逆らえぬ宿命ならば~毛利元就妻・中の丸~

長谷川彰子

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血塗られし縁組み

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 わたくしが井上与三右衛門尉元有(いのうえよざうえもんのじょうもとあり)殿に襲われた事件は、井上河内守元兼(いのうえかわちのかみもとかね)殿により、うやむやにされた。
 大殿のわたくしに対する態度は以前と変わらないのでよかったが、井上一族の横暴には若殿・少輔太郎隆元(しょうのたろうたかもと)様はことのほか心象を害していらっしゃった。
 わたくしは尾崎丸にいらっしゃる若殿の御正室・寿(かず)姫様に呼ばれた。寿姫様はご実家から持参なされたのか、優美な香炉に香を燻らせていらっしゃる。それがまた、大内館の雅な空気を思い出させる。

「殿がそなたを心配しておった。
 大事ないか? 食欲はあるか?」

 上つ方の姫君とは思えぬ気のお使いように、わたくしは肩を竦める。

「大丈夫ですよ、大殿にも慰めていただきましたし」

 大殿は元通り侍女として接して下さっているし、三吉の御方・美(はる)殿もわたくしを元気付けようと、御子様のお世話などをさせてくださる。
 乃美の御方・蘭(らん)殿はわたくしが狼藉にあったのはご自分に責任があるとお思いなのか、乳母の麻殿が止めるのも聞かず、わたくしに真摯に謝罪なさった。

「それにしても……井上と申す者達、殿は目障りだと仰っておられる。
 吉田の寺院の所領や、毛利譜代の家臣の所領を横領し、課役を果たそうともしない。
 物を申そうにも、評定には現れぬし……と悔しそうに申されていた」

 わたくしも眉を寄せに頷く。
 若殿がそんなことを仰っていたとは。若殿以上に井上一族との付き合いの長い大殿の辛酸は、いかばかりか。
 尾崎丸から下がり、中の丸に戻ってくると、沙和(さわ)殿とともにひとりの侍が控えていた。
 沙和殿がわたくしを上座に座らせ、身を乗り出される。

「中の丸様に、一目お目に掛けたく思い、こちらに出向いてもらいました。
 わたくしの、兄です」

 若侍が頭を上げる。
 あら、どこかで顔を見たことがあるような……。わたくしは首を傾げる。

「井上右衛門尉光俊(いのうえうえもんのじょうみつとし)が一子、又右衛門尉春忠(またうえもんのじょうはるただ)と申します。
 同じ井上一族として、与三右衛門尉元有(よざうえもんのじょうもとあり)がしたこと、お詫び申し上げます」

 そうして、又右衛門尉殿は再び頭を下げられる。

「中の丸様が与三右衛門尉殿に酷い目に遭わされたとき、桂左衛門大夫元忠(かつらさえもんだいぶもとただ)殿が助けに来られましたでしょう?
 あの時、兄・春忠もそこにいたのです。
 中の丸様がお一人で乃美の御方様を連れ戻しに行かれたとき、わたくし嫌な予感がしたのです。
 だから、桂左衛門尉元澄(かつらさえもんのじょうもとずみ)様の御館に駆け込み、兄に助けを求めました。
 兄は左衛門大夫殿とともに大殿から兵をお借りし、中の丸様と乃美の御方様を捜索に出たのです」

 わたくしは沙和を見、又右衛門尉殿を見る。

 ――そうか、わたくしが寸でのところで助かったのは、沙和殿の機転だったのだわ。

 わたくしは又右衛門殿ににじり寄る。

「面を、上げてください。
 よくぞわたくしを助けて下さいました。
 本当に、ありがとうございます」

 わたくしの申し出に又右衛門尉殿は顔を上げられ、懐から懐紙に包んだ何かを取り出された。

「これは、中の丸様のものですか?
 中の丸様が襲われていた場所に落ちていたものです」

 又右衛門尉殿は畳んだ懐紙を広げられる。

 ――なかには、大殿から頂いた笄があった。

 馬に乗るため髪をひとつに纏めたとき、飾りとして挿したもの。これのお陰で、わたくしはなんとか貞操を護ることができた。
 与三右衛門尉殿の腕を笄で刺し、男の腕から逃れた。そのあとどこかに落としたのか見当たらず、折角大殿が下さったものを無くしてしまったと落ち込んでいた。

