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動き出す歯車
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白々と夜が明け始める頃、わたくしは大殿のお部屋から抜け出す。主はまだ眠っており、物音を発てないようわたくしは廊下を渡る。
――大殿の隠し女になった日から、わたくしは誰も知らない顔を持つようになった。
三吉氏の御方・美(はる)殿はご懐妊中であり、乃美氏の御方・蘭(らん)殿は大殿のお側に上がって二月と経っていない。
お二方にわたくしが側女となったと知られれば、お悩みを増やしてしまうことになるだろう。
大殿の女房衆に知られていないということは、裡座敷の外にいる殿方にはまったく感知できないということだ。
――わたくしが大殿のものになったことを、井上与三右衛門尉(いのうえよざうえもんのじょう)殿はお知りでない。
内藤家の寿(かず)姫様御輿入れでも、手伝いをすると言われているから、また何をされるか……。
自室で新しい小袖に着替えながら、わたくしはうんざりしていた。
大殿から、若殿の御婚儀の待上臈(まちじょうろう)を勤めよと命じられている。式三献などの儀式の進行をするのは構わないが、他人の閨の覗き見は、御免蒙りたい気分だ。
――前の蘭殿の御輿入れの時とは違い、わたくしが新婚夫婦に煽られるようなことは、もうないだろうが。
床入りの儀が終わったあと、わたくしは婚儀の成果を大殿にお知らせすることになっている。その後は、言わずもがなだろう。
寿姫様御輿入れの前に、尾崎丸でも花嫁受け入れの準備をしなくてはならない。寿姫さまは大内の御屋形様の再従妹(またいとこ)で御猶子に当たられる。その御方が御住まいになるのだから、相応なしつらいに増築せねばならない。
増築の件では、大殿と若殿が御話し合いになられ、わたくしも立ち合わせていただいた。
――そういえば……もうすぐ妙玖(みょうきゅう)様の祥月(しょうつき)命日だわ。
妙玖様――大殿の亡き御正室。吉川氏の姫君だった御方。
妙玖様は若殿・少輔太郎隆元(しょうのたろうたかもと)様、吉川氏に養子縁組みされる少輔次郎元春(しょうのじろうもとはる)様、竹原殿・又四郎隆景(またしろうたかかげ)様、宍戸左衛門尉隆家(ししどさえもんのじょうたかいえ)様に嫁がれた岑(しん)姫様の御母君である。
祥月命日ともなれば、御子様方皆お集まりになられるだろう。
――そういえば、岑姫様とはお初にお目に掛かることになる。
昔から郡山城にいた侍女によれば、岑姫様はお気が強く、思ったことをすぐ口になさるという。
岑姫様が五龍城の御方となられてからは、なかなかご実家に帰ることがお出来になれないらしい。が、今でも郡山城に対し発言力を有していらっしゃる。
――どうなることやら。わたくしは岑姫様のお気に召すだろうか。
気が重くなりながら、わたくしは大殿をお起こしするため、本丸に向かった。
妙玖様の祥月命日の日、大殿の御子様方が揃って集われた。岑姫様は御夫君の五龍殿――宍戸左衛門尉殿もご一緒である。
介添え役のわたくしは、お墓に御供えする香華を用意し、妙玖庵に甘茶の支度をしてお待ちしていた。
大殿と御子様方がお出でになり、わたくしは手を突いて礼をする。大殿達はお供え物をそれぞれ手に持ち、お墓に向かわれた。
わたくしも庵から、妙玖様のお墓に手を合わす。
――御方様、お許しください。わたくしは大殿の側女になりました。
大殿は何も仰りませんが、きっと御方様を亡くされ、寂しくていらっしゃるのです。
だから、わたくしなぞを閨に召されるのです。
大殿は政治(まつりごと)のことはお話になられるが、女人に対することは淡白なほど顔にお出しにならない。
美殿や蘭殿がお側にいらっしゃりながらも、わたくしなぞを求められた大殿。そのおこころが、わたくしに解ろうはずもない。ただ、わたくしを抱くことで大殿の無聊をお慰めできるなら、それでよい。
が、妙玖様に申し訳ない。妙玖様から大殿を盗んだようで、いたたまれない。
わたくしが思い悩んでいるうちに、大殿達が戻ってこられた。わたくしは席に着かれた皆様に甘茶をお出しし、庵の奥に控える。
皆様は談笑なさっていらっしゃる。わたくしは追加に炊き出された甘茶を侍女から受け取り、おかわりの準備をした。
そのとき、「邦、邦」と大殿から呼ばれ、わたくしは奥から顔を覗かせる。
「はい、甘茶のおかわりですか?」
が、大殿からこちらに来い、と言われ、わたくしはどきりとしながら皆様のもとに歩み寄った。
大殿の御子様方の目が、わたくしに集中する。わたくしは手を突いて一礼する。
「あなたが、邦殿?」
呼び掛けられ、びくりとする。このお声は、岑姫様だ。
わたくしは顔を上げ、岑姫様を直接お見受けした。
「お初にお目に掛かります。
大内館から大殿の筆頭侍女として参りました、小幡氏の娘・邦と申します」
あまり怯えるのも、岑姫様に無礼だ。わたくしは物怖じせずに岑姫様を見た。
岑姫様はわたくしを物見するように眺められる。そして、唇を引き結ぶように笑まれた。
「わたくしを真っ直ぐ見つめるなんて、度胸があるわね。
それに、あなたの目を見てると、亡き大方様を思い出すわ」
えっ、大方様? と思ったとき、大殿が岑姫様を睨まれた。
いつも女人のことでは表情をお変えにならない大殿が、お珍しいことに苛立ちを顕になされている。
――大方様とは、いったいどなた?
