逆らえぬ宿命ならば~毛利元就妻・中の丸~

長谷川彰子

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政略と女心

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 夕闇の頃、吉田郡山城麓の門に篝火が焚かれる。いつもより明々と燃え、今日の佳日を照らしている。
 門の辺りには、侍達がお役目のため控えている。――花嫁を乗せた輿を、花嫁の実家の担ぎ手から婚家の担ぎ手に受け渡すためだ。
 そう、今宵は毛利家当主・少輔太郎隆元(しょうのたろうたかもと)様と、内藤家の姫君・寿(かず)様のご婚儀の日である。
 わたくしは待上臈として、尾崎丸裡座敷にある広間の控えの間にて寿姫様ご到着をお待ち申していた。

「花嫁様の、お着きにございます」

 内藤家の待上臈の声に、わたくしは手を突いて頭を下げた。
 毛利家の侍女が遣戸を開けると、内藤家の待上臈に手を引かれ白無垢姿の花嫁が入ってこられた。良家の姫君だからか、薄らと衣に香が焚き込められているようで、控えの間に芳しい薫りが満ちる。

「わたくしは毛利家の待上臈・中の丸と申しまする。
 こたびの婚儀、お慶び申し上げまする。
 広間にて、殿がお待ちでございます。ご案内いたしまする」

 わたくしは後ろの妻戸を開け、花嫁を広間に案内した。




 若殿と寿姫様の御婚儀は、滞りなく済んだ。
 今回は床入りの儀の介添えをしても取り乱すことなく、わたくしは平静な面持ちで儀式を見届けた。

「若殿と寿姫様の御婚儀、無事済みましてございまする」

 わたくしは婚儀を差配を終えたその足で、大殿のもとに向かい、ご報告申し上げた。

「うむ、大儀であった」

 大殿もご満足げで、今宵は僅かにお酒を召していらっしゃる。

「若殿もご立派でございました。
 余裕のある素振りで、花嫁様を安堵させるように始終御振る舞いになり、寿姫様は何もかも安心したように委ねていらっしゃいました」

 大殿から杯を進められ、わたくしはお酒を頂きながらことの始終を大殿にお話する。

「その様子では、今回は床入りの儀を見ても取り乱さなかったようだな。
 わたしと蘭のときは狼狽しておったが」

 意地悪な笑みを浮かべ、大殿が仰る。
 わたくしは恥ずかしくなり、打掛の袖で顔を隠した。

「まぁ、お見通しでいらしたのですか。
 お人の悪いことを仰せになられて」

 消え入りそうに呟くわたくしを腕の中に引き寄せ、大殿は打掛のなかに手をお入れになった。

「わたしはな、あのときそなたを愛い奴と思ったのだぞ」
「し……知りませぬ」

 待上臈の衣装を乱され、わたくしは上擦った声をあげる。
 大殿の楽しそうな笑い声を聞きながら、わたくしは大殿の愛撫に酔わされた。






 若殿に寿姫様が嫁がれ、毛利家の空気が、がらりと変わった。
 御屋形様に近しい内藤家の姫君は、大内館の優美さを吉田郡山城に持ち込まれた。
 寿姫様の侍女の立ち居振舞いは素晴らしく、はんなりとした物腰が、いかにも都風である。
 驚いたのが、大内館で同輩だった侍女・小梅(おうめ)殿が、寿姫様の侍女として御屋形様から遣わされていたことである。
 久しぶりの対面にこころ踊り、わたくしは小梅殿を中の丸にお呼びした。

「お元気でいらっしゃいました?
 御屋形様は壮健でいらっしゃいますか。
 四郎は、ちゃんと小姓として勤めていますか?」

 火鉢を差し出しながら勢い余って聞くわたくしに、小梅殿はくすくす笑われる。

「小宰相殿……いえ、今は中の丸殿でしたわね。
 周防から山深い吉田に遣わされましたので心配しておりましたが、中の丸殿もお元気そうで。
 中の丸殿が懐かしく、また案じてもいましたので、御屋形様に志願し、寿姫様の御輿入れに従いましたの」
「小梅殿……」

