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6 捨てられた聖女
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水の精霊ウンディ―ネの神殿は厳かな……とは言い難く、騒がしい状況になっていた。神官も使用人もソワソワとしながら門付近を行ったり来たりしていた。ネリ―は嬉しそうにブリジットの背をどんどん押すと大きな声を上げた。
「みんな――! 聖女様のご帰還だよ――!」
一斉に神官達が近づいてくる。そしてあっという間に囲まれてしまった。
「聖女様お帰りなさいませ! 邪気を祓ったというのは本当でしょうか?」
「どのような戦いだったのですか?」
「聖女様の武勇伝をお聞かせ下さい!」
するとハイスは大きな体でブリジットを自分の後ろに引き寄せた。
「お話する機会はちゃんと設けるから道を開けないか!」
「我々だって聖女様のご帰還を心待ちにしていたのですよ! ハイス様ばかりずるいです!」
「ほう、祈りの間に向かうのを邪魔をするという訳だな?」
その言葉に渋々神官達は道を開けていく。ブリジットはくすぐったい気持ちで神官達に頭を下げて手を振った。再び歓声が上がるのを背中で聞きながら小さく笑った。
「申し訳ございません。あの者達も興奮冷めやらぬのでしょう」
「嬉しいですよ。こんな風に歓迎されて私は幸せ者です」
ハイスもまんざらではない溜息をつきながら、神殿の奥へと進んでいった。
静寂が埋め尽くす神殿の最深部。ここまでは外の騒音は一切届かない。祭壇の奥には泉。薄青く光を放つ泉は一切の波紋を起こさず、鏡のように凪いでいた。外より大分ひんやりする空気が浮ついていた心を鎮めてくれる。祭壇の前でウンディ―ネに祈りを捧げる為に膝を突いて手を合わせた。その後ろにはハイスを筆頭とする聖騎士団が一同に並んだ。深呼吸をして心を集中していくと、鏡のようだった水面に波紋が現れ始めた。外側から内側に向かって揺れ始める円は中心分で小さく跳ねている。それを見つめながらブリジットは目を瞑った。
町の宿で出会った医者の言った事が脳裏を過る。確かにもう精霊から浄化をするような力を受け取る事は出来なくなってしまった。それは真実。でも繋がりが失くなってしまった訳ではない。こうして祈りを捧げれば精霊に繋がっているのだと分かる。カップに満たされていた水を飲み干して、今は水滴程しかないような感覚。でも心の中には確かなそのひと雫を感じる。かといって邪気を払えなくなってしまった以上、人々にとっては力を失くしたも同然なのだろう。
――いつかこの水滴が増えて、またカップを満たすまでは。
不意に終わったと感じ手を離して目を開けると、いつの間にか泉の中心には水柱が立っており、目を開けた瞬間に弾けるように飛び散り、粒の細かい雨が降ったように周囲を濡らした。
「さすがですブリジット様。これでウンディ―ネ様への感謝をお伝える事が出来ました」
「皆様のお祈りのおかげです」
ブリジットは後ろを振り返ると、七名の聖騎士団を順番に見ていった。半年前、ここで同じように祈りを捧げてから出発した時にはいた顔が足りない。この遠征で四人の聖騎士団が命を落としてしまった。欠けてしまった仲間を想い、皆が同じ気持ちなのだと分かる。
「皆様がいなければ邪気を祓う事が出来ませんでした。皆様のお陰です。本当にありがとうございました」
「聖女様ッ」
声に詰まる聖騎士団の顔がじんわりと涙で歪むのを感じてハイスを見上げると、いつもの柔らかい微笑みが向いていた。
「ようやく平和が訪れたのです。私達もしばらくこの平和をしっかりと味わいましょう」
その時、祈りの間がある扉が叩かれた。
「団長! 聖女様!」
扉に近い聖騎士団の数人が急いで扉を開いていく。駆け込んできのは神官達。息を切らしたその表情は緊張していた。そして奥にいるブリジットを見つけるなり、申し訳なさそうに近付いてきた。
