朝がくるまで待ってて

詩条夏葵

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15 夜の手前

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 窓を開けたら、夏の夕暮れらしい空が広がっていた。
 高い空に、独特の形をした雲。青い色と、遠くにいくにつれ赤みがかった色。

 どこか幻想的な美しい景色を、呪うように見ていた十歳の私の幻覚――いや残像が見えた。
 あの頃の私は、まだこの部屋にいる。主を失った兄の部屋に。

 志岐がやってきても、もう私はこの部屋を追い出されることはない。我が物顔で、いつまでも入り浸っていられる。
 でも、私が望んでいたのは、そんなものじゃない。

「兄さんがいない世界に、意味なんてないのよ……」
 小さく呟いたのは、八年前から幾度も繰り返してきた言葉だった。

 窓から身を乗り出して、雨避けの部分を掴む。
 久しぶりに履いた長いスカートの裾が邪魔だったけど、なんとか屋根までよじ登ることができた。

 吹き抜けてきた風に、赤みがかった栗色の、短い髪が舞い上がる。

 髪を男の子みたいに短くするのは、実はこれがはじめてじゃない。
 まだ幼稚園に通っていた頃、自分でハサミを使って、長かった髪をばっさり切ったことがある。

 ボーイスカウトに入った兄の制服姿がかっこよくて、兄のようになりたくて、男の子みたいになれば兄と同じ制服が着られると思ったのだ。
 大騒ぎする母さんをよそに、兄さんは『どうしていきなり髪を切ったんだい?』と優しく問いかけてくれて、私は正直に事情を話した。

 兄さんは笑いながら、女の子でもボーイスカウトに入れるんだよ、と教えてくれた。
 ボーイ、と名前がついているからには男の子でないと駄目だと思い込んでいた私はびっくりして、馬鹿なことをしてしまった自分が恥ずかしくなって泣き出した。

 そんな私の短い髪を、兄さんはそっと撫でてくれた。
『でも小夜子、短いのも似合うなぁ。かっこいいよ』
 大きくなってから思い返せば、どう考えてもそれはお世辞だったのだろうが、当時の私は、馬鹿みたいに嬉しくて、誇らしくなった。

 結局、髪を短くしたって男の子にはなれなくて、兄さんみたいになるのはもっと無理だって気付いたから、また髪を伸ばしてしまったけど。

 翻るスカートの裾を押さえて屋根の上に座り、光り始めたばかりの星を見上げる。
 死んだ人は星になる、なんて話もあったっけ。兄さんがこの空のどこかの星になっているのなら、きっと笑ってる。

 ――また、男の真似事をして、失敗して中途半端に放り出してしまった。
「……かっこよくなんてないわよ」
 ねぇ兄さん、兄さんがもし生きていたら、私たち、どんな兄妹になってた?

 兄さんは、大人になったらもっとカッコよくなってたでしょうね。あの時は、今の私と同じぐらいの身長はあったはずだけど、もう少し伸びていたかしら?
 一緒に街を歩けば、素敵な兄妹ね、と言われるようになっていたかしら? それとも、カップルに間違われるようになっていたかしら?

 私は……兄さんがいたら、もっと可愛げのある女になれてた?

 自分が可愛げのない女であることは承知している。
 でも、『可愛いよ』と言ってくれる兄さんがいないのに、可愛くなっても意味がないと思っていたから、そんなことはどうでもよかった。
 ただ、今の私を空の上から兄さんが見ていてくれるなら、ちょっと、いやだいぶ恥ずかしいかもしれない、と思う。

 弱々しく自嘲の笑みを浮かべた私の頭の上を、夏の熱気を孕んだ風が吹き抜けていった。

『小夜子は可愛いよ。俺の自慢の妹だ』

 その風のやわらかな感触が、頭を撫でる仕草のように感じられた。
 耳元に聞こえたのは、きっと、過去の記憶から再現された幻聴だ。
 だけど、本当にそう囁かれたような気がして、私はハッと目を見開く。

