また今度、会えたら

𝐄𝐢𝐜𝐡𝐢

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 街頭が照らすその場所は、よく知っている場所であり――というか、お店に入る前にいた場所だ。バイトのある日は毎回通る一本道。そこを、疲れた顔をしたサラリーマンや学生が通り、居酒屋の店員さんが客引きをしている。そんな、馴染みのある光景を前に、僕は呆然としていた。

 ……何が起きたのだろうか。

 視界に映っていたものが、一瞬のうちに、まるっきり違うものに変わっていたのだ。それだけでなく、先ほどまで感じていたはずの木材の香りも、当然のように感じることはなく、油っぽいような、飲食店からの空気を肺に感じる。

「あの、これって……」

 僕は女将さんの方へ振り返り――、

「…………」

 驚愕に、言葉を失う。

 女将さんがいないのだ。
 それどころか、さっきまで自分がいたはずの店がなくなっており、そこにあったはずの路地は――見知らぬ空間となっていた。
 建物と建物のあいだ。そこを通り抜けた先には、こことは別の通りが見え、その通りを挟んだ向こう側には、よく知らないアパレル店の看板が、静々と発光している。

 石畳だったはずの路地は――何もない、アスファルトの路地となっていたのだった。

「っていうか」

 ……おかしいだろう。

 僕が今いるのは、店の“正面出口側”の通りだ。
 路地を真っ直ぐ進んだ先の店に入り、そのまま真っ直ぐ、店の奥へとに進んでいたはずの僕が、なぜこちら側の通りに出ているのだろうか。疑問が次々とわいてくる――が、

「それにしても」

 ……腹、減ったな。

 空腹はピークに達しており、ひとまずその欲求を満たすのが先だろう。夕食をとろうと思い立ってから、恐らく約一時間弱、結局も口にすることができなかったのから、それもそのはずだ。
 今なら多少がっつりしたものもいけるだろう。というか、この際、なんでもいい。そう思いながら、僕はスマホの時計を何気なくチェックする。そして――

「…………」

 僕は再び、言葉を失う。
 スマホのディスプレイには、二十一時十五分と表示されていたのだった。

 ……なんなんだ、まじで。

 おかしいのだ。それだと――バイトを終え――私服に着替え――通りを歩き――石畳の路地を見つけ――今という、ここまでのことが、約十五分の出来事だった、という話になるのだから。それに、約一万文字。それだけの話が、わずか十五分程度の出来事だったなんて、そんなわけが……。――いや、その辺のさじ加減については、なんともいえないし、いうべきではないだろう。いらぬ誤解を生んでしまわないように、この状況について、言い直し、もとい思い直しをするのであれば、つまり……あれ? っていうか、なぜ僕は一人で、こんなことを考えているんだろうか。……どうやら、あまりの出来事に――気が動転(?)していたみたいだ。
 僕は落ち着きを取り戻そうと、ひとまず深呼吸を繰り返した。

「いや、まあ」

 ……とりあえずは、飯だ。

 ついでに、他の時計の確認もしたい。可能性はほとんどないと思うが、スマホが壊れている可能性だってあるからだ。
 僕は気分を落ち着かせると、なにげなく目に付いた和風の定食屋に入ることにする。

 『ウィーン』と駆動音を立て、自動ドアが開いた。
 店に入り、見渡してみれば、ちらほらと空席が見える。それを確信すると、僕は出入り口の横にある発券機を見ながら、食べたいものを決め、食券を買い、適当な席に座った。

 和風の店だ。しかし、感じた匂いは、木というよりかは、お茶の香りに近い。
 店の壁に掛けられている時計に視線を向けてみる。すると、針は、二十一時二十分に差し掛かろうとしていた。食券にも、同じくらいの時間が印刷されている。

 ……まあ、そうだろうな。

 それらのことに、僕はさして動揺することなく、水を持ってきた店員に食券を渡した。
 『ジャラ』――手の中の小銭が鳴る。千円を使った、そのお釣りだ。電子マネーを使ってもよかったが、まだ気持ちがふわふわと宙をういているようで、ついうっかりしていたのである。もしかすると、あの店から、まだ気持ちが戻ってきていないのかもしれない。

 ドアの開く音、木のにおい、電子機器のない空間、何の変哲もないはずの、それらの残像のようなものが、頭にこびりついているようだ。
 僕は頭を軽く振り、気を取り直すと、ひとまずお釣りをしまうために、片手に持ったままの財布の口を開く。

「あれ?」

 ……なんだ、これ。

 財布の中に、見慣れない名刺のような紙が入っていることに気付き、その紙を取り出してみる。
 白い和紙のようだ。
 どちらが表で裏なのか、わかりやすい目印はない。片面には何も書かれておらず、その裏側を見てみると――

[――七月十四日、二十一時三十分にお待ちしております]

 と、書かれており――【握】の文字で、文章は締めくくられていた。

 ――七月十四日。それは、僕が【握】というお店に行った日から、ちょうど一週間後の日付だ。特に予定のない日であり、まるで自分自身で決めたかのように――今日の日付が、あの和紙には書かれていた。

 一週間、僕は相変わらず、バイト中心の毎日を過ごしていたが、日常にまったく変化がなかったわけではなく、先週感じた焦燥感のようなものが、初めからなかったかのようにすっきりと消えており――まあ、いっか。と思うくらいには、肩が軽くなっている……気がした。
 ひょっとすると、例の悪臭版アロマセラピー(?)のおかげだろうか。などと思ったりもしたが、気持ちの変化は、時間が経ったことで解消したようにも思えるような、ささやかなものに過ぎず、そもそも、あれが本当にあった出来事という確証がないのだから、なんともいえないのである。

 記憶はあっても――店自体が、存在していないのだ。今日バイトに向かう際にも、路地を見て、何も無いことを確認している。
 今、あの店が存在していたことの証明として残っているのは、財布に入っていた一枚の小さな和紙だけであり、結局のところ、記憶だけがはっきりしているあの日の出来事には、何のオチもついておらず、もやっとした気持ちを残したまま、長いようで、短いような一週間を過ごすことになったのだった。
 僕は財布の中から、一枚の和紙を取り出すと、そこに書かれている文字に視線を滑らせていく。

「お待ち……しております」

 ……って、言われてもなあ。

 店が無いのに、どうやって行けというのだろうか。それに、約束した記憶はないので、その通りにする義理なんて、どこにもないだろう。だというのに、バイトを終えた僕は自然と――稲荷寿司を片手に、例の路地へと向かっていた。

 ……まあそれでも一応、行くべきだろう――約束を、したらしいのだから。

 そう心中で思いながら、僕はいつも通り、駅へと続く道を歩いていく。いつもと変わらない道だ。いつも通り――僕はサラリーマンとすれ違い――学生とすれ違い――何人もの他人の横を通り抜けて――道なりに、歩を進めていく。そして、もうまもなくだ。真っ直ぐ伸びるその道の先に、一本だけ横道があり、そこを覗けば、いつもどおりの――

「…………」

 僕は立ちつくし、【握】と書かれた暖簾を、しばらく呆然とみていた。
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