哲学科院生による読書漫談

甲 源太

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武士道とエロス(2)

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寛文十年(1670) 5月25日、江戸は下谷御徒町付近である敵討がおきました。
片岡平八郎(二十歳)が伊藤甚之助を殺害、両名とも庄内藩を脱藩した身でありました。
尋問によると、二人は小姓を務める同僚で三年前の深夜、伊藤が同じく小姓の町野市三郎の寝首をかいて出奔。これを知った片岡は町野と「義兄弟の契り」を結んでいたので、すぐさま藩に敵討を申請したが許可が下りず、やむなく自身も脱藩して伊藤を探し回っていたとのこと。そして苦節三年、上野寛永寺で伊藤を見つけた片岡は、門の外で声を掛けて仇を討ち果たした次第にございます。

見事敵討に成功した片岡は江戸中のヒーローとなりましたが、正式な手続きを踏んでいなかった彼は惜しまれつつも切腹となってしまいました。

江戸初期までの武士の世界では男色が流行、武士道の華とさえ言われ、片岡のように兄弟分=恋人の仇を討ったことは「花咲ける衆道敵討」と絶賛されたのです。

この片岡から17年後の貞亨四年(1687)、六千石の旗本、水野長門守に小姓として召抱えられていた小姓が一人殺害されました。被害者の名については柴崎太兵衛の次男としか伝わっていません。加害者の名も不明。
と、話はここからでありまして、被害者である小姓の草履取りであった男が主人の敵討をしたいと、父、柴崎太兵衛のもとを訪れたのです。そこで「願わくは主人の刀を我に給われよ」と言って亡主の刀を譲り受けました。
当時の慣例で自分の子、弟の敵討は許されなかったので柴崎太兵衛は喜び、柴崎の姓すらも与えて柴崎伝兵衛と改名させてしまったそうです。
そして半年ほど経ったのちに、小日向改替町(現在の新宿区改代町)で犯人と遭遇。相手が抜こうとするのをそれより早く頭部に向かって斬りつけ、さらに袈裟切り、相手は崩れ落ちました。
以上のように敵を討って「誠の武士」と称えられて一躍スターとなり、先ほどの片岡とは違いきっちりと事務手続きをしていた伝兵衛は松浦藩に召抱えられました。

当時の記録には「伝兵衛、忠義の勇之有るといえども、実は主従和合のちなみあり」と伝えられていて、江戸時代前期まで主人と草履取りが肉体関係を結ぶことが珍しくなかったのです。
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