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一粒に確定する優先順位 鳩池久吾編 その10
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「あの男がなにをしたのか、どれだけ嬉しそうに話していたのか、聞いてたんだろ。なんとも思わなかったのか、殺したいと思わなかったのか。鳩池はそんなにセックスが上手いのか」
「本当に自分のことが――」
沙月はなにかを言おうとして、しかし口を結んだ。低くした姿勢を制御している両手、ナイフが握られたその指先に一度だけ視線をやる。
それは殺意の証明だった。
いったい、なにが沙月にそこまでの決意をさせたのか。梓馬には本当にわからなかった。例え鳩池の女だったとして、こうまで殺意を剥き出しにすることは考えられない。朱里の死のときでさえ、その影はなかった。しかしそう思ってしまうのは、これまでの沙月という人間を見てきたからだ。向けられた好意を感じてきたからだ。
ここで梓馬は、自分がしてきたことを知る。
俺も朱里への好意をコピーして、沙月に見せてきた――
同じことをやられただけだと。沙月は鳩池の気持ちをコピーして、自分に見せてきただけなんだと。
積み上げてきたなにかが、崩れていく気配を感じる。しかし崩壊のなかで、梓馬はこれ以上ないくらい、いまの状況が腑に落ちてきていた。なるべくしてなったのだと。
朱里も沙月も全部が嘘で、そして真実は鳩池が独占している。なにもかもを失った梓馬に残った言葉は、論戦において最も必要のないものだった。
「それでも、お前が好きだ……」
心の果てにいるのが誰か知られた上で、それでも存在する真実だった。
「あたしも好きだよ」
沙月はさらりと言う。
同じ言葉であっても、意味がまったく違うと、梓馬はさらに本音を吐いた。
「俺はお前のことも大事なんだ……」
言葉にどうしても、二番目というニュアンスが出てしまう。だがすべてを奪われた梓馬のなかには、嘘の弾が残っていなかった。ただ体の外に、嘘が波のように漂っているだけ。
「俺は二番ですらなかったのか?」
無様な言葉だと、自分でも思った。誰かの一番になりたかった男が口にする言葉ではない。それでも愛されていた証拠がほしかった。
いまの自分を軽蔑しているかと、梓馬は沙月の目を見る。
光っていた。
「お前が一番だよ」
その輝きは月明りにも照らし返していく。漂う嘘にも観測の光を向けていく。自分の好きなものを自分で選べる沙月の目は、なによりも光っていた。
「あたしには大事なものがたくさんあるよ。でも一番はいつだって一つしか持てない。全部惜しいな、夢も家族も時間も。でも自分の一番がなにかわかっているときに二番以下もほしいなんて、そんな器用にはなれないよ」
願いを叶えない流星群が、沙月の目に星空を映していた。ほうき星の数だけ、想いは踏みにじられてきた。不器用な優しさが、その才能の源泉かのように。
梓馬は沙月の目に自分を見つけた。星空に鏡映しになっているもう一人の自分が、可能性として同時に存在していることに気付く。それは他人に愛される資格を所持する自分だった。
もし沙月が嘘を吐いていないとしたら――
ありえない考えだと自分でも思った。しかし沙月の光に映し出された自分は、確かに目の前に存在していた。それがどれだけ都合悪くとも、断定してはいけない。
梓馬は相反する考えを持った自分を同時に存在させたように、沙月もまた同時に存在させることにした。
こちらに刃物を向けながら鳩池を守る沙月、それでも自分を一番好きだと言う沙月。この二者を鏡映しにして、重なり合わせていく。それを観測すると、この部屋が嘘によって歪められていたことが暴かれた。漂う波のような嘘が、唯一つの問いに収束されていく。
なぜ対立する両者が膠着状態にあるのか。
変化がないように思えていたが、いまこうして観測すると、着々と膠着が育てられていることが浮き彫りになる。状況は動き続けていたはずだ。
手に刃物を持ちながら、目的が真逆の二人が対峙すれば、なにが起きるかは明白。しかし現状、観測されているのはお互いに動けない状況だ。