岑姫様が仰られたのだから、毛利家に近しい女人だ、きっと。その証拠に、若殿以外、微妙な顔をなさっておられる。
「その話はもうよい。
来年初春に隆元の婚儀を行い、二月には元春が吉川の小倉山城に入る。
邦、そなたにはたくさん働いてもらわねばならぬ。
隆元の婚儀の準備をしながら、小倉山城に連れて行く侍女の教育をせねばならぬ。
よろしく頼むぞ」
「心得ました」
再度一礼するわたくしに、又四郎殿がお声を掛けられた。
「邦殿、竹原の手島屋敷にも侍女を増やそうと考えています。
侍女の選抜は父上にお願いしますが、わたしが侍女達を受け取りにくるまでに、邦殿が教育してくれますか。
そのなかに、わたしの筆頭侍女にする者がおりますので、鍛えてやってください」
突然のお申し出だったので、わたくしは面食らいながらも頷いた。
「わたくしでよければ、お役目承ります」
わたくしの応えに、又四郎殿は意味ありげに微笑まれた。
大殿は黙したまま、わたくしや御子達を見守っていらっしゃった。
その夜、わたくしと他の侍女が大殿の寝床の支度をしていると、「邦はここに残れ」と命じられた。
大殿の着替えのお手伝いをしたわたくしは、そのまま床に座り込む。
「邦、ここだけの話だが、隆景が竹原の侍女の育成を頼んだこと、あれには裏がある」
「裏……?」
わたくしの前に座られた大殿が、腕を組み話される。
「隆景に、沼田小早川家を継がせ、小早川家を毛利の一部にする。
隆景が頼んだ侍女は、沼田の高山城に連れていく者たちだ」
思いも掛けない大殿のお言葉に、わたくしは目を見開く。
毛利が、小早川を……乗っ取る?
「あ、の、そのお話、大内の御屋形様は……」
狼狽するわたくしに、大殿はうっそりとお笑いになられた。
「存じておられる。
むしろ、ふらふらしている沼田を自分が贔屓にしている隆景に押さえさせることができるので、御屋形様は大乗り気だな」
沼田小早川家は、先代当主が出雲の尼子氏に着いたこともある危ない家だ。
現在の当主はまだ元服もしておらず、病弱で盲目でもある。
そんな当主を尻目に、沼田家臣団は大内派と尼子派と真っ二つに別れていた。
「沼田の当主には妹がいてな、それと隆景をめあわせる。
隆景は家付き娘に婿養子に入り、竹原・沼田両家を統一するのだ。
そのため、わたしは沼田の枝族である乃美隆興と縁を結んだ」
わたくしは言葉もないまま、大殿の策謀を聞いていた。
なんということ……蘭殿の輿入れは、小早川家乗っ取りの、下準備だったのだ。
否、小早川氏だけではない、吉川氏も、主である吉川治部少輔興経(きっかわじぶのしょうおきつね)殿を押し退けて少輔次郎殿を当主にしようとしているのだ。
吉川治部少輔殿は現在幽閉されている。この御方は日和見や裏切りを平気でなさるので、いい気味だと思っていた。
が、治部少輔殿を幽閉しているのは、他でもない大殿なのだ。
わたくしは、自分のなかで大殿への見方が変わったような気がした。
「大殿は……おそろしい御方です」
おそろしいが、その精神力と知略に惹き付けられる。
「おそろしい、と言うわりには、怖がってはおらぬな」
「わたくしも、武家に生まれた女子ですゆえ」
食うか食われるか、弱肉強食の世の摂理は知っている。強い者だけが生き残れる世――わたくしも、そんな世に生きているのだ。
大殿は先程とは違う笑みを見せられた。
「そなたに嫌われるのが、一番かなわぬ。
わたしは――毛利家は、弱い家だった。尼子に狙われ、大内に虐げられ。
亡き妻・玖(ひさ)は、毛利家が尼子氏に付くため、尼子氏の後ろ楯により、わたしに嫁いできた」
妙玖様は吉川氏の出で、吉川氏と尼子氏は緊密な関係にあった。妙玖様の叔母上は、かの梟雄・尼子経久に嫁いでおられる。
「尼子側に付いていた毛利だったが、御家相続のいざこざに尼子が口を出すようになり、当主になったわたしは大内側に付いた。
隆元を大内の御屋形様のもとに人質に出し、保身をしていた。
玖は尼子・吉川とわたしの板挟みになったが、よくわたしを支え、優秀な子を生みそだて、家を守ってくれた。
玖には、本当に感謝している」
妙玖様を語る大殿に、違和感を感じる。なにか、情愛だけで、慕情が感じられないような……。
そう思っていると、大殿に抱き締められた。
「玖が死んだあと、わたしはふたつの大きな勢力に挟まれ、きゅうきゅうとしながら生きるのはたくさんだと思ったのだ。
だから、自分で自分の生きる道を切り開こうと思った。
それは、いけないことか?」
大殿に問われ、わたくしは首を横に振る。
「いいえ……思うように、なさればよろしいのです。
すべては、運。大殿に勝機があるのなら、運が味方してくれます」
わたくしはまだ言葉を紡ごうとしたが、大殿に唇を封じられ、わたくしは床の上に押し倒された。
大殿は激しくわたくしを求められた。中年とは思えぬ荒々しさ、執拗さでわたくしを責め、息も絶え絶えになるほどの快楽をわたくしに与えなされた。
この御方は、まだまだ枯れぬ、熱き血潮を持っていらっしゃる。それが大殿のこころに荒びを呼び込み、女子を飽かず求められる。
わたくしは、大殿の冥い野心と熱き情熱に捕えられた女だった。大殿の押さえられぬ生気の迸りを受ける器だった。
――妙玖様や、美殿や蘭殿も大殿の熱気に囚われたの?
