逆らえぬ宿命ならば~毛利元就妻・中の丸~

長谷川彰子

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ままならぬ想い

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 若殿・少輔太郎隆元(しょうのたろうたかもと)殿が内藤家の姫君・寿(かず)姫様とご結婚なさり、ご次男・少輔次郎元春(しょうのじろうもとはる)殿が吉川氏の居城・小倉山城にご入城なされた。
 空気が一新された毛利家は、大殿のご側室・美(はる)殿がご懐妊中というのもあり、麗らかな気配が満ち溢れている――ただわたくしを除いて。
 大殿が本当にお慕いしておられるのが亡きご正室・妙玖(みょうきゅう)様ではなく、ご養母であられた杉大方(すぎのおおかた)様だった。
 そして、どういうことか、わたくしは杉大方様によく似ているらしい。

 ――大殿がわたくしを求められるのは、わたくしに杉大方様を重ねていらっしゃるからだ。
 わたくし自身を欲しいと思われたからではないのだ。
 
 そう考えると、なぜか胸がきりきり痛み、悲しくなってくる。
 わたくしは大殿が求められたから、身体を差し出した、それだけではないのか。なぜわたくしは哀しんでいるのだ――わたくしは混乱の真っ只中にある。
 この時代、結婚はみな政略による、家と家を繋ぐを目的としたものだ。そこに情愛は芽生えても、激情は生じにくい。
 わたくしも小幡の実家にいれば、そうやって誰かに嫁いでいたはずだ。大内館にお勤めに上がり、婚期を逸したまま御屋形様の命により毛利家にお仕えすることになった。

 ――もともと、わたくしは毛利家に侍女として仕える家柄の女ではない。小幡の実家は、毛利家より家格が上なのだ。
 大内の御屋形様がご命じになられたから、わたくしは今ここに居るのだ。

 実家の小幡が、父上――小幡山城入道(おばたやましろにゅうどう)が黙り通しているのが解せない。
 寿姫様にお仕えしている親友の小梅(おうめ)殿が、弟・四郎が元服したと教えてくれた。小幡山城守義実(おばたやましろのかみよしざね)と名乗っているという。
 わたくしは様々に懐かしくなり、四郎や十歳の弟・五郎を思い出した。父上や四郎、わたくしによくなついてくれた五郎――会いたい、小幡の家に帰りたい。
 が、わたくしは毛利の大殿の筆頭侍女であり、側女でもある。小幡の家に帰ることなど出来ない。
 わたくしは煩悶に取り憑かれながら、月日を過ごした。






 そんなある日、大殿のもとに、竹原小早川(たけはらこばやかわ)家を継いでおられる大殿の御三男・又四郎隆景(またしろうたかかげ)殿が参られた。
 わたくしは大殿に呼ばれ、又四郎殿にお会いする。

「母上の命日に話していた、わたし付きの侍女の件ですが、女子の目星が付きました」

 又四郎殿が手を叩くと、ひとりの女人が、静々と部屋に入ってきた。わたくしに向き合うと、女人は手を突いて叩頭礼する。

「わたくし、井上右衛門尉光俊(いのうえうえもんのじょうみつとし)の娘・沙和(さわ)と申します。
 中の丸様には侍女としての所作や心得など伝授して頂きたく、よろしくお願いいたしまする」

 井上右衛門尉殿といえば、井上与三右衛門尉元有(いのうえよざうえもんのじょうもとあり)殿と同族ではないのか。その御息女を、又四郎殿――否、沼田(ぬた)小早川氏の姫君の筆頭侍女にするのか。

「沙和には兄がおりまして、又右衛門尉春忠(またうえもんのじょうはるただ)と申します。
 こちらはわたしの奉行人となるゆえ、桂左衛門尉元澄(かつらさえもんのじょうもとずみ)に教育を任せております」

