは命を落とした。

 その絶望的な状況の中、人々を救ったのは、かつて彼らが追放した、あのふたりだった。カイルは、その卓越した狩りの腕で、雪に閉ざされた森の中から食料となる獣を狩り出し、それを獣人と人間、分け隔てなく配って回った。薬師の娘は、カイルが山岳の奥深くから見つけてきた貴重な薬草を調合し、負傷した者たちを手当てして回った。彼女の治療は、獣人にも、人間にも、等しく施された。

 最初は誰もが戸惑ったことだろう。かつて自分たちが石を投げ、裏切り者と罵った相手から、施しを受ける。その屈辱と、そして後ろめたさ。だが、生きるか死ぬかの極限状況において、そんなちっぽけなプライドは何の役にも立たない。彼らは生きるために、ふたりの差し出す手を取らざるを得なかったのだ。

 そして、共に瓦礫を運び、共に乏しい食料を分け合い、共に傷ついた仲間を励まし合ううちに、彼らの間にあった目に見えぬ壁が、少しずつ、しかし確実に、溶け出していくのを、誰もが感じていた。彼らは気づき始めたのだ。獣人も、人間も、雪の前では等しく無力であり、寒さに震え、飢えに苦しみ、そして大切な者を失えば、同じように涙を流すのだという、あまりにも当たり前の事実に。
 雪崩が収まった後、山の民と麓の民は、初めてひとつの場所に集まり、これからのことを話し合ったという。

 カイルと娘が、その中心に座っていたのは言うまでもない。彼らがこれから、どんな新しい関係を築いていくのか。私には知る由もない。だが。ひとつだけ確かなことがある。彼らは、古い掟が、もはや何の役にも立たないことを、その身をもって学んだのだ。

 「牙剥く山岳地帯」では今、古い掟の瓦礫の中から、新しい掟の、ささやかで、しかし力強い芽が生まれようとしている。

 本当の掟とはなにか。それは、誰かが決めた凝り固まった条文のことではない。それは、目の前の困っている者に手を差し伸べるという、ただそれだけの、素朴な心の働きのことではないだろうか。

 私の柄ではないかもしれないが、人の世を豊かにするこういった素朴な想いが、人々の間に多く育まれてほしい。そう願って、この物語を紹介する次第である。


 -了-






読んでいただきありがとうございます。
次回の更新は、12月3日の予定です。

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