【完結】鏡の中の君へ ~彼女が死んだら他の男の子供を妊娠していた~

むれい南極

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一粒に確定する優先順位 鳩池久吾編 その9

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「お前、なんでここにいる……」
「させないよ。それ、こっちに渡してよ」
 沙月はそう言うと、鳩池と梓馬の間にすっと立ち入った。変装一式はすべてない。白金の髪色が月明りに照らされて、暗がりのなかでも輝いている。目の前にいるのは、見間違いようもなく五十嵐沙月だった。
 沙月は正面に梓馬を捉え、背後に鳩池を置いていた。この位置関係がなにを意味しているかは明白だ。対立する相手に、背中を向ける者はいない。
 沙月の燃えるような目が、梓馬を睨みつけていた。
 対峙する二人の視線、その交差点から言葉は失われている。停滞したかのような状況で、梓馬の疑惑だけが膨らんでいっていた。
 本当に敵なのか。そんな考えが浮かんでは、なぜ包丁をよこせと言われているのかと自問する。
 決まってる、自分の安全を確保するためだ――
 武器の存在に焦点が当たると、気になる点が露わになる。沙月の手の位置が腰に当てられていることだ。放火の夜に感じた刃物の気配が、怖気となって蘇る。
「ふざけるな、そこをどけっ」
「だめ、包丁をあたしに渡して」
「お前、そいつの味方なのか?」
「違う……」
「ならこの状況で、俺の味方だとでも言うつもりか?」
「そう」
 もちろん梓馬はこれを信じない。朱里が自ら股を開いた相手に、沙月もまた股を開いたのだろうと直感したからだ。まさにいま、体を張って自分の前に立っている。
「腰に刃物を隠してるだろ。そんな物を持って俺の方を向いて、それで味方だと信じられるわけがない」
「いいからそれ、渡してよ」
 沙月は手を前に差し出した。もう一方の手は、やはり腰に当てられたままだ。
 くそっ、いつからだ――
 さっきまで恋人だった女を見て、沙月がいつ自分を裏切ったのかを考え始めた。
 処女は自分が奪った。ならばそれ以降だと断定しようとして、その判断をすぐに保留する。一人としかセックスしたことのない自分を騙すなど、いとも簡単だったはずだからだ。
 あのとき血は出ていたか。そう考えて、また沙月への疑いが強くなる。血を見られるのが恥ずかしいからと、シーツを剥がしてすぐに丸めていた。いつから裏切られていたかは、もう特定できない。
 脳裏に記憶が蘇ってくる。クリスマスパーティーの後ろ姿、葬式のベンチでの距離感、結ばれた夜の匂い、腰に手を回して歩いたこと、語り合った未来、そのどれもから輪郭が失われていく。真実という土台をなくしたいま、確かなことは一つだけだ。五十嵐沙月が刃物を持って、目の前に立っている。
 信じがたいことも連続で続けば、受け入れることができるようになる。自分を守るための消去法はもうなく、最悪の展開に備えるしかないからだ。
 梓馬ははっきりと、沙月に包丁の切っ先を向けた。
「そこをどいてくれ。お前を刺したくない」
 この発言に、沙月は大きな目を見開く。そして後退の兆しを見せるも、半歩で留まると、今度は目をきりっと細くした。
「刺されても、絶対にどかない……」
 腰に当てられていた手が、少し持ち上がる。沙月の覚悟を可視化しているようだった。
「すべて嘘だったっていうのか」
「嘘はお前のほうでしょ」
 懐かしいお前呼びに傷つく暇もなく、歯切れ良く返された言葉に言い返すことができなかった。なにを嘘と言われているのか、わからなかったからだ。
 空気が止まっても時間は止まらず、梓馬は見失った手段を探していた。包丁を鳩池の元に達するには、必ず沙月に接触する必要がある。お互いが刃物を持っているために、腕力でどうにかするという決断も取れない。立ちはだかっている沙月の目を見て、本当に敵なのだという実感が増していくばかりだった。
 やるしかないのか――
 例え裏切られていようと、体温と感触を知っている肌に包丁を突き刺すことなどできない。ならば梓馬に使える他の武器は、もう言葉しかない。
 この状況から導き出せる答えが一つある。少なくとも今日すでに、沙月は敵だったということだ。ならば起きたことに、別の意味が浮かび上がってくる。
「確かに俺は嘘吐きだ。でもお前だってそうだろ。父親から電話があったと言っていたが、あれは嘘だよな」
「…………うん」
 沙月は態度には動揺を見せなかったが、「うん」と言うまでの時間に心情を乗せてしまっていた。
 梓馬は自分の攻撃を成功させておいて、興奮を感じることがなかった。
 確かにあの電話のタイミングは、あまりに作為的だった。あれが仕組まれたことだったなら、倉庫の確保も嘘だと考えていい。もしかしたら、存在すらしていなかったのかもしれない。
 梓馬の思考はそこから、人を監禁できる倉庫の存在の妥当性を検討し始めた。そしてすぐ意味がないと気付いてやめた。
 思考ルートは、まだ分岐先を残している。父親からの電話が嘘だったと確定したならば、そこから逆算していけば、行き当たるのは放火の夜だ。
 沙月があの夜、あの場所に居合わせるには、自分と同じ発想が必要だった。あんな方法でカメラの位置を割り出そうとする人間が、他にいるだろうか。自分でさえ馬鹿げていると思った。だとしたら考えられるのは一つしかない、頭のなかを覗かれたということだ。
「お前、メモ帳を見たのか……」
 沙月はまたも時間を置いてから「うん」と頷く。
 梓馬は腰から崩れ落ちそうになった。