 沙和殿の兄上・井上又右衛門尉殿は、又四郎様が沼田の高山城に入る際に、奉行人として沼田の家臣どもに睨みを利かせるのか。
 事態が、沼田小早川乗っ取りの策略が、動き出したのだ――わたくしは首肯する。

「分かりました、沙和殿はわたくしがお預かりいたしましょう」

 わたくしがそう申したとき、部屋の外がざわめいた。

「姫様、なりませぬ! 姫様ッ――!」

 三人で顔を見合わせると、又四郎殿が音を発てず、立ち上がられる。
 そっと遣戸に手を掛け、又四郎殿は勢いよく戸を開けられた。

「あ……」

 見て、驚いた。
 そこにいらっしゃったのは、乃美氏の御方――蘭(らん)殿だった。

「蘭、何をしておる。
 奥の者が義理の息子とはいえ、男の前に顔を出してはならぬだろう」

 言外にはしたない、と仰られる大殿に、蘭殿のお顔が強張られる。
 困ったように、又四郎殿が蘭殿の肩に触れられた。

「大丈夫ですか? 父上に御用があったのですか」

 又四郎殿に優しく話し掛けられ、蘭殿の頬に朱が挿し、目が潤み始めた。

「い、いえっ……」

 蘭殿は俯き、とても恥ずかしそうになさっておられる。

 ――蘭殿、もしや……。

 わたくしはある予感を抱いたが、後ろに控えていた乳母の麻殿が蘭殿を無理矢理又四郎殿から引き剥がされた。

「姫様、参りましょう」

 引き立てられるように奥に戻られる蘭殿が、今一度又四郎殿を振り返られた。――まるで、目に焼き付けるかのように。

 ――蘭殿は……又四郎殿に、恋しておられる。

 わたくしのなかで、確信に変わった。




 わたくしは又四郎殿と沙和殿を中の丸にお招きし、白湯をお出しした。
 又四郎殿が竹原にお帰りになるまでに確認しておかなければならない。そして、わたくしの覚悟もお知らせしなければ。――そう思い、わたくしは又四郎殿と向き合っていた。

「又四郎殿、わたくし大殿からお聞きしております。
 沙和殿や侍女達をわたくしが教育するのは、竹原に沙和殿達をお送りするためではなく、いつか来る沼田小早川と竹原小早川が統一される日のため、沼田の姫様の筆頭侍女にするのだと」

 単刀直入にお話したが、又四郎殿も沙和殿もご表情をお変えにならなかった。
 ふっ、と不敵に又四郎殿が微笑まれる。

「ご存じだったのなら、心強い。
 そうです、大内の御屋形様の思し召しにより、盲目の沼田小早川当主を主の座から退け、わたしが沼田を継ぐのです。
 沼田小早川当主の妹・永(なが)姫の婿養子になり、わたしは高山城に入る。沙和は永姫の側近として仕えてもらいます」
「すべては御屋形様と、毛利家のため――ですね?」

 問い返すわたくしに、又四郎殿の眼に暗い陰が過る。わたくしは眉を潜め、又四郎殿を見つめる。――他に何かあるのだろうか。
 又四郎殿はわたくしから視線を外された。

「大内の御屋形様と、毛利のため――…。
 否、そうではない。御屋形様と父上は、わたしの願いに乗っただけだ」

 え? と目を見開くわたくしに構わず、又四郎殿は吐き出される。

「わたしは、永姫を自分のものにしたかった。兄しか見えないあの幼い姫を、自分だけのものにしたかった。
 だから、自分の肉体をも利用し、大内の御屋形様に沼田小早川の姫が欲しいと願い出た。
 それを、父上と大内の御屋形様が利用したんだ」

 わたくしは、呆然と苦しげな又四郎殿を見ていた。
 又四郎殿は、沼田の姫君に恋い焦がれている。自分自身をも道具にするほどに。その想いを、大殿と御屋形様が策略のため利用した……つまりは、そういうことなのか?
 戸惑うわたくしに、又四郎殿はうっそりと微笑まれる。