「どうしたんだ?」
「今こちらに殿下が向かっておられます。何でも聖女様に話があるとかで、お祈りを捧げていると申し上げても聞く耳を持って頂けず……」
「随分な言われようだな。それとも神官は王太子よりも地位が高いと勘違いをしているんじゃなかろうな?」
踵を鳴らし廊下を歩いてきたのはリアムと初老の男、身なりからして貴族だと分かる。そしてその後ろには目を瞠る程の美しい令嬢が控えめに付いて来ていた。皆突然の王太子の訪問に困惑しているのか立ち尽くしていると、リアムが冷えた目で一瞥した。
「まさかここまで軽んじられているとは思いもしなかったぞ」
ハイスが膝を突いたのと同時に集まっていた聖騎士団達もそれに習っていく。ブリジットはその場で膝を折った。
「申し訳ございませんリアム殿下。今は祭事の只中でしたのでご挨拶が遅れた事をお詫び致します。我々神殿に関わる者達は皆王家に忠誠を誓っております」
それでもリアムの機嫌は悪いままだった。
「リアム様、どのような御用でこちらまでいらしたのですか?」
この場で発言するのは自分が最適だと思った。しかしそうではなかったらしい。リアムは今日見た中で一番不機嫌な表情でこちらを見ると近づいてくる。思わず一歩下がると、気がついたハイスが僅かに顔を上げた。
「まずは私に会いに来るべきではなかったか? お前は私の婚約者だろう?」
「ウンディーネ様に祈りを捧げなくてはなりませんでしたので、その後にお伺いしようと思っておりました。リアム様も先程お忙しいと仰って……」
「私のせいか?」
怒気を孕んだ声にびくりと身体を震わせると、ハイスが立ち上がった。
「大事な儀式でございました。どうかご理解下さい」
「……祈りを捧げるのは構わない。だがまもなく晩餐会の時間が迫っているんだ。陛下をお待たせする事は許されないぞ。あとお前もだ、ハイス」
「私もですか?」
「聖騎士団としてではなく、リンドブルムル公爵家の人間として出席するようにとのお達しだ。従兄殿」
「承知しました」
「殿下そろそろ……」
後ろから催促するように声を発した初老の男にちらりと視線を向けたリアムは苦く顔を歪めると、手を伸ばして後ろに控えていた令嬢の手を取った。
「紹介しよう、ロ―レン伯爵とリリアンヌ嬢だ」
「リリアンヌ・ロ―レンです。宜しくお願い致します、聖女様」
「ブリジットと申します。リリアンヌ様はもしやドレスをお見立て下さったお方でしょうか?」
すると白くふっくらとした頬が丸みを帯びて微笑むと、薄く赤い唇が綺麗な弧を描いた。
「お気に召して頂けましたでしょうか?」
「はい、とても美しくて私にはもったいないくらいでした。本当にありがとうございました。リアム様もありがとうございました」
「そこまで喜んで下さると私も嬉しいです、聖女様。それにしてもこうして並ばれるととてもお似合いですわね、リアム様?」
リリアンヌの細い腕がリアム袖に触れる。知り合いにしては少し近くに感じる距離にリアムを見上げると、睨みつけるような視線が返ってきた。
「そのドレスは聖騎士団長の正装と相まって、まるで対のような仕上がりですわ」
「そうでしょうか、確かに聖職の衣装は昔から決まっておりますから色味を揃えればそう見えるかもしれませんね」
リアムは怒っている。しかしその原因が分からない。王の間で半年振りに会ったリアムはただ緊張しているのかと思った。でも今は違う。明らかに機嫌が悪い。それにウンディーネに祈りを捧げるのは聖女と聖騎士団ならば当たり前の事。それなのにそれを蔑ろにしてまで自分に会いに来るべきだというリアムが信じられなかった。会いたかった、寂しかったと再会を喜ばれると思っていた。それでも今向けられているのは鋭い視線のみ。その瞳に映るのは憎悪と言ってもいいかもしれない。怖くなり更に一歩後ろに下がると、祭壇の端にぶつかった。
