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狼と名もなき墓標
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しおりを挟む「それで、昨日の今日で俺を連れ込むってのはまずいんじゃないですか、奥方様」
ふざけた口調で軽口を寄越す幼馴染を、エミールは横目で睨んだ。
ファルケンの隻眼がにやにやとこちらを見ている。完全に面白がっている顔だ。
「昨日の今日じゃない。三日経ってる」
「まだ三日だろ。さびしがるには早すぎるんじゃないか」
これが初めての別離でもあるまいに、と男が肩を竦めた。
エミールはクッションごと膝を抱えて、ふいっとそっぽを向いた。サーリークの冬はさほど気温は低くないが、今日は朝から曇天が続き冷え込んでいた。ストーブでは薪がパチパチと音を立てている。
スヴェンに言づけてファルケンを呼びだしたのだが、彼の指摘通りさびしがるには早すぎるという自覚はあった。
でも、クラウスの匂いが薄れてゆく屋敷に居ると、どんどんとさびしさが募ってしまい、気分転換が必要だった。
「大丈夫なのか、俺が来て」
ふと改まった口調で尋ねられ、エミールは首を傾げる。
「だから、クラウス様の許可はもらってるってば」
「いや、そっちじゃなくて、俺の匂いの方。妊娠中は敏感になるんだろ?」
なるほど、それを気にして彼は、エミールに近づいて来ようとしないのか。
エミールは小さく笑って、自分の隣のスペースをぽんぽんと叩いた。
ファルケンが怪訝な顔で、一歩ずつ近寄ってくる。
「座って」
あまりに慎重な動きに痺れを切らして促すと、観念したようにファルケンがエミールの横に腰を下ろした。
ソファが撓む。傾いだ体をファルケンにもたれさせ、エミールはすんと鼻を鳴らした。
「ルーの匂いは、大丈夫だよ」
「本当か?」
「うん。なんでだろ。クラウス様とは全然違う匂いなのにね」
話しながらエミールは、アマーリエの言葉を思い出していた。
彼女も、つがい以外の匂いに気分が悪くなると言っていたが、クラウスの匂いは大丈夫だった。
あれはマリウスとクラウスが兄弟だからだと思っていたけれど……エミールは、マリウスの匂いは受けつけなかったから、兄弟というのはあまり関係がないのかもしれない。
たぶん、馴染みのある匂いかどうかなのだ。
アマーリエは生まれたときからマリウスの婚約者で、マリウスやクラウスと一緒に育ってきた。そしてファルケンは、エミールと。
安心する匂い、というものを体が無意識に覚えているのだ。
クラウスほどではないけれど、ファルケンの誘発香はつわりのつらさをすこし和らげてくれる。
男性オメガのつわりは、女性のそれよりも症状が強く出ることが多いのだと、医師のベルンハルトが言っていた。
エミールも寝たり起きたりの生活で、病気ではないと知っていても体力も気力も疲弊してしまう。
マリウスの匂いがだめなエミールを気遣って、アマーリエの訪問も遠のいているので、いまはファルケンに縋るしかなかった。
「ルー。なにか、面白い話して」
「無茶言うな」
エミールの催促にファルケンは苦い表情で答えたが、最近の養護施設での子どもたちの様子を教えてくれた。
慰問に行けないエミールに代わって、ファルケンがちょこちょこ顔を出してくれているのだ。
元ヴローム村の子どもたちは幾人かは養子として貰われていったが、施設に残っている子どもも居た。アイクはオメガだから、サーリーク王国が手厚い保護を約束してくれている。働かなくても生活には困らないようだが、彼は施設に残って子どもたちの世話をする側へと回った。アイクと離れるのを嫌がったミアも、幾度か舞い込んだ養子の話を断り、施設で暮らしている。
その二人の近況や、他の子どもたちのことを話ながら、ファルケンは時折エミールの背を撫でてくれた。
途中、
「それ以上の接触はやめてくださいよ」