「でも、わたしも覚悟を決めましたよ。わたしも父上の息子、毛利の男なのだ。
 永姫共々、沼田小早川を手に入れる。その為には、流血も辞さない。
 最愛の兄を廃嫡される永姫には恨まれるかもしれないが、それでも構わない」

 又四郎殿の壮絶なお覚悟に、わたくしは言葉も出なかった。
 ご自身の恋が壊れても、毛利のために泥を被る――又四郎殿は、ご自分の幸せをお捨てになった。

 ――そこまでしても、沼田の姫君が欲しいのか、又四郎殿は。

 そら恐ろしくもあり、潔くもある。
 そして、大殿の容赦のなさ。毛利家の班図を拡げるためには、息子をも利用する。吉川氏を継がれた少輔次郎殿も、又四郎殿も。
 大内の御屋形様でさえ、大殿にとっては簡単に御することができる駒なのではないか? 大殿の野望は、一体如何程のものなのか。

 ――わたくしは、大殿に付いていくと決心した。
 が、大殿がわたくしの実家の小幡氏と敵対したら、わたくしは――…。

 わたくしは、そこまでの覚悟をしているだろうか? 父上や四郎――小幡の家と敵対できる?
 わたくしは小さく息を飲む。考えまい、いまは、考えまい。

「沙和殿も、事情をご存じなのですね?
 あなたが真実お仕えせねばならぬのは、沼田の姫君ですよ」

 改めて確かめるわたくしに、沙和殿が頷く。

「存じております。わたくしは沼田にあって、大殿に永姫様のご様子を知らせるのが仕事ですから。
 永姫様は沼田家中の臣達にとって、切り札になる御方です。
 永姫様を丁重に扱えば、沼田家臣どもも竹原殿や毛利家に抗わぬでしょう」

 わたくしは眉を寄せる。

 ――それは、どうだろうか。又四郎殿は流血も辞さぬと仰った。
 一部反毛利派がいるのではないだろうか。

 又四郎殿の沼田小早川家相続は、易々とはならぬ――わたくしは、そう予感する。
 だが、大殿も又四郎殿も敵を薙ぎ倒してでも、ことを成就なさるだろう。又四郎殿からすれば、己の恋も掛かっているのだから。

「解りました、わたくしが又四郎殿のお手伝いをいたしましょう。
 沙和殿は、暫く中の丸におりなさい。あなたに、わたくしの持ちうる知識や技術をすべてお渡しします」

 わたくしの答えに、又四郎殿と沙和殿は頭を下げられた。

「感謝いたします、邦殿」

 又四郎殿はそう告げられ、竹原にお帰りになった。






 わたくしは常に沙和殿を側に置き、裁縫や料理などを教えていった。沙和殿はよく教育された娘御で、わたくしが教えなくても針の運びや包丁捌きを器用に行った。
 大殿の侍女として侍るときも、沙和殿を同伴していた。が、湯漬けのお世話などはわたくしがするのを大殿が望まれたので、わたくしが介添えさせていただいた。

「邦、今宵からしばらく蘭と夜を過ごす。
 蘭を、身籠らせる」

 わたくしは御飯に具を乗せるため動かしていた箸を、束の間止めた。

「……まだ身籠らせるには早いと仰せでしたが」

 年を越す前に大殿が仰ったことを反芻するわたくしに、大殿は溜め息を吐かれる。

「ひとりでも隆景の味方が欲しい。
 乃美隆興(のみたかおき)が蘭とのあいだの子の誕生を願っていた。
 隆興は沼田家中で発言力を持っている。沼田の家老連中――当主である繁平(しげひら)の傅役(もりやく)・椋梨常陸介盛平(むくなしひたちのすけもりひら)を、奴ならこちら側に寝返らすことが出来るだろう。
 隆興を積極的に動かすには、蘭を身籠らせるのが一番だ」
「……そうですね。沙和、蘭殿のお部屋に大殿のお渡りをお知らせしに行って」