 ――その笄が、我が手に戻ってきた。

 わたくしは笄を握り締める。

「ありがとう、本当に、ありがとう……」

 涙ぐみながら告げるわたくしに、又右衛門尉殿と沙和殿が微笑む。

「……実は、明日から竹原に参ることになりました」

 又右衛門尉殿の告白に、わたくしは瞬きする。

「わたしは竹原殿の側近くにお仕えします。
 沙和、また後日会おうぞ」

 そう言い残し、又右衛門尉殿は裡座敷から去られた。

「……沙和、いよいよね。
 沼田小早川家の家老である椋梨常陸介(むくなしひたちのすけ)殿が、大殿に文を寄越されたわ。
 明晩、沼田は大内の御屋形様に折れてくるわ」

 わたくしは沙和に話ながら、わたくしの身に起きたことは、大事の前の小事だと感じていた。
 そしてその感覚は、ほぼ間違っていなかった。






 夏が終わりに近づき、蝉の鳴き声から涼やかな虫の音に変わり始めた夜中、蘭殿のお部屋で休む大殿のもとに、早馬の知らせがあった。

 ――竹原に滞在していた井上与三右衛門尉元有が討たれた!

 城内の空気が殺伐としたものに変わり、小具足姿に武装した大殿や若殿が表座敷で馳せ参じた桂左衛門尉殿達に号令している。
 わたくしは裡座敷の女人達に狼狽えないよう触れ回り、戦になったときに備え兵糧米を切り崩す準備を始める。
 が、勝敗は呆気なくついた。
 否、最初から戦いではなかった。大殿達による、井上一族粛清劇だったのだ。
 井上一族に知られないよう内密に計略を進め、今晩断行したのだ。まったく何も知らされていなかった井上一族にとっては、寝耳に水だっただろう。
 竹原の又四郎殿に呼ばれた与三右衛門尉殿は又四郎殿に歓待され、泥酔した状態で又四郎殿に首を斬られたという。
 竹原からの知らせが、大殿達にとっての決行の合図だった。
 井上河内守元兼殿のもとにも、与三右衛門尉殿討たれるの報は入っていたらしい。混乱する河内守殿の屋敷に桂左衛門尉殿達が乱入し、電光石火の勢いで河内守殿の家族の命を奪っていった。
 河内守殿は観念し、自害して果てたという。
 夜明けの頃には粛清劇が終わり、表座敷で井上一族の首検分が行われた。
 井上河内守光兼(いのうえかわちのかみみつかね)殿・井上右衛門尉光俊(いのうえうえもんのじょうみつとし)殿・井上采女正元在(いのうえうねめのじょうもとあり)殿等数名を除き、井上一族三十余名は大殿から誅伐を受け果てた。




 血腥い粛清劇が終わった朝、わたくしは中の丸に安置した己の念持仏に、殺められた井上一族の冥福を祈った。
 彼らも、生きるか死ぬか、残るか残らないかで足掻く者達だったのだ。毛利の譜代となっていたとはいえ、もとは独立した国人領主だった井上一族なのだ。成り上がっていく毛利一族に巻かれて生きていくのを良しとしなかったのだろう。
 わたくしの背後で、静かに涙ぐむ音が。振り返ると、同じように御仏に手を合わせる沙和殿が泣いていた。

「沙和殿……」

 沙和殿は井上河内守元兼殿たちとは立場を違えた井上氏の者だ。それでも、同じ一族の者の誅殺は悲しいのだろう。

「父は……叔父は、井上氏の家名を残すことを第一に考えておりました。
 代々の毛利家の方々と大殿は違う……父達はそれに気付けたから、大殿に付いて行くと決めたのです。
 それに気付けず、我らは毛利氏と同等だと専横を繰り広げた元兼殿達は、時を見る目がなかったのでしょう。でも……元兼殿の国人領主としての自負の思いは、わたくしにも痛い程解ります。
 父が兄やわたくしを竹原殿の配下に決めたことで、元兼殿を刺激し、元兼殿は意を同じくする者に大殿の目に付くような行いをさせましたが、それもすべて大殿の謀(はかりごと)に掛かっただけ……。
 元兼殿達を殺す大義を得るため、大殿はわざと元兼殿を煽りました。
 父やわたくしは大殿に手を貸し、同じ一族を犠牲にしました。が、後悔はしておりません。
 ……我らは晴れて国人領主としての立場を捨て、毛利家臣として血脈を後々まで遺してゆけますから」