とスヴェンの注意が飛んできたが、エミールが安心しきっているのが伝わったのか、それ以降はお目こぼししてくれたようだった。
ファルケンと一緒に昼食を摂り、彼を送り出してからエミールはすこし昼寝をした。
クラウスの寝間着を抱きしめて眠るのが、すでに習慣となっていた。
無事に帰ってきてほしい。そう祈りながら目を閉じる。薄くなってきたつがいの匂いを探りながら、いつしかうとうとしていると、常にない慌ただしいノックの音で起こされた。
「エミール様! お休みのところ申し訳ありません」
スヴェンの声だ。エミールは目眩が起こらないようそっと体を動かして、上着を羽織ってからドアを開けた。途端に、スッとなにかを差し出される。手紙だ。
受け取って、封筒の裏を見ると、アマーリエの名が書かれていた。
「アマルから?」
「王城から至急の連絡とのことで届きました」
「なんだろ」
嫌な予感がした。手紙を一度スヴェンに戻すと、彼は素早い手つきでペーパーナイフを滑らせ、封を開いてエミールへと中を見せた。
便箋が一枚入っている。エミールはそれを取り出し、開いた。
「…………っ!!」
思わず、声を失った。
「エミール様? なんと?」
「……ラス、が……クラウス様の行方が、わからなくなったって……」
「っ! 失礼します!」
スヴェンがエミールの手から書簡を奪った。普段であれば考えられぬ無礼な振る舞いだ。しかしそんなことを気にする余裕は、エミールにもスヴェンにもなかった。
「これは……」
スヴェンの眉が険しく寄せられた。
アマーリエからの手紙には、騎士団から王城に早馬来たこと、伝令によると駐屯地へ向かったクラウス一行は道中で何者かの襲撃に遭い、それによってクラウスの所在が不明となったということが乱れた文字で記載されていた。
国王は現在、マリウスとともに事実確認を行っている、という追記もあった。
「エミール様、ひとまず私は、この書簡が本物であるかを確認してきます」
「…………え?」
「これが、真実アマーリエ様がお書きになったものかを確かめてくるのです」
でも、封蝋にあった紋章は確かに王家のものだ。
手紙の真贋など、疑いようがないではないか。
目が回って、足元がふらついた。
スヴェンに腕を掴まれた。
「しっかりなさいませ。いいですか、私が戻るまでは休んでいてください。余計なことは考えず、気を落ち着けて、ただ休むのです。できますね?」
スヴェンがひと言ひと言を区切るように告げてきた。
エミールは呆然としながら、こくりと頷いた。
「場合によっては王城へ呼ばれます。お着替えだけ、なさっていてください。人手が必要ですか?」
「……自分で、できる」
「結構です。では、行って参ります」
言うなり、スヴェンは身を翻した。
廊下へ出た彼が、執事になにかを告げながら遠ざかってゆくのが聞こえてくる物音でわかった。
エミールはしばらく自失の体で立ち尽くしていたが、ハッと我に返ると、スヴェンの言いつけ通り着替えを行った。王城へいつ呼ばれてもいいように、身なりを整える。
……エミールが王城へ呼ばれるときというのは、どのような事態になったときなのだろうか。
クラウスが無事だったときか。
それとも……。
恐ろしい想像に、何度も手が止まった。
立っていられずに絨毯にへたり込む。そして立ち上がって着替えの続きをする。そんなことを繰り返した。
どうしよう。どうすればいいのだろう。
こんなとき、誰をどう頼ればいいのか。
エミールは両手で顔を覆って項垂れた。
なんの後ろ盾もない自分が、いまできることなんて……。
そのとき、脳裏にひらめいたのは幼馴染の声だった。
(おまえが呼んだら必ず駆けつける。必ずだ)
五年前の、ファルケンの誓い。
「ルー……」
そうだ、ファルケンだ。
クラウスの私兵として、クラウスに仕えている彼なら!
エミールは居てもたってもいられず、スヴェンの言いつけも忘れて屋敷を飛び出し、ファルケンの元へと向かった。
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