「大丈夫ですかブリジット様」
手を腰に当てて支えてくれたハイスを見た瞬間、リアムはリリアンヌの腰をぐいと引いた。細い身体と見合わない豊満な胸がリアムの逞しい身体に押し付けられる。ブリジットは信じられない思いで二人の姿に目を見張った。
「晩餐会の前に言っておく事がある。君との婚約は今この時を持って解消する。と言っても、もともと契約書を交わした訳じゃないからわざわざ言う事もないがな」
吐き捨てられた言葉に耳を疑った。視線の先にはリリアンヌと抱き合うような格好のリアム。答えはそれだけで十分だった。
「……分かりました」
辛うじて出た言葉にリアムは怒りを更に募らせたようだった。
「分かりましただと? 随分と聞き分けがいいな。それともこの言葉を待っていたか? 私から別れを告げられるのを!」
「そんな訳ありません! でもリアム様のお心はもう私にはないのでしょう?」
「……心を離したのはお前が先だろう」
「どういう意味でしょうか?」
「もういい。もう終わった事だ。晩餐会で私から陛下に申し上げるからお前は何も言わないように。いいな?」
「そのお話とは別に私からも陛下にご報告したい事がございますが宜しいでしょうか? 改めてお時間を割いて頂くよりも晩餐会での方がいいと思います」
「どんな話だ?」
「今は申し上げられません。陛下の御前で申し上げます」
「聖女様、殿下が聞いていらっしゃるのですよ?」
リリアンヌの涼やかな凛とした声が耳に不快に響く。ただ見ただけのつもりだったが、睨み付けたようになってしまった。
「なんだその顔は! これだから庶民は全く教育がなっていないのだ。聖女も貴族の中から生まれればいいものを、いらぬ争いが生まれるだけではないか! まさか本当に王太子妃になれるとでも思っていた訳ではあるまいな?」
「貴族の方でも信仰があれば聖女に選ばれたでしょう。場所はどこでもいいのです。祈りたいと思った時に祈れば、誰か見ていなくてもウンディーネ様に想いは通じます」
ロ―レン伯爵は顔を真赤にして大股でブリジットの前に来ると手を振り上げた。とっさに目を瞑ったが衝撃は落ちてこない。その代わり視界を埋め尽くすのは大きな背中と鈍い音。ロ―レン伯爵の手はハイスの胸辺りを叩いていた。ちょうどブリジットの背丈くらいの場所だ。しかしハイスは微動だにせずロ―レン伯爵を見下ろしていた。
「平民の出とはいえブリジット様は聖女であらせられます。その御方に手を挙げるなど罰を受けても文句は言えませんよ」
「なぜ私が罰を受けなくてはならないんだ! 聖女にはなんの特権もないのだぞ。殿下との婚約が解消された今はただのいち庶民だ!」
「ならば私を殴った事は? お忘れでしょうか? 私は王族の血を引くリンドブルム公爵家の人間です」
普段は見せない冷たい表現と声はハイスのものではないように感じられた。ロ―レン伯爵の顔がみるみるうちに引き攣っていく。そのやり取りに割って入るようにリアムの声が響いた。
「止めろ。失礼だったとしても伯爵も手まで上げる必要はない。ブリジット、伯爵に詫びろ」
「殿下」
「なんだ、ハイス」
「ここはウンディ―ネ様に最もお近い場所で、ブリジット様は聖女様であらせられます。くれぐれもウンディ―ネ様のお怒りを買わぬようお願い申し上げます」
「王太子を脅迫するのか!」
「ロ―レン伯爵、もういい。用は済んだのだから行くぞ」
離れていく三人の背中を見ながらハイスはブリジットを振り見た。
「これで宜しいのですか?」
「何がですか?」
「婚約解消ですよ! まだ話し合う余地はあります。殿下は離れている間に寂しくてつい……」
「つい近くにいたお方を愛してしまったと?」
「一時的な気の迷いだとしたら、このまま身を引かなくとも宜しいのではありませんか!」
「……私は、そのくらいの気持ちならいらないです」