 嗚咽する沙和殿に、わたくしは黙ってわたくしより前に座り御仏に祈るよう薦める。
 涙しながら香を手向ける沙和殿に、わたくしは生き抜こうとする戦の世の人の業を見たような気がした。
 毛利一族も、戦の世を生き抜くため身中の虫を滅ぼし、他の国人領主を取り込んだ。国人領主達も生き延びるため、毛利家と結んだ。

 ――大内の御屋形様は……時の流れを見ていらっしゃるのだろうか。
 小さな流れが幾つも集まり、大河になろうとする様をご存知だろうか。

 わたくしは、ひどく大内の御屋形様を危うく思えた。




 井上一族の首は城門の前にすべて晒され、胴体はその日のうちに埋葬された。彼らの死は、毛利譜代の家臣が増長せぬようにとの見せしめもあった。
 毛利家中に動揺の色はない。何も無かったかのように一日が過ぎた。
 夜の暑さを凌ぐため、夕餉にも工夫が凝らされる。いつも大殿に供している湯漬けも、飯を水で解してから冷やした出汁を掛け、擦り下ろした生姜と茄子や胡瓜の漬物を添えてお出ししている。

「邦、今宵からはわたしも自由の身だ。
 蘭が身籠ったようだ」

 扇で風を送るわたくしに、大殿がきっぱりと仰る。

「まぁ、お月のものが止まられたのですか?」
「それもあるが、微熱が下がらず、食欲を無くしているようだ」

 冷汁を食される大殿に、わたくしは眉を寄せる。

「それは、大変ですね。
 蘭殿のお身体が心配ですわ」

 わたくしはそう言うが、蘭殿の乳母・麻殿のわたくしに対する心象はすこぶる悪いようで、お見舞いに伺うことはできそうにない。
 が、大殿はそのような事はどうでもよいらしい。

「邦、今宵はそなたと閨を共にする。
 そなたを毛利に落ち着けるため、そなたにも子を生ませる」

 大殿の仰りように、わたくしは困惑する。

「大殿、子を道具にするような仰り方はお止めくださいませ。
 それに、わたくしはいま毛利家に仕えている、それでいいではありませんか」

 確かに、いまの世では、子供――とくに女児は道具として使われる存在である。が、どんな形であれ、望まれて生まれてくることが良き事ではないのか。
 大殿は何を言うのかと、わたくしを呆れてご覧になる。

「おかしなことを言うな、そなたは。
 蘭の腹にいる子も、隆景が沼田を継ぐのに役立たせるため、孕ませたではないか。
 そなたも子を生めば、正々堂々と側室になれる。
 そなたは一生侍女のままがいいのか」

 大殿の問いに、わたくしは言葉に詰まる。
 蘭殿が身籠ったのは、又四郎殿が沼田小早川氏をすんなり継ぐことができるよう、蘭殿の兄・乃美弾正忠隆興(のみだんじょうちゅうたかおき)殿を動かすためだ。そういう意味では、蘭殿の御子はまさしく道具だ。
 でも、わたくしは、子を生むことで側室に認められたい訳ではない。

「大殿……筋が違いまする。
 わたくしを側室にしたいのなら、わたくしの父・小幡山城入道(おばたやましろにゅうどう)の許しを得て下さい。
 わたくしは蘭殿や美殿とは違い、実家の後ろ楯を得ておりませぬ。そんな状態で子を生んでも、子が不幸になるだけでしょう」