だったら、俺の状況把握が間違っていたんだ――
梓馬は基本を忘れていた。朱里の事実という壁と、沙月の登場という壁を前にして、その高さに自分の特性を忘れてしまっていた。断定しないということは、相反する二つを同時に存在させるということだ。
沙月にも動けない理由があるはずだ――
現状から導き出された現実を踏まえて、梓馬は沙月を見た。
果物ナイフを手に持ち、低い姿勢を保っている。これは確かに先ほどの印象どおり、素早い動作を行うための準備だ。そして次に、沙月の目的を考える。
刃物を手放せと言われたこと、そしてここから出ていけと言われたこと。梓馬はこれを、鳩池を守るための言葉だと思っていた。だがそうなると、矛盾する三人目の沙月が生まれることになる。
もし本当に鳩池を守りたいなら、もっと確実な手段があったはずだ――
沙月は梓馬のメモ帳を見ている。計画を把握していたなら、車に近づくなと告げるだけでいい。そうすればこの状況は生まれなかった。
つまり沙月には、計画を実行する理由があったということだ。ここまで気付けば、沙月が実際にとった行動を洗う必要がある。
沙月は、梓馬が用意できなかった移動手段と拷問場所を用意できると言った。そしてその後、父親からの電話でその二つを奪った。
梓馬はあのとき、自分がなんと主張したかを思い出す。いま引き返せば、鳩池に警戒されて拉致が二度とできなくなると言った。ならばそれがそのまま、沙月の目的だ。
沙月は鳩池を拉致させないために、拉致計画に加担した。
こんな女がいるのか――
梓馬はこれまで沙月を侮っていた。しかしいまその実力は、状況が証明していた。それは松本花のときも、大橋久美のときもそうだった。梓馬が言葉に詰まると、いつもその状況を打破してきた実績がある。
確かに物事を推測する能力においては、久美どころか梓馬にすら敵わない。しかし実際に状況を動かす能力、自身に勝利を呼び込む能力においては、誰よりも結果を残してきた。梓馬がここまで真相に近づくことができたのは、沙月が導いてきたからだ。
梓馬はようやく真意に辿りついた。沙月の心には果てなどなかった。どこまでも広がるその領域は、いまもなお膨張し続けている。
膠着の静けさのなか、落下した涙が弾ける音を梓馬は確かに聴いた。
俺はこの女を守らないと――
その決意がついに、歩を進めさせた。打破される膠着、一度離れたはずの二人の距離がまた収縮していく。
沙月は大きな目をさらに丸くして、その様子を観測した。そして次の瞬間には、自分の目的達成が阻害されると認識した。
ついに殺意を解き放つ。
「ごめんね、大好きだよ」
沙月は言い終わったあと、果物ナイフを握る手に力を込めた。ネコ科のように俊敏な身体操作、右肘を振り上げるのと連動して、腰と足が回転運動を始める。沙月は鳩池の元へ駆け出していた。
梓馬はそれをスローモーションのように感じていた。もどかしさとともに手のなかの包丁を投げ捨てると、反転している沙月の背中に飛び込んだ。
目測では腰辺りを掴めるはずだった。だが沙月の運動能力は思ったより高く、自分の手からすり抜けていく。
もうこれ以上、なにも失いたくない――
その恐怖が、梓馬に更なる生体反射を強制した。通り過ぎようとしている沙月の体に、限界を超えて手を伸ばしていく。指先になにかの感触が現れた。
そして梓馬は胸から畳に落ちた。腹部に響く衝撃は気にせず、手にあった感触に力を込める。掴んでいたのは足首。続いて沙月が転倒する音が聞こえた。
沙月の果物ナイフは、ぎりぎりのところで鳩池に届いていなかった。
「なんとか、間に合ったか……」
「離せっ離せっ」
じたばたと暴れる沙月。さすがに梓馬には脚力を抑え込む腕力がない。そうすると遠慮がちだった沙月もだんだんと力を強め、なんとか抜け出そうとする。ここで手を離せば、沙月は鳩池を殺してしまう。それだけはどうしても認められなかった。
「うっ、あぁ……、血が……」
梓馬は足首を掴んでいた手を、自ら離してそう言った。
沙月は事故を想像させられていた。梓馬が包丁を捨てた瞬間を見ていないからだ。そして自由になったにも関わらず、呻く梓馬に駆け寄ってくる。手にはまだ果物ナイフを持ったままだった。