 わたくしは小梅殿の手を取る。お懐かしく、こころ暖かい再会に、わたくしはじんわりと目を潤ませていた。

「こちらに来て、色々ありました。
 けれど、わたくしは幸せですよ」

 毛利家の方々と出会い、大殿のお情けをいただけた。――たとえただの側女でも、後々どうなろうが、いまのわたくしは幸せなのだ。
 わたくしの面持ちに、小梅殿は安堵したように溜め息を吐かれた。

「本当に、中の丸殿のような優秀な侍女がこちらに来られ、毛利家は果報なお家でございますこと。
 加えて、寿姫様は御屋形様の御子様の叔母上になられるのですもの」
「えっ……それは、どういうことですの?」

 思いもよらなかったことに、わたくしは問い返す。

「寿姫様の姉君・藤姫様が御屋形様の御寵愛を受け、現在御懐妊中なのです。
 藤姫様は問田(といた)殿と呼ばれ、今ではおさいの方様以上にときめいていらっしゃいます。
 毛利家の若殿様と御屋形様は、内藤家の相婿ということになりますのね。
 つくづく、毛利家は御運の強い御家ですわ」

 わたくしはしばらく考え込んでしまう。沈思し過ぎてしまったのか、小梅殿は尾崎丸にお帰りになると仰った。
 小梅殿をお見送りし、わたくしは大殿のもとに向かった。




「あぁ、その話なら、もう聞き及んでおる」

 問田殿のことを大殿にお話したところ、小者の報告があったのか、大殿はすでにその情報を掴んでいらっしゃった。

「……少しもお喜びではございませんね」

 意外だったわたくしは、拍子抜けしたように言ってしまう。

「隆元が御屋形様と相婿になったとしても、立場は変わらんだろう。
 我が家は変わらず御屋形様の臣下だ」

 確かに、そうには違いない。相婿であることの甘えは、御屋形様には通じないだろう。

「そうだ、これをそなたに渡そうと思っていた」

 大殿は背後にある棚の中をまさぐられると、紙の包みを取り出し、わたくしにお渡しになる。
 中身を見てみると、漆塗に螺鈿で菊をあしらった笄(こうがい)だった。

「普段筆頭侍女として働いてくれている礼だ。
 わたしの刀の笄と、同じ紋様だ」

 言って、大殿は立て掛けられている太刀から笄を外され、わたくしにお見せなさる。

「まぁ……本当に。このような御品を頂いてもよろしいのでしょうか?」
「構わぬ。取っておくがよい」

 わたくしは一礼し、笄を胸に仕舞った。

「それはそうと、美(はる)殿が余りお食事をお召し上がりになられぬとか。
 食事をせねば、お腹の御子に障りましょう」

 三吉氏の御方・美殿は大殿の御子を宿しておられる。悪阻の時期は過ぎたが、依然栄養を採れぬようでは、無事御子を誕生させることがお出来にならぬのではないか。
 わたくしは少し考え、立ち上がる。

「大殿、厨をお借りしてもよろしいでしょうか」
「ん、どうするつもりだ?」

 片眉を上げられる大殿に、わたくしは微笑んだ。

「お粥を作って差し入れしようかと。
 他にも、お腹に優しい羹なども用意いたします」

 きっと美殿の侍女達は、手をこまねいて見ているしかない状態だ。わたくしに何とかできるかは分からぬが、やれることはやってみよう。
 頭を下げると、わたくしは大殿のお部屋から退出した。