「兄さん……?」
 薄闇に染まりはじめたあたりを見回すが、もちろん、兄の姿はどこにもない。
 もうすぐ、父が帰ってくる時間だ。屋根の上に登っているのが見つかったら面倒だから、そろそろ部屋に戻った方がいいだろうと気づく。

「小夜子……?」
 立ち上がった瞬間、今度は幻聴ではない声が聞こえてきた。
「な、なにしてるんだ! と、と飛び降りるなら、俺の胸に……!」

 無様なほど動揺して、道の上で両腕を大きく広げているのは、とっくに帰ったはずの志岐だった。
 その右手には、風呂敷包みらしきものがある。
 なにか用事があってうちにまた来たのだと推測できた。

「早まるなよ……! お、お兄ちゃんが助けてやるからな!」
「…………」
 また風がきたので、私は、わざと屋根の上でふらついてみせた。

「小夜子!」
 すると必死の形相で名前を呼ばれるので、私はこらえきれず、クスクスと笑う。
「死なないわよ。私、兄さんに似て運動神経はいい方なの」
 軽い足取りで、私はあっさりと窓の桟に着地して、部屋の中に戻った。

 志岐があからさまにほっとしている気配が伝わってくる。
「なんだ、てっきり、前みたいに……」

 兄さんが死んで間もない頃、私は歩道橋の上から飛び降りようとしたことがあった。

 あの時は本気で、死のうと思っていたのだ。
 死ねば、罪を償える。死ねば、兄さんに会える。そう信じていたのだ。
 死ななかったのは、たまたま通りかかった志岐が、私を止めたからだ。

『バカ野郎! 俺は、玲司から『小夜子を頼む』って言われたんだよ! おまえまで死んじゃったら、玲司との約束を守れないだろ!』
 志岐にしては珍しく、声を荒らげて怒鳴られて、私は、呆然と座り込むことしかできなかった。
 あの時、聞き取れなかった会話の中で、兄さんはそんなことを言っていたのだと気付かされて、あとから涙があふれてきた。

 私が自殺未遂の真似事をしたのはその一度きりだ。
 だけど、志岐はそれから毎日私の世話を焼きにくるようになった。実の兄のように。

「……もし、私が死んだら、志岐は泣いてくれる? 兄さんが死んだ時みたいに」
 二階の部屋から静かに問いかけた私に、志岐は目を瞬いた。

「当たり前だろ。……俺たち、もう、近くにいるのが当たり前みたいになってるじゃないか。小夜子がいなくなったら、俺、今度こそひとりぼっちだ」
 ハッキリと断言しながらも、その瞳は月明かりを映して弱々しく揺れる。
 光の加減だとはわかっているけど、泣いているみたいで、綺麗だと思った。

「……ところでその風呂敷包み、なに?」
「え? ああ……桃だよ。実家に戻ったら、うちの母さんが、小夜子の家に持ってけって……」
「桃? いいわね。兄さんも喜ぶわ」
 窓とカーテンを閉め、玄関を開けに行く。

 志岐は、門の前で待っていた。
「うちで食べていく? ……『お兄ちゃん』?」
 さっきの言葉を思い出してからかうように言えば、整った男前の顔がほんのり赤くなった。

「ごめん、さっきはつい、勢いで……」
「別にいいわよ」
 いつもと同じ、そっけない言葉だけで会話を切り上げようとして――私はふと、いま思いついた言葉を付け加えていた。
「ねぇ気付いてる? 私たち、兄さんとすごした時間よりも長い付き合いになってるのよ。もうとっくに、家族みたいなものになってたのよね」

「……小夜子」
「一番愛してるのは兄さんだけど、志岐は二番目くらいに好きよ」
「……俺もだ」
 顔を見合わせて、ふっと笑い合う。

 私たちは似たもの同士で、今も、どうしようもないくらい兄さんのことが好きだ。
 それでいいのだ。
 それ以外にはなにも、必要なかったのだ。

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