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六、探して
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***
そのあとは、どうやって家に戻ったか分からない。
思い出せなかった。
ただ二階の部屋に戻って、母に気づかれる前にお弁当を必死で平らげたのを覚えている。
お弁当を食べながら、泣いてしまったことだけは覚えている。
大地くんに謝りたい。私のせいで成績を落としてしまってごめんなさいってちゃんと謝りたい。
けれど私は、彼のメールアドレスを知らない。電話番号も知らない。
クラスも違う。家も知らない。
それに、もう通知表をもらっているならばレポートも書かなくて済むだろう。
彼が旧図書室にもう来る理由はない。
あそこで待っていても彼は来ないと思う。
このまま二学期までもやもやしたまま時間が過ぎるのをただただ待っていれば、彼は私の事なんてきっと忘れてしまうと思う。
忘れてしまうと思う。部活が忙しくてメッセージを百件以上も溜めてしまう人だ。
いつも友達に囲まれて、一年生でもサッカー部のレギュラーになってしまうような凄い人だ
きっと夏休みが終わって、体育祭が始まれば、私みたいな地味な存在は忘れてくれるはず。
彼は優しいから、きっと許してくれるはず。だから私は、もう旧図書室に行くのを止めた。正確には臆病だから、もう旧図書室には行けなかった。おかげで、色んな事を考えた
くなくて県立図書館で午前中からずっと問題集に取り掛かれた。
一週間もかからないうちに問題集は二冊とも終わって、お母さんから誕生日にスマホを返してもらう約束もしてもらえた。
やっとスマホが戻ってくる。
嬉しいはずなのに、全く心は踊らなくて、どこかいつも苦しくて重たかった。
***
「もう旧図書室に行かないの?」
私の誕生日前日。
お昼ご飯の前に、信海くんがひょっこりと家に来た。
夏休みは流石に毎日塾があるらしくて、家に顔を出さなくなって一週間が過ぎていたと
思う。テストは白紙で出すのに、塾には毎日行く矛盾は、私には難しい。なので気にしないことにした。
私への誕生日プレゼントを持ってやってきた信海くんが、少し驚いていた。
プレゼントは、駅前の人気のケーキ屋さんのアップルパイだった。しかも二ホールもある。
一ホールは家族で。二ホール目は、友達たちと思ったのかもしれない。
でも今年はもう友達は誰一人来ない。
「聞いてる、夏空?」
「え、え、あ、全く聞いていなかった」
「そうだよな。ここ数日、元気ないって早空、美空も心配してたよ」
頭をポンポン叩かれて、その手のぬくもりに思わず泣きそうになった。
信海くんがリビングじゃなくて、部屋の方まで来て私を心配そうに顔を覗き込んでくれている。
それだけで、じわりと胸が熱くなった。
「今年は皆、部活が忙しくて集まれないの。アップルケーキは大好きだけど、信海くんの家族で食べなよ」
一ホールは家族で食べるけど、今年は二ホールは多い。
「僕の家族は、どちらかといえばこっちかな。アップルパイを一緒に食べてくれる家族なんて、ここだけだよ」
寂しそうに笑った後、ベッドに突っ伏していた私を見て小さく笑うと、椅子に座ってくるくると回り出した。
「夏空がなんで元気がないのか分からないけど、夏空の元気がないと僕も大地も元気が湧かないな」
「なんで」
なんで大地くんのことが出てくるの。
あの時、大地くんの本音を聞きだしていた信海くんが、どうしてそんなことを言うの。
驚いて枕から顔を上げると、信海くんは天井を見上げながら椅子をまだくるくる回していた。
「なんで、信海くん」
もう一度聞くと、天井を見上げながら信海くんの椅子がゆっくりと停止された。
「僕さ、効率重視の両親のせいで、親戚に預けられることが多くて。最終的には誰も預か
らなくなっちゃって」
え。いきなり信海くんが自分の話を始めたので驚いた。
そりゃあはとことかメチャクチャ遠縁だったうちが預かったんだから、複雑な事情があったのかもしれない。
でも私も雅兄も妹たちも、そんな複雑な事情なんて興味ないし、信海くんは信海くんだから気にしていなかった。だからなんで今、その話をするのか不思議だ。
「本当の家族のように僕に優しかったのは、ここだけど。その前に、僕のことを弟のようにかわいがってくれた人がいた。僕は、あの人の為なら、両親のような医者になりたかっ
たんだ」
「信海くん?」
椅子が小さくキイキイと鳴っていた。
「もうどうでもよくなっちゃった。僕は。あの人のために医者になりたかっただけで、僕はもう」
小さく呟いた後、信海くんは私の方を見た。
「ノートを見つけてくれてありがとう」
「ノート?」
一体さっきから何を言ってるのか分からなくて、頭の中がハテナだらけだ。
信海くんが何を言いたいのか分からなくて混乱していたけど、小さくまた笑った。
「旧図書室にあったでしょ。あのノートに、僕の返事を書いたから」
「返事って――あ。あの黄ばんだ大学ノート!」
信海くんは頷いた。
「誰のノートだったのか、夏空なら気づいてくれるかなって、心のどこかで感じていたん
だと思う」
「んん?」
信海くんはあのノート、最初はどうでもよさそうな反応していなかったっけ?