 わたくしは生米から粥を炊きあげた盆に、漬け物と佃煮の小皿を添え、美殿のお部屋に持ち込んだ。
 が、お部屋の遣戸の前で侍女に止められ、困惑していた。

「御方様が、食欲がないのでお引き取り願えと仰せでございます」
「まぁ……薬師に見せなくてもいいの?」

 食欲不振が長引いている、このままでは御子様の命に関わり、美殿のお身体も衰弱してしまう。

「薬師は必要ない、と仰せです」
「本当に?」

 わたくしは木戸を隔てたお部屋内の気配を窺い、嘆息を吐く。

「お食事はお下げしますが、お顔だけは見て行きます」

 侍女に粥の盆を手渡し、慌てる侍女を尻目にわたくしは戸を開けた。
 途端、何かを投げ付けられ、お部屋に入ったわたくしの横の壁に当たって割れる音がした。
 足元を見ると、水差しが割れており、水浸しになっている。
 傍らで割れた陶器の欠片が、わたくしの頬を掠めたようで、頬が熱を持ったように痛かった。

「出ておいき! この泥棒猫!」

 寝床から半身を起こした美殿が、激しくわたくしを睨み付けている。

「わたくしが身籠ったのをいいことに、さっそく大殿を寝盗ったか!
 卑しい女め、さっさと出てお行き!」

 美殿の怒気に圧倒されたわたくしは、そのまま引き下がるしかなかった。美殿の侍女に粥の盆を渡されたのを持ったまま、わたくしはふらふらと中の丸に引き込んでしまう。

 ――この泥棒猫!

 美殿から大殿を奪うつもりなどなかった。ただ、大殿のお手が付き、そのままずるずる関係が続いてしまった。
 わたくしに大殿を拒む権利はない。大殿の侍女である限り、わたくしは大殿の意のままになる宿命(さだめ)なのだ。
 美殿は本当に大殿がお好きなのだ。蘭殿が輿入れされる前、美殿は大殿を独り占めしたいと仰っていた。

 ――わたくしは、美殿より大殿を想っているだろうか。
 ただ流されて、大殿の腕に抱かれているだけではないだろうか。

 わたくしが打ち沈んでいると、遣戸を叩く音がした。はい、とお返事すると、少輔次郎(しょうのじろう)殿の奥方・珪(たま)姫様の侍女である多良(たら)殿がいらっしゃった。

「中の丸様、今日は吉川に向かう侍女を御覧になる日ですが……どうなさったのですか?」

 何かに気づかれたのか、多良殿が懐から懐紙を出してわたくしの頬に当てられた。

「頬に傷が。血が出ておりますよ」

 案じられる多良殿に、わたくしは頷く。

「ちょっとそこの角にぶつかり、切ってしまったのです。
 今からそちらに参ってもよろしいかしら?」

 不安そうな多良殿に微笑み、わたくしは少輔次郎殿が住まいされる曲輪に出向いた。




 やはり思っていた通りで、珪姫様と多良殿に預けていた侍女達は見事に育ちあがっていた。
 わたくしは感心し、珪姫様と多良殿に御礼申し上げた。

「お見事にございます。御方様、多良殿。
 本来ならわたくしがせねばならぬ仕事でしたが、御身様方なら良いように仕上げて下さると思っておりました」

 わたくしがお話していると、珪姫様が棚から蛤の器を手に取り、無言でわたくしに歩み寄られる。
 どきりとしたわたくしだが、珪姫様は器から膏薬を指に一掬いし、わたくしの頬の傷にお塗りになられた。

「この薬は、切り傷によく効く」

 そして、再び上座にお戻りになる。
 珪姫様は物静かで口数があまり多い御方ではないが、重々しい空気を放ちながらも、過たぬ判断力でお動きになる。それがまた説得力があり、わたくしも素晴らしい御方だと関心してしまう。
 そうして三人で向き合っているとき、ひとりの侍女がまろぶように主殿(とのも)に飛び込んでくる。
 見れば、美殿の侍女だった。

「中の丸様! 大殿を、大殿をお止めください!」

 わたくしは驚き、珪姫様を振り向く。珪姫様は多良殿に目配せし、わたくしに目でお行き、と指図なされた。




 走って本丸に戻ったときには、美殿のお部屋でひとつの修羅場が成されていた。大殿が太刀を片手に、美殿の衿を掴んでいらっしゃった。
 血相を変え、わたくしは大殿に駆け寄る。

