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第八章 秘剣弓弦断ち
八の七
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宵の闇が包み始めた日本橋は、昼間の喧騒が夢か幻かと思えるほど、人通りは少なくなっていて、もう酒に酔ってふらふらとした足どりの職人風の男が歩いていたり、駕籠屋が威勢のいい掛け声を発しながら橋の向こうから走ってくるばかりであった。
駕籠かきが橋板を蹴って走りすぎていく小気味よい足音が、日本橋の上に響いた。
香流はまるで、いつでも襲ってこい、と言わんばかりに、隙だらけで悠悠と歩く。
日本橋を南へ渡りきると、左へ曲がって楓川に向かって行った。
道行く人はますます減っていって、楓川にかかる高橋が見える頃には、もう人の気配など微塵も感じず、わずかな川音すら耳にうるさく聞こえるほどであった。
神経が過敏になっているのだと、小源太は思った。
いつ襲ってくるかもしれない貝守の気配をさぐるべく、全身の神経を研ぎ澄ませているせいだ。
小源太は貝守をなんとしても助けたかった。無傷で追い払って、張孔堂を抜け、別の人生を歩いてもらいたいと思う。
それはきっと同情なのだろう。人の輪から疎外され、道から逸れていこうとする男を、まっすぐな道へと引き戻してやりたい。女として生きることに違和感がある小源太自身、何かちょっとしたきっかけで、道を踏み外してしまっていた可能性が、いくらもあったことを思えば、そして今後も踏み外す可能性があることを思えば、全て他人事ではなかった。つまるところ、貝守のとった選択を、いつか自分も選んでしまうのではないか、という恐れから生まれた同情心であった。
三人が楓川にかかる高橋にさしかかった時だった。
香流の下僕が、ひっと宵闇を裂くような鋭い悲鳴をあげた。
高橋の反対側、東詰めに人の影がある。
橋の先には、向井将監の屋敷が黒黒と横たわっていた。それを背景に幽鬼のような、ぼんやりと闇に浮かぶ姿がゆらめいている。西の空の端に浮かぶ細い月のかすかな光だけでは、顔形も判別できないが、右手にうっすらと鈍くきらめくものが見えた。すでに抜き身の刀をさげているようだ。
――貝守八惣次。
と小源太が確信した瞬間、だっと橋板を踏みならし、こちらに向かって影が走った。
たもとで下僕が提灯を揺らして橋の欄干に逃げ、香流が十手を懐から引き抜く、その脇を疾風のように走り抜けて、小源太が前にでた。
そのまま走り続ける小源太と、走り寄る貝守の、二本の刀が耳をつんざくような音をたてて斬り結んだのは、ちょうど橋の真ん中あたりであった。
走って勢いの乗った貝守の太刀筋は、凄まじく重く、小源太の刀は弾き飛ばされそうであった。
お互い、走り寄った勢いを急激に反転させて、後方に飛びのき、間合いをとった。
正眼の構えの小源太と八双の構えの貝守が、闇のなかでじっと睨み合う。
貝守が踏み込みつつ刀を振りおろす。が、辺りが暗いせいだろう、間合いが甘かった。小源太は難なく後ろに引いて斬撃を躱した。躱したとひと息つく間をあたえず、振り下ろされた貝守の刀は、即座に小源太の胸を目がけてのびてくる。矢のような突きである。小源太は刀ではじくが、突きの連撃はとまらない。
五度目の突きを小源太は見切った。
貝守の刀の切っ先に、小源太の刀の切っ先を合わせると、巻き込むように回す。秘剣弓弦断ちの流れである。巻き込んだ貝守の刀を、外側へとはじいた。しかし、修練不足であった。続いて貝守の刀を折るべく峰を叩く前に、貝守が、後ろ飛びに身を引いた。引いたまま、三間ばかりも間合いを広げた。
秘剣で相手の虚をつくつもりが、反対につかれたような形だった。小源太は前方にちょっとよろめいた。
八双に構えた貝守が、猛然と走り寄る。
瞬時に互いの刀の間合いになる。なった瞬間、貝守の刀が夜気を裂きつつ、うなりをあげて振りおろされた。
考える間もなく、小源太の体が動いた。姿勢の崩れた体を起こしつつ、刀を左から右へと薙ぎ払った。腕に鈍い重みが伝わる。
腹を真一文字に斬り裂かれた貝守は、勢いのまま数歩走り、橋の欄干にぶつかってとまり、柱に頬をこすりつけるようにして、ずるずると崩れ落ちた。
身をひるがえして、小源太はその姿を見た。
体が寝そべっているのに、柱にもたれた頭はほとんど直角に立っている。その痛ましい死に様を目の当たりにし、小源太の胸に憐憫の情がふっと湧き出るのを感じた。
なんという惨めな死に様であろう。まるで彼の生き方そのもののような死に様ではないか。周囲を見返そうとあがきにあがき、やがてその方途を見誤った男の、なれのはてがこの姿か――。
小源太は貝守の遺骸の前にまわった。
彼の目はかっと見開かれていた。斬られた驚きと、くやしさと、絶望と、憎しみとがその目にまだぎらぎらとした光となって宿っている。
彼の遺体を見つめるうち、小源太は腹のなかのものが喉元へ上がってくるのを感じ、欄干から顔を出すと、川へと吐き出した。
手に、貝守の肉を斬り裂いた鈍く不快な感触がまだ残っている。