 国人領主の娘が嫁ぐ場合、親から幾ばくかの領地や財産を受け継ぐ。他家に嫁いだ娘は実家の財産を盾に子を護り、意見する。
 わたくしは父上から何も受け継いでいない。そんな状態で子を生んでも、妙玖様御腹の御子様はおろか、蘭殿や美殿の御子より毛利家での地盤がない。
 我が子に心細い思いをさせるなら、生まないほうがよいと思うのは、わたくしの我が儘、思い違いか?
 わたくしの精一杯の意見に、大殿はぐぅと詰まられる。少しく考えたあと、大殿は口を開かれた。

「……だがいまのままでは、そなたはただの側女……わたしの手が付いただけの侍女だ。
 そなたは、それでよいと申すのか」
「最初から、そう申しております」

 大殿は苦い顔のまま膝を揺すられたあと、食事を再開なさる。
 わたくしもまた苦さを噛み締めたまま、大殿の食事の介添えをしていた。






 その夜、わたくしと沙和殿が大殿の寝所の支度をし、わたくしだけが残れと大殿に命じられた。
 沙和殿は大殿とわたくしの関係がどういうものか分かっているらしく、黙って下がっていった。
 沈黙が重苦しく、わたくしは寝床の上で正座したまま身動ぎ出来ずにいる。

「そなた……まだ大内家のことを考えているだろう」

 大殿に問い掛けられ、え? とわたくしは顔を上げる。

「大内の御屋形様はいまの世の流れをどうご覧になっているのか。
 大きくなる勢力――毛利氏の存在を危惧せず、安楽としている御屋形様に、そなたは危機感を抱いているだろう」
「そ! そんな……」

 否定しようとしたが、うまく出来ない。わたくしが大内の御屋形様のことを案じているのを、大殿は見抜いている。
 わたくしは目を反らしながら、吶々と言い始める。

「それ、は……。
 御屋形様が、小幡家の主だからです。
 わたくしの弟・四郎義実(しろうよしざね)は御屋形様の小姓上がりで、末の弟・五郎も御屋形様の御寵愛を受け始めたといいます。
 そして、わたくし自身、御屋形様に侍女として仕えていました。
 わたくしがここにいるのは、大内の御屋形様の命があったから。
 ――御屋形様に命じられなかったら、逆にわたくしは、いまここに居ないでしょう」

 最後のほうには大殿の目を真っ直ぐ見据えて告げる。
 わたくしは野心に燃える大殿に付いていきたいと思った。が、小幡の家と大殿を天秤に掛ければ、どちらが大事か……。
 大殿は魅力的な御方だ。この御方がこれからどのように道を切り開かれるか、見てみたい。だが、わたくしは小幡の家を捨てきれない。
 わたくしの言葉を静かに聞いていらっしゃったが、大殿は嘆息を吐いてわたくしを床に押し倒された。

「そなたは、我がものだ……。
 そなたを我がものにするため、御屋形様から貰い受けた。
 そなたが何を言おうと、今更離さぬ」

 大殿の囁きと愛撫が、呪いのようにわたくしを縛り付けてゆく。
 肌に馴染みきってしまった大殿の感触に、わたくしは抗えない。
 どうして、こんなに哀しいのか。どうしてこんなに辛いのか。
 この御方と離れたくない――わたくしのこころと身体が叫んでいる。
 大殿に翻弄されながら、わたくしは泣いていた。






 井上一族が粛清された七日後、本丸表座敷の評定の間に、大殿の外戚で今回の件の主動隊を成していた福原左近允貞俊(ふくはらさこんのすけさだとし)殿、桂左衛門尉元澄殿等が集められ、毛利氏に従うという連署の起請文(きしょうもん)が書かれた。
 これにより、大殿・若殿の手でもって毛利家中は纏められた。






 が、大殿の謀略はこれで終わったわけではない。
 一月後、大殿は毛利領布川に隠居させられている吉川治部少輔興経(きっかわじぶしょうおきつね)殿と、その御子である千法師君を、熊谷兵庫頭信直(くまがいひょうごのかみのぶなお)殿や毛利氏と同盟関係にある天野紀伊守隆重(あまのきいのかみたかしげ)殿に討たせたのである。
 確かに、吉川治部少輔殿は大人しく隠居したわけではない。隠居地を毛利領内に定められ、見張られるのに我慢がならなかったようだ。
 が、治部少輔殿だけではなく、まだ幼い千法師君をその御生母とともに斬ってしまわれるとは……。