「ブリジット様?」
「寂しかったのは同じです。私も同じくらい殿下にお会いしたかった。それでもやるべき事がありました。投げ出す事は出来ませんでした。そして殿下の御身を思えば共に行く事は出来ませんでした」
「ブリジット様……」
「もし今殿下を取り戻せたとしてもその後は? 私は常にリリアンヌ様の影に怯えて暮らす事になります。ロ―レン伯爵の仰る通りです。平民の私に王太子妃は務まりません」
「そんな事ありません! ブリジット様はこの国をお救いになったのです! 誰よりもその資格がおありです!」
声を荒げるハイスの胸に触れない程度に掌を近づけた。大きな身体がびくりと跳ねる。
「私のせいでごめんなさい。痛くありませんでしたか?」
「全く問題ありません。これでも鍛えておりますからね。でもあなたが傷付けられるのは我慢なりませんでした」
「庇って下さってありがとうございました。さあ、晩餐会に出席する準備をしなくてはいけませんね」
「後でお迎えに参ります」
「結構ですよ。ハイス様もご準備があるでしょうし、ネリ―に送ってもらいますから」
そう微笑んでみせた。
神殿にある自分の部屋に入るなり扉に鍵を締めた。聖女に選ばれてからここで過ごし、半年留守にした部屋の中は旅立ったあの日のまま。その景色がすぐに視界が歪み出す。そのまましゃがみ込んだ。
「リアム様ッ」
――初めての恋だった。
――本当に愛していた。
――恋しく想っていた。
いつも会いたかったし、待っていてくれていると信じて疑わなかった。瞼に浮かぶのは半年前のリアムばかり。いつも愛していると囁いてくれた。少しでも時間があれば公務の合間を縫ってここへも足を運んでくれた。半年の間に何があったのか本当は聞き出したい。でもリアムが腰を引いたリリアンヌの姿が頭にこびり付いて離れない。今分かる事は、もう心は移ってしまったとう事実だけ。もうあの時の二人には戻れない。愛の言葉も、愛情の籠もった瞳も、頭を優しく撫でてくれる大きな手も、抱き締められた時のあの硬い胸も匂いも、もう全て自分のものではない。その事実がただ苦しかった。
「みんな――! 聖女様のご帰還だよ――!」
一斉に神官達が近づいてくる。そしてあっという間に囲まれてしまった。
「聖女様お帰りなさいませ! 邪気を祓ったというのは本当でしょうか?」
「どのような戦いだったのですか?」
「聖女様の武勇伝をお聞かせ下さい!」
するとハイスは大きな体でブリジットを自分の後ろに引き寄せた。
「お話する機会はちゃんと設けるから道を開けないか!」
「我々だって聖女様のご帰還を心待ちにしていたのですよ! ハイス様ばかりずるいです!」
「ほう、祈りの間に向かうのを邪魔をするという訳だな?」
その言葉に渋々神官達は道を開けていく。ブリジットはくすぐったい気持ちで神官達に頭を下げて手を振った。再び歓声が上がるのを背中で聞きながら小さく笑った。
「申し訳ございません。あの者達も興奮冷めやらぬのでしょう」
「嬉しいですよ。こんな風に歓迎されて私は幸せ者です」
ハイスもまんざらではない溜息をつきながら、神殿の奥へと進んでいった。
静寂が埋め尽くす神殿の最深部。ここまでは外の騒音は一切届かない。祭壇の奥には泉。薄青く光を放つ泉は一切の波紋を起こさず、鏡のように凪いでいた。外より大分ひんやりする空気が浮ついていた心を鎮めてくれる。祭壇の前でウンディ―ネに祈りを捧げる為に膝を突いて手を合わせた。その後ろにはハイスを筆頭とする聖騎士団が一同に並んだ。深呼吸をして心を集中していくと、鏡のようだった水面に波紋が現れ始めた。外側から内側に向かって揺れ始める円は中心分で小さく跳ねている。それを見つめながらブリジットは目を瞑った。