「大丈夫? ねえ、大丈夫?」
梓馬が声のほうに顔を向けると、視界いっぱいに沙月の顔があった。目に浮かんでいる涙の温度を想像する。きっと暖かいだろうと信じられた。
「大丈夫だ」
梓馬は言って、唐突に立ち上がった。
「えっ」
そして驚いている沙月を、そのまま抱き寄せた。正直なところ果物ナイフが刺さるのではと怖かった。しかしいま、それよりも伝えたいことがある。自分が馬鹿だったと。
「そもそもお前が敵だったら、こんな状態にはならないんだ。計画を知った時点で、外に出るな、車に近づくなと鳩池に言えばいいだけだからな」
嗅ぐ匂いが懐かしかった。古着と体臭が混じったそれは、鼻腔から体内に侵入するとすぐに肺を満たしていく。
きっとここも帰る場所だったんだ――
梓馬の口から出ていく二酸化炭素には、ダウナー系の幸福が混じっていた。
「離してよ……」
そう言う沙月の体には抵抗の意志がなかった。果物ナイフを握ったままの手を、自分よりも広い背中へと回していく。
交差する首と首が、お互いの視界を交換している。それは互いの真意もまた同じように。
自分の表情も沙月の表情も、死角に入れ続けなければならないと感じていた。しかし密着した腹部の痙攣が、お互いに泣き顔を想像させあっていく。
「俺が移動手段と場所を自力で手に入れる前に、計画を失敗させたかったんだろ?」
「ごめんなさい……」
沙月は信じていた。梓馬だけに行動させておけば、必ず一人で計画を成功させてしまうと。匿名で鳩池に警告したとしたところで、防げるのは最初の一回だけだ。知り合いでもない自分の言葉では、今後も車に近づかないことを徹底させられるわけがない。
沙月は信頼していた。梓馬の二手目三手目を妨害することはできないと。だからその前に、二度と計画が実行できないようにする必要があった。実際に拉致をされれば、さすがに鳩池も同じ轍を踏まない。
「正直、電話がかかってきたときは諦めかけた」
「あたしは朱里のおばあちゃんの家に気付かれたときに、もう諦めたよ」
父親からの電話を装うことで、目的を達成できたと思った沙月だったが、梓馬はさらにその上の発想で計画を続行させた。こうなってはもう止めることは不可能だと思い、沙月は自身の目的を変更する。
「それでいきなり現れて、包丁をよこせか。お前はもう少し言葉を選んだほうがいい」
「鳩池の肢体に刃物の傷口が二種類あってもだめだし、あたしが代わりに殺すって言っても許してくれないだろうし、どうしようもなかったんだよ。でも今日やらないといけなかったから」
沙月にここまでの決意を促したものは、憎しみではなく愛情だった。それは拉致殺害の機会を失った梓馬が、次は捨て身になると発言したことに起因する。
拉致を失敗させて稼いだ時間で、梓馬を説得しようという試みは、朱里の祖母の家の発見によって潰された。ならば残された手段は一つしかない。誰にも鳩池を二回殺すことはできないのだから。
沙月はこの小さい体すべてを使って、梓馬の未来を守ろうとしていた。メモ帳に書かれていた、二十代という時間を失う悲鳴。それを見てしまっていたからだ。
並々ならぬ覚悟だっただろう。自分の未来を捨てると決めるのに、どれだけの時間が必要だったか。
一瞬だったんだろうな、と梓馬は思った。
「俺なんかのために、大事な夢を捨てるな……」
「あたしにとって、一番はなるためにあるんじゃない。大事にするためにあるんだよ。お前のこと、大好きなんだもん」
「あいつは失神してる。名前で呼んでくれていい」
「だめ、言わないよ……」
沙月の震える声と体、その波動が梓馬に吸い込まれていく。すべての嘘が観測されたいま、それらは一粒の優先順位へと確定していく。
梓馬は首相撲を解いて、沙月の顔を観測した。小さな頭蓋骨に不自然なほどの大きな目が、この世界で自分だけを覗いている。小鼻の先端は赤く染まっており、華奢な顎が震えていた。全身を恐怖に犯されながらも、懸命に目的を果たそうとしていたからだ。
沙月は胸と尻以外、どこもかしこも小さい。梓馬にすっぽりと収まってしまうほど小さい。このなにもかも頼りない小さな存在は、見返りを求めていなかった。