「なりませぬ、大殿!
 刀をお納めくださいまし!
 美殿は大殿の御子を宿しておられるのですよ!」

 大殿はぎらぎらした目でわたくしをご覧になる。ぞっとしながら、わたくしは大殿の腕を掴んで放さない。

「子なぞ、必要ない。
 わたしにはもう子が四人もいる。
 他の子などいらぬ」
「お父上が、腹の子のお父上が、そのようなことを言ってはなりませぬ!
 わたくし、大殿を軽蔑いたしますぞ!」

 その時、少輔次郎殿が走り込んでこられ、大殿を羽交い締めなされた。

「父上、落ち着け!
 美は三吉との同盟のため嫁いだのだぞ!
 この大事なときに、自分で敵を作ってどうする!」

 そう言いながら、少輔次郎殿がわたくしに行け、と命じられる。
 わたくしは美殿を抱え中の丸に逃げ出した。











 付いてきた侍女に水を汲みに行かせると、わたくしはお腹を抱え涙ぐまれる美殿の涙を布で拭き続ける。

「ど、どうしてっ……。わたくしも、大殿の側室なのにぃ……」

 大殿は侍女達の話を聞き付けられたのか、美殿がわたくしを傷付けたことに激怒し、刀を持って乱入なされたという。
 美殿には衝撃だっただろう。お慕いする御夫君に、お腹の子ともども斬られそうになったのだから。

「どうしてでしょう、わたくしにも分かりませぬ……」

 わたくしの呟きに、美殿はわたくしを睨まれる。

「あ、あなたが、大殿の愛を奪ったからでしょう!」

 憎しみで目をたぎらせる美殿を、わたくしは悲しく見つめる。

「さぁ……わたくしは、一時の手慰みものですもの。
 あなた様のように、親に祝福され輿入れした側室ではありませんから。
 小幡の親も、わたくしが大殿のお手付きになったことを知らないのです。
 大殿のご寵愛が続くのも、いつまでか」

 わたくしは美殿や蘭殿とは違う。ただの慰みものの女だ。ご寵愛を失えば、ただの侍女に戻るだろう。
 普通に嫁げたなら、このような悲しい思いをしなくてよかったかもしれない。寵愛を失った侍女として、独り身で一生を終えるなど……。