わたくしだけでなく、他の女人も――。そう思うとなぜか辛かった。
なぜ辛いのか、わたくしには解らない。
解らないまま、わたくしは大殿に翻弄されていた。
――大殿、わたくしは大殿に従います。
たとえ、何があっても、大殿に付いてゆきます。
わたくしは大殿がわたくしに向ける暗い陰りを知らない。
それでも、ただひたすらに大殿に付いてゆきたかった。
☆
年が明け、わたくしが吉田郡山城に入って初めての正月を迎えた。
様々な祝い事や宴があり、わたくしは筆頭侍女として忙しく立ち働いた。
――そうこうしているうちに、若殿の婚儀の日が近づいてきた。
若殿の御住まいである尾崎丸の裡座敷が建て上がり、周防国の名工に頼んでいた几帳や衝立、屏風や二階棚などが郡山城に続々届いた。
わたくしが尾崎丸の裡座敷で調度品の出来映えを確認していると、若殿が側に寄ってこられた。
「若殿、見事なお品でございます。
寿(かず)姫様もきっと御納得なさるでしょう」
過飾に走らぬ螺鈿を施した漆塗の脇息を御覧に掛けながら、わたくしは若殿を見た。
「長い間大内館に仕えていたそなたの見立てなら確かだ。
邦よ、感謝するぞ」
わたくしは一礼する。
「お誉めに預かり、光栄に存じます。
若殿、婚礼用の御衣装をこれから仕立てますので、採寸させていただけますか?」
わたくしがお尋ねすると、若殿は頷かれた。わたくしが目配せすると、御針子の侍女がお部屋に入ってきた。
侍女に長尺で若殿の御体を測らせながら、わたくしは紙に寸法を留め書きしておく。
「直垂はこの者に縫わせますが、床入りの寝間着はわたくしが御縫いいたします」
「そなたが?」
はい、とわたくしが申すと、若殿ははにかんだ笑みを浮かべられた。
採寸が終わると若殿の前から下がり、わたくしは持ち込まれた婚礼用の反物を確かめに本丸の裡座敷に向かう。
婚儀の折には、花嫁だけではなく花婿も白を纏う。白地に紋様を織り込まれた豪華な織物は、目にも清やかに映る。
が、わたくしはいまいち納得できていなかった。
――この前見本に持ち込まれたあの布が、やはりいいかしら。
鴛鴦と楊を織り込まれた布のほうが、豪華だった。毛利家の財政を考え見送ったが、お迎えする花嫁が大内の御屋形様の御猶子なのである。あまり貧相だと、寿姫様に輿入れを後悔させてしまうかもしれない。
わたくしは吉田の市にある布問屋に行こうと裡座敷を出ようとする。そこを大殿に止められた。
「邦、城から出るなら、この者を護衛に連れて行け」
大殿のお言葉とともに、控えていた侍がわたくしの前に出た。
「桂左衛門大夫元忠(かつらさえもんだいぶもとただ)と申します。
こたびはわたしが中の丸殿を護衛つかまつります」
「桂左衛門大夫殿……桂左衛門尉(かつらさえもんのじょう)殿の弟御にございますか?」
「はい、さように」
桂左衛門尉元澄殿は毛利家の譜代の家臣で、家老を勤めておられる。その弟御である桂左衛門大夫殿は大殿の側近であられる。
ご自分の政務の助け手である桂左衛門大夫殿を護衛に遣わして下さる大殿に、わたくしは感謝してもしきれなかった。
「大殿、ありがとうございます。
左衛門大夫殿、よろしゅうお願いいたします」
わたくしは頭を下げ、城から降りた。途中で井上与三右衛門尉(いのうえよざうえもんのじょう)殿が道中に加わられたが、桂左衛門大夫殿がおられるので、いつもより気を遣うこともなく用事を終わらせることができた。
大殿が執務を終え裡座敷にお帰りになられた。夕食の膳が侍女により大殿のお部屋に運び込まれ、並べられる。
大殿は御酒をお召しになられないので、わたくしが湯漬けの介添えをしている。御飯が盛られた御櫃に、刻んだ香の物や佃煮を盆に乗せて大殿のお部屋に運び込んだ。
「大殿、今年の新酒がお城に上がってきておりますが、少しはお召し上がりになりませんか?」
たぶんお召しにはならないだろうと思いながら、一応大殿にお聞きしてみる。
「わたしはよい。
邦、明日隆元のもとに行くとき、新酒を飲んでも構わぬが、程々に飲めと言うておけよ」
「畏まりました」
一礼をするわたくしに、大殿は湯漬けの具を指図される。湯漬け椀に御飯を盛り付けると、大殿が申されたとおりに漬け物を添え、昆布で出汁をとった湯を掛け、大殿にお渡しした。
湯漬けを掻き込まれる大殿に、わたくしはお声を掛けた。
「若殿の床入りの寝間着ですが、わたくしが縫うことにいたしました」
大殿が箸を止められ、わたくしに顔をお向けになる。
「隆元の婚儀の支度や、元春の侍女の教育をせねばならんだろう。
寝間着を縫う暇があるのか?」
ご案じになっておられる大殿に、わたくしは微笑む。
「少輔次郎(しょうのじろう)殿の侍女のことですが、主に多良(たら)殿にしていただき、仕上がりをわたくしが見ることにいたしました」
多良殿は少輔次郎殿の御正室・珪(たま)姫様の筆頭侍女である。
「いくら毛利家から侍女を入れると申しましても、侍女をお使いになるのは珪姫様でございましょう?
ですので、珪姫様が御監修のうえ、多良殿に侍女の躾をしていただくのがもっともよいと思った次第なのです」
「ふむ、それも一理あるな」
珪姫様のご実家・熊谷(くまがい)家から入った侍女逹は、非常に教育が行き届いていて、多良殿も主の意を素早くお気づきになる。多良殿ならば、侍女の教育を任せても大丈夫だろう。
「昼間は若殿の裡座敷の設えをせねばなりませんが、夜ならば、縫い物をすることもできます」
わたくしの言葉に、大殿がじっとわたくしの目を御覧になる。その目が、わたくしに問うている。
――わたしとの夜は?
