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29 君は常に誰かのもの
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「ハイス様はお戻りになるかしら」
窓の外を見つめていたブリジットは、なんとも歯がゆい思いで過ごしていた。
三ヶ月という短い期間で今までウンディーネでも見つけられなかった物を見つけようとしているというのに、こんな所に閉じ込められている訳にはいかない。それでも八年前に勝手に出ていった手前、今また同じ事をする訳にはいかなかった。
「もう少ししたら戻ってくるんじゃない? それにしてもお腹が減ったよね。ブリジットは大丈夫? 僕だけでも食堂に行って何か貰って来ようか?」
「駄目よネリー! ハイス様と約束したでしょう。戻るまでここを開けないって」
「そうだけどさぁ。もうリアム殿下も帰ったでしょ? だってほら、門の周りが静かだもん」
「でも油断出来ないわ。相手は王太子殿下だもの」
「大丈夫大丈夫! ハイス様は神官長だからね。何があってもブリジットを守ってくれるよ」
窓から離れるとブリジットはネリーの横にぴたりと座った。
「それが問題なのよ。きっとハイス様は八年前の責任を感じて絶対に守ってくれるはずだわ。でもそれではハイス様の身を危険に晒す事になると思うの。いくら神官長で公爵家当主といえど相手は王子なのよ。もし陛下がリアム様の味方につけば、いくらハイス様でも無事ではすまないわ」
「じゃあどうするのさ。このままずっと神殿に軟禁状態って事もあり得るからね。そうしたらウンディーネ様の探し物は見つからないよ」
大きな欠伸をしながら伸びをするネリーの肩を自分の方に傾けさせると、ネリーは縋り付くように身体を寄せてきた。
「ネリーはもう寝ていいよ」
「大丈夫、僕も、ちゃんと起きて、いられるから……」
ネリーの寝付きの良さはとてつもなくよい。すっかり寝息を立て始めたネリーの頭をゆっくり撫でながら、ブリジットはやりきれない思いで溜息を付いた。
「絶対にあなたのお母様を死なせはしないからね」
猶予は三ヶ月。
それまでに城内にあると思われるウンディーネの力の結晶である石を探さなくてはいけない。恐らく持っているのは王族か宝物庫だろう。でもそんな場所に近づくには王族に近づくしか方法はない事はここに来る前から分かっていた。そしてその方法も。
――リアム様にもう一度お会いする日が来るなんて。
あの日、今生の別れだと思ってリアムの元を離れた。目の前が真っ暗で何も考えられないまま馬車に乗り込んだ。でも今は思い出してもほとんど胸に痛みはない。あの時感じた絶望も、時が経てば風化していく。気持ちとはそんなものなのだと八年の年月が物語っていた。あれだけ愛した人だというのに今はその感情が他人事のように思えている。遠くから傍観しているような不思議な気持ちになるのは、きっと八年という歳月の中で心が癒やされたのだろう。だからこそ、ネリーとグリンの大切な人を自分が奪いたくはなかった。そして三ヶ月経てばまたここを去らなくてはいけない。ハイスの事を思うと今度は胸が握られるように苦しくなった。
「きっとまたご心配をお掛けしてしまうわね。でも今度はあの時とは違う。ちゃんとさよならが言えるんだから」
その時、部屋の扉が叩かれた。
「まだ起きておられますか?」
その声にネリーをそっとソファに寝かせると、音を最小限にして扉を開いた。
「遅くなって申し訳ございません。夜も遅いのですが食事を持って参りました」
「大丈夫でしたか? 何事もありませんでしたか?」
ブリジットはカートを押すハイスの身体を隅々まで見ると、我に返ったようにカートに視線を留めた。
「申し訳ありません! ハイス様にこのような物を運ばせてしまって! 私が代わります」
「大丈夫ですよこれくらい。お腹が減っているでしょうから冷めないうちに頂きましょう」
「食事を取られていないのですか?」
「一緒に頂こうと思っていましたから。宜しいですか?」