「美殿、元気な御子を生んで下さい。
 御子が、あなたと大殿を繋ぎ、あなたとあなたのご実家を助けますから」

 後ろ楯もなく、実家の役に立つ女でもないわたくしは、浮草のようなもの。なんと情けない身の上か。
 何か感じ入られたのか、美殿は床に付いたわたくしの手を握られた。

「ご……ごめんなさい。
 あなたに比べたら、わたくしは幸せかもしれない。
 わたくしには三吉の家という強みがあるもの」

 そうして俯かれる美殿に、わたくしは手を握り返した。
 そのとき、多良殿が顔を見せられた。

「あの、御方様から薬師を案内せよと仰せつかりました」

 わたくしは顔を上げ、美殿の肩に手を添えると、薬師を迎えるため立ち上がった。






 美殿と御子様への薬師の診立てが終わり、お二方ともお身体に異常無しと分かった。
 安心し、わたくしは横たわる美殿のお顔を覗き込んだ。

「粥を作って参りましょうか?
 体力を付けて、無事に御子を産み参らせましょう」

 笑いつつ言うわたくしに、美殿はおずおずと頷かれた。




 厨を借りて粥を作り漬け物を刻んでいると、端者のざわめきが聞こえた。
 振り向くと、少輔次郎殿がわたくしに近づいて来られた。

「色々大変だったな。父上はもう大丈夫だ、落ち着かれた」

 そう言って、少輔次郎殿はふう、と溜め息を吐かれた。

「それにしても、女の嫉妬は怖いな。理性を無くすと狂暴になるなど思いもしなかった。
 俺は珪だけで充分だ」

 少輔次郎殿の仰りように、わたくしはくすりと笑う。

「何を仰います。もとから珪姫様しか目に入らないというのに。
 そういう意味では、少輔次郎殿は妙玖様がお亡くなりになる前の大殿に似ておられますよ」

 粥が炊き上がったので、へらで軽くかき混ぜ、塩をふり鍋を盆に乗せる。刻んだ香の物を小皿に盛り、椀を盆に伏せ置いた。
 わたくしの様子を腕組みして見ていらした少輔次郎殿が、息を吐かれる。

「……おまえがこの家の裡に荒(すさ)びを呼び込むと言ったのは、姉上だったか。
 俺はいまいちよく解らなかったが、確かにそうだと、今は思う」

 わたくしは少輔次郎殿を仰ぎ見る。

 ――わたくしが毛利家の裡に荒びを呼び込む?
 馬鹿な、そんなことあるはずない。

 岑(しん)姫様もお戯れが過ぎること。皆が混乱するようなことを、なぜ仰るのか。
 が、少輔次郎殿は真顔でわたくしをご覧になる。

「俺は珪のことが大好きだ。最高の嫁だと思ってる。
 だが、父上はどうだろうな。
 俺たちの母上は父上にとって大切な嫁だっただろう。
 だが、母上を大好きな、惚れた女だと思っていたか……」
「少輔次郎殿……?」

 刻んで余った漬け物を摘まむ少輔次郎殿を、わたくしはまじまじと見てしまう。――少輔次郎殿は、何を仰りたいのだろう。

「おまえは、似ているんだ。
 成さぬ仲でありながら、父上をお育てなされた亡き杉大方(すぎのおおかた)様に。
 父上は杉大方様をいつも懐かしんでおられた。誰よりも大切そうに接しておられた」

 ――杉大方様。

 妙玖様の祥月命日の日、岑姫様がわたくしをご覧になり、「大方様に似ている」と仰った。……その大方様が、杉大方様?

「杉大方様は俺たちの祖父上(おじい)様――弘元様のご継室(けいしつ)で、祖父上様亡きあと、多治比(たじひ)の猿掛城(さるかけじょう)で父上をお育てになったんだ。
 だが、俺たちの母上が嫁がれると決まってから大方様はご出家なさり、猿掛城を出られた。
 多治比の外れで小庵を結び、死ぬまでそこにお住まいだった。
 俺たちは正月になると大方様にご挨拶をしに多治比に出向いたが、いつまでも気丈で、笑顔を絶やさぬ御方だったよ。
 母上が死の病に取り憑かれている間に、大方様は誰にも知らせず、ひっそりとお亡くなりになられた。
 ……大方様が亡くなられたあとの父上は、しばらく惑乱なされていたよ」

 少輔次郎殿が話されるのを黙って聞きながら、大殿にとっての杉大方様の存在の大きさが分かってきた。

 ――杉大方様は、大殿の一番大事な御方なのだ。

 大殿をお育てになり、大殿のおこころに大きななにかを残しお亡くなりになられた御方。――わたくしは、その御方に似ている。

「俺にはさっぱり事情が分からないがな。
 父上の女のお好みが、杉大方様のような御方なのか、他になにかあるのか……。
 父上が美に激怒なされたのは、おまえを傷つけられたからだ。――確かに、おまえは裡に嵐を呼ぶ女だな」