 わたくしがそう告げると、沙和は手を突き礼をしたあと、静かに大殿のお部屋を下がっていった。

「大殿、じきに美殿が御子をお生みになります。
 蘭殿のことも大事ですが、美殿、そして三吉氏のこともお忘れなきよう」
「分かっておる」

 大殿に湯漬けの椀をお渡しすると、大殿は湯漬けをじっと見下ろされた。

「そなたのことも、無下にはせぬ。
 蘭に掛かりきりになるが、合間にもそなたを……」
「まぁ、わたくしのことはお気になさらずに。
 わたくしは大殿の筆頭侍女です。側女としてのお勤めより、筆頭侍女としての仕事が、わたくしにとっての要ですから」

 はっきりと言い切ったわたくしに、大殿は眉をしかめられる。

「……そなたは、側女より侍女としての己を選ぶのか。
 わたしの腕は、必要ないのか」

 熱を籠めた目でわたくしをご覧になる大殿に、わたくしは目を伏せる。
 正直、わたくしは分からなくなっていた。自分が、大殿が、この関係自体が。

 ――苦しい、この関係が息苦しくて、仕方がない。

 ただの主と側女としての繋がりならば、楽に接することができたのだろうか。が、大殿とわたくしの間に見えた齟齬が、わたくしをやるせなくさせる。

 ――わたくしは、大殿が望めばお閨に侍る。が、それ以上を望んではいけない。
 望めば、自分自身の虚しさに苦しむことになる。

 蘭殿や美殿はご実家との繋がりという後ろ楯がある。が、わたくしにはそれがない。小幡の実家は、わたくしが大殿の側女になったことを知らない。
 だから、自分で自分を守るしかない。侍女という立場は、わたくしが大殿にのめり込まないための線引きに丁度よかった。
 何を思われたのか、大殿がわたくしの腕を引き、わたくしを腕のなかに納められる。大殿の前に置いてあった夕餉の膳が、弾みで少し溢れた。

「そなたは、わたしのものだ。
 夜にそなたの傍に居なくても、それだけは忘れるな」

 わたくしは頷き、大殿の胸に凭れる。
 こんなに側に居るのに、大殿が遠い。寂しくて仕方なかった。






 美殿の御子がお生まれになったあと使っていただくため、わたくしは暇を見つけては襁褓(むつき)や晒(さらし)などを縫っていた。
 今宵は沙和殿も襁褓を縫っておられる。沼田の高山城に入ったあと、自分も襁褓を作る機会があるかもしれないと、自ら申し出て手伝ってくれている。
 とても勤勉で、所作もそつなく丁寧であり、隙がない。沙和殿は筆頭侍女となる素質を確かに持っている。
 が、気に掛かることもある。

 ――彼女は井上与三右衛門尉(いのうえよざうえもんのじょう)殿と同族なのだ。
 又四郎殿が自分の奉行人にしようとしている沙和殿の兄上・又右衛門尉(またうえもんのじょう)殿も同じ。
 大殿は明らかに井上一族を警戒していたというのに、一体どういうことだろう。

 じっと見つめるわたくしの目線に気付いたのか、沙和殿が顔を上げられる。わたくしは思わず目を反らした。

「どうかなされたのですか?」

 問いかける沙和殿に、わたくしはいいえなんでも、と返す。
 一時何かを考え込んでいた沙和殿は、不意にわたくしにいざり寄られた。

「中の丸様、わたくしや兄を井上河内守殿や井上与三右衛門尉殿と同じと考えられたのですか?
 いいえ、違います。同じ井上一族とはいえ、親毛利派と反毛利派がいるのです」

 わたくしは沙和殿の気迫に飲まれ、黙り込んでしまう。
 井上河内守元兼(いのうえかわちのかみもとかね)殿や、井上与三右衛門尉殿と沙和殿達は違う……?