「もちろんです!」
せめて配膳くらいはと思い手を伸ばすもやんわりと断られてしまう。結局二人分の食事はハイスの手によって綺麗に並べられた。
「シチューにパン、それと少しですがチーズも持って参りました。ネリーはぐっすりのようですね。いつもなら食べ物の匂いがすると飛び起きるのに」
「もう少ししたら起こしますから今は寝かせてあげて下さい」
しかしネリーのいない食卓はとても静かなものだった。緊張しているのを隠すように食事をしていると、お腹が減っていると勘違いをしたハイスが更に追加のパンを取ってくれる。それがまた恥ずかしくなってしまい、そっとスプーンを置いてしまった。
「いかがなさいました? まだおかわりもありますよ。ネリーの分もちゃんとありますから」
何気なく鍋を覗き込んだハイスに思わず視線が釘付けになってしまう。八歳年を重ねたハイスは色気を放つ大人へと変貌していた。こうしてまじまじと見るとそれがよく分かる。そして自分の容姿との差にも気がついていた。
――時が止まったままのこの姿はどう映っているのだろう。
「もうお腹一杯です、ありがとうございました。あの、ハイス様はこの八年どのように過ごされていたのでしょうか?」
我ながら質問が大雑把過ぎたかと思ったが、ハイスは嫌な顔一つせずに答えてくれた。
「八年と言葉にすると、とてつもなく長い年月に感じますね。邪気はなくなりましたが、それ以外の問題も山積みなのだと神官長になって思い知らされました。邪気や戦争の被害にあった人々の保護や、神殿がない地域への神殿の建設も一筋縄ではいきませんでした。神殿を建てるお金があるのなら道の整備や食料を持って来いと散々言われましたよ」
「命が脅かされている状況ではそうなるのも無理ないかもしれませんね。でもその中で祈りを取り入れる事が出来たら、きっと心穏やかになるのにもどかしいです」
「ブリジット様ならそう仰ると思っておりました。いつもブリジット様ならどう動かれるだろうと思いながら生きてきたのです。ですから今の私があるのもブリジット様のおかげだと思っています」
「そんな! 大げさです、私はハイス様にご迷惑ばかりお掛けてして……」
蝋燭の光に照らされ、机の上で手を組むハイスは目眩がする程素敵に見える。ブリジットは視線を合わせる事が出来なくて俯いてしまった。
「顔を上げて下さい。あなたがご無事だったと確かめさせて下さい」
「ちゃんと目の前におりますから大丈夫ですよ!」
照れ隠しのように強めになってしまった言葉にも、ハイスは笑って許してくれる。その時、心臓の奥に甘い痛みが走った気がした。
「ブリジット様? どうかなさいましたか?」
「ハイス様はどうしてご結婚をされておられないのですか?」
「……私が未婚だとよく分かりましたね」
「だって、今の話を聞く限り家庭を持っているようには思えませんでしたから」
「確かに潤いのない生活ではありましたね。……ですが私もこの年にしてようやく婚約する事になりました」
ブリジットは言葉が出ないまま、伏せていた顔を上げた。蝋燭の炎のせいか、ハイスの表情はどこか哀愁が漂っている。今度はハイスが俯く番だった。
「近々正式な婚約となります」
「婚約、ですか。結婚式はすぐには挙げられないのですか?」
「色々と準備がありますので、さすがにすぐにという訳には参りません」
「そうですよね、貴族同士のご結婚ですものね。あの、どういったお方なのかお伺いしても? ハイス様が結婚を決めたお方に少し興味があります」
するとハイスは少しの間思案した後、納得したように頷いた。
「……どこかブリジット様に似ているかもしれません。容姿がという訳ではなく、凛とした佇まいとか、真っ直ぐなところとか、後は物に執着しない所でしょうか。ブリジット様もあまり宝飾品や服にはご興味がおありになりませんからね」
「私は平民なので当たり前ですよ! 一緒にしたら申し訳ないです」
「いずれご紹介致しますよ」
「楽しみにしておりますね」
「ブリジット様はどのようにお過ごしだったのですか? 精霊の住処とやらがとても気になりますが、ブリジット様がお元気そうなご様子でしたのできっと素敵な所なのでしょう」