でもあのノートを持って、ソファで眠っていたことあったよね。
目に涙を浮かべて、旧図書室で眠っていたことがあったはずだ。
分からない。私が首を傾げると、椅子から立ち上がった。
「雅兄には、お互いまだ上手く会えないからさ。夏空に頼んでしまってごめんな。あの未返却リストの本のラストは、きっと雅兄が持ってる」
「え、えええ。あの、一体」
頭の整理が追い付かなくて、あわあわしていると、追い打ちをかけるように二階に上がる足音が聞こえてきた。
「夏空、サツキちゃんから電話よ」
もちろん、信海くんと二人で話しているというのに、ノックもしない。
ノックもしないで平然と子機の電話だけ渡してくる母は、見習わないといけないぐらい強者だと思った。
***
「ごめんね。次の木曜、家族で旅行行くことになっちゃったからさ」
公園で待ち合わせしたサツキは、県立図書館での木曜日の集まりの不参加についてお詫びを兼ねてわざわざ会いに来てくれた。
私も半分に切ったアップルパイを渡す。
私たち家族には多すぎるから、美優と奈々には悪いけどサツキにだけだ。
サツキは喜んで受け取った後、少し表情を暗くした。
「アップルパイ、嫌いだった? 信海くんが朝から駅前のケーキ屋に並んでくれたんだけど」
「アップルパイは大好きだし、信海くんがいい人だと知ってるけど、あのさ。電話した理
由がもう一つあって」
「うん」
本音を言うと、考えることが沢山あったので、サツキの呼び出して頭の混乱を落ち着かせたかった。逃げたかったが、正解だったのかもしれない。
だから、私の悩みから一番遠い友達と話したかったのに。
「御園 水音(みその みずき)さんって人、お姉ちゃんと親が知ってたんだけど」
「えーっと。未返却リストの、四年前の人?」
私が聞くと、サツキは頷いた。
「白血病で、信海くんのご両親が働いてる病院に入院していたんだってよ。で、お姉ちゃんの話だと、夏空のお兄ちゃんと仲が良かったって」
図書室で二人で隣に座って本を読んでいた姿を何度も目撃していると、教えてくれた。
「でも、今年の五月かな。亡くなってて」
「え」
「私が聞いたのはそれだけだけど、信海くんがどうして未返却リストを、夏空に渡したのか気になって。雅兄に関係してるんじゃないのかなって。違ってたらごめんだけど」
――あ、あのノート。あのノートの文字を見たことがあった。
あのノートの文字の見覚えがあったのが分かった。あのかくかくした字は、雅兄の字だった。
「ありがとう! 私、旧図書室に確認してくるっ」
「え、夏休みだから校舎って入れないよ」
「先生にお願いしてみる。ごめんね」
急いで学校へ走った。 あのノート。
全部のハテナが、あのノートを見たら分かるような気がした。 見えてきそうな気がした。
***
学校まで走りながら、あのノートに書かれた少ない言葉を思い出していく。
『君と話がしたい』
誰の文字だろうって思ったけど、今なら分かる。あのかくかくしていた字は兄の字だ。
丸みがなくて、曲げる度にかくかくしていて、ロボットみたいに硬い文字。
『夏になった日の、朝の匂いが好きだった』
また急いで書いたような走り書き。まるで誰かに見られないように急いで書いた文字だった。あの字だって、兄の物だ。
そして次のページには、柔らかい丸い字。
『私は、朝起きて貴方の文字を読み返すのが好き』
あれが――あれが御園水音さんって言う人の文字だとしたら、あのノートは兄と御園さんの交換ノートだったのかもしれない。
じゃあ、なんであのノートを信海くんは見つけても、旧図書室の机の中に仕舞っていたんだろう。それともどこかで見つけて、あそこに仕舞ったのかな。
こちらは落ち着いて書いたのか次のページに微かに字の痕が着いている。下敷きを使っていないのが字の圧力が強いのかな。
どちらにせよ、一ページずつ一言しか書いておらず、あとは真っ白で、大胆な使い方というか、勿体ないというか。なんでなんだろう。
なんで開いた右のページしか書かないの。
『ありがとう。私のお願いを叶えようとしてくれて』
『お礼はこのノートを書き終わるまで、言わないで』
『誰かお願い。私の代わりに彼のために、書いてね』
交互に文字が違っていたから、兄と水音さんが交互に書いていたんだ。
急いで学校まで走ったから、校門に着いた時には、眩暈でくらりと視界が滲んだ。
水分も取らず、帽子もかぶらず、真夏の真昼間に全力疾走は、身体によくないと理解できた。
先生に許可を取ろうと思ったけど、生徒会が体育祭の準備に校舎を使っていたので、すんなりと入ることができた。
一週間ぶりの旧図書室は、やはり埃臭くて、冷房を入れたらかび臭い生温かい風しか出てこなかった。
急いで机の引き出しを開けて、ノートをめくった。
『もう一度会いたかった』
信海くんの文字だ。少し右上がりの、定規を使っているような真っ直ぐな字。
『誰でも良いから、このノートを埋めてほしい』
小さな信海くんの心の悲鳴だった。
『貴方の心の声を聞かせて下さい』
私の、可愛くない教科書みたいな字のページ。
信海くんの返事があるんだ。
ドキドキしながらページをめくる。
「……えっ」
『夏空の綺麗な字が大好きだ』
ノートのど真ん中に、元気な文字が書かれていた。
信海くんやお兄ちゃんの字は、どちらかというと几帳面で定規を使ったような線。
でもこの文字は、今にもノートを飛び出しそうなほど元気で大きな文字だ。
男の子らしいといえば男の子らしい字。
でも信海くんの返事ではないから、首を傾げた。
私は今、一体、どんな状況?
図書室の未返却のラスト一冊は、お兄ちゃんが持っているかもしれない。
その最後の一冊を持っている人は、お兄ちゃんと仲が良かった人で、もう亡くなっている。
それと、このノートの返事が繋がっているのかと思って急いで走ってきたのに、信海くんからの返事ではない。じゃあ、この字は。
「俺の字だ。下手糞だろ」
気まずそうに、重々しい声で言ったのは大地くんだ。
大地くんが今、旧図書室にまで来てくれている。
「俺の字、すげえ汚いだろ」
「……大地く、ん」
どうして。これ以上、頭がパンクするようなことが起こらないでほしかった。情報量が多すぎて、頭がパンクしてしまいそうだった。
一体、大地くんは何を言っているんだろう。
「四月だったかな。入部届出すときにも字が汚いと言われたし、ノートの提出も字がきた
ねえって言われたし、友達にも馬鹿にされたんだよな」
ノートを持って固まっていた私に、松葉杖の音を響かせながら旧図書室に入ってくると、顔を覗き込むように回り込まれた。
「別に字が汚くても、死なないし。うるせえなって思ってたんだけど、夏空の字を見た時、すげえ綺麗で言葉を失った。心奪われたって言うのかな。こんな綺麗な字を書く奴ってどんな人なんだろうって」
「大地くん……」
「字が綺麗な夏空の前でレポート書けるわけなかった。書けなかったんだ、恥ずかしくて。俺の字が汚いから」
観念するよと言うと、制服の胸ポケットから取り出した紙を差し出してきた。
素直に受け取ると、『早く良くなってね 夏空 早空(さき)美空(みそら)』と書いた紙だった。
兄が入院したときのお見舞いで、来たよって伝言の為に書いた紙。
「これ、どうしたの?」
「病院で手術したあとだったかな。どっかの窓から落ちてきて、拾った」
「拾ったって」
確か、あの日は窓が開いてた。
ベットの上で眠る兄のお腹らへんに置いて帰ったから、飛んでいったのかもしれない。
それを大地くんがひろってくれたなんて、すごい偶然だ。
でも、私は信海くんの返信がここにあるって聞いたから急いで走ってきたのに。
どうして大地くんの返信?