「わたくしの父・右衛門尉光俊や叔父・采女正元在(うねめのじょうもとあり)は毛利の大殿とこころを同じゅうする者です。
 叔父の中務允元盛(なかつかさのすけもともり)や従兄の河内守元兼は毛利の大殿に同心せず、大殿幼少の頃に多治比(たじひ)の領地を奪い、現在も大殿の目を気にせず横暴を働いております。
 が、父達はずっと大殿を補佐してきた者です。大殿や御子様方が周防の大内館に参った折にも、父は同行しておりました」

 わたくしは瞠目する。井上右衛門尉(いのうえうえもんのじょう)殿が周防に随身していた……?
 まだ事情を飲み込めていないわたくしに、沙和殿が井上一族の事情を説明する。
 元兼殿の御父上・河内守光兼(かわちのかみみつかね)殿は、そもそも大殿を大きな眼で見守っている御方だった。光兼殿の館に僧侶が滞在したとき、大殿は杉大方様と念仏の伝授をしていただいたという。
 大殿の御父上・弘元様がお亡くなりになったあと、多治比猿掛城を継いだ大殿だったが、幼いことから中務允元盛殿に城を横領され、大殿は城外の小さな小屋で大方様に養われていたという。
 幸いなことに、元盛殿が程なくして亡くなり、光兼殿や光俊殿達が猿掛城を大殿に取り戻すため尽力したという。

「大殿が跡を継ぐのを後押ししたのは井上一族でしたが、河内守元兼殿達がそうしたのは大殿に恩を売り、元兼殿達がやりやすくするためでした。
 我が父や叔父達はどれだけ元兼殿を苦々しく思ったか……。元兼殿は光兼叔父上のご子息、光兼叔父上も腹に据えかねるものがおありのようです」

 わたくしは頷きながら、井上一族の立場の難しさを感じていた。

 ――時流に乗るか乗らないか。
 時流に乗れば運を掴み、時流に乗れなければ滅びてゆく。
 井上一族は、大きくなる毛利氏の陰で足掻いている――。

 右衛門尉光俊殿は普段から大殿に近しく仕えているらしいので、その子女である又右衛門尉春忠殿や沙和殿を又四郎殿に仕えさせるに不安がないのは、よかったが。
 沙和殿がわたくしの手を握る。

「中の丸様、お気を付けなされませ。
 与三右衛門尉殿は、中の丸様に目を付けております。いつか隙を見つけ、中の丸様を我が物にしようと企てています」

 わたくしは頷く。大殿に念を押され、わたくし自身も与三右衛門尉殿の策略に気づいている。
 それ以上会話はなく、わたくしと沙和殿は縫い仕事に戻っていった。




 朝になり、主殿(とのも)にもどってこられた大殿の身支度のお手伝いをし、わたくしは朝粥の膳を用意した。
 大殿が表座敷に出て行かれるのをお見送りし、わたくしは美殿のお部屋に向かった。美殿は臨月間近である。

「お加減はどうですか」

 わたくしが沙和殿と縫った襁褓などを手にお部屋に入ると、美殿が笑顔でわたくしをお迎えになられた。

「いつもありがとう。
 邦殿、またうちの侍女達にも縫い物を教えてやって下さらない?
 解れ物の手直しも出来ないのよ、困ったわ」
「そうですね、みなさんにも襁褓を縫って頂きましょうか」

