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第二〇話
しおりを挟むヨルンへの返事を先延ばしにしたまま、さらに数日が経ちました。
モヤモヤとした思いを抱えつつも、いつものように高い岩場の上で昼寝をしようとしていた私は、空を見上げてハッと息を飲みました。
黒い巨大な塊が、フラフラしながら飛んでいます。
ザイオンでした。
怪我でもしているのか、なんとも危なっかしい飛び方です。
案の定、彼は体勢を崩して、真っ逆さまで落ちてきました。
結界を破り、公爵家の敷地内に入ってきます。
どぉおんっっ、と、以前とは比べ物にならないほど、ものすごい地響きがしました。
この光景を目にしていなかったら、隕石でも落ちてきたのかと思うでしょう。
ザイオンは半開きの口からだらりと舌を出して伸びています。
見れば全身に無数の矢が突き刺さっていて、血まみれでした。
私は彼が死んでしまったのかと思い、慌てて近づいていきました。
こういう時に限ってヨルンはいません。
ワイスさんの仕事を手伝うため――とある魔獣の生態を調べるために他国の山岳地帯へ行ってしまいました。
しばらくは戻らないでしょう。
「ギャっ、ギャー、ギャ?(ザイオン、どうしたの。大丈夫?)」
けれど彼は答えません。
その代わりに、彼の巨体に張り付いて隠れていたモノが答えました。
「あらあら、レッドドラゴンを見るのは何百年ぶりかしら」
ザイオンの血をたっぷりと浴びていたせいか、匂いに気づくのが遅れました。
イングリットさんです。
ただし、パーティーで会った時とは、かなり印象が違います。あの時はドレスを着ていたせいもあるでしょうが、今の彼女は重装備で、ドラゴンの血を浴びた姿はさながら戦女神といった感じでしょうか。口元は笑っていますが、目が笑っていません。射殺すような目つきで私を見ています。
「まさかツガイがいたなんてね。可哀そうに。独りぼっちは嫌でしょう? すぐに彼にもとへ送ってあげるわ」
おそらくザイオンはイングリットさんに見つかり、激しい戦いの末に追い詰められて、必死になってここまで逃げてきたのでしょう。もしかしたら、結界を破壊することでワイスさんに助けを求めに来たのかもしれません。かろうじてザイオンに息があることを確認すると、私はイングリットさんを引き付けるためにその場から逃げ出しました。ワイスさんとヨルンが駆け付けるまで、時間稼ぎをするつもりでしたが、
「逃がさないわよ」
足に激しい痛みを感じて、動けなくなってしまいました。
見ればたくさんの矢が刺さっていて、刺さった部分が青紫色に変色しています。
毒です。
毒におかされた部分が腫れて、しびれてきました。徐々に平衡感覚を失い、吐き気までしてきます。
たまらずうずくまる私のところへ、イングリットさんがゆっくりとした足取りで近づいてきます。
「この程度で動けなくなるなんて、なんてひ弱なドラゴンなの」
口調は呆れていましたが、私を見る目は相変わらず殺意と怒りに満ちていました。
「自分よりも強い相手と戦うのが初めてなんでしょ? どうかしら、これで少しくらい、捕食者に怯える獲物の気持ちが理解できた?」
かろうじて動かせる前足を使い、私は腹ばいになって、低く低く頭を下げました。降参のポーズをとって、私には一切戦う意思がないこと、敵意がないことをイングリットさんに伝えようとしましたが、
「命乞いをしても無駄よ。私はお前たちドラゴンのことをよく分かってるもの。獰猛でずる賢くて、人間をすぐに騙そうとする」
彼女はためらいなく、弓矢を私に向けていました。
それでも私は、足を引きずって逃げようとします。
「空腹でなくても、ドラゴンは時々、遊びで動物を殺すのよね? 狩りの練習とかいって。獲物を待ち伏せして、驚かせて噛み殺すの。それが楽しくして仕方ないのよね? 性質が悪いったらないわ。それでどうして精霊なんて呼ばれて、神聖視されるのかしら、理解に苦しむわ」
私が一歩ずつ動くたび、鋭い矢が柔らかな腹部に、胸部に、突き刺さります。