自分が一番ではないと知り、永遠に親友に勝てないとわかっていても。それでも自分を含めた二番以下を、あっさりと切り捨てた。
すべてはただ一つの願いのために。
「本当に自分のことが――」
沙月はなにかを言おうとして、しかし口を結んだ。低くした姿勢を制御している両手、ナイフが握られたその指先に一度だけ視線をやる。
それは殺意の証明だった。
いったい、なにが沙月にそこまでの決意をさせたのか。梓馬には本当にわからなかった。例え鳩池の女だったとして、こうまで殺意を剥き出しにすることは考えられない。朱里の死のときでさえ、その影はなかった。しかしそう思ってしまうのは、これまでの沙月という人間を見てきたからだ。向けられた好意を感じてきたからだ。
ここで梓馬は、自分がしてきたことを知る。
俺も朱里への好意をコピーして、沙月に見せてきた――
同じことをやられただけだと。沙月は鳩池の気持ちをコピーして、自分に見せてきただけなんだと。
積み上げてきたなにかが、崩れていく気配を感じる。しかし崩壊のなかで、梓馬はこれ以上ないくらい、いまの状況が腑に落ちてきていた。なるべくしてなったのだと。
朱里も沙月も全部が嘘で、そして真実は鳩池が独占している。なにもかもを失った梓馬に残った言葉は、論戦において最も必要のないものだった。
「それでも、お前が好きだ……」
心の果てにいるのが誰か知られた上で、それでも存在する真実だった。
「あたしも好きだよ」
沙月はさらりと言う。
同じ言葉であっても、意味がまったく違うと、梓馬はさらに本音を吐いた。
「俺はお前のことも大事なんだ……」
言葉にどうしても、二番目というニュアンスが出てしまう。だがすべてを奪われた梓馬のなかには、嘘の弾が残っていなかった。ただ体の外に、嘘が波のように漂っているだけ。
「俺は二番ですらなかったのか?」
無様な言葉だと、自分でも思った。誰かの一番になりたかった男が口にする言葉ではない。それでも愛されていた証拠がほしかった。
いまの自分を軽蔑しているかと、梓馬は沙月の目を見る。
光っていた。
「お前が一番だよ」
その輝きは月明りにも照らし返していく。漂う嘘にも観測の光を向けていく。自分の好きなものを自分で選べる沙月の目は、なによりも光っていた。
「あたしには大事なものがたくさんあるよ。でも一番はいつだって一つしか持てない。全部惜しいな、夢も家族も時間も。でも自分の一番がなにかわかっているときに二番以下もほしいなんて、そんな器用にはなれないよ」
願いを叶えない流星群が、沙月の目に星空を映していた。ほうき星の数だけ、想いは踏みにじられてきた。不器用な優しさが、その才能の源泉かのように。
梓馬は沙月の目に自分を見つけた。星空に鏡映しになっているもう一人の自分が、可能性として同時に存在していることに気付く。それは他人に愛される資格を所持する自分だった。
もし沙月が嘘を吐いていないとしたら――
ありえない考えだと自分でも思った。しかし沙月の光に映し出された自分は、確かに目の前に存在していた。それがどれだけ都合悪くとも、断定してはいけない。
梓馬は相反する考えを持った自分を同時に存在させたように、沙月もまた同時に存在させることにした。
こちらに刃物を向けながら鳩池を守る沙月、それでも自分を一番好きだと言う沙月。この二者を鏡映しにして、重なり合わせていく。それを観測すると、この部屋が嘘によって歪められていたことが暴かれた。漂う波のような嘘が、唯一つの問いに収束されていく。
なぜ対立する両者が膠着状態にあるのか。
変化がないように思えていたが、いまこうして観測すると、着々と膠着が育てられていることが浮き彫りになる。状況は動き続けていたはずだ。
手に刃物を持ちながら、目的が真逆の二人が対峙すれば、なにが起きるかは明白。しかし現状、観測されているのはお互いに動けない状況だ。
だったら、俺の状況把握が間違っていたんだ――
梓馬は基本を忘れていた。朱里の事実という壁と、沙月の登場という壁を前にして、その高さに自分の特性を忘れてしまっていた。断定しないということは、相反する二つを同時に存在させるということだ。