ブリジットは膝の上で拳を握り締めたまま、半ば無意識に答えていた。
「そうですね。とても素敵な所です。夫もおりますし、ネリー達や友人も出来たので穏やかに過ごしていました」
「……夫?」
「実は私も結婚しているんです。といってもつい先日の事ですが」
「先日? 相手は? どういったお相手なのですか!」
「とても高貴なお方です。思いやりがあり、常に私達を見守って下さっております」
「高貴……ということは貴族でしょうか。私も知っているお相手ですか?」
「ご存知ですが私からは申し上げられません。ですが幸せに暮らしておりますのでどうかご安心下さい」
「……精霊の住処にいたというのにどうやって出会われたのです?」
「あの場所は全く閉ざされた場所という訳ではないんです。行き来している者達もいるのですよ」
「長らく神殿住まいをしていますが、今まで精霊の住処に出入りしている者がいるとは聞いた事がありません! もし本当にいるのならそれは神殿に関わる者という事でしょうか?」
ブリジットはこれ以上は答えられずに頷いた。ハイスは戸惑っていたが、すぐに表情を変えて頭を下げた。
「沢山質問してしまい申し訳ございませんでした。……それと、遅くなりましたがご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。ハイス様もご婚約、おめでとうございます」
ハイスが皿を片付けて部屋を出ていく間、ブリジットは何も言う事が出来なかった。ただウンディーネとの事を口にしてしまった後悔だけが心を占めていた。
「カートは置いていきます。ネリーが起きたら食べさせて下さい」
ブリジットはハイスが出ていくと再び扉に鍵を掛けた。そのままずるりと座り込む。そして大きく、深い溜息をついた。
「なんであんな事を言ったのよ」
ハイスが婚約したと聞いた時、頭の中が真っ白になってしまった。そしてその後に続いた言葉に何故か怒りが湧いてきたのだった。
――ブリジット様に似ているかもしれません。
婚約者が自分に似ているという言葉の不快感に蓋をして立ち上がった。その先にある感情を覗けば、もしかしたらその正体が見えるかもしれない。それでもそれ以上は知りたくなかった。
「どちらにしてもあと三ヶ月なのよ」
不意に涙が溢れていく。それを力任せに拭き取るとネリーの隣りに戻り、蹲るようにして膝を抱えた。ハイスがずっと自分を気にかけていてくれたのは聖女だったから。神殿に務める信仰深い人だから聖女をどこまでも敬ってくれる。ただそれだけだとも言えるし、そこまでしてくれる人がハイスの他にはいないだろうとも思う。むしろ絶対に裏切る事のない純粋な信仰心であり、礼をする事はあってもこんな嫌な気持ちを抱く方がおかしいのだ。
ハイスの婚約を知った時、半ば無意識に出た言葉。それが“夫がいる”だった。
「まるで対抗したみたいじゃない……」
情けなくて恥ずかしくて、ブリジットは目を膝頭へと押し当てた。
「ブリジット様が結婚している?」
片付けた皿を手に持ちながら暗い廊下を歩いていたハイスは、とうとう立ち止まってしまった。
婚約の事を話した時には驚いてはいたものの、あまり感情の動きは見えなかった。むしろ平静を装い伝えたハイスの方が気が気でなかった。汗が吹き出していたし心臓が激しく鳴っていた。そうして盗み見たブリジットの反応で、あまり関心がないのだと悟った。そして続けて伝えられた言葉に頭が真っ白になってしまった。
「ブリジット様に夫がいる……」
この国のどこかにブリジットを妻にした男がいる。自分も知っている男で神殿に関わる貴族。思い返せば数人は頭に顔が出てくる。でもその者達はすでに皆妻がいた。それ以外にまだ貴族で神官になった者ももちろんいるかもしれない。ハイスとて国中の神殿を足で見て回る事は叶わず、知らない者達もいるのだ。
「そうだ、確か名簿があったはずだ」
また進み始めた足が再び止まる。そしてその場にしゃがみ込んだ。
「調べてどうするつもりなんだ。顔や家柄が分かったとして、私はどうしたいんだ……」