 そう言うわたくしに、美殿は朗らかに笑われた。
 一時の混乱が嘘のようで、達観なされたのだろうか、最近はわたくしのこともお気遣いになる。

「ねぇ、聞いたのだけれど、大殿が遂に蘭殿を孕ませる決意をなされたそうね」

 わたくしは頷く。

「小早川氏との関係で、そうせざるをえなくなったようです」
「そう……あなたも、いつか大殿の御子を身籠ることができればいいのに」

 心底案じるようにわたくしをご覧になる美殿に、わたくしは戸惑う。

「いえ、わたくしは……」
「いいのよ、あなたも大殿の御子を身籠って、側室におなりなさいな」

 わたくしはどう言えばよいのか解らず、襁褓を何度も畳む。
 その時、慌ただしい音が近づいてきて、遣戸を開いた。――驚いたことに、蘭殿の乳母・麻殿だった。

「ら、蘭様が、どこにもいらっしゃいません!」

 わたくしは美殿と顔を見合わせた。






 垂髪に結っていた髪を元結のところでひとつに纏め、わたくしは小袖に栽付袴(さいつきばかま)という出で立ちになった。
 心配そうにわたくしを見る沙和殿に、わたくしは言う。

「大殿には言わないで。絶対にわたくしが蘭殿を連れ戻してきますから」
「でも、中の丸様……」

 わたくしは沙和殿を口止めする。

「いい? これは蘭殿の名誉に関わるの。
 蘭殿は裡座敷どこを探してもいらっしゃらなかった。……きっと、城内にはいらっしゃらない。
 だから、わたくしは馬で蘭殿が行きそうなところを探してくるわ。
 ことが大殿に漏れれば、蘭殿の恥になる。だから、内密にしていて」

 それだけ言い置くと、わたくしは厩に走っていった。




 ――蘭殿は又四郎殿を恋するような目で見ていらっしゃった。
 それなのに、大殿に子を生めと迫られている。
 だから逃げ出されたのではないだろうか。

 ならば、目指すところは、竹原か沼田――小早川の領地だ。いまなら、そう遠くに離れていない。女の足だ、そんなに遠くまで行けていない。
 わたくしは供も付けず馬で走り出していた。――それが迂闊だと、気づきもせずに。






 思った通り、吉田から竹原に抜ける山道で、蘭殿を見つけた。ろくな足ごしらえもしていらっしゃらず、足を血まみれにして、路傍に踞っていらっしゃった。

「蘭殿!」

 わたくしの声掛に、蘭殿は身体をびくりとさせられる。
 馬を降りたわたくしに、蘭殿は必死で距離を取ろうとなさる。

「こ、こない、で……!
 帰りたくない……!」

 わたくしは腰に括り付けてきた大判の布の包みをほどくと、竹筒に入れた消毒用の酒と膏薬、細長く切った晒を取り出した。

「蘭殿、手当てしましょう」

 蘭殿の鞋を脱がせ、わたくしは蘭殿の傷の手当てをしてゆく。
 泣きじゃくりながら、蘭殿はわたくしに話し掛けられる。

「嫌、なの……。わたくし、大殿の側室で、いたくない……。
 わたくしは、慕う御方がいらっしゃるから……」
「又四郎殿のことですか?」

 わたくしの問いに、蘭殿は目を見開き、わたくしを見下ろされる。

「どうして、知って……?」
「見ていましたから。
 昨日、又四郎殿に一目会いにいらしたではありませんか」

 静かに答えるわたくしに、蘭殿は嗚咽なさる。

「一目だけ、一目だけでも、お見掛けしたかったの。
 あの日のように、兄上のお城で垣間見た時のように……。
 わたくし、あの日から、竹原殿のことが、忘れられない……!」

 そのあとは、号泣なさり、言葉にはならなかった。
 ああ、そうなのか。こんなに儚い想いを、蘭殿は又四郎殿に抱いていたのだ。
 わたくしは蘭殿を抱き締め、背中を撫でた。

「……蘭殿。大殿は又四郎殿と、よく似ていらっしゃいますよ……?
 きっと若い頃、大殿は又四郎殿のようなかんばせをしていらっしゃったでしょう」

 わたくしの囁きに、蘭殿はわたくしの袖を握り締められる。

「定められた運命には抗えませぬ。
 蘭殿は大殿と結ばれる運命だったのです。
 大殿は、蘭殿を大事にして下さっているでしょう……?
 一心に、大殿に身を任せられませ、大殿を又四郎殿と思って」

