誰も知らない声

𝐄𝐢𝐜𝐡𝐢

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『こえ』

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 揺れるバスの中。
 視界の先を木々が通り抜け、いつも通りの朝の景色が過ぎ去っていく。
 このまま、バスの振動に身を任せていれば、あと三十分もしないうちに、俺の通う高校につくといった感じだ。

 車内はそれなりに混んでいて、サラリーマンにOL、お年寄り。同じ制服姿の知らない人たちがちらほら見え。
 俺は普段と変わらない、なんてことのない時間をすごしていた。
 と、そのとき、

『あっ……』

 その『声』が聞こえ、俺は身を硬くした。
 声帯からの声ではなく、テレパシーのように響いたそれは、おそらく俺にしか聞こえていないようで。
 俺はなにげなく周囲へ目を滑らせてみたが、誰一人、反応している人はいない。

 とはいえ、その現象は、今に始まったものではなく。
 どういったものなのかは、理解している。

 むしろ理解しているからこそ、俺は驚くわけでもなく。
 違う感情で、固まっていたのだった。
 というのも、

『やばい……、おならがでそう……』

 なぜだか知らないが、昔から――『おならを我慢している人の、心の声』が聞こえてくるという、なんのためにあるのかもわからないような力が、俺の中に宿っていてるようで。
 この力になれていなかったころは、変に反応をしてしまって、少しだけ奇異的な目でみられてしまった、なんてこともあったが。
 それはさておき――。

 いつのまにかそれはあって、物心がついたころには、俺の中にあったもだった。
 そして、その『声』は、バスのちょうど中央、出入り口の前に座る俺の――すぐ横にいる人物。
 ピシッとしたスカートのスーツに身を包んだ、OL風の女性からの声で、

『がまん……。がまんがまん……。ぜったいに……――』

 そこで――ふ、と。声は消える。
 要するに、彼女は――波に耐えたのだ。

 『声』が聞こえるのは、“がまんしている瞬間”だけ。
 つまり、引っ込んでしまえば、声は聞こえないのだった。
 そのことに、俺が人知れず安堵していると、

『うっ……』

 再び、声が聞こえてくる。
 それは、横にいるOLさんの声ではなく、今度は――正面で。
 俺のひとつ前に座る、女の子からの声だった。
 服装は、俺と同じ学校のもので、顔をよくみていないので、はっきりとはわからないが、俺と同じ学校の子のようだが、おそらく知らない子だろう。
 そのこは窓の外を見る動きをすると、

『同じ、制服……?』

 視界の端で認識したのだろう。
 はっきりと目を向けることなく、その女生徒は俺の服装に気づいたようだ。
 そして、

『がまん……。がまん……』

 女生徒は念じるように、心中でそう思い。
 どうにか――波に耐えたようだ。
 しかし――、『あっ、また……』と。OLさんの方から、再び声が聞こえ、

『出したい……、出したい……』

 少しずつ、その声に緊張が混じっていく。
 そして、

『おならだけ……、どっかとんでいけー……。くさいのくさいの、とんでいけー……』

 人の思考というものは、我慢が限界にむかうほど、おかしくなっていくもので、

『もし……。もしこれを、この子の鼻先に、すうぅ~……、ってやったら。どうなっちゃうんだろう』

 ひょっとして、『この子』とは、俺のことを指しているんだろうか。
 気づいているのを悟られないように、俺は窓の外へ、必死に意識を向けているので。
 視線の動きなど、『声』にたいして、些細な様子は、わからず。
 つり革を掴むOLさんの正面にいるのは、俺だが、その視線が別に向いているなんてこともあるだろう。

 とはいえ、彼女がまともな思考で、それを思っているのではない、ということはわかる。
 それは、現実逃避の類に過ぎず、

『やばい……。やばいよやばいよー……。もう、すかしちゃおうかなぁー……』

 あせりの滲むOL風の女性の『声』。
 その声に、俺は頑張れと、応援したくなってくる。
 がまんしているだけ、まだ真面目、だと思うからだ。

 中には、いかにもしそうもない人が、迷うことすらせず、完璧にすかしてのける。
 なんてこともあるのだから、世の中わからないもんで。
 がまんしているだけで、十分好感が持てるというものなのである。
 なんて、そんな好感を、俺がひそかに抱いたところで、“彼女たち”からしたら、なんの特もはなしだろうが。