町の宿で出会った医者の言った事が脳裏を過る。確かにもう精霊から浄化をするような力を受け取る事は出来なくなってしまった。それは真実。でも繋がりが失くなってしまった訳ではない。こうして祈りを捧げれば精霊に繋がっているのだと分かる。カップに満たされていた水を飲み干して、今は水滴程しかないような感覚。でも心の中には確かなそのひと雫を感じる。かといって邪気を払えなくなってしまった以上、人々にとっては力を失くしたも同然なのだろう。
――いつかこの水滴が増えて、またカップを満たすまでは。
不意に終わったと感じ手を離して目を開けると、いつの間にか泉の中心には水柱が立っており、目を開けた瞬間に弾けるように飛び散り、粒の細かい雨が降ったように周囲を濡らした。
「さすがですブリジット様。これでウンディ―ネ様への感謝をお伝える事が出来ました」
「皆様のお祈りのおかげです」
ブリジットは後ろを振り返ると、七名の聖騎士団を順番に見ていった。半年前、ここで同じように祈りを捧げてから出発した時にはいた顔が足りない。この遠征で四人の聖騎士団が命を落としてしまった。欠けてしまった仲間を想い、皆が同じ気持ちなのだと分かる。
「皆様がいなければ邪気を祓う事が出来ませんでした。皆様のお陰です。本当にありがとうございました」
「聖女様ッ」
声に詰まる聖騎士団の顔がじんわりと涙で歪むのを感じてハイスを見上げると、いつもの柔らかい微笑みが向いていた。
「ようやく平和が訪れたのです。私達もしばらくこの平和をしっかりと味わいましょう」
その時、祈りの間がある扉が叩かれた。
「団長! 聖女様!」
扉に近い聖騎士団の数人が急いで扉を開いていく。駆け込んできのは神官達。息を切らしたその表情は緊張していた。そして奥にいるブリジットを見つけるなり、申し訳なさそうに近付いてきた。
「どうしたんだ?」
「今こちらに殿下が向かっておられます。何でも聖女様に話があるとかで、お祈りを捧げていると申し上げても聞く耳を持って頂けず……」
「随分な言われようだな。それとも神官は王太子よりも地位が高いと勘違いをしているんじゃなかろうな?」
踵を鳴らし廊下を歩いてきたのはリアムと初老の男、身なりからして貴族だと分かる。そしてその後ろには目を瞠る程の美しい令嬢が控えめに付いて来ていた。皆突然の王太子の訪問に困惑しているのか立ち尽くしていると、リアムが冷えた目で一瞥した。
「まさかここまで軽んじられているとは思いもしなかったぞ」
ハイスが膝を突いたのと同時に集まっていた聖騎士団達もそれに習っていく。ブリジットはその場で膝を折った。
「申し訳ございませんリアム殿下。今は祭事の只中でしたのでご挨拶が遅れた事をお詫び致します。我々神殿に関わる者達は皆王家に忠誠を誓っております」
それでもリアムの機嫌は悪いままだった。
「リアム様、どのような御用でこちらまでいらしたのですか?」
この場で発言するのは自分が最適だと思った。しかしそうではなかったらしい。リアムは今日見た中で一番不機嫌な表情でこちらを見ると近づいてくる。思わず一歩下がると、気がついたハイスが僅かに顔を上げた。
「まずは私に会いに来るべきではなかったか? お前は私の婚約者だろう?」
「ウンディーネ様に祈りを捧げなくてはなりませんでしたので、その後にお伺いしようと思っておりました。リアム様も先程お忙しいと仰って……」
「私のせいか?」
怒気を孕んだ声にびくりと身体を震わせると、ハイスが立ち上がった。
「大事な儀式でございました。どうかご理解下さい」
「……祈りを捧げるのは構わない。だがまもなく晩餐会の時間が迫っているんだ。陛下をお待たせする事は許されないぞ。あとお前もだ、ハイス」
「私もですか?」
「聖騎士団としてではなく、リンドブルムル公爵家の人間として出席するようにとのお達しだ。従兄殿」
「承知しました」
「殿下そろそろ……」
後ろから催促するように声を発した初老の男にちらりと視線を向けたリアムは苦く顔を歪めると、手を伸ばして後ろに控えていた令嬢の手を取った。