 ――大殿は、後顧の憂いなく少輔次郎殿が吉川家を継げるよう、邪魔者を排除された。
 用意周到といえばそうだが、思い切ったことをなさる……。

 自ら道を切り開くには、その先にある障害を除くのは当然だ。が、それは胆力がなければ出来ず、精神力も相当消耗するだろう。
 大殿は怖れる様子もなく、ただ前を見つめておられる。

 ――吉川治部少輔殿は大殿の亡き御正室・妙玖(みょうきゅう)様の甥御様だ。
 それなのに、迷いなく殺められる。
 妙玖様は、もう既に過去なのですか、大殿……。

 わたくしは沙和殿とともに沼田高山城に入れる侍女の監督をしながら、やりきれない思いを抱えていた。






 そして、秋を半ばに過ぎた頃、沼田小早川家が折れた。
 又四郎殿をよく思わない小早川傍流の者達を、又四郎殿擁立派が襲撃し、すべて斬り捨てた。襲撃した者のなかには初めから毛利親派だった乃美備前守宗勝(のみびぜんのかみむねかつ)殿達とともに、椋梨常陸介盛平殿の子息・藤次郎弘平(とうじろうひろひら)殿もいた。

 ――沼田小早川御当主・繁平殿の傅役である椋梨常陸介盛平殿が、毛利側に付いたのだ。

 大殿は又四郎殿を快く思わぬ者がいる限り、又四郎殿に沼田を継がせる訳にはいかぬと仰っていた。――まさに、大殿の思惑通りになったのだ。
 沼田家中の反毛利派が一掃されたあと、又四郎殿が大殿とわたくしに相談したいことがあると参られた。

「父上、年内に沼田の永(なが)姫との婚儀を挙げたいと思います。
 大内の御屋形様が、わたしが沼田小早川氏の婿養子になったのを見届けたあと、沼田の繁平殿を小早川にお返しすると申されております」

 又四郎殿の御言葉に、大殿が頷かれる。

「分かった、吉日を選び、竹原小早川家の待上臈として邦を遣わす。
 邦、沙和や侍女達とともに竹原に参れ」
「畏まりました」

 わたくしは叩頭礼する。
 用件だけ済ましてお帰りになる又四郎殿を、わたくしは城門までお見送りに出た。

「……邦殿、わたしの恋は、なんとかなりそうです」

 小さく呟かれた又四郎殿に、わたくしはえ? と聞き返す。

「永姫は、思った以上に柔軟な女人でした。
 彼女は兄が囚われたあと、家を生かすため動いた。それが繁平殿を生かすことになると、進んでわたしを受け入れる覚悟を決めてくれた。
 そして、わたしを嫌っていたわけでもなかった。
 彼女はいまは家のことで頭が一杯ですが、いつかわたしのことも見てくれると期待して待ちますよ」

 馬に乗り振り返った又四郎殿の笑顔は、眩しく、この上なく美しかった。
 わたくしはなにも言わず又四郎殿が遠ざかるのを見、溜め息を吐いた。

 ――沼田の永姫様は聡明な姫君なのだ。
 それゆえに、おふたかたは違う苦しみを味われるかもしれない。

 武家の女子は、愛や情だけで動くのではない、家の利や得でも動くのだ。
 その分、これからも伸びるだろう毛利家に小早川家は巻かれてゆくのだから、永姫様が又四郎殿にお心を開かれる可能性は高いだろう。
 が、又四郎殿が小早川より毛利の男としての立場を取れば、お二人の仲は崩れてしまう。
 ひとのことは言えない。わたくしはどうすればいい? 毛利家か実家か、どちらにつけばいい?
 わたくしはそう思うだけで暗澹となる。

 ――きっと妙玖様も同じ苦しみを味あわされたのだろう。

 尼子氏や吉川氏の威信や期待を背負って毛利家に嫁いだ妙玖様は、夫が敵である大内氏に寝返るという困難を、どう乗り越えられたのだろう。
 毛利氏と尼子氏が戦うことを、長男を大内氏に人質に出し、三男を竹原小早川氏に養子に出す悲劇を、どう受け止められたのだろう。
 わたくしもまた、大内氏に仕える小幡氏を実家に持つ。大殿は大内氏の禍にならないだろうか。小幡氏は時流を見ているだろうか――。

 ――父上は、わたくしをお見捨てになったのですか?
 わたくしは毛利家におりますのに、お便りも下さらない。
 わたくしが毛利家にいるのを知らないのですか? 知っていて見て見ぬ振りをなさっているのですか?