 ちなみに、男の声は聞こえたことがない。
 だから――彼女たち、と認識しているのだが、それはさておき――。

 OL風の女性の我慢は、ついに――限界すれすれ、といった感じのようで。
 彼女は『よ、よーし……』と、心中で思うと。

『やっちゃうぞー……。すかしちゃうぞー……。皆やってるって、テレビでもいってたし……、私だって……』

 と――そこで、OLさんの声が途切れる。
 要するに、それは例の――放出したいという欲求が、引いたことを意味するわけで――、

 むわああぁぁ~~……

 不意に、その臭いは、漂ってきた。
 大根系の、酸味のある、きつめの臭いだ。

 まあ、俺は来るとわかっていたので、覚悟ができていたのだが。
 数人ぶん、息をつまらせているような気配を感じた。
 もしかすると、気のせいなのかもしれないが。

 横にいるOLさんからしてみれば、そのぐらい些細なことも、他人事ではないだろう。
 表面的には、羞恥心をうまく隠せているようだが、つり革を握る手に、少し力がはいっている――ような気がする。
 動揺のようなものは、そのぐらい些細なもので、彼女が放屁したなどと、思い至るのは、おそらく俺ぐらいだろう。
 そして――、

『くっさあぁ……。もしかして、私の前に座ってるおじさんが、オナラをしたのかな……? おえぇ……』

 『目が回るぅ……』と、心中でこぼしたのは、俺の前に座る人物で。
 同じ高校の知らない女生徒だった。
 つまり、彼女欲求もまた、再び膨らんできてしまったようで、

『そっちがその気なら、お返し……、してやろうかな……。目には目を……、毒には、猛毒を……なんて』

 『声』の調子的に、それを本気で思っているわけではないように聞こえる、たぶん。
 彼女は今、おそらく自分の欲求を満たすための、理由作りをしているのであり、

『ごめんなさい……。誰だって、おならぐらいするよね……。って……、私ってば、誰に謝ってるんだろう……』

 と、人知れず、自己嫌悪で落ち込んでいることなど、誰も知るはずもなく。
 知る必要もなく。

 それを知ってしまった俺としては、彼女の考えが――変わることを、祈るばかりだ。
 彼女は少しずつ、それを正当化しようとしている。
 彼女は一歩ずつ、階段を下りるように、扉を開くようにして、それを開放しようとしているようで――、

『あっ……、だめ……。ごめん、なさい……』

 と――そこで、その声はやみ。

 ふわああああぁぁああぁぁ~~……

「っ……!?」

 俺はあふれそうになる声を、懸命に抑えた。
 嗅覚から――衝撃的な腐卵臭の感覚がきたのだ。
 それは覚悟をする暇があった俺をもってしてもなお、驚愕してしまうようなもので。
 まあ、真後ろに座っていたこともあるだろうが。
 それをもろに吸い込んでしまったであろう周囲にいる数人が、むせていた。

 しかし、誰一人、窓を開けることをしない。
 余計な動きをすれば、自分が疑われてしまうし。
 下手に動いて、放屁した人を無闇に傷つけまいとする配慮も、そこにはあるだろう。

 そんなこんなで、おのおのがその臭いに対して、やりすごそうとしているのである。
 だが、そんな心を踏みにじるかのように。
 生理現象というものは残酷で、

『うっ、ぅえええぇぇ……、何この臭い……。頭がおかしくなりそう……。けど……』

 『今なら、ごまかせる……?』と、そう思考したのは、俺の横にいるOL風の女性だった。

 ……。

 またか。
 本当に、今日はついていない。
 丁度、放屁を催すタイミングの二人にはさまれるだなんて。
 こんな不運、そうそうないだろう。

 まあ、そういった趣味の人には、いいのかもしれないが。
 生憎、俺にはそういったものを好む思想はなく。
 この状況は俺にとって、ただただ苦行でしかなく、

『――めんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。って……、嘘でしょ……。今出したばかりなのに……、また……』

 なんと、酷い状況なのだろうか。
 その声は、いわずもがな、またも正面にいる同じ学校の女生徒のもので。
 しかし、そのタイミングで――。

 ピンポーン

 と、俺のすぐ横にあるボタンに、『止まります』の文字が点灯し。
 その文字が見えたとたん、俺の中に迷いが生まれた。

 一度、バスを降りるべきか。
 そうすれば、こんな特殊な状況に悩まされなくてもすむのだ。
 しかし、それをするほどのことなのだろうか。

 一度バスを降りてしまえば、またバスを待たなければいけない。
 それに、学校に早く着いてしまったほうが、その分ゆったりとできるわけで――。
 と、つい、色々とよぎってしまう。
 そして、次の停留所につき、バスはとまった。