「紹介しよう、ロ―レン伯爵とリリアンヌ嬢だ」
「リリアンヌ・ロ―レンです。宜しくお願い致します、聖女様」
「ブリジットと申します。リリアンヌ様はもしやドレスをお見立て下さったお方でしょうか?」
すると白くふっくらとした頬が丸みを帯びて微笑むと、薄く赤い唇が綺麗な弧を描いた。
「お気に召して頂けましたでしょうか?」
「はい、とても美しくて私にはもったいないくらいでした。本当にありがとうございました。リアム様もありがとうございました」
「そこまで喜んで下さると私も嬉しいです、聖女様。それにしてもこうして並ばれるととてもお似合いですわね、リアム様?」
リリアンヌの細い腕がリアム袖に触れる。知り合いにしては少し近くに感じる距離にリアムを見上げると、睨みつけるような視線が返ってきた。
「そのドレスは聖騎士団長の正装と相まって、まるで対のような仕上がりですわ」
「そうでしょうか、確かに聖職の衣装は昔から決まっておりますから色味を揃えればそう見えるかもしれませんね」
リアムは怒っている。しかしその原因が分からない。王の間で半年振りに会ったリアムはただ緊張しているのかと思った。でも今は違う。明らかに機嫌が悪い。それにウンディーネに祈りを捧げるのは聖女と聖騎士団ならば当たり前の事。それなのにそれを蔑ろにしてまで自分に会いに来るべきだというリアムが信じられなかった。会いたかった、寂しかったと再会を喜ばれると思っていた。それでも今向けられているのは鋭い視線のみ。その瞳に映るのは憎悪と言ってもいいかもしれない。怖くなり更に一歩後ろに下がると、祭壇の端にぶつかった。
「大丈夫ですかブリジット様」
手を腰に当てて支えてくれたハイスを見た瞬間、リアムはリリアンヌの腰をぐいと引いた。細い身体と見合わない豊満な胸がリアムの逞しい身体に押し付けられる。ブリジットは信じられない思いで二人の姿に目を見張った。
「晩餐会の前に言っておく事がある。君との婚約は今この時を持って解消する。と言っても、もともと契約書を交わした訳じゃないからわざわざ言う事もないがな」
吐き捨てられた言葉に耳を疑った。視線の先にはリリアンヌと抱き合うような格好のリアム。答えはそれだけで十分だった。
「……分かりました」
辛うじて出た言葉にリアムは怒りを更に募らせたようだった。
「分かりましただと? 随分と聞き分けがいいな。それともこの言葉を待っていたか? 私から別れを告げられるのを!」
「そんな訳ありません! でもリアム様のお心はもう私にはないのでしょう?」
「……心を離したのはお前が先だろう」
「どういう意味でしょうか?」
「もういい。もう終わった事だ。晩餐会で私から陛下に申し上げるからお前は何も言わないように。いいな?」
「そのお話とは別に私からも陛下にご報告したい事がございますが宜しいでしょうか? 改めてお時間を割いて頂くよりも晩餐会での方がいいと思います」
「どんな話だ?」
「今は申し上げられません。陛下の御前で申し上げます」
「聖女様、殿下が聞いていらっしゃるのですよ?」
リリアンヌの涼やかな凛とした声が耳に不快に響く。ただ見ただけのつもりだったが、睨み付けたようになってしまった。
「なんだその顔は! これだから庶民は全く教育がなっていないのだ。聖女も貴族の中から生まれればいいものを、いらぬ争いが生まれるだけではないか! まさか本当に王太子妃になれるとでも思っていた訳ではあるまいな?」
「貴族の方でも信仰があれば聖女に選ばれたでしょう。場所はどこでもいいのです。祈りたいと思った時に祈れば、誰か見ていなくてもウンディーネ様に想いは通じます」
ロ―レン伯爵は顔を真赤にして大股でブリジットの前に来ると手を振り上げた。とっさに目を瞑ったが衝撃は落ちてこない。その代わり視界を埋め尽くすのは大きな背中と鈍い音。ロ―レン伯爵の手はハイスの胸辺りを叩いていた。ちょうどブリジットの背丈くらいの場所だ。しかしハイスは微動だにせずロ―レン伯爵を見下ろしていた。