 何とお答えすればよいのか、わたくしには分からない。ただ混乱して、言葉が出なかった。




 わたくしがお粥の盆を手に中の丸に戻ると、大殿が美殿を見舞われていた。美殿は大殿に凭れ、泣きじゃくっていらっしゃる。大殿は美殿の背中を撫でていらっしゃった。

 ――よかった、なんとか仲直りなされた。

 これで美殿は無事に御子をお産みになれる。大殿の側室の座を守れる。
 わたくしは静かに室内に入り、お二方に近づいた。

「おふたりが仲直りなされて、ようございました。
 美殿、お口に合うかどうか分かりませぬが、お召し上がり下さいませ」

 わたくしはおふたりの側に粥の盆を置き、下がろうとする。そこを大殿に止められた。

「わたしはもう自室に戻る。邦、美の面倒を見てやってくれ」
「畏まりました」

 わたくしは頭を下げ、大殿がお部屋を出られるのを見送った。

「……大殿が子を生んでもよいと仰って下さったわ。
 わたくしのことも、これからも大事にすると……」

 粥を鍋から椀に盛り付けるわたくしに、美殿が呟かれる。

「わたくしは、毛利氏と三吉氏を結ぶため嫁いできたの。
 この子を生むことで、わたくしが大殿のご寵愛をいただくことで、三吉氏は安泰となる。
 これからも、それは変わりない。でも……何か寂しい」

 美殿が木の匙で粥を混ぜながら、悲しそうに仰る。
 大殿は他家と自家を繋ぐためなら、どんな女でも愛しまれる、が、そこに激情はない。――美殿はそうと悟られたのだ。

「大殿が慕われているのは、ただお一方なのです。
 ――それは、わたくしではありません」

 え? と問い返される美殿に、わたくしはただ微笑んだ。
 大殿のこころの奥底に仕舞われた、激しい想い。
 それに少し触れてしまったことで、わたくしは寂しさを覚えた。――わたくしは、ただの形代だった。

 ――わたくしは、ただの侍女。それでいいのではないか。

 杉大方様がどのような御方かは判らぬが、大殿の大事な御方のように、わたくしは大殿を受け止めよう。
 わたくしの言っていることをお分かりになれなかったのか、美殿は困ったようなお顔をなされる。

「あなた、おかしなことを言うのね。
 あなたはわたくし達とは別格でしょう。
 大内の御屋形様があなたを毛利家に遣わすと決めたときから、いずれ大殿の御手が付くだろうと、周りから言われていたのよ。
 乃美の御方付きの麻殿が、乃美弾正忠(のみだんじょうちゅう)様からそうお聞きしていたらしいもの。
 事実、あなたが御手付きになった噂は、乃美の御方が嫁がれてからすぐ流れたわ」

 わたくしは内心戸惑う。
 大殿は最初からわたくしを側女にするおつもりで、大内の御屋形様から貰い受けられた。それは、大殿もお話でいらっしゃった。
 が、内情を知れば、杉大方様をお慕いしておられる大殿が、大方様に似ているわたくしに目をお付けになったとは考えられないだろうか。大殿自ら、わたくしを頂戴したいと御屋形様に願い出ていらっしゃったら?
 そこまで考えて、わたくしは考えるのを止めた。

 ――考えても仕方ないことを、考えている。

 いまある現実こそ、すべてなのだ。それを受け止めないでどうする。
 わたくしは、大殿が飽きられるまで、大殿に身を差し出そう。そのあとのことは、そのとき考えればいい。
 わたくしは微笑みを絶やさず、美殿に付き添っていた。






 二月になり、少輔次郎殿と珪姫様が吉川の小倉山城にお入りになる日が来た。
 今回の養子縁組みは、政略的で強硬的なものだ。御供する武者行列も、物々しいものとなった。
 城の門まで見送りに出るわたくしに、少輔次郎殿が近づいてこられる。

「この前は色々言ったが、毛利家の裡がどうなるかは、おまえ次第だ。
 父上や女たちを荒ばせる切っ掛けにもなるが、制止する力をおまえが持っていれば、裡を平和に保てる。
 ――おまえが、毛利家の裡を守れ」
「分かりました、肝に命じます」

 わたくしは行列が離れていくのを、暫しずっと目で追っていた。
 肩に手を置かれ、振り返る。――大殿が、頷かれた。

 ――大丈夫、わたくしの個を捨てれば、すべて収まる。

 わたくしは大殿に肩を抱かれ、本丸に戻っていった。
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