沙月にも動けない理由があるはずだ――
現状から導き出された現実を踏まえて、梓馬は沙月を見た。
果物ナイフを手に持ち、低い姿勢を保っている。これは確かに先ほどの印象どおり、素早い動作を行うための準備だ。そして次に、沙月の目的を考える。
刃物を手放せと言われたこと、そしてここから出ていけと言われたこと。梓馬はこれを、鳩池を守るための言葉だと思っていた。だがそうなると、矛盾する三人目の沙月が生まれることになる。
もし本当に鳩池を守りたいなら、もっと確実な手段があったはずだ――
沙月は梓馬のメモ帳を見ている。計画を把握していたなら、車に近づくなと告げるだけでいい。そうすればこの状況は生まれなかった。
つまり沙月には、計画を実行する理由があったということだ。ここまで気付けば、沙月が実際にとった行動を洗う必要がある。
沙月は、梓馬が用意できなかった移動手段と拷問場所を用意できると言った。そしてその後、父親からの電話でその二つを奪った。
梓馬はあのとき、自分がなんと主張したかを思い出す。いま引き返せば、鳩池に警戒されて拉致が二度とできなくなると言った。ならばそれがそのまま、沙月の目的だ。
沙月は鳩池を拉致させないために、拉致計画に加担した。
こんな女がいるのか――
梓馬はこれまで沙月を侮っていた。しかしいまその実力は、状況が証明していた。それは松本花のときも、大橋久美のときもそうだった。梓馬が言葉に詰まると、いつもその状況を打破してきた実績がある。
確かに物事を推測する能力においては、久美どころか梓馬にすら敵わない。しかし実際に状況を動かす能力、自身に勝利を呼び込む能力においては、誰よりも結果を残してきた。梓馬がここまで真相に近づくことができたのは、沙月が導いてきたからだ。
梓馬はようやく真意に辿りついた。沙月の心には果てなどなかった。どこまでも広がるその領域は、いまもなお膨張し続けている。
膠着の静けさのなか、落下した涙が弾ける音を梓馬は確かに聴いた。
俺はこの女を守らないと――
その決意がついに、歩を進めさせた。打破される膠着、一度離れたはずの二人の距離がまた収縮していく。
沙月は大きな目をさらに丸くして、その様子を観測した。そして次の瞬間には、自分の目的達成が阻害されると認識した。
ついに殺意を解き放つ。
「ごめんね、大好きだよ」
沙月は言い終わったあと、果物ナイフを握る手に力を込めた。ネコ科のように俊敏な身体操作、右肘を振り上げるのと連動して、腰と足が回転運動を始める。沙月は鳩池の元へ駆け出していた。
梓馬はそれをスローモーションのように感じていた。もどかしさとともに手のなかの包丁を投げ捨てると、反転している沙月の背中に飛び込んだ。
目測では腰辺りを掴めるはずだった。だが沙月の運動能力は思ったより高く、自分の手からすり抜けていく。
もうこれ以上、なにも失いたくない――
その恐怖が、梓馬に更なる生体反射を強制した。通り過ぎようとしている沙月の体に、限界を超えて手を伸ばしていく。指先になにかの感触が現れた。
そして梓馬は胸から畳に落ちた。腹部に響く衝撃は気にせず、手にあった感触に力を込める。掴んでいたのは足首。続いて沙月が転倒する音が聞こえた。
沙月の果物ナイフは、ぎりぎりのところで鳩池に届いていなかった。
「なんとか、間に合ったか……」
「離せっ離せっ」
じたばたと暴れる沙月。さすがに梓馬には脚力を抑え込む腕力がない。そうすると遠慮がちだった沙月もだんだんと力を強め、なんとか抜け出そうとする。ここで手を離せば、沙月は鳩池を殺してしまう。それだけはどうしても認められなかった。
「うっ、あぁ……、血が……」
梓馬は足首を掴んでいた手を、自ら離してそう言った。
沙月は事故を想像させられていた。梓馬が包丁を捨てた瞬間を見ていないからだ。そして自由になったにも関わらず、呻く梓馬に駆け寄ってくる。手にはまだ果物ナイフを持ったままだった。
「大丈夫? ねえ、大丈夫?」
梓馬が声のほうに顔を向けると、視界いっぱいに沙月の顔があった。目に浮かんでいる涙の温度を想像する。きっと暖かいだろうと信じられた。
「大丈夫だ」
梓馬は言って、唐突に立ち上がった。
「えっ」
