空もよう

優木悠

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その二

二の四

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 三之助は立ちどまり、その先輩に――しぶしぶながら――頭をさげる。
 藤川は、いま藩政を壟断ろうだんしている神谷家老と縁戚ということもあり、また、小野家よりも、数段家格が高く、組頭のさらにその上を目指すことも可能な家柄ということでもあり、三之助はへりくだらざるを得ないのだった。
「今頃のご到着とは、よいご身分なことだ」
 誰に言うともなく、あきれたような口ぶりで、藤川は嫌味を口にする。
「おいぼれの下男など連れているからだ、家格がしれるな」
 と斟酌なく云って、供の若い中間と軽薄に笑いあう。
 藤川は全体的に狐を思わせる風貌であった。顔は細面で、白い肌をして、目は細くて、人のどんな瑕疵かしをも見逃すまいとするように油断なくうごき、瞳の奥のほうに嫌な光を宿らせていた。薄く奇妙に赤い唇は女のようにつややかで、そこから発せられる辛辣な言葉の数々は、じつにあっさりと人の心を切り裂く。目じりも口の端も柳の葉みたいにとがって、ふれたら刺さりそうなくらいで……。
 その唇をいやらしくゆがめて、藤川は続けた。
「仕事もできん、口もろくにきけん、要領もわるい、おまけに怠惰。こんな人間がよく平然と生きていられるものだ」
 けっして、三之助のほうを見て云っているわけではなく、どこか景色をながめるように歩きながら、ひとりごとを、聞えよがしに云うような態度だった。
 三之助は、茂平とならんで、藤川たちが目の前をとおり過ぎ去るのを、うなだれるような態度で見送る。
 藤川の姿が、門のそとへと消えると、三之助はため息をひとつ。
 ――あいつさえいなければ、気楽な数日間なんだがな。
 茂平はあんなことを云われて、よっぽど立腹しているだろう、と見ると、平然とした顔がそこにあった。
 三之助の視線に気づいた茂平は、こちらをみて屈託なさげに笑う。
「あんなことをいちいち気にしていては、下男はつとまりませんよ」

 その日の夜は、代官みずからが亭主役になって、勘定方のふたりをもてなしてくれた。御役所奥の座敷で、豪勢な料理がふるまわれたが、そこは、半分賄賂の意味合いがなきにしもあらず、と三之助でなくても気づく話だった。まあ、この程度の接待を賄賂と騒ぎたてるほど生真面目な役人は、今の藩には、どこをさがしてもいないだろうが。
 それから三日の間、三之助と藤川のふたりは、宴会をした座敷で一日じゅう、帳簿とそろばんを交互に眺め続けた。
 最初のうちは、なんだかんだと難癖をつけたりして、三之助をいじってきた藤川だったが、それも飽きてきたのか、三日目ともなると、ろくに口もきかないありさまだった。
 こういう場合にかぎったことでもないのだが、三之助から他人に声をかけるとか、話をふって場をなごますとかいうことは、まずない。
 田村家の新太郎や史絵とは、会えばなにかと話もはずむし軽口も云えるのだが、さほど仲の良くない同僚、とくに言動に棘のあるような性悪な人間とは、うまく会話ができないのだった。もうずいぶん大人になったことでもあり、いいかげんそういう子供じみた、他人に対する苦手意識は捨て去りたい、と、常々思っている三之助ではあったが、話せないものは話せない。そういう相手と対面すると頭が真っ白になって、言葉が出てこなくなるのだから、どうにもしかたがないのである。
 そんな息苦しさのなかでの監査業務も、きっかり三日目に終えることができた。
 監査結果を聞くのは、手代たちで、様々な項目の会計上の齟齬を指摘するのは藤川の役目で、三之助は隣でその様子を見ていただけだった。
 そういう一連の、ほとんど儀礼のような仕事も終え、夕刻、三之助は、あてがわれた門の脇にある長屋の部屋へもどる。
 今晩ひと晩は、泊ってもよい段取りで、明朝、春原城下へ帰る。
 三之助は部屋にあがって、羽織袴を脱ぐと、脱いだものを部屋のすみにほっぽって、ごろり、大の字に寝転がった。
 おおきな溜め息をひとつ。
 茂平にはいくばくかの小遣いをあたえて旅籠に寝とまりさせ、三之助はひとりで、文字通り手足を伸ばしていた。
 三之助は、じっと、天井の節目を見つめていた。
 年季が入って、ずいぶん黒ずんでいる天井板の節目は、見つづけているうちに、だんだん人の顔のように、またはイタチかなにかが走る姿のようにも見えてくる。
 まばたきのたびに、視界に星がきらめいて、見ているものすべてがぼんやりとして……。
 そしてそのまま、うとうとと、睡魔に誘われるまま、まぶたを閉じた。
 直後――、そとから数人の男たちが話す声が聞こえてきた。
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