はじめて人の命を奪った。奪った相手は、殺めなくてもいい人間だった。
もっと剣術の腕があれば、貝守の命を奪わずにすんだだろう。
胸をかきむしりたくなるような、自分に対する憤りと悔恨が、心の中でのたうっていた。
駕籠かきが橋板を蹴って走りすぎていく小気味よい足音が、日本橋の上に響いた。
香流はまるで、いつでも襲ってこい、と言わんばかりに、隙だらけで悠悠と歩く。
日本橋を南へ渡りきると、左へ曲がって楓川に向かって行った。
道行く人はますます減っていって、楓川にかかる高橋が見える頃には、もう人の気配など微塵も感じず、わずかな川音すら耳にうるさく聞こえるほどであった。
神経が過敏になっているのだと、小源太は思った。
いつ襲ってくるかもしれない貝守の気配をさぐるべく、全身の神経を研ぎ澄ませているせいだ。
小源太は貝守をなんとしても助けたかった。無傷で追い払って、張孔堂を抜け、別の人生を歩いてもらいたいと思う。
それはきっと同情なのだろう。人の輪から疎外され、道から逸れていこうとする男を、まっすぐな道へと引き戻してやりたい。女として生きることに違和感がある小源太自身、何かちょっとしたきっかけで、道を踏み外してしまっていた可能性が、いくらもあったことを思えば、そして今後も踏み外す可能性があることを思えば、全て他人事ではなかった。つまるところ、貝守のとった選択を、いつか自分も選んでしまうのではないか、という恐れから生まれた同情心であった。
三人が楓川にかかる高橋にさしかかった時だった。
香流の下僕が、ひっと宵闇を裂くような鋭い悲鳴をあげた。
高橋の反対側、東詰めに人の影がある。
橋の先には、向井将監の屋敷が黒黒と横たわっていた。それを背景に幽鬼のような、ぼんやりと闇に浮かぶ姿がゆらめいている。西の空の端に浮かぶ細い月のかすかな光だけでは、顔形も判別できないが、右手にうっすらと鈍くきらめくものが見えた。すでに抜き身の刀をさげているようだ。
――貝守八惣次。
と小源太が確信した瞬間、だっと橋板を踏みならし、こちらに向かって影が走った。
たもとで下僕が提灯を揺らして橋の欄干に逃げ、香流が十手を懐から引き抜く、その脇を疾風のように走り抜けて、小源太が前にでた。
そのまま走り続ける小源太と、走り寄る貝守の、二本の刀が耳をつんざくような音をたてて斬り結んだのは、ちょうど橋の真ん中あたりであった。
走って勢いの乗った貝守の太刀筋は、凄まじく重く、小源太の刀は弾き飛ばされそうであった。
お互い、走り寄った勢いを急激に反転させて、後方に飛びのき、間合いをとった。
正眼の構えの小源太と八双の構えの貝守が、闇のなかでじっと睨み合う。
貝守が踏み込みつつ刀を振りおろす。が、辺りが暗いせいだろう、間合いが甘かった。小源太は難なく後ろに引いて斬撃を躱した。躱したとひと息つく間をあたえず、振り下ろされた貝守の刀は、即座に小源太の胸を目がけてのびてくる。矢のような突きである。小源太は刀ではじくが、突きの連撃はとまらない。
五度目の突きを小源太は見切った。
貝守の刀の切っ先に、小源太の刀の切っ先を合わせると、巻き込むように回す。秘剣弓弦断ちの流れである。巻き込んだ貝守の刀を、外側へとはじいた。しかし、修練不足であった。続いて貝守の刀を折るべく峰を叩く前に、貝守が、後ろ飛びに身を引いた。引いたまま、三間ばかりも間合いを広げた。
秘剣で相手の虚をつくつもりが、反対につかれたような形だった。小源太は前方にちょっとよろめいた。
八双に構えた貝守が、猛然と走り寄る。
瞬時に互いの刀の間合いになる。なった瞬間、貝守の刀が夜気を裂きつつ、うなりをあげて振りおろされた。
考える間もなく、小源太の体が動いた。姿勢の崩れた体を起こしつつ、刀を左から右へと薙ぎ払った。腕に鈍い重みが伝わる。
腹を真一文字に斬り裂かれた貝守は、勢いのまま数歩走り、橋の欄干にぶつかってとまり、柱に頬をこすりつけるようにして、ずるずると崩れ落ちた。
身をひるがえして、小源太はその姿を見た。
体が寝そべっているのに、柱にもたれた頭はほとんど直角に立っている。その痛ましい死に様を目の当たりにし、小源太の胸に憐憫の情がふっと湧き出るのを感じた。
なんという惨めな死に様であろう。まるで彼の生き方そのもののような死に様ではないか。周囲を見返そうとあがきにあがき、やがてその方途を見誤った男の、なれのはてがこの姿か――。
小源太は貝守の遺骸の前にまわった。
彼の目はかっと見開かれていた。斬られた驚きと、くやしさと、絶望と、憎しみとがその目にまだぎらぎらとした光となって宿っている。
彼の遺体を見つめるうち、小源太は腹のなかのものが喉元へ上がってくるのを感じ、欄干から顔を出すと、川へと吐き出した。
手に、貝守の肉を斬り裂いた鈍く不快な感触がまだ残っている。
はじめて人の命を奪った。奪った相手は、殺めなくてもいい人間だった。
もっと剣術の腕があれば、貝守の命を奪わずにすんだだろう。
胸をかきむしりたくなるような、自分に対する憤りと悔恨が、心の中でのたうっていた。
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