そして驚いている沙月を、そのまま抱き寄せた。正直なところ果物ナイフが刺さるのではと怖かった。しかしいま、それよりも伝えたいことがある。自分が馬鹿だったと。
「そもそもお前が敵だったら、こんな状態にはならないんだ。計画を知った時点で、外に出るな、車に近づくなと鳩池に言えばいいだけだからな」
嗅ぐ匂いが懐かしかった。古着と体臭が混じったそれは、鼻腔から体内に侵入するとすぐに肺を満たしていく。
きっとここも帰る場所だったんだ――
梓馬の口から出ていく二酸化炭素には、ダウナー系の幸福が混じっていた。
「離してよ……」
そう言う沙月の体には抵抗の意志がなかった。果物ナイフを握ったままの手を、自分よりも広い背中へと回していく。
交差する首と首が、お互いの視界を交換している。それは互いの真意もまた同じように。
自分の表情も沙月の表情も、死角に入れ続けなければならないと感じていた。しかし密着した腹部の痙攣が、お互いに泣き顔を想像させあっていく。
「俺が移動手段と場所を自力で手に入れる前に、計画を失敗させたかったんだろ?」
「ごめんなさい……」
沙月は信じていた。梓馬だけに行動させておけば、必ず一人で計画を成功させてしまうと。匿名で鳩池に警告したとしたところで、防げるのは最初の一回だけだ。知り合いでもない自分の言葉では、今後も車に近づかないことを徹底させられるわけがない。
沙月は信頼していた。梓馬の二手目三手目を妨害することはできないと。だからその前に、二度と計画が実行できないようにする必要があった。実際に拉致をされれば、さすがに鳩池も同じ轍を踏まない。
「正直、電話がかかってきたときは諦めかけた」
「あたしは朱里のおばあちゃんの家に気付かれたときに、もう諦めたよ」
父親からの電話を装うことで、目的を達成できたと思った沙月だったが、梓馬はさらにその上の発想で計画を続行させた。こうなってはもう止めることは不可能だと思い、沙月は自身の目的を変更する。
「それでいきなり現れて、包丁をよこせか。お前はもう少し言葉を選んだほうがいい」
「鳩池の肢体に刃物の傷口が二種類あってもだめだし、あたしが代わりに殺すって言っても許してくれないだろうし、どうしようもなかったんだよ。でも今日やらないといけなかったから」
沙月にここまでの決意を促したものは、憎しみではなく愛情だった。それは拉致殺害の機会を失った梓馬が、次は捨て身になると発言したことに起因する。
拉致を失敗させて稼いだ時間で、梓馬を説得しようという試みは、朱里の祖母の家の発見によって潰された。ならば残された手段は一つしかない。誰にも鳩池を二回殺すことはできないのだから。
沙月はこの小さい体すべてを使って、梓馬の未来を守ろうとしていた。メモ帳に書かれていた、二十代という時間を失う悲鳴。それを見てしまっていたからだ。
並々ならぬ覚悟だっただろう。自分の未来を捨てると決めるのに、どれだけの時間が必要だったか。
一瞬だったんだろうな、と梓馬は思った。
「俺なんかのために、大事な夢を捨てるな……」
「あたしにとって、一番はなるためにあるんじゃない。大事にするためにあるんだよ。お前のこと、大好きなんだもん」
「あいつは失神してる。名前で呼んでくれていい」
「だめ、言わないよ……」
沙月の震える声と体、その波動が梓馬に吸い込まれていく。すべての嘘が観測されたいま、それらは一粒の優先順位へと確定していく。
梓馬は首相撲を解いて、沙月の顔を観測した。小さな頭蓋骨に不自然なほどの大きな目が、この世界で自分だけを覗いている。小鼻の先端は赤く染まっており、華奢な顎が震えていた。全身を恐怖に犯されながらも、懸命に目的を果たそうとしていたからだ。
沙月は胸と尻以外、どこもかしこも小さい。梓馬にすっぽりと収まってしまうほど小さい。このなにもかも頼りない小さな存在は、見返りを求めていなかった。
自分が一番ではないと知り、永遠に親友に勝てないとわかっていても。それでも自分を含めた二番以下を、あっさりと切り捨てた。
すべてはただ一つの願いのために。
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