あまりの痛みに、私は悲鳴を上げてしまいました。
か細く、息も絶え絶えな声でした。
するとどこからともなく、ドラゴンの吠えるような鳴き声が響いてきました。
私のことを心配し、捜しているようです。
呼び声に応じるべく、私も甲高い鳴き声を上げました。
「仲間を呼んでも無駄よ。お前のツガイはもうとっくに……」
イングリットさんがハッと息を飲み、耳を澄ませたまさにその時でした。
黄金色のドラゴンが現れ、彼女に襲いかかります。
鋭い牙に噛みつかれそうになったイングリットさんは慌てたように飛びずさると、ドラゴン目掛けてすばやく矢を放ちました。
けれど魔法の障壁に阻まれてしまい、矢はあえなく弾かれてしまいます。
「初めて見るドラゴンだわ。しかも魔法まで使えるのね」
ザイオンとの戦いで慣れているのか、攻撃を防がれても特に驚いた様子はありません。
一方のヨルンは傷ついた私の姿を見ると、激高したようにイングリットさんに向かっていきました。
「ギャーっ、ギャっ、ギャっギャっギャ(ヨルン、だめっ。人間に戻ってっ、戻ってっ)」
けれどヨルンは言うことを聞いてくれません。慣れないドラゴンの身体でイングリットさんに立ち向かっていきます。明らかに不利な戦いでした。きっと今のヨルンは頭に血が上っていて、冷静に物事を考える余裕がなくなっているのでしょう。
一方、百戦錬磨のイングリットさんは余裕の表情で迎え撃ちます。
ヨルンは大きく口を開けると、凄まじい熱量の火炎をイングリットさんに向けて放ちました。
けれどイングリットさんには当たりませんし、かすりもしません。すぐに避けられてしまいます。
ドラゴンの動きを知り尽くしたイングリットさんに、肉弾戦では勝ち目がないと悟ったのか、ヨルンはすぐさま魔法メインの攻撃に切り替えます。魔法で風を起こして火炎の威力を高めると、攻撃を広範囲に広げます。ですがイングリットさんは衣服が燃えても顔色一つ変えず、走り出しました。そして高い岩場を見つけると駆け上がり、そこから黄金色のドラゴン目掛けて矢を放ちます。
ヨルンは魔法の障壁で矢の攻撃を防いでいましたが、長くは持ちません。徐々に数と威力を増していく矢の攻撃を受けて、障壁は徐々にひび割れ、やがて破壊されてしまいます。
障壁が破られた次の瞬間、無数の矢がヨルンに襲い掛かります。
ヨルンは即座に風を起こして矢を吹き飛ばそうとしましたが、全ての攻撃を防ぐことはできず、何本かの矢が彼の首や肩に突き刺さってしまいました。直後、毒の影響でヨルンの動きが鈍くなります。その隙を、イングリットさんが見逃すはずがありません。
「この手でとどめを刺してあげるわ」
彼女は岩場を駆け降りると、短剣を手にして近づいてきました。
イングリットさんは黄金色のドラゴンの正体がヨルンだということに、全く気づいていない様子です。
こんな悲劇があるでしょうか。
一体こんな時に、ワイスさんは何をしているのでしょう。
私は最後の力を振り絞って立ち上がると、イングリットさんの注意を引くべく、大きな大きな声で鳴きました。
毒のせいか、とても悲しげで、苦しげな病人のうめき声のような鳴き声が出てしまいましたが、
「……そんな鳴き声、初めて聞いたわ。まだ私に命乞いをするつもりなの?」
イングリットさんの注意を引くことはできたみたいです。
彼女は心底不愉快だと言わんばかりの目で私を見ていました。
「だったらお前から先に殺してあげる」
けれど私の鳴き声に反応したのはイングリットさんだけではありませんでした。
私に近づこうとした瞬間、イングリットさんの身体が横に吹き飛びました。
ヨルンの尻尾が当たったみたいです。
せっかくの私の努力が無駄になってしまいました。
イングリットさんの注意が、再びヨルンに向けられてしまいます。
岩場に激突したものの、イングリットさんはすぐさま体勢を立て直し、こちらに向かってきました。
「ツガイというのは本当に厄介ね。人間みたいに、互いを守り合おうとするんだから」
20
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