この恋は、風邪みたいなものでして。

篠原愛紀

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症状一、自覚症状はなし。

症状一、自覚症状はなし。③

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少し椅子を離して座ると、お盆を膝に乗せる。

「今日はおじいちゃん調律師さんじゃないんですね」
「ああ。最近、先生は腰が痛いらしくてね。身長も縮んだから調律も大変なんだ」

そう言うと、腕まくりをする。背筋がよく、確かに彼はすらりと背が高い。
マスクとサングラスを外せば、格好良いんじゃないかな。

「そうなんですね。心配ですね」
「心配だが、俺はこのピアノの調律をしたかったから、運命を感じている」

運命を――。そう言われると、私もつい素直に言葉が零れてしまう。
「私もです。このピアノが、『シャングリラ』から撤去されるって聞いた時に悲しかったんです。でも此処で引き取って貰えるって聞いて、絶対に此処に就職しようって決めてたんですよ」
「このピアノが?」

そう尋ねられ、頷く。
ここの面接で志望動機を聞かれた時と同じ内容を、調律師の彼に言ってしまう。

「そうなんです。私が5歳のときに初めてピアノの発表会をシャングリラのホールでした時に、このピアノで弾いたんです。しかも、誕生日でした。嬉しくて――でも、幼馴染のいじめっこに可愛くセットしてもらった髪をぐしゃぐしゃにされちゃって」

あの日。ピアノなんて興味が無いはずの幼馴染は、多分邪魔したくて発表会を見に来たんだろう。引っ張られて、グシャグシャになった髪で、私はホールを飛び出した。母や、先生が探す中、私はどこかのテーブルの下で隠れて声を殺して泣いていた。

『わかばちゃん?』

身体を小さくして、テーブルの下を覗いてくれたのは、サラサラな髪の、優しく笑う綺麗な少年だった。思わず涙が引っ込むような優しい笑顔で、彼は私にリボンを付けた猫を渡してきた。

『誕生日、おめでとう。この子を大切にしてくれる?』

発表会で、演奏を頑張ったら猫を飼いたいと親にお願いしていた。
そのクリーム色で黒のブチがある可愛い猫は私の腕の中へするりと入って来ると頬を舐めた。

『髪、ぐちゃぐちゃだね』
『……』
そうだ。ピアノを演奏しなきゃこの子は飼えない。でもこんな髪じゃ、出たくない。
『せっかく可愛いのにね。おいで。俺が結んであげるよ』
『え。おにいさん、できるの』
彼は猫からリボンを解くと、中へ入ってきた。そしてそのリボンで私の髪をポニーテールにしてくれたんだ。
『できたよ。ほら、行っておいで』
『あ、ありがとう! ありがとう! お兄さん、凄い!』
飛び跳ねる私が、テーブルの天井で頭を打つと、彼は猫を奪って優しく笑った。
『一緒に、弾こうか?』

猫の手をふりふり振って私の背中を押してくれた。あの時に連弾をしてくれて、最悪の誕生日を一瞬で最高な思い出の誕生日にしてくれた。


「同じピアノ教室で彼を一度も見ることは無かったから、もしかしたら彼は私の夢の中の人なのかもしれません」
それでも、間違えない。あの人が私の初恋だ。
彼が理想すぎて、他の人へ恋をすることも出来ず、それどころか、幼馴染のせいで男の人が苦手になっていた。彼と理想の恋愛を妄想するために、恋愛漫画を読んでいるぐらいだ。


「ぷっ」

マスクを抑えて、調律師さんは堪え切れずに盛大に吹いた。
「子供っぽい」
クスクスと笑う彼に、恥ずかしくて下を向く。でも、本当だ。22歳にもなって、きっと大人になりきれていない。笑われても仕方が無いのかもしれない。
「すいません。お仕事の邪魔をして」
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