 わたくしもまた、実家を捨てられず、実家の利と得を考える女だった。大殿の大樹と伸びゆく姿に惹かれるのに、実家のことを思うと悲しくなる。
 勝手に出てくる涙を手の甲で拭い、わたくしは本丸に戻っていった。






 冬の訪れを感じさせる朝、わたくしは沙和や侍女達、新たに小早川一門に入る毛利家中の侍とともに竹原に向かった。
 夕刻前には竹原の木村城に到着し、わたくし達は衣替えなどしつつ一服する。

「よろしいかしら?」

 外からお声がし、わたくしがはい、と返すと、楚々とした上臈の婦人が入ってこられた。

「あなたが、叔父上の筆頭侍女なのですね。
 はじめまして、わたくしは毛利家先々代当主・興元(おきもと)の娘で、竹原興景(おきかげ)様の正室である由(ゆい)です。
 隆景殿のことで、あなたに世話を掛けますね」

 慌ててわたくしは頭を下げる。
 由姫様――竹原大方様。毛利家と竹原小早川家を結ぶため小早川興景様に嫁ぎ、夫を亡くされてからは養子に入られた又四郎殿を陰日向になって支えられた御方。
 又四郎殿を庇護するため、落飾もされず、いまも豊かで艶やかな髪を有しておられる。未亡人独特の色気のある御方だ。

「隆景殿が沼田の永姫様と結婚し、沼田と竹原を統一すれば、ようやっとわたくしの為すべきことも終わります。
 叔父上も、髪を下ろすことを許して下さるでしょう」

 わたくしは俯けたまま、竹原大方様の御言葉を聞いていた。

 ――この御方も、毛利家と竹原小早川家のために働いてこられたのだ。

 寡婦という寂しい状況にありながら、気丈に又四郎殿を護られた。――いまやっと、竹原大方様は安息を得られるのだ。
 わたくしは強く逞しい女人に、敬意でもって頭を垂れた。




 身支度が終わると、花婿である又四郎殿を乗せた輿の行列が木村城から出発した。
 又四郎殿の輿の前に行くのは、又四郎殿の傅役である岡与次郎就栄(おかよじろうなりひで)殿とその妻で又四郎殿の乳母である篠(ささ)殿、待上臈であるわたくしの輿で、沙和殿達は歩行で沼田の高山城に向かっている。
 宵闇が厚く迫ってくる頃には、高山城に到着した。華燭が焚かれた門を、毛利家の輿の担ぎ手が通って行く。此度は輿渡しの儀がなかった。
 本丸表座敷の入り口に、大紋を着付けた初老の侍が待っている。又四郎殿と岡与次郎殿、そしてわたくしが輿から降りると、侍が頭を下げた。

「椋梨常陸介盛平、竹原殿を先導致すためお待ち申しておりました」

 椋梨常陸介殿の挨拶に応えるのは、岡与次郎殿である。

「此度の婚儀、まことにお慶び申し上げます」

 それぞれ内心思うところがあるだろう。が、顔には出さない。
 わたくしの輿と篠殿の輿は花嫁である永姫様が待つ裡座敷に入っていった。




 沼田小早川家の待上臈は永姫様の乳母・綸(りん)殿で、裡座敷の広間にて婚儀が行われた。
 花嫁である永姫様は、衣装に着せられたような趣であるが、化粧を施した幼いかんばせに、強い決意が現れていた。凛と強く輝く目に、わたくしは一瞬怯んだ。