「あの、なんでここにいるの?」
折角、大地くんと会えたのに。
色々ともやもやしていたことが解決したのはしたけど。
どうしてタイミングよく、ここに?
「なんでって。生徒会長が夏空が学校に向かったって教えてくれたから」
「――あっ」
やっと理解できた。あんな意味ありげな言葉を吐くだけ吐いて、私を混乱させて学校へ行かせようとしたんだ。
きっとこのノートの大地くんの言葉を見て、このノートを私に見せるために、わざとあんな色んな情報を出して。
まどろっこしいけど、私が逃げているから自分から行かせようとしたんだ。
御園水音さん。
彼女の言葉と、兄と信海くんとの関係は気になる。気になるけど、今は目の前の大地くんだ。少し焦ったような顔で、真っ赤な顔。
「このまま夏休みはずっと会えないと思っただろ、馬鹿」
そんな言葉を吐きながらも、安堵したように笑った。
信海くんたちのノートのことは気になるけど、今は目の前のこと。
私の為に学校に来てくれた大地くんのことが最優先だと思う。
この一週間、私の心はもやもやと嫌な色で染まっていたのは事実だから。
「あの、私が大地くんの正面に座ってたから、レポートが書けなかったんでしょ」
「まあ。あんな綺麗な字の夏空の前で、字を書くのは恥ずかしかったから。でも夏空の字が見たかったから、お前は悪くない。俺が悪い」
「でもレポート……っ」
「まあ九月までに書いとけよって許してもらえた」
くしゃっと笑った大地くんは、椅子に座ると自分の隣の椅子を引いて、とんとんと叩く。
隣に座れってことだよね。おずおずと隣に座ると、小さく笑われた。
「終業式のあと、待てど暮らせど夏空が来ないからさ。俺、何かしたかなってまじで分か
らなくて。でも生徒会長に聞くのもだせえだろ。かといって連絡手段分からねえって。この一週間の俺の心の葛藤を考えてくれ」
大げさに手を振って説明するので、思わず笑ってしまった。
「夏空の手紙を病院で拾ったあと、書道の金賞が職員室の前に飾られただろ。それで『この綺麗な字のやつってもしかして同じ学校?』ってテンション上がったんだよ。今でも覚えてる。松葉杖落としてジャンプしてガッツポーズしようと思ったし、実際に『よっしゃ』て叫んだぐらいだから」
「大げさだなあ」
「大げさじゃねえよ。生徒会長とは同じサッカークラブだったこともあって、俺が足の手術でレギュラー下ろされて落ち込んでた時に、色々話を聞いてもらってさ。俺がレポートをサボってるのを先生に頼まれたんだろうな。急にこの旧図書室に呼び出されたんだ」
「そうだったんだ」
「……いや、まて。俺、今超口数多くね? ちょっと早口かも。だっせ。ちょっと落ち着
くわ」
大きく息を吸って吐く、を何度も繰り返すので思わず笑ってしまった。
こんな落ち着かない大地くんは初めて見た。
最初に名前を言った時、全く興味なさそうにしてたと思ったけど、内心、ドキドキしてくれていたのかな。ノートの元気な文字を見て首を傾げる。
字が汚いって言うのかな。全く読めないわけじゃないし、丁寧に止めもしてある。
大体、汚い字ってどんな基準になるのか私にはわからない。
「大地くん、筆箱持ってる?」
「あ、筆箱はねえけど」
胸ポケットにシャーペンが刺さっていたので、それを借りて次のページに書いた。
『私は、元気で素敵な字だと思います。パワーが溢れてて私は好きだな』
大地くんの言葉に返事したつもりだ。まるで交換ノートをしているみたい。
交換ノートなんて小学生の時にして以来なので懐かしい。
「私、あまり自分の字が好きじゃなくて」
「まじで?」
隣で息を整えていた大地くんがこちらを向く。向いてくれたので、ノートの返事を見せ
た。
「教科書と同じ文字で、個性もないし可愛くもないでしょ。だからあまり」
綺麗な字を教えてくれたおばあちゃんには感謝しているけど、でも私はやっぱり可愛い
文字に憧れていたから、好きになれなかった。
「でも大地くんが綺麗だって褒めてくれたから、好きになれたよ。ありがとう」
私の字が好きだと言ってくれて、認めてくれてありがとう。素直にそう思えたので、伝えた。すると大地くんは目をそらして正面を向いた。
「それは俺も一緒。汚い字を、見てくれてありがとうな」
照れてる。これはきっと照れてる。私の目を見ず、ぶっきらぼうに言う大地くんは少しだけ可愛く見えてしまった。
「でも誤解がとけてよかった。俺、夏休みはサッカー部の部活に参加する予定だから」
「その足で?」
まだ松葉杖で歩いているのに、練習に参加するって危ないんじゃないの。
せめて治るまでは安静にしているのが正解だと思うんだけど、違うのかな。
「ん。九月から足が治ったので部活始めますって行っても、部の雰囲気とか一か月の流れを知らなかったら、チームに入りにくいと思うし。もしそれでまたレギュラーに返り咲いたら、夏休み中努力していた奴らも面白くないだろ。見学でもチームメイトの成長だけは見ときたい。悔しいけど」
真面目な顔。大地くんって色んな事を考えて、決めて頑張っているんだ。
優しくて努力家って、益々大地くんのいいところばかり出てきて戸惑う。
大地くんの周りに人が集まる理由が分かるな。
本当に大地くんって素敵な人だな。
「そっか。大変だけど頑張ってね。外って暑そうだから怪我もあるし無茶しないで」
「ん。それと部活がない日は、やっぱここで夏空と会いたい。もっと夏空と話がしたいんだ」
そう言われ、頬が熱くなる。
いや、大地くんのこの言葉には深い意味はない。ただ、綺麗な字を好きだから、その字
を書く私をもっと知りたいって思ってくれているだけだ。自惚れない。自惚れるわけない。
「うん。私も話したいし、やっぱここで勉強もしたいかな」
「じゃあ、連絡先。あ、パソコンのメールアドレス、一回作ったんだよなあ。そっちを渡そうかな」
「ふふふ。実はこの一週間でもう問題集は終わってるんの」
「へえ、早いじゃん」
まあ、大地くん迷惑をかけてしまったと、自分の行いを恥じて何も考えないようにただひたすら問題集を解いていたもん。
「だから誕生日の日にスマホを返してもらえるの。返してもらったらアドレス教えるね」
「誕生日?」
「うん。七月の最後の日。だから――」
「じゃあその日、お祝いする。いつなら会える?」
え。お祝いする?