わたくしも目を反らさず、大殿を見つめていた。大殿は嘆息され、湯漬けの椀を膳に置かれた。
「今宵は、蘭のもとに行く。
邦、蘭の部屋に使いを出せ」
わたくしは頭を下げ、木戸を少し開け侍女を呼び、蘭殿のもとに行かせた。
大殿はお食事を再開なさり、黙々と湯漬けを召し上がられた。
夜中、わたくしは寝間着用の反物を床に拡げると、若殿の寸法に合わせ小刀で裁断してゆく。
大内館に仕え始めた頃、縫子をしていたことがあった。直衣や狩衣、直垂は難しいが、小袖や寝間着はすぐに覚えることができた。
――初心に戻った気持ちで、一針一針手縫いしよう。
若殿は母君を亡くされ、本来床入りの衣を仕立ててもらえるはずの御方に衣を戴けない。だから、待上臈としてお仕えさせていただくわたくしが、若殿の多幸を祈ってお縫いしよう。
わたくしは一晩掛けて断った反物を寝間着の形に仮縫いした。寝不足だったが、気にならなかった。
本丸の表座敷の評定の間で家臣逹と評議をなさった若殿を、わたくしは隣の曹司でお待ちした。
がたがたと人が立ち上がる音がする。わたくしは戸を微かに開けてみなが下がられるのを見る。若殿が姿をお現しになられたのを認め、わたくしは若殿を呼び止めた。
「若殿、少しお時間をいただけますか。
寝間着の仮縫いが出来ました。試着していただけますか?」
が、いらっしゃったのは若殿だけではなかった。大殿と、他ふたりほど侍がいた。
「邦、酷い顔だな。
寝不足では仕事に差し支えるぞ」
大殿が顔をしかめられる。わたくしが寝ていないのを、一目でお分かりになられたのだ。
「邦、わたしのためにそこまでしてくれなくても……」
若殿が案じるようにわたくしをご覧になる。
わたくしは首を振った。
「いいのです。これは仮縫い、本縫いをはやく済ませないと、ご婚礼の日が来てしまいます」
「邦……」
若殿は感に堪えないお顔をなさっているが、大殿はまだ渋い表情のままだ。
わたくしは曹司に若殿をお招きする。が、大殿も入ってこられ、少しく困惑した。
若殿に素襖を脱いでいただき、下の小袖の上から寝間着を引き掛け、袖を通していただく――思った以上に、上出来に仕上がっていた。
「よいように仮縫い出来ておりますわ。
これで本縫いに入れます」
寝間着を脱いでいただき、わたくしは若殿の素襖を着付けさせていただく。
その間、大殿はわたくしや若殿をじっとりとした眼差しで見ていらした。
素襖の帯を絞め、わたくしは微笑んだ。
「では、一度中の丸に戻ります。
すぐに尾崎丸に参りますゆえ、お待ちくださいませ」
わたくしは曹司から出て行かれる若殿を見送り、自分も曹司から出ようとした。が、大殿に手を掴まれ、わたくしは振り向く。
「寝間着など他の侍女に任せよ。
徹夜ばかりすれば、そなたが身体を崩す」
大殿のお言葉に、わたくしは瞬きしてしまう。……つまり、大殿はわたくしを案じていらっしゃる?
「大丈夫ですよ。わたくしは人一倍頑丈ですから」
笑って答えるわたくしに、大殿は微かに苛々としておられるようだ。
「……馬鹿者、そなたの勤めは、筆頭侍女だけではなかろう」
大殿の搾るようなお声に、わたくしは呆気にとられてしまう。……要は、側女としての役目を果たせ、ということか?
「大殿、困ったことをおっしゃいますな。
わたくしがおらずとも、蘭殿がお相手してくださいましょう。
むしろ、これからの小早川のことを思えば、もっと積極的にお通いにならなければ」
「それは、今でなくともよい!
子を生むには、蘭の身体は未熟すぎる」
焦ったような大殿のお声に、わたくしは目を見開く。
確かに、蘭殿の今のお身体では、御子を生むに耐えられないだろう。
大殿の御言い分はわかる。が、こちらも寝間着を縫わなければならぬのだ――亡き妙玖様の代わりに。
「……若殿は、本来婚礼の寝間着を縫っていただけるはずの御方を亡くされていらっしゃいます。
それが御労しくて……せめて、わたくしがこころを込めて縫えば、若殿も御寂しくなかろうと思ったのです。
わたくしはただの侍女です。わたくしごときの寝間着では役不足かもしれませぬが、若殿の御多幸の御為なら、なんでもいたします」
わたくしの切々とした訴えをお聞きになる大殿の表情が、変わってくる。――なにかが、大殿のおこころに響いたようだ。
大殿はわたくしを抱き寄せられ、耳元に囁かれた。
「では、せめて三夜に一夜は休め。
その夜……今宵は、わたしの側に居よ」
わたくしは少しく考え、頷いた。
大殿にご心配をお掛けするのも、こころ痛い。主を案じさせる侍女など、侍女失格だ。
――今宵は、大殿のお言葉に従おう。
わたくしはしっかりと大殿にお約束し、中の丸に向かった。
一晩大殿と休んだあと、わたくしは再び寝間着の裁縫を再開した。
尾崎丸の裡座敷が、新しい調度で飾られてゆく。
なんとか寝間着を縫い上げ、若殿にお渡しする。すると、若殿から小さな包みを渡された。
「ほんの礼だ。よかったら使ってくれ。」
中身を見れば、塗りの美しい、螺鈿で桜を施された笄(こうがい)だった。
「ありがとうございます。
大切にいたしますね」
わたくしは笄の包みを懐にしまい、頭を下げた。
「ふむ。隆元め、中々粋な贈り物だな」
久々に落ち着いて同じ床に憩うわたくしから笄を取り上げ、大殿は笄を様々な角度からご覧になる。
今宵は大殿自ら中の丸にお忍びになられ、そこで棚に笄を仕舞おうとしたわたくしを見咎められたのだ。
「まぁ、持っておくのは構わぬ。
だが、それを髪に挿してはならぬぞ」
「なぜにございますか?」
聞き返すわたくしを押しひしぎ、大殿はわたくしのなかに愛歓を再び呼び起こされた。