 ――この幼い姫君は、壮絶な意志を秘め又四郎殿を夫に迎えられるのだ。

 又四郎殿が激しく惹かれるのも、解るような気がする姫君だ。美貌の予感もあり、お利口な姫君だ。
 わたくしが関心しているのに気づかず、永姫様は三三九度の杯を受けていらっしゃる。
 波乱を得ての婚儀だったが、式三献までは無事に済んだ。




 が、問題はここからだった。
 次の朝、わたくしは又四郎殿に説教する羽目になってしまった。

「又四郎殿! 相手はまだ幼い御方なのです!
 確かにあなたは永姫様の婿殿になられましたが、だからこそ姫君が大人の身体にお成り遊ばすまで、花嫁を慈しんで差し上げるべきなのですよ!
 それを、まぁ、あんな、手加減もなく……」

 意気込んで捲し立てていたが、徹夜で床入りの儀を見守っていたわたくしは、寝不足と精神的過労で目眩を起こしてしまう。
 綸殿に背中を支えてもらい、わたくしははっと意識を取り戻す。
 又四郎殿はばつが悪いのか、らしからぬ行儀の悪さで、あらぬ方をご覧になっている。
 有り体に言えば、昨夜又四郎殿は幼い永姫様相手にやりたい放題無茶をなさったのだ。
 永姫様も夫婦のことがあってもおかしくないと覚悟していらっしゃったようだが、又四郎殿の情熱はわたくしや綸殿の想定を遥かに超えた激しさで、永姫様を遠慮無くお抱きになられたのだ。
 几帳や衝立を隔てた場所で閨の事を見守るわたくしと綸殿の耳に、永姫様の悲鳴のような喘ぎと又四郎殿の荒い息が止めどなく聞こえてくる。
 あまりに恥ずかしく、わたくしは姫君の乳母殿にどんな顔をしてよいかわからなかった。
 が、それが一度ならず二度、三度と続いたものだから堪ったものではない。
 永姫様は意識を失われたのか、幽かな呻き声しか聞こえず、又四郎殿の情熱の勝った愛の囁きや呻きが寝所に響き続けた
 わたくしは咳払いをして又四郎殿に正気に戻ってもらおうとしたが、まったく無駄だった。
 苦笑いする綸殿に、わたくしが隠れて詫び続けたのは言うまでもない。

「ほんっとうに、あなたという御方は……。
 あまり無理強いなことをされますと、永姫様に嫌われてしまいますよ!」

 わたくしの言葉に、又四郎殿の耳がぴくりと動き、お顔に焦りが現れる。

 ――あら、まぁ。大内館で御屋形様の閨に侍られていたときは、どんなことがあっても取り乱さない御方だったのに。

 御屋形様との情事の後でも乱れを見せず、しゃっきりと端座しておられた又四郎殿が、永姫様のことになるとこんなに取り乱される。それだけ又四郎殿は永姫様がお好きなのだろう。
 又四郎殿をいじめすぎたか、と思ったとき、床の間からお声がした。――永姫様が目を覚まされたのだ。

「中の丸様……そんなに又四郎殿をお責めにならないで下さい」

 少し遣戸を開け、沙和殿が顔を出し、わたくしを差し招かれる。何かあったときのために沙和殿を永姫様の側に付けていたのだが、永姫様は大丈夫だろうか。
 わたくしは又四郎殿と綸殿に頭を下げ、寝間に入っていった。




 身なりを整え寝床の上に座っていらっしゃるが、目元や頬が紅く、昨夜の乱れを隠しきれない。
 嵐のような一夜を見る者に悟らせる永姫様のお姿に、わたくしは床に頭を擦り付けた。

「お許しくださいませ。
 まさか竹原殿があのような無礼をなさるとは思えず、迂闊でございました。
 わたくしも注意が足りず……」
「いいのです、覚悟の上でしたから」

 平謝りするわたくしの言葉を遮り、永姫様はわたくしをじっとご覧になる。

「これで、兄は解放されますか?
 兄に一生会えずとも構いません、わたくしは又四郎殿の妻として生きてゆきます。
 だから、兄を解放してあげて下さい、お願いします!」

 必死の形相で、永姫様はわたくしに頭を下げられる。わたくしは面食らった。

「又四郎殿が正式に婿養子におなりあそばしましたから、あと少しで兄君も自由の身になられるでしょう。
 ただ、又四郎殿が沼田の当主になったと沼田家中うち揃って認めた連判状を、大内の御屋形様にをお届けせねばなりません。
 ですから、いましばらく係ります」