皿を床に置いて髪を掻き毟る。どろりとした感情が滲むように広がっていくのを押し止めるように、勢いよく立ち上がった。
「ブリジット様がご無事ならそれでいいはずだったろ。第一考えなかった訳じゃない。八年もあったんだ。ブリジット様はお美しいお方だから結婚し子を設けているかもしれないと。……子供か。ブリジット様のお子……」
フラフラと歩き出しながら、ハイスは暗い廊下を食堂へと曲がっていった。
窓の外を見つめていたブリジットは、なんとも歯がゆい思いで過ごしていた。
三ヶ月という短い期間で今までウンディーネでも見つけられなかった物を見つけようとしているというのに、こんな所に閉じ込められている訳にはいかない。それでも八年前に勝手に出ていった手前、今また同じ事をする訳にはいかなかった。
「もう少ししたら戻ってくるんじゃない? それにしてもお腹が減ったよね。ブリジットは大丈夫? 僕だけでも食堂に行って何か貰って来ようか?」
「駄目よネリー! ハイス様と約束したでしょう。戻るまでここを開けないって」
「そうだけどさぁ。もうリアム殿下も帰ったでしょ? だってほら、門の周りが静かだもん」
「でも油断出来ないわ。相手は王太子殿下だもの」
「大丈夫大丈夫! ハイス様は神官長だからね。何があってもブリジットを守ってくれるよ」
窓から離れるとブリジットはネリーの横にぴたりと座った。
「それが問題なのよ。きっとハイス様は八年前の責任を感じて絶対に守ってくれるはずだわ。でもそれではハイス様の身を危険に晒す事になると思うの。いくら神官長で公爵家当主といえど相手は王子なのよ。もし陛下がリアム様の味方につけば、いくらハイス様でも無事ではすまないわ」
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「ネリーはもう寝ていいよ」
「大丈夫、僕も、ちゃんと起きて、いられるから……」
ネリーの寝付きの良さはとてつもなくよい。すっかり寝息を立て始めたネリーの頭をゆっくり撫でながら、ブリジットはやりきれない思いで溜息を付いた。
「絶対にあなたのお母様を死なせはしないからね」
猶予は三ヶ月。
それまでに城内にあると思われるウンディーネの力の結晶である石を探さなくてはいけない。恐らく持っているのは王族か宝物庫だろう。でもそんな場所に近づくには王族に近づくしか方法はない事はここに来る前から分かっていた。そしてその方法も。
――リアム様にもう一度お会いする日が来るなんて。
あの日、今生の別れだと思ってリアムの元を離れた。目の前が真っ暗で何も考えられないまま馬車に乗り込んだ。でも今は思い出してもほとんど胸に痛みはない。あの時感じた絶望も、時が経てば風化していく。気持ちとはそんなものなのだと八年の年月が物語っていた。あれだけ愛した人だというのに今はその感情が他人事のように思えている。遠くから傍観しているような不思議な気持ちになるのは、きっと八年という歳月の中で心が癒やされたのだろう。だからこそ、ネリーとグリンの大切な人を自分が奪いたくはなかった。そして三ヶ月経てばまたここを去らなくてはいけない。ハイスの事を思うと今度は胸が握られるように苦しくなった。
「きっとまたご心配をお掛けしてしまうわね。でも今度はあの時とは違う。ちゃんとさよならが言えるんだから」
その時、部屋の扉が叩かれた。
「まだ起きておられますか?」
その声にネリーをそっとソファに寝かせると、音を最小限にして扉を開いた。
「遅くなって申し訳ございません。夜も遅いのですが食事を持って参りました」
「大丈夫でしたか? 何事もありませんでしたか?」
ブリジットはカートを押すハイスの身体を隅々まで見ると、我に返ったようにカートに視線を留めた。
「申し訳ありません! ハイス様にこのような物を運ばせてしまって! 私が代わります」
「大丈夫ですよこれくらい。お腹が減っているでしょうから冷めないうちに頂きましょう」
「食事を取られていないのですか?」
「一緒に頂こうと思っていましたから。宜しいですか?」