床に転がされた笄が、物寂しげに艶を放っている。――若殿が、親愛の情でもって下された贈り物。
だが、それは慕情の贈り物でもあったのだ。
わたくしは見抜けなかったが、大殿は見抜かれ、使うなと釘を御刺しになった。
あと少しで、周防国から内藤家の寿姫――大内の御屋形様のご猶子が毛利家に嫁いでこられる。
それは、毛利家にとって、激動の一年の始まりでもあったが、この時のわたくしは大殿の腕に微睡み、新たな風の動きに気づきもしなかった。
――大殿の隠し女になった日から、わたくしは誰も知らない顔を持つようになった。
三吉氏の御方・美(はる)殿はご懐妊中であり、乃美氏の御方・蘭(らん)殿は大殿のお側に上がって二月と経っていない。
お二方にわたくしが側女となったと知られれば、お悩みを増やしてしまうことになるだろう。
大殿の女房衆に知られていないということは、裡座敷の外にいる殿方にはまったく感知できないということだ。
――わたくしが大殿のものになったことを、井上与三右衛門尉(いのうえよざうえもんのじょう)殿はお知りでない。
内藤家の寿(かず)姫様御輿入れでも、手伝いをすると言われているから、また何をされるか……。
自室で新しい小袖に着替えながら、わたくしはうんざりしていた。
大殿から、若殿の御婚儀の待上臈(まちじょうろう)を勤めよと命じられている。式三献などの儀式の進行をするのは構わないが、他人の閨の覗き見は、御免蒙りたい気分だ。
――前の蘭殿の御輿入れの時とは違い、わたくしが新婚夫婦に煽られるようなことは、もうないだろうが。
床入りの儀が終わったあと、わたくしは婚儀の成果を大殿にお知らせすることになっている。その後は、言わずもがなだろう。
寿姫様御輿入れの前に、尾崎丸でも花嫁受け入れの準備をしなくてはならない。寿姫さまは大内の御屋形様の再従妹(またいとこ)で御猶子に当たられる。その御方が御住まいになるのだから、相応なしつらいに増築せねばならない。
増築の件では、大殿と若殿が御話し合いになられ、わたくしも立ち合わせていただいた。
――そういえば……もうすぐ妙玖(みょうきゅう)様の祥月(しょうつき)命日だわ。
妙玖様――大殿の亡き御正室。吉川氏の姫君だった御方。
妙玖様は若殿・少輔太郎隆元(しょうのたろうたかもと)様、吉川氏に養子縁組みされる少輔次郎元春(しょうのじろうもとはる)様、竹原殿・又四郎隆景(またしろうたかかげ)様、宍戸左衛門尉隆家(ししどさえもんのじょうたかいえ)様に嫁がれた岑(しん)姫様の御母君である。
祥月命日ともなれば、御子様方皆お集まりになられるだろう。
――そういえば、岑姫様とはお初にお目に掛かることになる。
昔から郡山城にいた侍女によれば、岑姫様はお気が強く、思ったことをすぐ口になさるという。
岑姫様が五龍城の御方となられてからは、なかなかご実家に帰ることがお出来になれないらしい。が、今でも郡山城に対し発言力を有していらっしゃる。
――どうなることやら。わたくしは岑姫様のお気に召すだろうか。
気が重くなりながら、わたくしは大殿をお起こしするため、本丸に向かった。
妙玖様の祥月命日の日、大殿の御子様方が揃って集われた。岑姫様は御夫君の五龍殿――宍戸左衛門尉殿もご一緒である。
介添え役のわたくしは、お墓に御供えする香華を用意し、妙玖庵に甘茶の支度をしてお待ちしていた。
大殿と御子様方がお出でになり、わたくしは手を突いて礼をする。大殿達はお供え物をそれぞれ手に持ち、お墓に向かわれた。
わたくしも庵から、妙玖様のお墓に手を合わす。
――御方様、お許しください。わたくしは大殿の側女になりました。
大殿は何も仰りませんが、きっと御方様を亡くされ、寂しくていらっしゃるのです。
だから、わたくしなぞを閨に召されるのです。
大殿は政治(まつりごと)のことはお話になられるが、女人に対することは淡白なほど顔にお出しにならない。
美殿や蘭殿がお側にいらっしゃりながらも、わたくしなぞを求められた大殿。そのおこころが、わたくしに解ろうはずもない。ただ、わたくしを抱くことで大殿の無聊をお慰めできるなら、それでよい。
が、妙玖様に申し訳ない。妙玖様から大殿を盗んだようで、いたたまれない。
わたくしが思い悩んでいるうちに、大殿達が戻ってこられた。わたくしは席に着かれた皆様に甘茶をお出しし、庵の奥に控える。
皆様は談笑なさっていらっしゃる。わたくしは追加に炊き出された甘茶を侍女から受け取り、おかわりの準備をした。
そのとき、「邦、邦」と大殿から呼ばれ、わたくしは奥から顔を覗かせる。
「はい、甘茶のおかわりですか?」
が、大殿からこちらに来い、と言われ、わたくしはどきりとしながら皆様のもとに歩み寄った。
大殿の御子様方の目が、わたくしに集中する。わたくしは手を突いて一礼する。
「あなたが、邦殿?」
呼び掛けられ、びくりとする。このお声は、岑姫様だ。
わたくしは顔を上げ、岑姫様を直接お見受けした。
「お初にお目に掛かります。
大内館から大殿の筆頭侍女として参りました、小幡氏の娘・邦と申します」
あまり怯えるのも、岑姫様に無礼だ。わたくしは物怖じせずに岑姫様を見た。
岑姫様はわたくしを物見するように眺められる。そして、唇を引き結ぶように笑まれた。
「わたくしを真っ直ぐ見つめるなんて、度胸があるわね。
それに、あなたの目を見てると、亡き大方様を思い出すわ」
えっ、大方様? と思ったとき、大殿が岑姫様を睨まれた。
いつも女人のことでは表情をお変えにならない大殿が、お珍しいことに苛立ちを顕になされている。
――大方様とは、いったいどなた?
