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第5章:かわいいリンゴには旅をさせよ
誰も寝てはならぬ①
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さて、時は少しだけ遡る。
淡水竜は読んで字のごとく、水棲の一族だ。ある程度の年齢を重ねると、大気の中にある水分を集めて纏えるようになり、陸上で行動することが可能となる。とはいえ、本能的に水のそばにいたがる性質が変化するわけではない。
そんなわけで彼女、ウィルヘルミナことうーちゃんも今、そうした本能に素直に従って行動していたりする。
『ん~、この子なかなか素質アリなのよ~』
ぺとっとくっついてご満悦な相手は、先ほど所用により応接間から出てきたオランジェ家の末っ子君だ。小走りで自室に向かう少年の頭に、彼の叔父さんの方から跳び移ってみたのである。姿と気配を隠しているので全く気付いていないけども。
「……ハティ、もうねちゃった? すぐお部屋につれてってあげるからね」
すぴー、と健やかな寝息を立てる愛犬に話しかけたアルフォンスは、澄んだ水の気配を漂わせていた。銀葉郷にある霊泉と同じものだ。先だっても分けた方の泉で修行していると言っていたし、この子は水霊たちと相性が良いらしい。
『性格が優しくて純粋なのもおっきいのね、きっと。水霊は裏表のある人がキライだから』
そして六つある属性の中で、生まれつき素養に恵まれることが最も珍しいとされるのも水だ。大抵の精霊使いはそのごく一握りに入るし、神官や巫女などは厳しい修行によって後天的に適性を得ようとする。祈雨、止雨といった治水を生業とする『水司』は、国を問わず重宝される神職の花形で大変な名誉だからだ。
頭上の珍客がそんなことを考えている間に、アルフォンスは自分の部屋にたどり着いていた。淡いブルーで統一された調度品が並ぶ、慣れ親しんだ空間にちょっとホッとする。
仔犬をいつも寝床にしているバスケットに入れてブランケットを掛けてやり、本棚から真新しい図鑑を引っ張り出した。国内外の動植物が、彩色された絵と共に紹介されている、凝った作りの美しい本だ。初めて手に取った日から夢中になっているそれを手に、思わずほえっと頬が緩む。
「シグルズさん、よろこんでくださるかなぁ」
弓矢を扱って戦うひとを初めて見たが、それはもう格好よかったのだ。実際に会えるとなったら嬉しくて、昨夜は興奮のあまりよく眠れなかった。おかげで寝ぼけてしまって、お手洗いにたった際に部屋への道順を間違えてしまい、偶然通りかかった兄を心配させたのは申し訳なかったが。
「いつまでおられるのかなぁ。弓の練習、もっと大きくなってからねって母上はおっしゃったけど……」
一生懸命お願いしたら、構え方だけでも教えてもらえないだろうか。そして帰るまでに、少しでいいから仲良くなれたら嬉しい。
そんなことを思ってにこにこするアルフォンスを、頭に乗ったまま『微笑ましいのよ~』と眺めていた淡水竜がふと目を瞬いた。部屋の空気が変わった気がしたからだ。
と。
《……――で》
窓から吹き込んだ風に、なにか別の音が混ざった。ほぼ同時に気づいた部屋の主人が、首をかしげてそちらに目を向ける。
《――い、で》
ふわりと翻るレースのカーテン。中庭に面した窓の向こうに、なにかがいる。……いや、誰かだ。ほっそりした首や、風でなびく長い髪が見えるから、多分女性。
でも、あんなところで何をしているんだろう。ここは二階だし、少しだけ出窓になっているが、足場になりそうなものはほとんどないのに――
《――お、い、で》
「っ!!」
風で運ばれる音が、自分を呼ばう声だと気づいた瞬間、何故だかわからないが全身が粟立った。
走って逃げたいのに、その場に根が生えてしまったみたいに全く動けない。小さいけれど賢くて、なにか困ったことがあるとすぐ家族に知らせてくれるハティも眠ったままだ。どうしよう。
『諦めちゃダメ! キミにはボクがついてるのよー!!』
恐怖のあまり、涙が出そうになった時だ。突然可愛らしい声が響いて、頭の上がぱっと明るくなった。同時に、部屋の入口の方でざばあっと水の音がして、
『退けアヤカシ! どっせーい!!』
何とも頼もしい掛け声に続いて、アルフォンスのすぐわきをものすごい勢いで通り過ぎたものがあった。錐みたいに先端がとがった、透きとおった水の槍だ。それはまっすぐ窓から飛び出して、過たず外にいた誰かを全弾直撃する!
