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第八章 秘剣弓弦断ち
八の八
下僕に襲撃者の死骸の見張りをさせて、香流は後始末と報告のために、北町奉行所へ戻った。栗栖小源太はどこへ消えたのか知らない。決闘の後、心がどこかへ抜けてしまったようになって、ふらふらと歩き去って行った。
香流が町奉行の執務部屋へと行くと、石谷左近将監は帰らずに、しんと静まり帰った番所で執務を続けていた。
石谷はまだ正式に町奉行に就任したわけではなかった。
去年の十一月に前の北町奉行、朝倉石見守が在職中に急死し、後任が石谷に決まった。幕閣の中心人物松平伊豆守の意向を受けての人事である。しかし、なにぶん急なことで、石谷は現職の先手頭の総括や後任への引き継ぎを行いつつ、同時に町奉行の職務をこなしていた。ひとりでふたつの役をこなすのは人並みすぐれた才覚があってのことだが、まだ町奉行見習いのような立場だから、古参で熟達者の南町奉行神尾備前守の助力を得てのことであった。
報告を聞いて石谷は、
「そうか、しくじったか」
とつぶやいた。
「はい、刺客を生かしたまま捕縛し、取り調べて張孔堂の名を出させるつもりでおりましたが、件の女牢人が無用な手出しをしまして、刺客を斬ってしまいました」
「うむ、以前おぬしに聞いた、男の身なりをした女のことだな」
「はい」
石谷は顎に手を当てて、じっと部屋の隅を見つめた。
この時すでに五十後半である石谷は、全体に痩せ型で、こけた頬に太い揉み上げと濃い口髭をたくわえていた。一見、貧相にも見えるその姿であるが、大坂の陣や島原の乱を戦いぬいた古強者だけに、体からは一種の気概と貫禄のようなものが滲み出ていた。今、暗い部屋の隅を見つめる細い目にも、智恵伊豆とあだ名される松平伊豆守から信頼されるだけの、切れ者としてのぞっとするような鋭利さが見えた。
やがて、深い声で石谷はつぶやいた。
「その女は、由井とも交流があると聞いた。口封じをせよと、由井に命じられていたのではなかろうか」
「さて、それは……。ただ、愚直な女です。本人の意思はともかく、由井に誘導されたおそれはございましょう」
「うむ」とまた石谷は考え込んだ。
これだからあの女は、と香流は溜め息をつきたい気分であった。こうなることが予想できたから、張孔堂に近づくなと(懇切丁寧に)助言しておいたのだ。今回の一件が由井の命令を受けて栗栖が斬ったと石谷が判断すれば、軽い身分の香流だけでは栗栖をかばいきれなくなる。
「由井は巧妙だ。そう簡単に腹の内をみせるようなことはせんだろう」
「では、お奉行、きゃつらが動き出すまで待つしかないのでしょうか」
将軍徳川家光が病で臥せっていることは、いくら幕閣がひた隠しに隠しても、噂が一介の町方同心である香流の耳に入るほどに漏れていた。張孔堂一派がなんらかの企てを実行に移すとすれば、家光が亡くなった時が一番あぶない。
だが、石谷は香流の言葉の裏にあるそういう意味合いを気づかぬふりで言った。
「ともかく、わしが正式に町奉行に就任するまで、おぬしらにも手間をかけることになる。すまんが、頼むぞ」
「はい、一所懸命にはげむ所存です」
香流は深深と頭をさげた。
張孔堂の由井の屋敷を小源太がおとずれると、すぐに由井の部屋に通された。由井は落ちつかなげに座っていて、
「どうだった?」
小源太が座るのももどかしそうに、せくように訊いた。
「力およばず、斬るしかありませんでした」
そうして小源太が語った事の顛末を聞き終わると、正雪は天井を見上げ、ぎゅっとまぶたを閉じた。そうしてこらえきれぬものが目の端から落ちそうになったようだ、懐紙を取り出して顔に当て、うつむいて目頭を押さえた。
「貝守は愚かなことをした。あいつはあのままでよかったのだ。他人を見返そうと無駄に勇み立つことはなかった」
「私が未熟なばかりに、斬る必要のない人を斬ってしまいました」
「いや、貴公はよくやってくれた。何の落ち度もない。今日はもう帰って、ゆっくり休むといい」
小源太は、由井の涙が真実のものだと感じた。小源太に好人物だとか人情家だとか思わせるための芝居の涙とはとても思えなかった。組織を守るため斬らねばならなかった配下の死を、心の奥底から悼んでいるように見える。人の命の重みを知り、根底に命の大切さを置いて物を見て考えられる人間なのだろう。小源太の前で悲しみの涙を流すこの男が、世間が言うような山師だとか策士だとか、他人の心を弄ぶような悪人にはとても見えないのだった。