岑姫様が仰られたのだから、毛利家に近しい女人だ、きっと。その証拠に、若殿以外、微妙な顔をなさっておられる。
「その話はもうよい。
来年初春に隆元の婚儀を行い、二月には元春が吉川の小倉山城に入る。
邦、そなたにはたくさん働いてもらわねばならぬ。
隆元の婚儀の準備をしながら、小倉山城に連れて行く侍女の教育をせねばならぬ。
よろしく頼むぞ」
「心得ました」
再度一礼するわたくしに、又四郎殿がお声を掛けられた。
「邦殿、竹原の手島屋敷にも侍女を増やそうと考えています。
侍女の選抜は父上にお願いしますが、わたしが侍女達を受け取りにくるまでに、邦殿が教育してくれますか。
そのなかに、わたしの筆頭侍女にする者がおりますので、鍛えてやってください」
突然のお申し出だったので、わたくしは面食らいながらも頷いた。
「わたくしでよければ、お役目承ります」
わたくしの応えに、又四郎殿は意味ありげに微笑まれた。
大殿は黙したまま、わたくしや御子達を見守っていらっしゃった。
その夜、わたくしと他の侍女が大殿の寝床の支度をしていると、「邦はここに残れ」と命じられた。
大殿の着替えのお手伝いをしたわたくしは、そのまま床に座り込む。
「邦、ここだけの話だが、隆景が竹原の侍女の育成を頼んだこと、あれには裏がある」
「裏……?」
わたくしの前に座られた大殿が、腕を組み話される。
「隆景に、沼田小早川家を継がせ、小早川家を毛利の一部にする。
隆景が頼んだ侍女は、沼田の高山城に連れていく者たちだ」
思いも掛けない大殿のお言葉に、わたくしは目を見開く。
毛利が、小早川を……乗っ取る?
「あ、の、そのお話、大内の御屋形様は……」
狼狽するわたくしに、大殿はうっそりとお笑いになられた。
「存じておられる。
むしろ、ふらふらしている沼田を自分が贔屓にしている隆景に押さえさせることができるので、御屋形様は大乗り気だな」
沼田小早川家は、先代当主が出雲の尼子氏に着いたこともある危ない家だ。
現在の当主はまだ元服もしておらず、病弱で盲目でもある。
そんな当主を尻目に、沼田家臣団は大内派と尼子派と真っ二つに別れていた。
「沼田の当主には妹がいてな、それと隆景をめあわせる。
隆景は家付き娘に婿養子に入り、竹原・沼田両家を統一するのだ。
そのため、わたしは沼田の枝族である乃美隆興と縁を結んだ」
わたくしは言葉もないまま、大殿の策謀を聞いていた。
なんということ……蘭殿の輿入れは、小早川家乗っ取りの、下準備だったのだ。
否、小早川氏だけではない、吉川氏も、主である吉川治部少輔興経(きっかわじぶのしょうおきつね)殿を押し退けて少輔次郎殿を当主にしようとしているのだ。
吉川治部少輔殿は現在幽閉されている。この御方は日和見や裏切りを平気でなさるので、いい気味だと思っていた。
が、治部少輔殿を幽閉しているのは、他でもない大殿なのだ。
わたくしは、自分のなかで大殿への見方が変わったような気がした。
「大殿は……おそろしい御方です」
おそろしいが、その精神力と知略に惹き付けられる。
「おそろしい、と言うわりには、怖がってはおらぬな」
「わたくしも、武家に生まれた女子ですゆえ」
食うか食われるか、弱肉強食の世の摂理は知っている。強い者だけが生き残れる世――わたくしも、そんな世に生きているのだ。
大殿は先程とは違う笑みを見せられた。
「そなたに嫌われるのが、一番かなわぬ。
わたしは――毛利家は、弱い家だった。尼子に狙われ、大内に虐げられ。
亡き妻・玖(ひさ)は、毛利家が尼子氏に付くため、尼子氏の後ろ楯により、わたしに嫁いできた」
妙玖様は吉川氏の出で、吉川氏と尼子氏は緊密な関係にあった。妙玖様の叔母上は、かの梟雄・尼子経久に嫁いでおられる。
「尼子側に付いていた毛利だったが、御家相続のいざこざに尼子が口を出すようになり、当主になったわたしは大内側に付いた。
隆元を大内の御屋形様のもとに人質に出し、保身をしていた。
玖は尼子・吉川とわたしの板挟みになったが、よくわたしを支え、優秀な子を生みそだて、家を守ってくれた。
玖には、本当に感謝している」
妙玖様を語る大殿に、違和感を感じる。なにか、情愛だけで、慕情が感じられないような……。
そう思っていると、大殿に抱き締められた。
「玖が死んだあと、わたしはふたつの大きな勢力に挟まれ、きゅうきゅうとしながら生きるのはたくさんだと思ったのだ。
だから、自分で自分の生きる道を切り開こうと思った。
それは、いけないことか?」
大殿に問われ、わたくしは首を横に振る。
「いいえ……思うように、なさればよろしいのです。
すべては、運。大殿に勝機があるのなら、運が味方してくれます」
わたくしはまだ言葉を紡ごうとしたが、大殿に唇を封じられ、わたくしは床の上に押し倒された。
大殿は激しくわたくしを求められた。中年とは思えぬ荒々しさ、執拗さでわたくしを責め、息も絶え絶えになるほどの快楽をわたくしに与えなされた。
この御方は、まだまだ枯れぬ、熱き血潮を持っていらっしゃる。それが大殿のこころに荒びを呼び込み、女子を飽かず求められる。
わたくしは、大殿の冥い野心と熱き情熱に捕えられた女だった。大殿の押さえられぬ生気の迸りを受ける器だった。
――妙玖様や、美殿や蘭殿も大殿の熱気に囚われたの?