 わたくしの答えに、永姫様はほっとなされる。

「そのことなら、すぐにでも又四郎殿を交えて合議を開けと、椋梨常陸介と約しております。
 わたくしは小早川宗女ですが、又四郎殿に従順に仕えるつもりです。
 わたくしを又四郎殿が押さえておけば、沼田家臣は迂闊なことをせぬでしょう」

 また、永姫様の目に鋭い意志の光が。
 この御方は、ご自分を盾に沼田小早川家臣を鎮める御つもりなのだ。

 ――幼いのに、聡いこと。

 背後で衣擦れの音がする。わたくしの横をすり抜けるように、又四郎殿が永姫様のもとにお寄りになった。

「そなたがそんな心配をする必要はない。
 わたしはそなたに無体をせぬし、家臣達も従順に従ってくれる。
 だから、そなたはわたしのことだけ考えろ。そなたはわたしだけのものだ」

 そう言って、又四郎殿は永姫様を抱き締められる。永姫様は身動ぎし、他人の目がありますと又四郎殿を睨まれた。
 わたくしはおふたりを見ていて、不意に大殿を思い出した。

 ――そなたは、わたしだけのものだ。

 大殿も、又四郎殿と同じことを仰っておられた。
 又四郎殿は、これ以上ないくらい永姫様を愛しておられる。そして、永姫様からも恥じらいながらも又四郎殿への慕わしさを感じる。
 なぜかおふたりの姿が、大殿とわたくしに重なった。

 ――あぁ、わたくしは大殿に愛されていた。どんな形でも、例え杉大方様の形代でも。
 そしてわたくしも、大殿をお慕いしている。

 素直に、大殿の腕にすがりたい。わたくしは餓えたように大殿を求めていた。
 呆とするわたくしを、永姫様が案じげにご覧になる。

「……中の丸様、どうなされたのです?」

 永姫様の問いに、わたくしは我に返った。

「いいえ、なんでもありません。
 そろそろ、御暇せねばなりませんね」

 わたくしが立ち上がると、又四郎殿がわたくしに歩み寄られた。

「色々尽力ありがとうございました。
 ……中の丸様も、どうか父上を信じてやって下さい。絶対に、悪いようにはなりませんから」

 確固とした目で見つめられる又四郎殿に、わたくしは困惑したように微笑んだ。




 あとのことは沙和殿に任せ、わたくしは吉田への帰り支度を始めた。
 吉田郡山城に帰着したのは、その日の夜だった。
 色々あって疲れていたわたくしは、大殿への一通りの報告をしたあと、そのまま中の丸に入り、衣装櫃から小袖を二・三枚取り出して身体に引き被り、まるのままの小袖姿で寝入ってしまった。
 どれくらい眠っていたのか、肌寒くなりわたくしは目を覚ます。
 そして、驚いた。

「……何をなさっているのですか」

 肌寒いのも道理で、わたくしは半ば素裸にされ、大殿に伸し掛かられていた。

「何をしているとは心外だな。
 一夜会えなかった妻を愛しもうとしていた」
「わたくしが眠っていたのに?」
「いけないか?」

 言葉を交わす間にも、細やかな愛撫を身体に施される。
 快感に肌を震わせながら、わたくしは大殿の背に腕を廻した。

「やはり、大殿と又四郎殿は親子ですのね。
 女子のことを考えず、思うがままになさるのが、そっくりですわ」

 ほんとうに、殿方は我が儘ですのね――そう言い掛けたとき、急に激しく動かれ、わたくしは声にならない呻きを上げた。






 大内の御屋形様により又四郎殿が沼田小早川家の新しい当主と認められ、分裂していたふたつの小早川家は統一された。
 永姫様の兄君は沼田に返され、そのまま出家なさったという。


 世にいう毛利両川体制が、これにて整った。
 毛利氏は中国地方の国人連合の名主となり、大きな力を手に入れた。



 わたくしにとっての悲劇の日は、もう間近に近づいていた。
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