「平民の出とはいえブリジット様は聖女であらせられます。その御方に手を挙げるなど罰を受けても文句は言えませんよ」
「なぜ私が罰を受けなくてはならないんだ! 聖女にはなんの特権もないのだぞ。殿下との婚約が解消された今はただのいち庶民だ!」
「ならば私を殴った事は? お忘れでしょうか? 私は王族の血を引くリンドブルム公爵家の人間です」
普段は見せない冷たい表現と声はハイスのものではないように感じられた。ロ―レン伯爵の顔がみるみるうちに引き攣っていく。そのやり取りに割って入るようにリアムの声が響いた。
「止めろ。失礼だったとしても伯爵も手まで上げる必要はない。ブリジット、伯爵に詫びろ」
「殿下」
「なんだ、ハイス」
「ここはウンディ―ネ様に最もお近い場所で、ブリジット様は聖女様であらせられます。くれぐれもウンディ―ネ様のお怒りを買わぬようお願い申し上げます」
「王太子を脅迫するのか!」
「ロ―レン伯爵、もういい。用は済んだのだから行くぞ」
離れていく三人の背中を見ながらハイスはブリジットを振り見た。
「これで宜しいのですか?」
「何がですか?」
「婚約解消ですよ! まだ話し合う余地はあります。殿下は離れている間に寂しくてつい……」
「つい近くにいたお方を愛してしまったと?」
「一時的な気の迷いだとしたら、このまま身を引かなくとも宜しいのではありませんか!」
「……私は、そのくらいの気持ちならいらないです」
「ブリジット様?」
「寂しかったのは同じです。私も同じくらい殿下にお会いしたかった。それでもやるべき事がありました。投げ出す事は出来ませんでした。そして殿下の御身を思えば共に行く事は出来ませんでした」
「ブリジット様……」
「もし今殿下を取り戻せたとしてもその後は? 私は常にリリアンヌ様の影に怯えて暮らす事になります。ロ―レン伯爵の仰る通りです。平民の私に王太子妃は務まりません」
「そんな事ありません! ブリジット様はこの国をお救いになったのです! 誰よりもその資格がおありです!」
声を荒げるハイスの胸に触れない程度に掌を近づけた。大きな身体がびくりと跳ねる。
「私のせいでごめんなさい。痛くありませんでしたか?」
「全く問題ありません。これでも鍛えておりますからね。でもあなたが傷付けられるのは我慢なりませんでした」
「庇って下さってありがとうございました。さあ、晩餐会に出席する準備をしなくてはいけませんね」
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「結構ですよ。ハイス様もご準備があるでしょうし、ネリ―に送ってもらいますから」
そう微笑んでみせた。
神殿にある自分の部屋に入るなり扉に鍵を締めた。聖女に選ばれてからここで過ごし、半年留守にした部屋の中は旅立ったあの日のまま。その景色がすぐに視界が歪み出す。そのまましゃがみ込んだ。
「リアム様ッ」
――初めての恋だった。
――本当に愛していた。
――恋しく想っていた。
いつも会いたかったし、待っていてくれていると信じて疑わなかった。瞼に浮かぶのは半年前のリアムばかり。いつも愛していると囁いてくれた。少しでも時間があれば公務の合間を縫ってここへも足を運んでくれた。半年の間に何があったのか本当は聞き出したい。でもリアムが腰を引いたリリアンヌの姿が頭にこびり付いて離れない。今分かる事は、もう心は移ってしまったとう事実だけ。もうあの時の二人には戻れない。愛の言葉も、愛情の籠もった瞳も、頭を優しく撫でてくれる大きな手も、抱き締められた時のあの硬い胸も匂いも、もう全て自分のものではない。その事実がただ苦しかった。
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