お祝いしてくれるの?
「まあ、無理とは言わねえよ。家族とか友達と過ごしたいだろうし」
「え、いえ! 嬉しい。えっとどうしよう。夜は家族に祝ってもらうんだけど」
大地くんにお祝いしてもらえるの?
夏休みも会えるのは嬉しい。でも松葉杖だよね。会えるのは嬉しいけど、動くのは申し訳ないかな。どうしようかな。
「じゃあ、旧図書室に待ち合わせでも大丈夫?」
大地くんに言われて、私はただただ夢心地の中、頷くしかなかった。
***
その後、帰ったあとに大好きなアップルパイを食べるのが楽しみだったのに、今度は胸がドキドキして胸がいっぱいで食べられなかった。
「お母さん、お姉ちゃんぼうっとしてやばいよ」
「やっぱ現代っ子にスマホ没収は、太陽を浴びれないひまわりみたいに栄養がとれなくなるんだよ」
「何言ってんの。あんたたちは早く食べちゃいなさい。夜ご飯食べられなかったら許さないからね」
はあ。
大地くんが私の字をきっかけに、私のことを知ろうとしてくれてる。
ずっとコンプレックスに近かったけど、こんなに嬉しいことはない。
なんだか嬉しくて、胸がいっぱいだ。
大好きなアップルパイが頬張れないほどに、幸せだ。
アップルパイにフォークを突き刺せないほど、ぼうっとしていると階段を下りる音がした。
――雅兄だ。
「母さん、図書館行ってくる」
「あら、ごめんね。うるさかった?」
塾が休みだった兄は、首を振る。
そしてフォークを突きささず、アップルパイとお見合い中の私を見た。
最近は深夜も、何かに憑りつかれたように勉強している兄だ。
世界中を旅して、石油を掘って石油王になるなんて、どこかおバカな話ももうしないような、穏やかな瞳をしていた。
「夏空、ごめんな。誕生日も俺、塾だ」
「ううん。お兄ちゃんも勉強無理しないでね。ありがとう」
こちらから話しかけれなかったから、雅兄から話しかけて貰えて嬉しい。
国立医大ってきっと難しいんだと思うし、私たち妹が沢山いるせいで私立は考えていないのだとしたら、きっと雅兄はプレッシャーもすごいはずだ。
私はようやく喋れたから、それだけで嬉しい。
「今は勉強以外考えたくないからさ。無理してるように見えたら悪い。心配かけたな」
苦笑した兄は、冷蔵庫から牛乳を取り出して、コップに注ぐ。
「お兄ちゃん、アップルパイ食べない? 信海くんが持って来てくれたよ」
「ウミが? あいつは受験大丈夫なのか」
よくぞ言ってくれた!
母も妹たちも騙して、信海くんは優等生のふりしている。
いや、優等生なのかな。塾は毎日行っているとは宣言していたけど、疑わしい。
一学期の期末テストで、全ての教科のテストを白紙で出したらしいよ。
兄にそう伝えたら、きっと兄は全力で信海くんを心配して相談に乗ってくれるだろう。
兄だったら、信海くんを分かってあげられると思う。
「まあ、俺よりも大丈夫だったか。あいつなら」
牛乳を飲み干すと、ゆすいで台所に置く。
「雅兄」
あのね、と言おうとして、兄の目の下に隈があるのが見えて躊躇した。
「ん?」
口をゴシゴシ拭いていた兄が首を傾げる。
今、ただただひたすらに頑張って勉強している兄に信海くんのことを相談したら駄目な気がした。
――御園水音さんの本のことも聞けない。
「そういえば、中学校の図書室がバーコード化されるんだけど、四年前から返却されてない本があるみたい。雅兄じゃないよね?」
「ふうん。俺が本を借りぱくするように見えるのか」
苦笑しつつも、知らないよって言われた。
それ以上は何も言えなかったので、兄の背中を見送った。
もし兄が大切な人を失っていたら。
それで喘息が悪化して入院していたのなら。
『良かった。泣いていると思ったよ』
眠っている兄に話しかける信海くんに、ちょっとだけ違和感があったのを覚えている。
『僕はもう、疲れちゃったけど』
雅兄はまだ頑張れる?
信海くんの声がした。
雅兄の入院しているベッドの傍で、信海くんはそう言ったように思えたんだ。
「じゃあ行ってくる。閉館までいるから」
「はーい。無理しないのよ」
母が本当に心配そうに言うと、兄は曖昧に微笑んだだけで行ってしまった。
妹二人は、アップルパイに夢中で気づいていない。憑りつかれたように勉強するか眠っている兄の ことが、きっと分かっていないと思う。
まるで何も考えたくなくて一週間、ひたすらに問題集を解いていた私に似ている。
今、兄に何も聞けないような、聞いてはいけないような気がした。
「……信海くん」
じゃあ、信海くんの心の本音は?