「もちろんです!」
せめて配膳くらいはと思い手を伸ばすもやんわりと断られてしまう。結局二人分の食事はハイスの手によって綺麗に並べられた。
「シチューにパン、それと少しですがチーズも持って参りました。ネリーはぐっすりのようですね。いつもなら食べ物の匂いがすると飛び起きるのに」
「もう少ししたら起こしますから今は寝かせてあげて下さい」
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「もうお腹一杯です、ありがとうございました。あの、ハイス様はこの八年どのように過ごされていたのでしょうか?」
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「八年と言葉にすると、とてつもなく長い年月に感じますね。邪気はなくなりましたが、それ以外の問題も山積みなのだと神官長になって思い知らされました。邪気や戦争の被害にあった人々の保護や、神殿がない地域への神殿の建設も一筋縄ではいきませんでした。神殿を建てるお金があるのなら道の整備や食料を持って来いと散々言われましたよ」
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「ブリジット様ならそう仰ると思っておりました。いつもブリジット様ならどう動かれるだろうと思いながら生きてきたのです。ですから今の私があるのもブリジット様のおかげだと思っています」
「そんな! 大げさです、私はハイス様にご迷惑ばかりお掛けてして……」
蝋燭の光に照らされ、机の上で手を組むハイスは目眩がする程素敵に見える。ブリジットは視線を合わせる事が出来なくて俯いてしまった。
「顔を上げて下さい。あなたがご無事だったと確かめさせて下さい」
「ちゃんと目の前におりますから大丈夫ですよ!」
照れ隠しのように強めになってしまった言葉にも、ハイスは笑って許してくれる。その時、心臓の奥に甘い痛みが走った気がした。
「ブリジット様? どうかなさいましたか?」
「ハイス様はどうしてご結婚をされておられないのですか?」
「……私が未婚だとよく分かりましたね」
「だって、今の話を聞く限り家庭を持っているようには思えませんでしたから」
「確かに潤いのない生活ではありましたね。……ですが私もこの年にしてようやく婚約する事になりました」
ブリジットは言葉が出ないまま、伏せていた顔を上げた。蝋燭の炎のせいか、ハイスの表情はどこか哀愁が漂っている。今度はハイスが俯く番だった。
「近々正式な婚約となります」
「婚約、ですか。結婚式はすぐには挙げられないのですか?」
「色々と準備がありますので、さすがにすぐにという訳には参りません」
「そうですよね、貴族同士のご結婚ですものね。あの、どういったお方なのかお伺いしても? ハイス様が結婚を決めたお方に少し興味があります」
するとハイスは少しの間思案した後、納得したように頷いた。
「……どこかブリジット様に似ているかもしれません。容姿がという訳ではなく、凛とした佇まいとか、真っ直ぐなところとか、後は物に執着しない所でしょうか。ブリジット様もあまり宝飾品や服にはご興味がおありになりませんからね」
「私は平民なので当たり前ですよ! 一緒にしたら申し訳ないです」
「いずれご紹介致しますよ」
「楽しみにしておりますね」
「ブリジット様はどのようにお過ごしだったのですか? 精霊の住処とやらがとても気になりますが、ブリジット様がお元気そうなご様子でしたのできっと素敵な所なのでしょう」
ブリジットは膝の上で拳を握り締めたまま、半ば無意識に答えていた。
「そうですね。とても素敵な所です。夫もおりますし、ネリー達や友人も出来たので穏やかに過ごしていました」
「……夫?」
「実は私も結婚しているんです。といってもつい先日の事ですが」
「先日? 相手は? どういったお相手なのですか!」
「とても高貴なお方です。思いやりがあり、常に私達を見守って下さっております」