 しかし――俺は立ち上がることはせず、乗客を一人だけ降ろし、バスは発車してしまう。
 億劫になってしまったというのもあるが、ドアが開いた際、車内の空気が喚起されたり、許容できるストレスの幅が広がった、など、いろんな理由があり、なんだかんだで、降りなかったのだ。

 それに、プラス思考に考えてみれば、二人がどうにか我慢をしてくれるパターンだって、考えられるわけで。
 と、俺がそんなふうに思っているそばから、

『いや……、やっぱり、がまんしよう……。よ、よし……、がんばれ、私のお尻……』

 と、OL風の女性が思考し、

『だめ。これ以上は、やめておこう……。今日のはものすごく臭いみたいだし……。後ろの人、同じ学校っぽいから、ばれたら、変な噂でも流されちゃうかも……』

 正面に座る女生徒が、思い直す。
 そう、放屁というのは、ばれない自信があろうと、その緊張感は半端ではなく。
 だから、こういうふうに、考えが変わることなんていうのは、よくあるのだ。

 と、まあ。
 ひとまずのどころは、俺の判断がいい方向に向かったみたいだが。
 とはいえ、

『がんばれ……、がんばれ……。私の、こう――、はっ……。いま、いろんな意味で、あぶなかったぁ……』

 OL風の女性は、バスの振動と格闘しているようで、
 正面のこもまた、

『いま、おならを全力で出せたなら……。どんなに気持ちがいいんだろう……。う、くっ……』

 女学生は、もぞもぞと、さりげない動きで体制を変えると、

『お腹の中のガスだけ、どこかへテレポートできたらいいのに……』

 思考が、だんだんとオカルティックな方向へそれていき。
 そして、そんな『声』をすぐそばで聞いている俺も、気が気ではなかった。

 ちなみに、学校の近くの停留所まで、あと2つぶんだ。
 もう少しの辛抱というところで。
 希望は見えてきていた。

 しかしその道に、信号という障害が立ちはだかる。
 ふだんなら、なんてことのない時間、だが、

『でる……、でちゃう……』

 こういうときは、

『うっ……、苦しい……』

 長く感じるもので。
 OL風の女性のあせるような声と。
 女生徒のきつそうな声が、俺の焦燥感をあおってくる。
 しかし、まだ先ほどの信号は青にはならず、

『もう……、やっちゃおうか……。よくがんばったよ、ね……』

 あきらめかけるOL風の女性。
 そして、

『がんばれ、わたし……。っていうか、我慢した分、強烈になってそうだし……、絶対に、ここでだすわけにはいかないよ……』

 女生徒のほうは、まだ気合が残っているようだ。
 それから少しして、信号が青になり――、

『へへっ……。ほ、ほら……、早く逃げないと、私のガスの餌食になっちゃうぞー……。なんて……、私ってば、なんて酷い想像を……』

『ははっ……。もう……、だめかも……』

 変な妄想をするOL風の女性と、絶望感を漂わせる女生徒。
 そんな二人は同時に、

『『次のバス停で降りよう』』

 と、そう思った。
 だが――、

『『あれ……?』』

 二人同時に、疑問の『声』。
 理由は単純。
 バスが停留所を通り過ぎてしまったのだ。

 それもそのはず。
 誰も止まりますボタンを点灯させていなかったのだから。
 止まるわけがないのである。

 すると、とうとつに、

『ああ……、もう、いいや……』

 あきらめたような、OL風の女性の『声』が聞こえ、

『ごめんなさい……。もう、むりだよ……』

 気持ちが完全に崩壊したような女生徒の『声』。
 恐らく、よっぽどがまんをしていたのだろう。
 そして、もう無理だと判断したところに、まさかの展開。
 ただただ、絶望の空気が、流れていた。

 もっといえば、それは俺も同じで、

『『あっ……、でる……』』

 そんな二人の『声』が聞こえたあと。
 俺は急いで肺の空気を入れ替えてから。
 静かに、息を止めたのだった――。
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