聖女だった私

山田ランチ

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18 喪失と後悔

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 いつの間にか寝入っていた執務室の机の上で、リアムはぼんやりとしたまま目頭を押すと窓の下に視線を向けた。窓の外には中庭が広がっている。もちろん行き交う人々は今はいない。
 真夜中の城は静かなものだった。大勢の人々が住んでいるとは思えない程に静まり返り、自分だけが存在しているような気分になってしまう。暗くなり始めた部屋の中では油が切れかかったランプの火が今にも消えそうに小さくなっていた。

 ブリジットが消えてから八年が過ぎていた。

 あの時、単身で捜索に出たハイスは二ヶ月後なんの手がかりも掴めないまま消沈して戻ってきた。ハイスに遅れること数日、リアムも兵を動かして捜索をしたがやはり見つける事は叶わなかった。それからというもの、後悔の念に駆られ隣国にブリジットが入国していないか使者を出したが、帰ってきた返事は来ていないというそっけないものだった。
 当然王家が探している女性が聖女だという事も知られ、保護し敬うべき対象を蔑ろにしたのではという噂が立つようになっていった。それでも、もしかしたらブリジットを匿っているのではと思い、隣国に間者も送り込んだやはりブリジットの消息は分からなかった。椅子にもたれかかると、いつもの頭痛が酷くなっていく。ブリジットの事を考えると始まるこの頭痛はもう何年も続いている。それでも考える事を止められる訳もなく、結局収まるまでひたすらに耐えるしかなかった。

「ブリジット……」

 呟きは誰にも聞かれる事はなく、静かな夜に飲み込まれていった。

「失礼します、やはりこちらでしたか」 

 声の主に体調不良を悟られぬように額を押さえていた手をとっさに離す。入ってきたマチアスは困ったように眉尻を下げながら部屋の中に入ってきた。

「いっそこの部屋を私室に改築したらどうです? 少しでもちゃんと横になって眠らないと疲れが取れませんよ。ちなみにソファは駄目ですからね」

 広い肩に付くほどの金髪を無造作にかきあげながら近づいてくるその姿は、もうすっかり男らしい姿だった。ほんの少し前までは子供だと思っていた弟をぼんやりと見つめながら、心に浮かんだ事をぽつりと呟いていた。 

「お前はどうして結婚をしないんだ? 女達が放っておかないだろ」
「なんです唐突に。もしや寝ぼけています?」

 笑いながら机の上に広がっている書類の片付けを始めるマチアスの手首を半ば無意識に掴んだ。

「どうかしました?」
「……今日、宝石商の娘に別れを告げてきた」

 マチアスは何を答えるでもなく書類を片付ける手を止めて頷いた。

「あの娘は私を愛していたそうだ。まだ十六やそこらだぞ。本気で私に愛されていると思っていたのだろか。正直呆れてしまった」
「若い娘が王族に見初められれば夢を見てしまうものですよ。王子様に愛されて、王妃になる夢を。叶わない儚い夢です」

 乾いた笑い声を上げながら再び片付けを始めようとするその手首を掴む手に力が籠もる。そして胡乱げにマチアスを捉えた。

「他の女は私に夢中になって愛を乞うのに、何故あの女だけは違ったんだ。私が唯一愛していると告げた女は私を裏切り消えてしまった」
「もう八年も経っておりますよ」
「そんな事は分かっている! 分かっているが、あの日ブリジットを一人行かせた夜を繰り返し夢に見るんだ。手を伸ばそうとしても声を出そうとしても一切動けずに、ブリジットが馬車に乗って行ってしまう夢を」
「あれだけ探しても見つからなかったのです。きっともう……」
「止めろ! ブリジットは大精霊の加護を持つ聖女だ。きっとどこかで生きている」
「生きていたとしても、女性が独り身でいるとは思えません。残酷なようですがどこかで結婚でもして子を生んでいるとは思いませんか?」

 リアムは返事をしないまま一点を見つめていた。

「兄様には妻も子もいるのです。ダニエル様にはまだお会いしたくありませんか? 唯一兄様の血を受け継いだ後継者ですよ。お寂しく過ごしておられます」
「あれがそう言ったか?」
「いえいえ。ダニエル様はとても賢くご聡明であられるのでそういった事は何も。ですが時折、兄様を遠目から見ている時はございます」
「お前が側にいるのだから問題ない。もしかして、お前が結婚しないのはダニエルが原因か?」
「違いますよ。それよりもせめて母親に会わせてやってはいかがでしょうか」

 すると今日一番の嫌悪感を顕にした表情で拳を握り締めた。手首を掴まれているマチアスはやや顔を歪ませたが手を振り解く事はしなかった。

「あれは気が触れているんだ。ダニエルを生んだ直後からブリジットの亡霊を見るようになったんだからな。ブリジットもどうせ化けて出てくるなら私の元に出てくればいいものを」

 とうとうランプの光は消え、雲が過ぎて月を隠していく。次第に暗くなっていく部屋の中でマチアスは手首を掴む手にもう片方の手を重ねた。

「愛妾ならまだしも、王太子妃がいつまでも遠く離れた地に隔離されているのはいずれ問題になります。現に良くない噂が立っておりますからね。もし宜しければリリアンヌ様の事も私に任せて頂けませんか?」
「どうするつもりだ? ロ―レン家も面倒だぞ。私に愛人の噂が立つ度に口を出してくる」
「ローレン伯爵も娘の気が触れているとは信じたくないのでしょう。それに離縁はなんとしても避けたいでしょうしね」
「……もう面倒になってきた。いっそ潰してしまおうか」
「ロ―レン伯爵家は昔から貴族同士の繋がりを重んじる家門ですから、刺激はしない方が宜しいかと。ですからリリアンヌ様を王城に呼び戻すのです。そしてダニエル様とご一緒に過ごして頂きます。お近くでお会いになっていないので兄様はお気づきではないかもしれませんが、兄様とダニエル様は瓜二つですよ。ダニエル様をお側に置けばリリアンヌ様も正気を取り戻すかもしれませんし、ダニエル様も健やかに成長すると思いませんか? リリアンヌ様のご状態も落ち着けばいずれ第二子も……」
「あれを抱く気はもうない! 勘弁してくれ。あの時の私はどうかしていたんだ」

 リアムは顔を顰めたまま小さく頷いた。

「私にダニエルしか子がいないのは事実だ。その点に関してはリリアンヌを褒めてやらなくてはな。全てお前に任せる。……いい加減甥なのだから呼び捨てにしろ」
「それは出来ません。ダニエル様は王位継承権第二位のお方ですから」
「お前はなぜ放棄なんてしたんだ? 俺は別にお前と争うつもりも排除する気も毛頭なかった」
「後悔はしておりませんよ。私は正当な血筋ではありませんから当然の事をしたまでです」

 月を隠していた雲が流れて再び室内は柔らかい光で視界が自由になっていく。リアムは掴んでいた手を離すと椅子から立ち上がった。
「部屋に戻るからお前も早く休め。……遅くまで悪かったな」

 最後の言葉は小さく掠れて聞き取りにくかった。それでもマチアスは嬉しそうに微笑むと、リアムの後に続いて部屋を出て行った。
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