暗く静かな部屋に、由井の鼻をすする音が響いた。
(第八章 おしまい)
香流が町奉行の執務部屋へと行くと、石谷左近将監は帰らずに、しんと静まり帰った番所で執務を続けていた。
石谷はまだ正式に町奉行に就任したわけではなかった。
去年の十一月に前の北町奉行、朝倉石見守が在職中に急死し、後任が石谷に決まった。幕閣の中心人物松平伊豆守の意向を受けての人事である。しかし、なにぶん急なことで、石谷は現職の先手頭の総括や後任への引き継ぎを行いつつ、同時に町奉行の職務をこなしていた。ひとりでふたつの役をこなすのは人並みすぐれた才覚があってのことだが、まだ町奉行見習いのような立場だから、古参で熟達者の南町奉行神尾備前守の助力を得てのことであった。
報告を聞いて石谷は、
「そうか、しくじったか」
とつぶやいた。
「はい、刺客を生かしたまま捕縛し、取り調べて張孔堂の名を出させるつもりでおりましたが、件の女牢人が無用な手出しをしまして、刺客を斬ってしまいました」
「うむ、以前おぬしに聞いた、男の身なりをした女のことだな」
「はい」
石谷は顎に手を当てて、じっと部屋の隅を見つめた。
この時すでに五十後半である石谷は、全体に痩せ型で、こけた頬に太い揉み上げと濃い口髭をたくわえていた。一見、貧相にも見えるその姿であるが、大坂の陣や島原の乱を戦いぬいた古強者だけに、体からは一種の気概と貫禄のようなものが滲み出ていた。今、暗い部屋の隅を見つめる細い目にも、智恵伊豆とあだ名される松平伊豆守から信頼されるだけの、切れ者としてのぞっとするような鋭利さが見えた。
やがて、深い声で石谷はつぶやいた。
「その女は、由井とも交流があると聞いた。口封じをせよと、由井に命じられていたのではなかろうか」
「さて、それは……。ただ、愚直な女です。本人の意思はともかく、由井に誘導されたおそれはございましょう」
「うむ」とまた石谷は考え込んだ。
これだからあの女は、と香流は溜め息をつきたい気分であった。こうなることが予想できたから、張孔堂に近づくなと(懇切丁寧に)助言しておいたのだ。今回の一件が由井の命令を受けて栗栖が斬ったと石谷が判断すれば、軽い身分の香流だけでは栗栖をかばいきれなくなる。
「由井は巧妙だ。そう簡単に腹の内をみせるようなことはせんだろう」
「では、お奉行、きゃつらが動き出すまで待つしかないのでしょうか」
将軍徳川家光が病で臥せっていることは、いくら幕閣がひた隠しに隠しても、噂が一介の町方同心である香流の耳に入るほどに漏れていた。張孔堂一派がなんらかの企てを実行に移すとすれば、家光が亡くなった時が一番あぶない。
だが、石谷は香流の言葉の裏にあるそういう意味合いを気づかぬふりで言った。
「ともかく、わしが正式に町奉行に就任するまで、おぬしらにも手間をかけることになる。すまんが、頼むぞ」
「はい、一所懸命にはげむ所存です」
香流は深深と頭をさげた。
張孔堂の由井の屋敷を小源太がおとずれると、すぐに由井の部屋に通された。由井は落ちつかなげに座っていて、
「どうだった?」
小源太が座るのももどかしそうに、せくように訊いた。
「力およばず、斬るしかありませんでした」
そうして小源太が語った事の顛末を聞き終わると、正雪は天井を見上げ、ぎゅっとまぶたを閉じた。そうしてこらえきれぬものが目の端から落ちそうになったようだ、懐紙を取り出して顔に当て、うつむいて目頭を押さえた。
「貝守は愚かなことをした。あいつはあのままでよかったのだ。他人を見返そうと無駄に勇み立つことはなかった」
「私が未熟なばかりに、斬る必要のない人を斬ってしまいました」
「いや、貴公はよくやってくれた。何の落ち度もない。今日はもう帰って、ゆっくり休むといい」
小源太は、由井の涙が真実のものだと感じた。小源太に好人物だとか人情家だとか思わせるための芝居の涙とはとても思えなかった。組織を守るため斬らねばならなかった配下の死を、心の奥底から悼んでいるように見える。人の命の重みを知り、根底に命の大切さを置いて物を見て考えられる人間なのだろう。小源太の前で悲しみの涙を流すこの男が、世間が言うような山師だとか策士だとか、他人の心を弄ぶような悪人にはとても見えないのだった。
暗く静かな部屋に、由井の鼻をすする音が響いた。
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