大地くんなら何か知っているのかもしれない。
ただこれ以上、信海くんのことを探るのは駄目だよね。
信海くんも受験生だし、本人に聞いても大丈夫なのかな。
分からない。でも結局、あのノートは持って帰っていいのか分からず、あそこに置き去りにしてきた。
信海くんの本音が知りたい。大地くんのことを考えても、信海くんのことを考えても胸がざわざわするの。
ただ大地くんのことを考えると、胸がばくばくというか甘く締め付けられる感じで、信海くんのことは、不安で。なんだかバランスが悪くて今すぐ崩れてしまいそうな、不安が胸を過る。いつも私には兄のように接してくれていた。
信海くんは、誰を頼ったり甘えたりできるんだろう。
それだけが心配だった。
信海くんがせっかく朝一で並んで買ってくれたアップルケーキは、ようやく口に入れて食べたのに、なんだか複雑な味がした。
***
そのあとは、どうやって家に戻ったか分からない。
思い出せなかった。
ただ二階の部屋に戻って、母に気づかれる前にお弁当を必死で平らげたのを覚えている。
お弁当を食べながら、泣いてしまったことだけは覚えている。
大地くんに謝りたい。私のせいで成績を落としてしまってごめんなさいってちゃんと謝りたい。
けれど私は、彼のメールアドレスを知らない。電話番号も知らない。
クラスも違う。家も知らない。
それに、もう通知表をもらっているならばレポートも書かなくて済むだろう。
彼が旧図書室にもう来る理由はない。
あそこで待っていても彼は来ないと思う。
このまま二学期までもやもやしたまま時間が過ぎるのをただただ待っていれば、彼は私の事なんてきっと忘れてしまうと思う。
忘れてしまうと思う。部活が忙しくてメッセージを百件以上も溜めてしまう人だ。
いつも友達に囲まれて、一年生でもサッカー部のレギュラーになってしまうような凄い人だ
きっと夏休みが終わって、体育祭が始まれば、私みたいな地味な存在は忘れてくれるはず。
彼は優しいから、きっと許してくれるはず。だから私は、もう旧図書室に行くのを止めた。正確には臆病だから、もう旧図書室には行けなかった。おかげで、色んな事を考えた
くなくて県立図書館で午前中からずっと問題集に取り掛かれた。
一週間もかからないうちに問題集は二冊とも終わって、お母さんから誕生日にスマホを返してもらう約束もしてもらえた。
やっとスマホが戻ってくる。
嬉しいはずなのに、全く心は踊らなくて、どこかいつも苦しくて重たかった。
***
「もう旧図書室に行かないの?」
私の誕生日前日。
お昼ご飯の前に、信海くんがひょっこりと家に来た。
夏休みは流石に毎日塾があるらしくて、家に顔を出さなくなって一週間が過ぎていたと
思う。テストは白紙で出すのに、塾には毎日行く矛盾は、私には難しい。なので気にしないことにした。
私への誕生日プレゼントを持ってやってきた信海くんが、少し驚いていた。
プレゼントは、駅前の人気のケーキ屋さんのアップルパイだった。しかも二ホールもある。
一ホールは家族で。二ホール目は、友達たちと思ったのかもしれない。
でも今年はもう友達は誰一人来ない。
「聞いてる、夏空?」
「え、え、あ、全く聞いていなかった」
「そうだよな。ここ数日、元気ないって早空、美空も心配してたよ」
頭をポンポン叩かれて、その手のぬくもりに思わず泣きそうになった。
信海くんがリビングじゃなくて、部屋の方まで来て私を心配そうに顔を覗き込んでくれている。
それだけで、じわりと胸が熱くなった。
「今年は皆、部活が忙しくて集まれないの。アップルケーキは大好きだけど、信海くんの家族で食べなよ」
一ホールは家族で食べるけど、今年は二ホールは多い。
「僕の家族は、どちらかといえばこっちかな。アップルパイを一緒に食べてくれる家族なんて、ここだけだよ」
寂しそうに笑った後、ベッドに突っ伏していた私を見て小さく笑うと、椅子に座ってくるくると回り出した。
「夏空がなんで元気がないのか分からないけど、夏空の元気がないと僕も大地も元気が湧かないな」
「なんで」
なんで大地くんのことが出てくるの。
あの時、大地くんの本音を聞きだしていた信海くんが、どうしてそんなことを言うの。
驚いて枕から顔を上げると、信海くんは天井を見上げながら椅子をまだくるくる回していた。
「なんで、信海くん」
もう一度聞くと、天井を見上げながら信海くんの椅子がゆっくりと停止された。
「僕さ、効率重視の両親のせいで、親戚に預けられることが多くて。最終的には誰も預か
らなくなっちゃって」
え。いきなり信海くんが自分の話を始めたので驚いた。
そりゃあはとことかメチャクチャ遠縁だったうちが預かったんだから、複雑な事情があったのかもしれない。
でも私も雅兄も妹たちも、そんな複雑な事情なんて興味ないし、信海くんは信海くんだから気にしていなかった。だからなんで今、その話をするのか不思議だ。
「本当の家族のように僕に優しかったのは、ここだけど。その前に、僕のことを弟のようにかわいがってくれた人がいた。僕は、あの人の為なら、両親のような医者になりたかっ
たんだ」
「信海くん?」
椅子が小さくキイキイと鳴っていた。
「もうどうでもよくなっちゃった。僕は。あの人のために医者になりたかっただけで、僕はもう」
小さく呟いた後、信海くんは私の方を見た。
「ノートを見つけてくれてありがとう」
「ノート?」
一体さっきから何を言ってるのか分からなくて、頭の中がハテナだらけだ。
信海くんが何を言いたいのか分からなくて混乱していたけど、小さくまた笑った。
「旧図書室にあったでしょ。あのノートに、僕の返事を書いたから」
「返事って――あ。あの黄ばんだ大学ノート!」
信海くんは頷いた。
「誰のノートだったのか、夏空なら気づいてくれるかなって、心のどこかで感じていたん
だと思う」
「んん?」
信海くんはあのノート、最初はどうでもよさそうな反応していなかったっけ?
