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八 空飛ぶ鯨とテンタクル 4
しおりを挟む「諸葛家は先祖に高名な軍師を幾人も輩出した由緒ある家柄ですからね、振る舞いには重々気を付けてくださいよ」
「分かってるって……」
海辺を離れ、今夜の宿りを頼むべく灯りもほとんど見えない道を辿る道すがら、東雲はしつこいくらいに琉論に釘を刺してきた。
噂に聞くに諸葛家の当代の主は至って勤勉で慈悲深く、謹厳実直を絵に描いたような男だという。
風貌について詳しく聞いたことはないが、いにしえの同じ名を持つ天才軍師の先祖が夜空に冷たく昂と輝く銀月の如きと伝わるのに比して、穏やかで温和、自ら労を惜しまず民に尽くす人柄から巷では『華孔明』と讃えられている。
「俺、出来過ぎた人間て苦手……」
ひそりと東雲に囁く声が漏れ聞こえたのか、先導していた夏侯覇青年がくすくすと小さな声で笑って、囁いた。
「そのように構えられなくても大丈夫ですよ。主は生真面目ではありますが、至って寛容な方です。……まぁ優し過ぎて人に尽くし過ぎてしまうことはありますが……」
「慈悲深いことは美徳ではありませんか」
感慨深げに返す呉明須に青年は小さく首を振った。
「過ぎたるは及ばざるが如し……という言葉があります。民が安泰に暮らせるよう心を砕くさまは尊び敬うに相応しきものではありますが、時には御身を愛うていただかないと……。ご無理をなされてご自身を損なうことになったら身も蓋もありませんから……」
「そりゃそうだ……」
先代の諸葛家の当主はあまりに務めに邁進し過ぎたがゆえに身を損ない、早くに世を去ったと聞いている。
琉論とさほども違わない当主が家の采配を担うことになったのも、それがゆえのことだ。
「やっぱり真面目過ぎるのも良くないよな。……健康第一だよな」
聞えよがしに嘯く琉論に高雪が盛大に溜め息をつく。
「遊び過ぎも健康を損ないますよ。特に酒を過ごされると臓腑を痛めます。……夜間に巷を歩き回られると思わぬ傷を負うこともありますし……」
「だからもう止めただろ?……俺だってもうすぐ而立だし、ちゃんと考えてるよ」
東雲の説教めいた言い回しに顔をしかめて、琉論が大仰に肩をすくめた。
「姫だって許しちゃくれないし、さ」
琉論が夜遊びをやめた理由は九分九厘それなのだが、そこはあえて指摘しないのが一行の優しさというものだろう。
「ご心配されているんですよ」
「まぁそうだけど……」
仏頂面をしながら、けれど龍王姫に敷かれるのをそう不快に思ってはいないことを、同行のふたりはよく知っている。
琉論ふいに遊びに誘いに来る時は決まって姫が多忙で相手にしてもらえない時だし、こっそり悪さをするのも見つかって叱られることを期待して、のこと。それでも構われないと拗ねて家出まがいのことまでするからタチが悪い。
ーー琉論てMだよな……ーー
ーーMですね……ーー
こっそりと囁き合うふたりの会話が耳に入らぬよう、子猫の耳を塞ぎながら、黒猫もうむ……と頷くのがもっぱらの慣らいになっていた。
「ようこそおいで下さいました、山河の若君」
琉論一行を丁重な礼で出迎えた諸葛家の当主は琉論の父よりはやや若い。と言うより琉論の方が年齢的には近いかもしれない。
しかし由緒ある家柄の当主と聞き及ぶだけのことはあり、落ち着いた風情と佇まいは而立を越えたばかりとはとても思えなかった。
「秋も深まっておりますゆえ、外は寒うございましょう。まずは温かいものでも……」
隣で頷く奥方も奥ゆかしい控えめな美人で野に咲く雛菊のようだ。ただひとり少々不服気な顔をしている執事も主の命には逆らえないようで、速やかに侍女に膳の指図を伝えていた。
「羊が不躾な態度で申し訳ない。我が家はご覧のように豊かではないので、家令としてあれはあれなりに力を尽くしているので……」
夫人の華喬氏の輿入れの際に付き従ってきた執事ゆえ、夫人が質素な生活をしているのが不服らしいのだ、とこっそり青年が教えてくれた。
確かに山河家に比べれば侍従の数も少ない。主自身が自分で出来ることは自分でする主義ゆえ、そうそう人手は必要無いのだという。
『名家の令嬢たる華喬さまに厨仕事をさせるなど……』
と執事は日々ボヤいているそうだが、当の夫人は料理好きで厨の差配は楽しい、と言っているそうだ。
ぐるりと見渡せば調度品もそう多くはないが、いずれも代々伝わってきた由緒ある品……ということで華やかでは無いものの、重厚で上質な品々であることは容易に見て取れる。
それよりも一行を驚かせたのは、その蔵書の数だった。居間や客間のそこここにも書物が積まれ、聞くには書庫や書斎に入りきれず、仕方なく置き場を探してそうなった、という。
食事の前に青年がさらりと屋敷内を案内してくれたのだが、こちらが書庫……と指し示された先には、住まいの屋敷より大きいのではないか、と思われる建物がどん……と構えていた。
それでも入りきれないというのだ。もはや舌を巻くしか無かった。
「先祖代々の宝でございますから……」
はにかみながら言う若き当主に一行は正直なところ絶句した。
「さすがは由緒正しき名家……」
東雲が唸りながら、ふと思い出したように主に問うた。
「これだけの蔵書をお持ちなら、奇書・珍書も中にはおありなのでは?」
「……と申されますと?」
訝しげな当主に東雲がいたって真面目に続けた。
「実は、我らは『ふさふさの書』なるものを探しておりまして、……もしや蔵書にお持ちなのでは……」
上目づかいに伺う一行に、当主はう~んと唸ったあと、ふるふると首を振った。
「おそらくは無い……と思いますが、かの妖物を退けたあとに、ゆっくりとお探しくだされ」
主の言葉に、琉論がはっと顔を上げた。
「そうだ。我らはあの悪しき者を討伐せねば……!」
どんっ……と机を叩いた勢いで、眼の前に積まれた点心の皿が卓から落ちかけた。が、すかさずウェイインとランジャンがハッシと受け止めた。
「さすがは妖猫!」
呉明須に頭を撫でられドヤ顔の二匹をニコニコ見ていた夫人がふと思い出したように言った。
「あの悪しきものの事なら、あの子のほうが良く知っているのでは……」
夫人の言葉に主もそうだな……と首肯する。
「あの子?」
「イェンリーを呼んできて……」
夫人の命に、別の間に消えた侍女に抱かれて現れたのは、やはり尻尾が二股に分かれた灰色の猫だった。
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