 わたくしは、暗に大殿に又四郎殿の面影を見よ、と蘭殿に告げた。
 大殿がわたくしに杉大方様を重ねられるように、蘭殿は大殿に又四郎殿を重ねればよい――それしか幸せになれぬなら、そうすればよい。
 わたくしの言葉に、蘭殿の泣き声が酷くなる。わたくしは気が済むまで蘭殿に泣いていただこうと思った。


 ――が、思うようにはいかないようだ。

 背後でがさりと草がなり、わたくしはびくりと震える。蘭殿があっ……と驚愕の声を漏らされた。

「これはこれは、大殿のご夫人方。
 こんなところで何をしていらっしゃるのですか?」

 振り返らずとも解る、この声――井上与三右衛門尉殿だ。否、その他にも、男達がいる。

「なんとも無防備な……わたしたちには好都合だが」

 そう言い放たれたのと同時にわたくしと蘭殿は引き離され、わたくしは与三右衛門尉殿に背中から抱きすくめられる。蘭殿は他の男に後ろ手を捕まれ、素早く猿轡を噛まされた。

「中の丸様が大殿のお手付きになったというのは、本当ですか?
 何回大殿に抱かれたのですか、もうすっかり身体が熟れきっているのだろうな」

 与三右衛門尉殿がわたくしの小袖の袷のなかに、手を突っ込んでくる。乳房をわし掴まれ、わたくしは呻いた。もう片方の手が、袴の紐をほどこうとしている。
 蘭殿が猿轡に阻まれながらも、叫んでいる――あぁ、蘭殿、泣かないで。
 男の手が袴を掻い潜り、小袖の合わせ目に忍んでいった。無遠慮な指が、大腿を這い上がり、奥に到達する。

「なぁ、与三右衛門、俺はこっちをヤっていいか?」

 恥辱に頭が朦朧としていたが、男のその一言に我に返る。
 わたくしは髪に、飾りを付けていた――大殿に頂いた、笄を。
 与三右衛門尉殿がわたくしを探求するのに夢中になっている隙に、わたくしは笄を抜き去り、全力を込めわたくしの奥を犯す手に笄を突き刺した。

「痛ぇ!」

 与三右衛門尉殿が刺された手を片方の手で庇う。その隙にわたくしは男の腕から抜け出し、男の脇差しを奪い取った。
 突進するわたくしに蘭殿が思わず身を捩り、空いた男の胸元にわたくしは斬りつけた。
 寸でのところで避けられたが、軽くかすることはできた。

「こ、このアマッ!」

 与三右衛門尉殿達がわたくし達に飛びかかろうとしたとき、口笛が鳴り響いた。
 はっと男達が振り向いたとき、一斉に弓がつがえられる。指揮を執っていたのは、桂左衛門大夫殿たちだった。

「そこまでだ! 井上元有!」

 桂左衛門大夫殿が叫ばれる。
 取り囲まれた井上与三右衛門尉殿は、がっくりと項垂れ、わたくし達から離れた。
 取り押さえられる男達の横をすり抜け、ひとりの少女が駆け付けてくる。

「沙和殿……?」

 呆然と呟くわたくしに、沙和殿が抱きつく。

「よかった、間に合って!」

 沙和殿の言葉に、わたくしは与三右衛門尉殿がもたらした厭らしい感触を思い出してしまう。
 ずるずるとへたりこみ、わたくしはガタガタと震え出す。
 ああ、桂左衛門大夫殿達が来なかったら、わたくしは与三右衛門尉殿に犯されていた。
 腰が抜けてしまったのを無理矢理沙和殿に立たせてもらい、わたくしは吉田に帰った。






 郡山城に帰り着いた頃には、大殿や若殿が曲輪の下まで降りてこられていた。

「姫様ッ!」

 麻殿が蘭殿を抱擁する。が、麻殿は大殿に引き剥がされる。

 ――パシンッ!