でもあのノートを持って、ソファで眠っていたことあったよね。
目に涙を浮かべて、旧図書室で眠っていたことがあったはずだ。
分からない。私が首を傾げると、椅子から立ち上がった。
「雅兄には、お互いまだ上手く会えないからさ。夏空に頼んでしまってごめんな。あの未返却リストの本のラストは、きっと雅兄が持ってる」
「え、えええ。あの、一体」
頭の整理が追い付かなくて、あわあわしていると、追い打ちをかけるように二階に上がる足音が聞こえてきた。
「夏空、サツキちゃんから電話よ」
もちろん、信海くんと二人で話しているというのに、ノックもしない。
ノックもしないで平然と子機の電話だけ渡してくる母は、見習わないといけないぐらい強者だと思った。
***
「ごめんね。次の木曜、家族で旅行行くことになっちゃったからさ」
公園で待ち合わせしたサツキは、県立図書館での木曜日の集まりの不参加についてお詫びを兼ねてわざわざ会いに来てくれた。
私も半分に切ったアップルパイを渡す。
私たち家族には多すぎるから、美優と奈々には悪いけどサツキにだけだ。
サツキは喜んで受け取った後、少し表情を暗くした。
「アップルパイ、嫌いだった? 信海くんが朝から駅前のケーキ屋に並んでくれたんだけど」
「アップルパイは大好きだし、信海くんがいい人だと知ってるけど、あのさ。電話した理
由がもう一つあって」
「うん」
本音を言うと、考えることが沢山あったので、サツキの呼び出して頭の混乱を落ち着かせたかった。逃げたかったが、正解だったのかもしれない。
だから、私の悩みから一番遠い友達と話したかったのに。
「御園 水音(みその みずき)さんって人、お姉ちゃんと親が知ってたんだけど」
「えーっと。未返却リストの、四年前の人?」
私が聞くと、サツキは頷いた。
「白血病で、信海くんのご両親が働いてる病院に入院していたんだってよ。で、お姉ちゃんの話だと、夏空のお兄ちゃんと仲が良かったって」
図書室で二人で隣に座って本を読んでいた姿を何度も目撃していると、教えてくれた。
「でも、今年の五月かな。亡くなってて」
「え」
「私が聞いたのはそれだけだけど、信海くんがどうして未返却リストを、夏空に渡したのか気になって。雅兄に関係してるんじゃないのかなって。違ってたらごめんだけど」
――あ、あのノート。あのノートの文字を見たことがあった。
あのノートの文字の見覚えがあったのが分かった。あのかくかくした字は、雅兄の字だった。
「ありがとう! 私、旧図書室に確認してくるっ」
「え、夏休みだから校舎って入れないよ」
「先生にお願いしてみる。ごめんね」
急いで学校へ走った。 あのノート。
全部のハテナが、あのノートを見たら分かるような気がした。 見えてきそうな気がした。
***
学校まで走りながら、あのノートに書かれた少ない言葉を思い出していく。
『君と話がしたい』
誰の文字だろうって思ったけど、今なら分かる。あのかくかくしていた字は兄の字だ。
丸みがなくて、曲げる度にかくかくしていて、ロボットみたいに硬い文字。
『夏になった日の、朝の匂いが好きだった』
また急いで書いたような走り書き。まるで誰かに見られないように急いで書いた文字だった。あの字だって、兄の物だ。
そして次のページには、柔らかい丸い字。
『私は、朝起きて貴方の文字を読み返すのが好き』
あれが――あれが御園水音さんって言う人の文字だとしたら、あのノートは兄と御園さんの交換ノートだったのかもしれない。
じゃあ、なんであのノートを信海くんは見つけても、旧図書室の机の中に仕舞っていたんだろう。それともどこかで見つけて、あそこに仕舞ったのかな。
こちらは落ち着いて書いたのか次のページに微かに字の痕が着いている。下敷きを使っていないのが字の圧力が強いのかな。
どちらにせよ、一ページずつ一言しか書いておらず、あとは真っ白で、大胆な使い方というか、勿体ないというか。なんでなんだろう。
なんで開いた右のページしか書かないの。
『ありがとう。私のお願いを叶えようとしてくれて』
『お礼はこのノートを書き終わるまで、言わないで』
『誰かお願い。私の代わりに彼のために、書いてね』
交互に文字が違っていたから、兄と水音さんが交互に書いていたんだ。
急いで学校まで走ったから、校門に着いた時には、眩暈でくらりと視界が滲んだ。
水分も取らず、帽子もかぶらず、真夏の真昼間に全力疾走は、身体によくないと理解できた。
先生に許可を取ろうと思ったけど、生徒会が体育祭の準備に校舎を使っていたので、すんなりと入ることができた。
一週間ぶりの旧図書室は、やはり埃臭くて、冷房を入れたらかび臭い生温かい風しか出てこなかった。
急いで机の引き出しを開けて、ノートをめくった。
『もう一度会いたかった』
信海くんの文字だ。少し右上がりの、定規を使っているような真っ直ぐな字。
『誰でも良いから、このノートを埋めてほしい』
小さな信海くんの心の悲鳴だった。
『貴方の心の声を聞かせて下さい』
私の、可愛くない教科書みたいな字のページ。
信海くんの返事があるんだ。
ドキドキしながらページをめくる。
「……えっ」
『夏空の綺麗な字が大好きだ』
ノートのど真ん中に、元気な文字が書かれていた。
信海くんやお兄ちゃんの字は、どちらかというと几帳面で定規を使ったような線。
でもこの文字は、今にもノートを飛び出しそうなほど元気で大きな文字だ。
男の子らしいといえば男の子らしい字。
でも信海くんの返事ではないから、首を傾げた。
私は今、一体、どんな状況?
図書室の未返却のラスト一冊は、お兄ちゃんが持っているかもしれない。
その最後の一冊を持っている人は、お兄ちゃんと仲が良かった人で、もう亡くなっている。
それと、このノートの返事が繋がっているのかと思って急いで走ってきたのに、信海くんからの返事ではない。じゃあ、この字は。
「俺の字だ。下手糞だろ」
気まずそうに、重々しい声で言ったのは大地くんだ。
大地くんが今、旧図書室にまで来てくれている。
「俺の字、すげえ汚いだろ」
「……大地く、ん」
どうして。これ以上、頭がパンクするようなことが起こらないでほしかった。情報量が多すぎて、頭がパンクしてしまいそうだった。
一体、大地くんは何を言っているんだろう。
「四月だったかな。入部届出すときにも字が汚いと言われたし、ノートの提出も字がきた
ねえって言われたし、友達にも馬鹿にされたんだよな」
ノートを持って固まっていた私に、松葉杖の音を響かせながら旧図書室に入ってくると、顔を覗き込むように回り込まれた。
「別に字が汚くても、死なないし。うるせえなって思ってたんだけど、夏空の字を見た時、すげえ綺麗で言葉を失った。心奪われたって言うのかな。こんな綺麗な字を書く奴ってどんな人なんだろうって」
「大地くん……」
「字が綺麗な夏空の前でレポート書けるわけなかった。書けなかったんだ、恥ずかしくて。俺の字が汚いから」
観念するよと言うと、制服の胸ポケットから取り出した紙を差し出してきた。
素直に受け取ると、『早く良くなってね 夏空 早空(さき)美空(みそら)』と書いた紙だった。
兄が入院したときのお見舞いで、来たよって伝言の為に書いた紙。
「これ、どうしたの?」
「病院で手術したあとだったかな。どっかの窓から落ちてきて、拾った」
「拾ったって」
確か、あの日は窓が開いてた。
ベットの上で眠る兄のお腹らへんに置いて帰ったから、飛んでいったのかもしれない。
それを大地くんがひろってくれたなんて、すごい偶然だ。
でも、私は信海くんの返信がここにあるって聞いたから急いで走ってきたのに。
どうして大地くんの返信?