《――――――――っっ!!!》
およそ人間には出せそうもない、すさまじい絶叫が轟く。同時にばちんっ、と何かが弾ける音がして、立っていられないほどの突風が吹きこんできた。
「ひゃあっ」
『うにょわ~~~~~!?!』
とっさにしゃがんで、ハティのバスケットを抱え込んだアルフォンスの頭が急に軽くなる。何か軽いものが勢い良く転がっていき、ぼんっと壁にぶつかって止まる音がそれに続いて、
「…………あ、あれっ?」
風が収まって顔を上げて。壁際で仰向けになって目を回している、トカゲによく似たぷにぷにの生き物を発見した末っ子くんの瞳が、きょとんと丸くなった。
淡水竜は読んで字のごとく、水棲の一族だ。ある程度の年齢を重ねると、大気の中にある水分を集めて纏えるようになり、陸上で行動することが可能となる。とはいえ、本能的に水のそばにいたがる性質が変化するわけではない。
そんなわけで彼女、ウィルヘルミナことうーちゃんも今、そうした本能に素直に従って行動していたりする。
『ん~、この子なかなか素質アリなのよ~』
ぺとっとくっついてご満悦な相手は、先ほど所用により応接間から出てきたオランジェ家の末っ子君だ。小走りで自室に向かう少年の頭に、彼の叔父さんの方から跳び移ってみたのである。姿と気配を隠しているので全く気付いていないけども。
「……ハティ、もうねちゃった? すぐお部屋につれてってあげるからね」
すぴー、と健やかな寝息を立てる愛犬に話しかけたアルフォンスは、澄んだ水の気配を漂わせていた。銀葉郷にある霊泉と同じものだ。先だっても分けた方の泉で修行していると言っていたし、この子は水霊たちと相性が良いらしい。
『性格が優しくて純粋なのもおっきいのね、きっと。水霊は裏表のある人がキライだから』
そして六つある属性の中で、生まれつき素養に恵まれることが最も珍しいとされるのも水だ。大抵の精霊使いはそのごく一握りに入るし、神官や巫女などは厳しい修行によって後天的に適性を得ようとする。祈雨、止雨といった治水を生業とする『水司』は、国を問わず重宝される神職の花形で大変な名誉だからだ。
頭上の珍客がそんなことを考えている間に、アルフォンスは自分の部屋にたどり着いていた。淡いブルーで統一された調度品が並ぶ、慣れ親しんだ空間にちょっとホッとする。
仔犬をいつも寝床にしているバスケットに入れてブランケットを掛けてやり、本棚から真新しい図鑑を引っ張り出した。国内外の動植物が、彩色された絵と共に紹介されている、凝った作りの美しい本だ。初めて手に取った日から夢中になっているそれを手に、思わずほえっと頬が緩む。
「シグルズさん、よろこんでくださるかなぁ」
弓矢を扱って戦うひとを初めて見たが、それはもう格好よかったのだ。実際に会えるとなったら嬉しくて、昨夜は興奮のあまりよく眠れなかった。おかげで寝ぼけてしまって、お手洗いにたった際に部屋への道順を間違えてしまい、偶然通りかかった兄を心配させたのは申し訳なかったが。
「いつまでおられるのかなぁ。弓の練習、もっと大きくなってからねって母上はおっしゃったけど……」
一生懸命お願いしたら、構え方だけでも教えてもらえないだろうか。そして帰るまでに、少しでいいから仲良くなれたら嬉しい。
そんなことを思ってにこにこするアルフォンスを、頭に乗ったまま『微笑ましいのよ~』と眺めていた淡水竜がふと目を瞬いた。部屋の空気が変わった気がしたからだ。
と。
《……――で》
窓から吹き込んだ風に、なにか別の音が混ざった。ほぼ同時に気づいた部屋の主人が、首をかしげてそちらに目を向ける。
《――い、で》
ふわりと翻るレースのカーテン。中庭に面した窓の向こうに、なにかがいる。……いや、誰かだ。ほっそりした首や、風でなびく長い髪が見えるから、多分女性。
でも、あんなところで何をしているんだろう。ここは二階だし、少しだけ出窓になっているが、足場になりそうなものはほとんどないのに――
《――お、い、で》
「っ!!」
風で運ばれる音が、自分を呼ばう声だと気づいた瞬間、何故だかわからないが全身が粟立った。
走って逃げたいのに、その場に根が生えてしまったみたいに全く動けない。小さいけれど賢くて、なにか困ったことがあるとすぐ家族に知らせてくれるハティも眠ったままだ。どうしよう。
『諦めちゃダメ! キミにはボクがついてるのよー!!』
恐怖のあまり、涙が出そうになった時だ。突然可愛らしい声が響いて、頭の上がぱっと明るくなった。同時に、部屋の入口の方でざばあっと水の音がして、
『退けアヤカシ! どっせーい!!』
何とも頼もしい掛け声に続いて、アルフォンスのすぐわきをものすごい勢いで通り過ぎたものがあった。錐みたいに先端がとがった、透きとおった水の槍だ。それはまっすぐ窓から飛び出して、過たず外にいた誰かを全弾直撃する!
《――――――――っっ!!!》
およそ人間には出せそうもない、すさまじい絶叫が轟く。同時にばちんっ、と何かが弾ける音がして、立っていられないほどの突風が吹きこんできた。
「ひゃあっ」
『うにょわ~~~~~!?!』
とっさにしゃがんで、ハティのバスケットを抱え込んだアルフォンスの頭が急に軽くなる。何か軽いものが勢い良く転がっていき、ぼんっと壁にぶつかって止まる音がそれに続いて、
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