「高貴……ということは貴族でしょうか。私も知っているお相手ですか?」
「ご存知ですが私からは申し上げられません。ですが幸せに暮らしておりますのでどうかご安心下さい」
「……精霊の住処にいたというのにどうやって出会われたのです?」
「あの場所は全く閉ざされた場所という訳ではないんです。行き来している者達もいるのですよ」
「長らく神殿住まいをしていますが、今まで精霊の住処に出入りしている者がいるとは聞いた事がありません! もし本当にいるのならそれは神殿に関わる者という事でしょうか?」
ブリジットはこれ以上は答えられずに頷いた。ハイスは戸惑っていたが、すぐに表情を変えて頭を下げた。
「沢山質問してしまい申し訳ございませんでした。……それと、遅くなりましたがご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。ハイス様もご婚約、おめでとうございます」
ハイスが皿を片付けて部屋を出ていく間、ブリジットは何も言う事が出来なかった。ただウンディーネとの事を口にしてしまった後悔だけが心を占めていた。
「カートは置いていきます。ネリーが起きたら食べさせて下さい」
ブリジットはハイスが出ていくと再び扉に鍵を掛けた。そのままずるりと座り込む。そして大きく、深い溜息をついた。
「なんであんな事を言ったのよ」
ハイスが婚約したと聞いた時、頭の中が真っ白になってしまった。そしてその後に続いた言葉に何故か怒りが湧いてきたのだった。
――ブリジット様に似ているかもしれません。
婚約者が自分に似ているという言葉の不快感に蓋をして立ち上がった。その先にある感情を覗けば、もしかしたらその正体が見えるかもしれない。それでもそれ以上は知りたくなかった。
「どちらにしてもあと三ヶ月なのよ」
不意に涙が溢れていく。それを力任せに拭き取るとネリーの隣りに戻り、蹲るようにして膝を抱えた。ハイスがずっと自分を気にかけていてくれたのは聖女だったから。神殿に務める信仰深い人だから聖女をどこまでも敬ってくれる。ただそれだけだとも言えるし、そこまでしてくれる人がハイスの他にはいないだろうとも思う。むしろ絶対に裏切る事のない純粋な信仰心であり、礼をする事はあってもこんな嫌な気持ちを抱く方がおかしいのだ。
ハイスの婚約を知った時、半ば無意識に出た言葉。それが“夫がいる”だった。
「まるで対抗したみたいじゃない……」
情けなくて恥ずかしくて、ブリジットは目を膝頭へと押し当てた。
「ブリジット様が結婚している?」
片付けた皿を手に持ちながら暗い廊下を歩いていたハイスは、とうとう立ち止まってしまった。
婚約の事を話した時には驚いてはいたものの、あまり感情の動きは見えなかった。むしろ平静を装い伝えたハイスの方が気が気でなかった。汗が吹き出していたし心臓が激しく鳴っていた。そうして盗み見たブリジットの反応で、あまり関心がないのだと悟った。そして続けて伝えられた言葉に頭が真っ白になってしまった。
「ブリジット様に夫がいる……」
この国のどこかにブリジットを妻にした男がいる。自分も知っている男で神殿に関わる貴族。思い返せば数人は頭に顔が出てくる。でもその者達はすでに皆妻がいた。それ以外にまだ貴族で神官になった者ももちろんいるかもしれない。ハイスとて国中の神殿を足で見て回る事は叶わず、知らない者達もいるのだ。
「そうだ、確か名簿があったはずだ」
また進み始めた足が再び止まる。そしてその場にしゃがみ込んだ。
「調べてどうするつもりなんだ。顔や家柄が分かったとして、私はどうしたいんだ……」
皿を床に置いて髪を掻き毟る。どろりとした感情が滲むように広がっていくのを押し止めるように、勢いよく立ち上がった。
「ブリジット様がご無事ならそれでいいはずだったろ。第一考えなかった訳じゃない。八年もあったんだ。ブリジット様はお美しいお方だから結婚し子を設けているかもしれないと。……子供か。ブリジット様のお子……」
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