「あの、なんでここにいるの?」
折角、大地くんと会えたのに。
色々ともやもやしていたことが解決したのはしたけど。
どうしてタイミングよく、ここに?
「なんでって。生徒会長が夏空が学校に向かったって教えてくれたから」
「――あっ」
やっと理解できた。あんな意味ありげな言葉を吐くだけ吐いて、私を混乱させて学校へ行かせようとしたんだ。
きっとこのノートの大地くんの言葉を見て、このノートを私に見せるために、わざとあんな色んな情報を出して。
まどろっこしいけど、私が逃げているから自分から行かせようとしたんだ。
御園水音さん。
彼女の言葉と、兄と信海くんとの関係は気になる。気になるけど、今は目の前の大地くんだ。少し焦ったような顔で、真っ赤な顔。
「このまま夏休みはずっと会えないと思っただろ、馬鹿」
そんな言葉を吐きながらも、安堵したように笑った。
信海くんたちのノートのことは気になるけど、今は目の前のこと。
私の為に学校に来てくれた大地くんのことが最優先だと思う。
この一週間、私の心はもやもやと嫌な色で染まっていたのは事実だから。
「あの、私が大地くんの正面に座ってたから、レポートが書けなかったんでしょ」
「まあ。あんな綺麗な字の夏空の前で、字を書くのは恥ずかしかったから。でも夏空の字が見たかったから、お前は悪くない。俺が悪い」
「でもレポート……っ」
「まあ九月までに書いとけよって許してもらえた」
くしゃっと笑った大地くんは、椅子に座ると自分の隣の椅子を引いて、とんとんと叩く。
隣に座れってことだよね。おずおずと隣に座ると、小さく笑われた。
「終業式のあと、待てど暮らせど夏空が来ないからさ。俺、何かしたかなってまじで分か
らなくて。でも生徒会長に聞くのもだせえだろ。かといって連絡手段分からねえって。この一週間の俺の心の葛藤を考えてくれ」
大げさに手を振って説明するので、思わず笑ってしまった。
「夏空の手紙を病院で拾ったあと、書道の金賞が職員室の前に飾られただろ。それで『この綺麗な字のやつってもしかして同じ学校?』ってテンション上がったんだよ。今でも覚えてる。松葉杖落としてジャンプしてガッツポーズしようと思ったし、実際に『よっしゃ』て叫んだぐらいだから」
「大げさだなあ」
「大げさじゃねえよ。生徒会長とは同じサッカークラブだったこともあって、俺が足の手術でレギュラー下ろされて落ち込んでた時に、色々話を聞いてもらってさ。俺がレポートをサボってるのを先生に頼まれたんだろうな。急にこの旧図書室に呼び出されたんだ」
「そうだったんだ」
「……いや、まて。俺、今超口数多くね? ちょっと早口かも。だっせ。ちょっと落ち着
くわ」
大きく息を吸って吐く、を何度も繰り返すので思わず笑ってしまった。
こんな落ち着かない大地くんは初めて見た。
最初に名前を言った時、全く興味なさそうにしてたと思ったけど、内心、ドキドキしてくれていたのかな。ノートの元気な文字を見て首を傾げる。
字が汚いって言うのかな。全く読めないわけじゃないし、丁寧に止めもしてある。
大体、汚い字ってどんな基準になるのか私にはわからない。
「大地くん、筆箱持ってる?」
「あ、筆箱はねえけど」
胸ポケットにシャーペンが刺さっていたので、それを借りて次のページに書いた。
『私は、元気で素敵な字だと思います。パワーが溢れてて私は好きだな』
大地くんの言葉に返事したつもりだ。まるで交換ノートをしているみたい。
交換ノートなんて小学生の時にして以来なので懐かしい。
「私、あまり自分の字が好きじゃなくて」
「まじで?」
隣で息を整えていた大地くんがこちらを向く。向いてくれたので、ノートの返事を見せ
た。
「教科書と同じ文字で、個性もないし可愛くもないでしょ。だからあまり」
綺麗な字を教えてくれたおばあちゃんには感謝しているけど、でも私はやっぱり可愛い
文字に憧れていたから、好きになれなかった。
「でも大地くんが綺麗だって褒めてくれたから、好きになれたよ。ありがとう」
私の字が好きだと言ってくれて、認めてくれてありがとう。素直にそう思えたので、伝えた。すると大地くんは目をそらして正面を向いた。
「それは俺も一緒。汚い字を、見てくれてありがとうな」
照れてる。これはきっと照れてる。私の目を見ず、ぶっきらぼうに言う大地くんは少しだけ可愛く見えてしまった。
「でも誤解がとけてよかった。俺、夏休みはサッカー部の部活に参加する予定だから」
「その足で?」
まだ松葉杖で歩いているのに、練習に参加するって危ないんじゃないの。
せめて治るまでは安静にしているのが正解だと思うんだけど、違うのかな。
「ん。九月から足が治ったので部活始めますって行っても、部の雰囲気とか一か月の流れを知らなかったら、チームに入りにくいと思うし。もしそれでまたレギュラーに返り咲いたら、夏休み中努力していた奴らも面白くないだろ。見学でもチームメイトの成長だけは見ときたい。悔しいけど」
真面目な顔。大地くんって色んな事を考えて、決めて頑張っているんだ。
優しくて努力家って、益々大地くんのいいところばかり出てきて戸惑う。
大地くんの周りに人が集まる理由が分かるな。
本当に大地くんって素敵な人だな。
「そっか。大変だけど頑張ってね。外って暑そうだから怪我もあるし無茶しないで」
「ん。それと部活がない日は、やっぱここで夏空と会いたい。もっと夏空と話がしたいんだ」
そう言われ、頬が熱くなる。
いや、大地くんのこの言葉には深い意味はない。ただ、綺麗な字を好きだから、その字
を書く私をもっと知りたいって思ってくれているだけだ。自惚れない。自惚れるわけない。
「うん。私も話したいし、やっぱここで勉強もしたいかな」
「じゃあ、連絡先。あ、パソコンのメールアドレス、一回作ったんだよなあ。そっちを渡そうかな」
「ふふふ。実はこの一週間でもう問題集は終わってるんの」
「へえ、早いじゃん」
まあ、大地くん迷惑をかけてしまったと、自分の行いを恥じて何も考えないようにただひたすら問題集を解いていたもん。
「だから誕生日の日にスマホを返してもらえるの。返してもらったらアドレス教えるね」
「誕生日?」
「うん。七月の最後の日。だから――」
「じゃあその日、お祝いする。いつなら会える?」
え。お祝いする?