わたくしだけでなく、他の女人も――。そう思うとなぜか辛かった。
なぜ辛いのか、わたくしには解らない。
解らないまま、わたくしは大殿に翻弄されていた。
――大殿、わたくしは大殿に従います。
たとえ、何があっても、大殿に付いてゆきます。
わたくしは大殿がわたくしに向ける暗い陰りを知らない。
それでも、ただひたすらに大殿に付いてゆきたかった。
☆
年が明け、わたくしが吉田郡山城に入って初めての正月を迎えた。
様々な祝い事や宴があり、わたくしは筆頭侍女として忙しく立ち働いた。
――そうこうしているうちに、若殿の婚儀の日が近づいてきた。
若殿の御住まいである尾崎丸の裡座敷が建て上がり、周防国の名工に頼んでいた几帳や衝立、屏風や二階棚などが郡山城に続々届いた。
わたくしが尾崎丸の裡座敷で調度品の出来映えを確認していると、若殿が側に寄ってこられた。
「若殿、見事なお品でございます。
寿(かず)姫様もきっと御納得なさるでしょう」
過飾に走らぬ螺鈿を施した漆塗の脇息を御覧に掛けながら、わたくしは若殿を見た。
「長い間大内館に仕えていたそなたの見立てなら確かだ。
邦よ、感謝するぞ」
わたくしは一礼する。
「お誉めに預かり、光栄に存じます。
若殿、婚礼用の御衣装をこれから仕立てますので、採寸させていただけますか?」
わたくしがお尋ねすると、若殿は頷かれた。わたくしが目配せすると、御針子の侍女がお部屋に入ってきた。
侍女に長尺で若殿の御体を測らせながら、わたくしは紙に寸法を留め書きしておく。
「直垂はこの者に縫わせますが、床入りの寝間着はわたくしが御縫いいたします」
「そなたが?」
はい、とわたくしが申すと、若殿ははにかんだ笑みを浮かべられた。
採寸が終わると若殿の前から下がり、わたくしは持ち込まれた婚礼用の反物を確かめに本丸の裡座敷に向かう。
婚儀の折には、花嫁だけではなく花婿も白を纏う。白地に紋様を織り込まれた豪華な織物は、目にも清やかに映る。
が、わたくしはいまいち納得できていなかった。
――この前見本に持ち込まれたあの布が、やはりいいかしら。
鴛鴦と楊を織り込まれた布のほうが、豪華だった。毛利家の財政を考え見送ったが、お迎えする花嫁が大内の御屋形様の御猶子なのである。あまり貧相だと、寿姫様に輿入れを後悔させてしまうかもしれない。
わたくしは吉田の市にある布問屋に行こうと裡座敷を出ようとする。そこを大殿に止められた。
「邦、城から出るなら、この者を護衛に連れて行け」
大殿のお言葉とともに、控えていた侍がわたくしの前に出た。
「桂左衛門大夫元忠(かつらさえもんだいぶもとただ)と申します。
こたびはわたしが中の丸殿を護衛つかまつります」
「桂左衛門大夫殿……桂左衛門尉(かつらさえもんのじょう)殿の弟御にございますか?」
「はい、さように」
桂左衛門尉元澄殿は毛利家の譜代の家臣で、家老を勤めておられる。その弟御である桂左衛門大夫殿は大殿の側近であられる。
ご自分の政務の助け手である桂左衛門大夫殿を護衛に遣わして下さる大殿に、わたくしは感謝してもしきれなかった。
「大殿、ありがとうございます。
左衛門大夫殿、よろしゅうお願いいたします」
わたくしは頭を下げ、城から降りた。途中で井上与三右衛門尉(いのうえよざうえもんのじょう)殿が道中に加わられたが、桂左衛門大夫殿がおられるので、いつもより気を遣うこともなく用事を終わらせることができた。
大殿が執務を終え裡座敷にお帰りになられた。夕食の膳が侍女により大殿のお部屋に運び込まれ、並べられる。
大殿は御酒をお召しになられないので、わたくしが湯漬けの介添えをしている。御飯が盛られた御櫃に、刻んだ香の物や佃煮を盆に乗せて大殿のお部屋に運び込んだ。
「大殿、今年の新酒がお城に上がってきておりますが、少しはお召し上がりになりませんか?」
たぶんお召しにはならないだろうと思いながら、一応大殿にお聞きしてみる。
「わたしはよい。
邦、明日隆元のもとに行くとき、新酒を飲んでも構わぬが、程々に飲めと言うておけよ」
「畏まりました」
一礼をするわたくしに、大殿は湯漬けの具を指図される。湯漬け椀に御飯を盛り付けると、大殿が申されたとおりに漬け物を添え、昆布で出汁をとった湯を掛け、大殿にお渡しした。
湯漬けを掻き込まれる大殿に、わたくしはお声を掛けた。
「若殿の床入りの寝間着ですが、わたくしが縫うことにいたしました」
大殿が箸を止められ、わたくしに顔をお向けになる。
「隆元の婚儀の支度や、元春の侍女の教育をせねばならんだろう。
寝間着を縫う暇があるのか?」
ご案じになっておられる大殿に、わたくしは微笑む。
「少輔次郎(しょうのじろう)殿の侍女のことですが、主に多良(たら)殿にしていただき、仕上がりをわたくしが見ることにいたしました」
多良殿は少輔次郎殿の御正室・珪(たま)姫様の筆頭侍女である。
「いくら毛利家から侍女を入れると申しましても、侍女をお使いになるのは珪姫様でございましょう?
ですので、珪姫様が御監修のうえ、多良殿に侍女の躾をしていただくのがもっともよいと思った次第なのです」
「ふむ、それも一理あるな」
珪姫様のご実家・熊谷(くまがい)家から入った侍女逹は、非常に教育が行き届いていて、多良殿も主の意を素早くお気づきになる。多良殿ならば、侍女の教育を任せても大丈夫だろう。
「昼間は若殿の裡座敷の設えをせねばなりませんが、夜ならば、縫い物をすることもできます」
わたくしの言葉に、大殿がじっとわたくしの目を御覧になる。その目が、わたくしに問うている。
――わたしとの夜は?