 大殿が蘭殿を平手打ちし、そのまま背を向け本丸に戻られる。
 わたくしの側に、若殿が寄って来られた。

「邦、こころは確かか?」

 案じられる若殿に、わたくしはおずおずと頷く。

「井上元有達のことは、わたしが詮議する。
 おまえの無念は、きっと晴らすからな」

 そう言うと、若殿も桂左衛門大夫殿達を引き連れ本丸に行かれた。




 その夜、本丸の評定の間で井上与三右衛門尉殿達への詮議が行われた。
 が、思うようにいかず、わたくしに対して金子を払うことで落着した。

「酷い、酷いわ元兼殿!
 元有殿と中の丸様が姦通まで至っていないから、こちらに非はなしだなんて!
 女が供を付けずに出歩くからこうなるのだなどと……!」

 大殿の寝所の用意をしながら、沙和殿が文句を言っている。今宵大殿は蘭殿のもとにお渡りではないらしい。

「でも、中の丸様、今日くらいはご自分のお部屋に引き込んでも……」

 沙和殿がそう言い掛けたとき、大殿が戸を開けて入ってこられた。
 大殿の厳しい眼差しに、びくり、とわたくしは肩を震わせる。

「沙和は下がれ」

 冷ややかな目線を当てられ、沙和殿は大殿に頭を下げると、そそくさと部屋を出ていった。
 残ったのは、大殿とわたくしだけだ――非常に居たたまれず、逃げ出したくなる。

「――どこに、触れられた」

 凍えるようなお声に、わたくしはぶるりと震える。

「あ、の、そんなに、なにも」
「どこに、触れられた」

 ずいと迫られ、わたくしは後ろの床に手を突く。
 どうしよう、何を言えと……。まさか、あの屈辱を反芻せよと?
 目を反らしかけるわたくしの頤を、大殿は持ち上げられる。

「わたしも男だからな、男が触れそうな場所くらい解る。
 ほら……ここだろう」

 そのまま強引に小袖の裾を割り、袷をくつろげらる。先程掴まれた乳房を大殿に握りつぶされるようにされ、わたくしは痛みに悲鳴を上げる。
 手が、指が、恥辱を暴き、それ以上にわたくしを責め立てる。
 苛立ちの籠った交合に、わたくしの意識は引き裂かれそうになる。
 啜り泣くわたくしの耳に、大殿が冷え冷えとした声で囁かれた。

「井上め……このままにはしておかん」

 わたくしは一気に陶酔から覚め瞠目するが、大殿の強い腰付きに、わたくしは再び強すぎる快楽に飲み込まれた。






 初夏の憂んだ空気に焦気が混じる次の日、大殿のもとに一報が届けられた。
 沼田小早川当主である小早川繁平殿が尼子と結んだ嫌疑で、安芸守護代・弘中隆兼(ひろなかたかかね)殿に捕らえられたという。

 ――大内の御屋形様が動かれた。これから事態が転がってゆく。

 わたくしは沙和殿と目を見合わせ頷く。
 そして――。

「もう迷いは捨てました。
 大殿、どうかわたくしを可愛がって下さいませ」

 知らせを聞いた蘭殿は大殿に乞い願い、積極的に大殿を受け入れられるようになられた。
 大殿は前のことを咎められず、精を出して蘭殿を愛しまれている。




 そして、月が満ち、美殿は女児を出産なされた。
 母子ともに健康で、産後の肥立ちもよい。

 ――よかった。いずれ蘭殿も身籠られ、裡座敷も新しい命で賑わう。




 激動の時は止まらず、血で血を洗う謀略が動いているのを、わたくしは知らず、側室方の幸せを他人事として感じ、僅かに悲しみを抱いた。
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