お祝いしてくれるの?
「まあ、無理とは言わねえよ。家族とか友達と過ごしたいだろうし」
「え、いえ! 嬉しい。えっとどうしよう。夜は家族に祝ってもらうんだけど」
大地くんにお祝いしてもらえるの?
夏休みも会えるのは嬉しい。でも松葉杖だよね。会えるのは嬉しいけど、動くのは申し訳ないかな。どうしようかな。
「じゃあ、旧図書室に待ち合わせでも大丈夫?」
大地くんに言われて、私はただただ夢心地の中、頷くしかなかった。
***
その後、帰ったあとに大好きなアップルパイを食べるのが楽しみだったのに、今度は胸がドキドキして胸がいっぱいで食べられなかった。
「お母さん、お姉ちゃんぼうっとしてやばいよ」
「やっぱ現代っ子にスマホ没収は、太陽を浴びれないひまわりみたいに栄養がとれなくなるんだよ」
「何言ってんの。あんたたちは早く食べちゃいなさい。夜ご飯食べられなかったら許さないからね」
はあ。
大地くんが私の字をきっかけに、私のことを知ろうとしてくれてる。
ずっとコンプレックスに近かったけど、こんなに嬉しいことはない。
なんだか嬉しくて、胸がいっぱいだ。
大好きなアップルパイが頬張れないほどに、幸せだ。
アップルパイにフォークを突き刺せないほど、ぼうっとしていると階段を下りる音がした。
――雅兄だ。
「母さん、図書館行ってくる」
「あら、ごめんね。うるさかった?」
塾が休みだった兄は、首を振る。
そしてフォークを突きささず、アップルパイとお見合い中の私を見た。
最近は深夜も、何かに憑りつかれたように勉強している兄だ。
世界中を旅して、石油を掘って石油王になるなんて、どこかおバカな話ももうしないような、穏やかな瞳をしていた。
「夏空、ごめんな。誕生日も俺、塾だ」
「ううん。お兄ちゃんも勉強無理しないでね。ありがとう」
こちらから話しかけれなかったから、雅兄から話しかけて貰えて嬉しい。
国立医大ってきっと難しいんだと思うし、私たち妹が沢山いるせいで私立は考えていないのだとしたら、きっと雅兄はプレッシャーもすごいはずだ。
私はようやく喋れたから、それだけで嬉しい。
「今は勉強以外考えたくないからさ。無理してるように見えたら悪い。心配かけたな」
苦笑した兄は、冷蔵庫から牛乳を取り出して、コップに注ぐ。
「お兄ちゃん、アップルパイ食べない? 信海くんが持って来てくれたよ」
「ウミが? あいつは受験大丈夫なのか」
よくぞ言ってくれた!
母も妹たちも騙して、信海くんは優等生のふりしている。
いや、優等生なのかな。塾は毎日行っているとは宣言していたけど、疑わしい。
一学期の期末テストで、全ての教科のテストを白紙で出したらしいよ。
兄にそう伝えたら、きっと兄は全力で信海くんを心配して相談に乗ってくれるだろう。
兄だったら、信海くんを分かってあげられると思う。
「まあ、俺よりも大丈夫だったか。あいつなら」
牛乳を飲み干すと、ゆすいで台所に置く。
「雅兄」
あのね、と言おうとして、兄の目の下に隈があるのが見えて躊躇した。
「ん?」
口をゴシゴシ拭いていた兄が首を傾げる。
今、ただただひたすらに頑張って勉強している兄に信海くんのことを相談したら駄目な気がした。
――御園水音さんの本のことも聞けない。
「そういえば、中学校の図書室がバーコード化されるんだけど、四年前から返却されてない本があるみたい。雅兄じゃないよね?」
「ふうん。俺が本を借りぱくするように見えるのか」
苦笑しつつも、知らないよって言われた。
それ以上は何も言えなかったので、兄の背中を見送った。
もし兄が大切な人を失っていたら。
それで喘息が悪化して入院していたのなら。
『良かった。泣いていると思ったよ』
眠っている兄に話しかける信海くんに、ちょっとだけ違和感があったのを覚えている。
『僕はもう、疲れちゃったけど』
雅兄はまだ頑張れる?
信海くんの声がした。
雅兄の入院しているベッドの傍で、信海くんはそう言ったように思えたんだ。
「じゃあ行ってくる。閉館までいるから」
「はーい。無理しないのよ」
母が本当に心配そうに言うと、兄は曖昧に微笑んだだけで行ってしまった。
妹二人は、アップルパイに夢中で気づいていない。憑りつかれたように勉強するか眠っている兄の ことが、きっと分かっていないと思う。
まるで何も考えたくなくて一週間、ひたすらに問題集を解いていた私に似ている。
今、兄に何も聞けないような、聞いてはいけないような気がした。
「……信海くん」
じゃあ、信海くんの心の本音は?
大地くんなら何か知っているのかもしれない。
ただこれ以上、信海くんのことを探るのは駄目だよね。
信海くんも受験生だし、本人に聞いても大丈夫なのかな。
分からない。でも結局、あのノートは持って帰っていいのか分からず、あそこに置き去りにしてきた。
信海くんの本音が知りたい。大地くんのことを考えても、信海くんのことを考えても胸がざわざわするの。
ただ大地くんのことを考えると、胸がばくばくというか甘く締め付けられる感じで、信海くんのことは、不安で。なんだかバランスが悪くて今すぐ崩れてしまいそうな、不安が胸を過る。いつも私には兄のように接してくれていた。
信海くんは、誰を頼ったり甘えたりできるんだろう。
それだけが心配だった。
信海くんがせっかく朝一で並んで買ってくれたアップルケーキは、ようやく口に入れて食べたのに、なんだか複雑な味がした。
***
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