わたくしも目を反らさず、大殿を見つめていた。大殿は嘆息され、湯漬けの椀を膳に置かれた。
「今宵は、蘭のもとに行く。
邦、蘭の部屋に使いを出せ」
わたくしは頭を下げ、木戸を少し開け侍女を呼び、蘭殿のもとに行かせた。
大殿はお食事を再開なさり、黙々と湯漬けを召し上がられた。
夜中、わたくしは寝間着用の反物を床に拡げると、若殿の寸法に合わせ小刀で裁断してゆく。
大内館に仕え始めた頃、縫子をしていたことがあった。直衣や狩衣、直垂は難しいが、小袖や寝間着はすぐに覚えることができた。
――初心に戻った気持ちで、一針一針手縫いしよう。
若殿は母君を亡くされ、本来床入りの衣を仕立ててもらえるはずの御方に衣を戴けない。だから、待上臈としてお仕えさせていただくわたくしが、若殿の多幸を祈ってお縫いしよう。
わたくしは一晩掛けて断った反物を寝間着の形に仮縫いした。寝不足だったが、気にならなかった。
本丸の表座敷の評定の間で家臣逹と評議をなさった若殿を、わたくしは隣の曹司でお待ちした。
がたがたと人が立ち上がる音がする。わたくしは戸を微かに開けてみなが下がられるのを見る。若殿が姿をお現しになられたのを認め、わたくしは若殿を呼び止めた。
「若殿、少しお時間をいただけますか。
寝間着の仮縫いが出来ました。試着していただけますか?」
が、いらっしゃったのは若殿だけではなかった。大殿と、他ふたりほど侍がいた。
「邦、酷い顔だな。
寝不足では仕事に差し支えるぞ」
大殿が顔をしかめられる。わたくしが寝ていないのを、一目でお分かりになられたのだ。
「邦、わたしのためにそこまでしてくれなくても……」
若殿が案じるようにわたくしをご覧になる。
わたくしは首を振った。
「いいのです。これは仮縫い、本縫いをはやく済ませないと、ご婚礼の日が来てしまいます」
「邦……」
若殿は感に堪えないお顔をなさっているが、大殿はまだ渋い表情のままだ。
わたくしは曹司に若殿をお招きする。が、大殿も入ってこられ、少しく困惑した。
若殿に素襖を脱いでいただき、下の小袖の上から寝間着を引き掛け、袖を通していただく――思った以上に、上出来に仕上がっていた。
「よいように仮縫い出来ておりますわ。
これで本縫いに入れます」
寝間着を脱いでいただき、わたくしは若殿の素襖を着付けさせていただく。
その間、大殿はわたくしや若殿をじっとりとした眼差しで見ていらした。
素襖の帯を絞め、わたくしは微笑んだ。
「では、一度中の丸に戻ります。
すぐに尾崎丸に参りますゆえ、お待ちくださいませ」
わたくしは曹司から出て行かれる若殿を見送り、自分も曹司から出ようとした。が、大殿に手を掴まれ、わたくしは振り向く。
「寝間着など他の侍女に任せよ。
徹夜ばかりすれば、そなたが身体を崩す」
大殿のお言葉に、わたくしは瞬きしてしまう。……つまり、大殿はわたくしを案じていらっしゃる?
「大丈夫ですよ。わたくしは人一倍頑丈ですから」
笑って答えるわたくしに、大殿は微かに苛々としておられるようだ。
「……馬鹿者、そなたの勤めは、筆頭侍女だけではなかろう」
大殿の搾るようなお声に、わたくしは呆気にとられてしまう。……要は、側女としての役目を果たせ、ということか?
「大殿、困ったことをおっしゃいますな。
わたくしがおらずとも、蘭殿がお相手してくださいましょう。
むしろ、これからの小早川のことを思えば、もっと積極的にお通いにならなければ」
「それは、今でなくともよい!
子を生むには、蘭の身体は未熟すぎる」
焦ったような大殿のお声に、わたくしは目を見開く。
確かに、蘭殿の今のお身体では、御子を生むに耐えられないだろう。
大殿の御言い分はわかる。が、こちらも寝間着を縫わなければならぬのだ――亡き妙玖様の代わりに。
「……若殿は、本来婚礼の寝間着を縫っていただけるはずの御方を亡くされていらっしゃいます。
それが御労しくて……せめて、わたくしがこころを込めて縫えば、若殿も御寂しくなかろうと思ったのです。
わたくしはただの侍女です。わたくしごときの寝間着では役不足かもしれませぬが、若殿の御多幸の御為なら、なんでもいたします」
わたくしの切々とした訴えをお聞きになる大殿の表情が、変わってくる。――なにかが、大殿のおこころに響いたようだ。
大殿はわたくしを抱き寄せられ、耳元に囁かれた。
「では、せめて三夜に一夜は休め。
その夜……今宵は、わたしの側に居よ」
わたくしは少しく考え、頷いた。
大殿にご心配をお掛けするのも、こころ痛い。主を案じさせる侍女など、侍女失格だ。
――今宵は、大殿のお言葉に従おう。
わたくしはしっかりと大殿にお約束し、中の丸に向かった。
一晩大殿と休んだあと、わたくしは再び寝間着の裁縫を再開した。
尾崎丸の裡座敷が、新しい調度で飾られてゆく。
なんとか寝間着を縫い上げ、若殿にお渡しする。すると、若殿から小さな包みを渡された。
「ほんの礼だ。よかったら使ってくれ。」
中身を見れば、塗りの美しい、螺鈿で桜を施された笄(こうがい)だった。
「ありがとうございます。
大切にいたしますね」
わたくしは笄の包みを懐にしまい、頭を下げた。
「ふむ。隆元め、中々粋な贈り物だな」
久々に落ち着いて同じ床に憩うわたくしから笄を取り上げ、大殿は笄を様々な角度からご覧になる。
今宵は大殿自ら中の丸にお忍びになられ、そこで棚に笄を仕舞おうとしたわたくしを見咎められたのだ。
「まぁ、持っておくのは構わぬ。
だが、それを髪に挿してはならぬぞ」
「なぜにございますか?」
聞き返すわたくしを押しひしぎ、大殿はわたくしのなかに愛歓を再び呼び起こされた。
床に転がされた笄が、物寂しげに艶を放っている。――若殿が、親愛の情でもって下された贈り物。
だが、それは慕情の贈り物でもあったのだ。
わたくしは見抜けなかったが、大殿は見抜かれ、使うなと釘を御刺しになった。
あと少しで、周防国から内藤家の寿姫――大内の御屋形様のご猶子が毛利家に嫁いでこられる。
それは、毛利家にとって、激動の一年の始まりでもあったが、この時のわたくしは大殿の腕に微睡み、新たな風の動きに気づきもしなかった。
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