 あのメモ帳には朱里のほうが特別だと書いていたり、捕まる前に沙月とヤリ溜めておこうというようなことが書いてある。そしてそれを見られたということは、パスコードが解除されたということだ。あの数字が自分と朱里の誕生日を足し算したものだと、気付かれてしまっている。
 それをわかった上で沙月の顔を見れば、こうして対峙していることが実に自然に思えてくる。
「人のプライバシーを覗いたのか、ますますスパイじゃないか」
「だったらなに。さっさと諦めて」
 やはり沙月は手を腰の近くに置いたまま、真剣な眼差しを向けてきている。
「お前こそ、鳩池がそんなに大事か?」
「そんなわけないでしょ」
 これまでとは違い、間髪入れずに否定する沙月。
 梓馬はこの反応の良さを、用意していた答えだからだろうと予測した。
「大事じゃないなら命をかける必要もないだろ、どいてくれ」
「…………大事じゃない。だけどもう決めたことだから。あたしは絶対にどかない」
 この目を見たことがあるな、と梓馬は思った。
 未来を語るとき、いくつかのリスクを警告しても沙月は理想を曲げなかった。あの時間が嘘だったとしても、目の前の瞳にある意志の光が本物だということは疑いようがない。
 梓馬の脳裏に浮かぶ複数のルートは、逆算で過去に向かって進んでいる。今日は敵で、放火の夜も敵だった。そしていま、朱里の傷を忘れかけていたあの過去の日々と夜にも、敵だとマーキングしていく。
 好かれてると思ってた。演技だったのか――
 脳内に自分の声が響いては、いま考えるべきは別にあると諭す。
 梓馬は思考に潜って、これまでの沙月の情報のなかに、取引きできる材料がないか探した。しかし浮かぶものは、沈むものばかりだった。
 もし最初から、沙月が鳩池の女だったとしたら――
 朱里を妊娠させたのは俺だと、加賀美家に吹き込むのが目的だったとしたら――
 俺が鳩池に辿りついたから、敵に回ったとしたら――
 沙月が鳩池とセックスしていたとしたら――
 具体的な言葉を思い浮かべるだけで、梓馬の全身は鳥肌に包まれた。自然と手に持つ包丁に重さが戻ってくる。そして重力とは逆に、口端は上がり始めていた。
 だったらやってやる。ここにいる全員、一人も残さない――
 その気配が伝わったのか、沙月の手は腰から懐へと伸びた。そして再び現れたときには、しっかりと果物ナイフが握られていた。暗い部屋でその刀身は、安っぽく銀色を映していた。
 二本の殺意が顔を向け合った。お互いが二歩ほど踏み込めば、腹部を狙える距離だ。確実に命中させるなら、刃物を腰にためて突進するのがいい。しかし梓馬は自然と半身に構える。沙月が向かってきたら、それを捌こうと考えていた。もちろん技術、知識、経験はすべて持ち合わせていない。心がそうさせた。
 梓馬が姿勢を変えたのを見て、沙月もまた目的に沿った姿勢を取る。腰をかがめ、両手をやや広くとってバランスを整えた。重心の低さがネコ科を連想させ、次の行動の速度を物語っている。
 俺はここで死ぬのか――
 そう感じた梓馬は、ますます口端を曲げていく。それは泣き笑いのように。
「鳩池とセックスしたのか?」
 沙月は目をかっと開き、まるで心の底からのように言った。
「え、意味がわからない」
「動揺してるな、当たったか。なあ、お前は本当にあいつの友達だったのか?」
「お前がなにを言ってるかわからない」
「そういや知り合ったばかりのころ、そんな感じの口調だったよな。俺の気を引くために可愛いしゃべり方にしたのか?」
 梓馬は先ほどから、お前と言われるたびに沙月を遠く感じていた。うすら寒い心が最悪のルートに耐えるため、自ら可能性を限定していく。
「俺はラブホテルに行くのが初めてで、色々知らないことばかりだった。お前は知らない振りをしてたように、いまは思える」
「お前が暴走してただけだよ」
「そのお前お前ってのをやめてくれ、他人みたいに」
「ここで名前を言うことはできないんじゃなかったの」
「確かにそうだが……」
 肯定を取りながらも、梓馬は微塵も信じていない。してやられたと思っているだけだ。沙月もそれを感じ取っていて、次の言葉を選んでいく。
「あたし、処女だったでしょ?」
「俺はお前以外知らないんだ。どうとでも言える」
「すっごく痛かったよ……」
「童貞だから仕方ないだろ。それが嫌なら、そこの鳩池みたいなクズとだけやってればいいだろうが」
「でも嬉しかったんだよ、信じてよ。痛かったけど、嬉しかったんだよ?」
 沙月の恥ずかしがっているような仕草も、信じたくなるような声色も、すべて誇張された演技に見えた。いま並べられた言葉にもし信憑性の光を見るならば、それはどれもこれも、鳩池に使ったことのある言葉だったからではと。
「ならなんで、いま俺の前に立っていられるんだ」
「それは言わない。あたしに包丁を渡して、さっさとここから出ていってとしか言えない」
 結局、沙月はこれしか言わない。この頑なな部分こそが実に沙月らしく、それが余計に梓馬を嫉妬に狂わせていく。目の前のことに集中しているとはいえ、鳩池から聞いた朱里の真相は、生涯消えない傷を残していた。いま沙月がやっていることは、傷口に塩を塗り込んでいるのと同じだ。
「あの男がなにをしたのか、どれだけ嬉しそうに話していたのか、聞いてたんだろ。なんとも思わなかったのか、殺したいと思わなかったのか。鳩池はそんなにセックスが上手いのか」
「本当に自分のことが――」
 沙月はなにかを言おうとして、しかし口を結んだ。低くした姿勢を制御している両手、ナイフが握られたその指先に一度だけ視線をやる。
 それは殺意の証明だった。
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